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事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは

米国防総省には内部の人間でないと通用しない専門用語がたくさんあるのですが、「突入作戦のための統合作戦(Joint Concept for Entry Operation 以下、JCEO)」もその一つかもしれません。 これは旧エアシー・バトル(現在JAM-GCに名称変更)に並ぶ米軍の中心的な作戦構想として策定された構想ですが、エアシー・バトルに比べて議論されることがあまりありません。 しかし、その内容は米軍の世界戦略、特に勢力投射能力の確保に深くかかわっており、米軍の軍事上の課題を理解する上でも理解する必要があります。 今回は、統合参謀本部から出された教範の内容に沿って、JCEOの内容について簡単に紹介し、米軍にとってどのような重要性があるのかを考察したいと思います。 JCEOの構想とその特徴 まずJCEOの基本概念である突入作戦(entry operation)とは何のことなのでしょうか。 米軍の定義では次のように定められています。 「突入作戦:定められた任務を遂行するために、海上から、もしくは空中を通じて外国の領土に対し、部隊を投入すると同時に展開すること」(Joint Chiefs Of Staff 2014: 2) こうした突入作戦を実施する狙いはその時々の状況によってさまざまです。 例えば海洋や宇宙といったグローバル・コモンズ(global commons)と呼ばれる領域での接近・機動に対する脅威を撃破すること、限定的な期間にわたる任務を遂行すること、さらには拠点を確立することが目的として考察されており、すべての場合において外国の領域に侵攻することが一貫して目指されています(Ibid.)。 したがって、JCEOは突入作戦を遂行する方法を示した作戦構想であり、特に陸海空各作戦能力を組み合わせることを重視しています。 注目すべき点は、米軍がこの作戦構想を接近阻止・領域拒否(A2/AD)への対応として検討しているということであり、より厳密には敵国領土のすぐ近くで受ける領域拒否の問題への対応策として位置付けられていることです(Ibid.: 2)。 しかし、軍事的観点から見て、このような作戦が果たして実行可能かどうかについては、疑問が持たれるところです。 第一次世界大戦の事例を参考に 1918年4月23日に実...

学説紹介 コリン・グレイの戦略論―攻撃と防御の区別を中心に

安全保障を研究する学者や専門家の間で広く使われている用語に攻撃(offense)と防御(defense)があり、例えば政策論争において攻撃的な戦略や装備は戦争のリスクを高める危険が生じて来る、などのような使われ方がされています。 しかし、そもそも戦争において攻撃と防御は明確に区別できるものなのか、という根本的な論点をめぐって論争があることにも注意しなければなりません。 今回は、コリン・グレイの研究でこの問題に関する議論を紹介したいと思います。 戦略レベルで攻撃・防御の分類は困難 ドイツの西部国境に沿って構築されたジークフリート・ラインには多数の障害が設置されていたが、それは東部国境において大規模な軍事行動を起こすための兵力集中を容易にしたと指摘されている。 グレイは政策や戦略の研究において攻撃と防御を単純に分類することは、特に国家の軍備を攻撃的なものと防御的なものに区別することは分析の視座として妥当とは言えず、混乱を引き起こしやすいして、次のように論じています。 「攻撃と防御は政策レベルにおける主体的な判断に属するものである。それは戦術、作戦、戦略と緊密に関連し合い、支え合うものなので、戦略の歴史を理解するための理論的基礎としての利点は乏しい。例えば、固定的な守備隊の火砲、地雷原、組織化された築城はいかなる定義においても防御的なものと思われる。戦術的に考えれば、コンクリートと鉄鋼で構築された防備はそれ以上でもそれ以下のものでもない。しかし、作戦、戦略、そして政治の観点で考えれば、1939年におけるナチのドイツ軍のジークリート・ラインは防御のための盾であったが、それは東部でポーランドに対して攻勢をとるための行動の自由をドイツに与えるために寄与するものであった」(Gray 1999: 180) 国境地帯に強固な防衛線を構築することは、その国家の政策、戦略、作戦が防御的な傾向を持つ証拠とはなり得ませんし、逆もまた然りです。 1939年にフランスがマジノ・ラインとして知られる防衛線を構築したことは、政策レベル、戦略レベルで防御を意図した結果でした(Ibid.)。 つまるところ、ある国家の軍備についてそれが攻撃的なものか、防御的なものかを判断することは極めて困難だという立場をグレイはとっているのです。 戦術レベルもまた政策・政治に左右...

論文紹介 核戦闘でのペントミック師団の戦術

戦争の歴史を学べば、武器の改良と戦術の改良は絶えず影響を及ぼし合ってきたことが分かります。 このことは核の時代においても基本的には変わっていません。核兵器が登場したことにより、戦術研究もまたそれに対応できるように発達してきたのです。 今回は、核の時代における戦術学の動向を知るために、ペントミック師団の教義を戦術研究の観点から解説した論文を取り上げ、その内容を紹介します。 論文情報 John H. Cushman. 1958. "Pentomic Infantry Division in Combat,"  Military Review , Vol. XXXVI, No. 10, pp. 19-30. ペントミック師団はどのような部隊か 1952年、米国が史上初の水爆実験を成功させ、冷戦は新たな段階に入った(「 軍事的観点から考える水爆の重要性 」を参照)。 1953年に発足したアイゼンハワー政権は核戦略として大量報復を打ち出し、ヨーロッパ地域でソ連軍が侵攻してくれば、米軍としては核兵器の使用も辞さない意思を示し、ライン川の防衛線を固守する姿勢を明らかにした。この一連の軍事情勢が1957年にペントミック師団が導入される契機となった。 そもそもペントミック師団(pentomic division)は、核戦争での運用を想定し、米陸軍で1957年に編成された歩兵師団、空挺師団の総称であり、正式名称はそれぞれROTAD(Reorganization of the Current Infantry Division)とReorganization of the Airborne Division (ROTAD)でした。 1963年の改革でROAD師団へと改編されるまで、ペントミック師団は維持されましたが、これは核の時代におけるいかに地上戦を遂行すべきかを模索する米陸軍の組織的な挑戦でした。 この論文の著者も米陸軍で核兵器の使用を想定した戦術の研究に取り組み、新たな陸軍の教義を確立することで、ソ連軍に対する米軍の能力が低下しないように努めていたのです。 著者はペントミック師団の戦闘教義を考えるためには、戦争の形態が全面戦争、限定戦争等のようにさまざまな状況に対応できなければならないと考えました。 つまり、ペントミック...

論文紹介 陣地攻撃の損害をいかに抑制するか

敵の防御陣地に対して攻撃を加えることは状況が許す限り避けるべきである、というのは戦術の鉄則です。強化された陣地で敵の部隊が待ち受けているところに、味方の部隊をわざわざ差し向けるようなことをすれば、多くの損害が出ることを覚悟しなければならないためです。 しかし、現地の状況からやむを得ず任務遂行のため陣地攻撃を行わなければならないことがあることも事実です。そこで戦術研究としていかに効率的な陣地攻撃を実施するのかという問題が出てくることになります。今回は、第二次世界大戦の最中にこの問題を検討した論文を紹介したいと思います。 文献情報 Barker, M. E. 1945. "Assault on Fortified Positions," Military Review , Vol. XXV, No. 1, April, pp. 3-7. 陣地攻撃を完遂することの難しさ 第二次世界大戦において、米軍はヨーロッパから太平洋にわたる広大な戦域で攻勢作戦を行いました。 当時、ドイツ軍と日本軍の部隊は各地で強固な防御陣地を構築し、米軍の攻撃を破砕しようとしたため、米軍部隊からは攻撃の過程で多くの犠牲が出ています。著者は陣地攻撃の困難さを承知した上で、局地的な防御陣地に対して有効な攻撃を加えるためには化学攻撃を組み合わせることが重要になっていると判断しました。 この論文の著者の最大の関心事はいかにすれば人的損害を最小限に抑制しながら陣地攻撃を成功させることができるのか、という点にあります。 まず著者が着目しているのは防御陣地の形態の相違であり、一人だけが入れるタコツボのような簡易な形態もあれば、鉄とコンクリートで構築された要塞までさまざまあると指摘しています(Barker 1945: 3)。イタリア戦線のアンツィオの戦いでドイツ軍が使用した掩体や、日本軍が活用した洞窟陣地であり、特に洞窟については入口をS字形にすることで進入しにくくする工夫が見られたことなども紹介しています(Ibid.: 4)。 こうした小規模な防御陣地に配備された部隊は迫撃砲、機関銃、手榴弾などを使用して抵抗し続け、また陣地の内部には地雷が敷設される場合もありました(Ibid.)。 著者はこれほどの施設、武器を利用して抵抗する敵を排除することは非常に難しい...

論文紹介 軍事的虚構としての「フーチェル戦術」

第一次世界大戦、西部戦線に配備されたドイツ軍部隊の突撃隊。 第一次世界大戦の歴史で興味深いのは、極めて短期間の内に数々の新戦術が編み出され、戦争の様相が大きく変化したことでしょう。戦車、機関銃、航空機などが開発されると、それを運用する戦術が考案され、次に敵がそれに対抗する武器や戦術を考案し、その相互作用で戦術が飛躍的に発達したのです。 今回は、浸透という攻撃方法を体系化し、教義として確立したと考えられているドイツ陸軍軍人オスカー・フォン・フーチェル(Oskar Emil von Hutier)の歴史的影響について批判的な立場から考察した論文を紹介したいと思います。 論文情報 Alfoldi, Laszlo M. 1976. "The Hutier Legend," Parameters, Journal of the US Army War College , 5(2): 69-74. マスメディアで劇的に取り上げられた「フーチェル戦術」 オスカー・フォン・フーチェル(1857-1934) 1918年の春季攻勢で第十八軍司令として目覚ましい戦果を上げたことで知られている。 長い戦争も終盤に入りつつあった1918年、ドイツ軍は西部戦線に展開するイギリス軍、フランス軍を早期に打倒し、米軍が来援する前にドイツに有利な条件で講和に持ち込む必要がありました。 この政治的目的を達成するため、エーリッヒ・ルーデンドルフは1918年3月21日に開始された春季攻勢を実行に移しました。 春季攻勢は西部戦線の状況を一変させるものでした。ドイツ軍とイギリス・フランス連合軍の間で塹壕、鉄条網、機関銃により保たれていた膠着状態が消滅したためです。 当時の春季攻勢に参加したドイツの第二軍、第十七軍、第十八軍は100キロメートルの攻撃正面で前進に成功し、もはや堅固な防御陣地を構築したとしても、相手の突撃を防ぐことができるとは限らないことが明らかになりました(Alfoldi 1976: 69)。 当時、ドイツ軍でも特に驚くべき戦果を上げているのはフーチェルが指揮した第十八軍でした。 初日に10キロメートルの前進を達成しただけでなく、2日目には12キロメートル、3日目には8キロメートル、4日目に再び8キロメートルも前進しました(I...

市街戦における歩兵小隊の攻撃について

現代の安全保障環境では二つの理由から市街戦がその重要性をますます高めています。第一の理由は人口の増加と都市化の進行によって市街地の面積が増加する傾向にあることであり、第二の理由は経済発展に伴って不正規戦争、ゲリラ戦争、テロリズムの有効性が増大していることです。 今回は、市街戦における歩兵小隊・分隊の基礎的な運用について取り上げ、特に攻撃に関する問題を中心に説明したいと思います。 市街戦での建物に対する攻撃の実施要領 あらゆる作戦はその活動の形態から攻勢作戦と防勢作戦に分かれますが、市街戦の部隊行動にも同様に攻撃と防御があります。 市街戦で実施する攻撃も、その他の地形の場合と基本的な要領は変わりませんが、市街戦で攻撃の目標となるのは建物であるため、それに応じた攻撃の手順を考えなければなりません。 攻撃する建物の周囲を取り囲み、外部から敵の増援が進入できなくした状態の一例。 左右両翼の小隊と戦車が敵を警戒するため建物を挟む道路に対する射線を確保。 この状況で残る歩兵小隊が建物に対する強襲を実施することが可能となる。 (FM 3-21.8: 7-38) まず市街戦における歩兵小隊の攻撃は必ず他の小隊の支援を受けて実施しなければなりません。ある建物に対して攻撃する際にも、その建物に隣接する建物や道路から敵の増援が出現すれば、そのまま部隊がその建物から移動することができなくなってしまう恐れがあるためです。 そのため、先に挙げた図のように、攻撃の際にも支援に当たる小隊と、強襲に当たる小隊で役割を分担することが重要となるのです。 建物への突入と突破口の確保 建物に対する突入の部隊行動を分析すると、突破の攻撃機動の方式と強い類似性が認められます。敵の陣地で弱点となっている地点を見極め、そこに火力を集中し、一挙に敵の陣地に進入して突破口を拡張しながら前進するのです。 しかし、最初に突入する地点が狭いと有効な援護射撃ができないため、どのような装備で最初の突破口を形成するかを適切に選択する必要があります(Ibid.: 7-39)。手榴弾などは閉所に対する突入で最もよく使用される武器の一種です。 さらに建物の攻撃を考えると、地上階から突入を行う場合(bottom entry)と屋上から行う場合(top entry)があります。 前者の場合、既...

陸軍の戦術で用いられる攻撃機動の五類型

戦場で攻撃を成功させるためには、地形と敵情を判断した上で、味方の部隊を敵の部隊よりも有利な態勢で交戦するように機動させることが重要です。 陸軍の戦術では機動の方式は包囲(envelopment)、迂回(turning movement)、浸透(infiltration)、突破(penetration)、正面攻撃(frontal attack)の五種類に区別されています。 今回は、それぞれの機動方式の定義と、その注意事項について簡単に述べてみたいと思います。 包囲:古典的な攻撃機動 包囲とは、攻撃する味方の部隊が防御陣地に配置された敵の部隊の側面または背後を主たる目標として行う機動の方式です。 味方の一部が敵の主力を正面に引き付け、味方の主力で敵の側面、背後を目指す包囲。 (FM3-21.8: 7-4)より。 包囲するためには、味方の部隊を少なくとも主攻と助攻に二分することが必要です。 また敵の側面や背後に接近することを可能にするための前進軸(攻撃前進に部隊が使用する接近経路)を発見するか、創出しなければなりません。通常、防御陣地を占領する敵はこうした包囲を受けにくい地形を利用することが多いため、包囲を行う際にはどのような経路を使用すべきか事前によく偵察を行う必要があります。 迂回:敵に転進を強要する機動 迂回とは、攻撃する味方の部隊が敵の部隊の後方地域の目標を攻略奪取し、もって敵の部隊に陣地の変更を強要させる機動の方式です。 迂回では敵が転進を余儀なくさせる後方地域の目標を目指して部隊を前進させる。 具体的には補給路、砲兵部隊の陣地、指揮所等が考えられる。 (FM3-21.8: 7-5)より引用。 一見すると迂回は包囲は似ていますが、戦術的には重大な相違があります。 包囲が敵の部隊との交戦を前提とする機動の方式ですが、迂回は交戦によらず敵に陣地の変更を強制するのです。 そのため、敵の部隊に新たな陣地へと移動させることが目標であり、撃破することは重視されていません。 浸透:いかに深く、速く前進するか 浸透とは、敵の部隊により占領された地域を通過する機動の方式であり、敵の後方地域にある目標を目指すものです。 浸透では敵の後方地域にある目標に向かって複数の見方の部隊が同時に攻撃前進を行う。 (FM3-21...

演習問題 河川を渡河して実施する攻撃

今回は、渡河攻撃で考慮するべき戦術上の原則の重要性が示された事例から問題を紹介したいと思います。以前の演習問題で想定がややこしいとのご指摘を貰い、今回はややこしい単純な問題ではないものを選びました。 1918年10月14日、アメリカ軍の第77師団はAire川の北岸の近くにあった集落St. Juvinを攻略奪取する任務を与えられていました。つまり、渡河攻撃が必要ということになります。 情報によれば、集落を守備するためにドイツ軍の部隊が陣地を構築して渡河攻撃を待ち構えていることが予期されました。 作戦地区の地形全般を確認するとAire川にはいくつかの渡河が可能な地点を見出すことができました。そこで次のような作戦方針が比較検討されたと仮定しましょう。 (1)St. Juvinから南方500メートルの地点にある渡河地点から正面攻撃を行うべきである。 理由:側面や背後を攻撃するために部隊の移動に時間を費やすと、敵が防御陣地から出撃してAire川を渡河する恐れがあり、こちらの背後がかえって脅かされる危険がある。 (2)St. Juvinから2000メートルの渡河地点で全ての部隊を対岸に進出させ、そこからSt. Juvinにいる敵の側面を攻撃する方針を採用するべきである。 理由:敵の正面で渡河することができたとしても、そこから部隊を前進させることは困難であり、敵の備えが薄いと考えられる側面を攻撃することが有効である。 第77師団の作戦として採用するべき方針はどちらでしょうか。 ========= この問題は河川を渡河して行う攻撃の原則についての知識だけで正しく解答することができます。 すなわち、戦術の原則として渡河する地点は敵から遠くになるほど安全であるということです。 渡河攻撃の問題は戦術学では古典的な問題であり、例えばフリードリヒ2世はその著作で「敵前で大河を渡河することは、戦争で最も注意を要する作戦である」と述べています。 このことを踏まえて今回の問題の原案を説明したいと思います。 第77師団の作戦地区と隣接して第82師団の作戦地区がある。 第77師団は当初は南方からSt. Juvinを渡河攻撃していた。 その後、Aire川の南方を渡河して第82師団の作戦地区を通過し、St. Juvinを攻撃した。 第一の案で...

戦力比を補完する独立変数、戦闘効率

クラウゼヴィッツの『戦争論』には戦闘理論の数理的モデルを基礎づけるような記述が多く見られます。 その一つの議論が第3編戦略の第8章「兵数の優越」です。 ここでクラウゼヴィッツは戦闘を抽象化し続けると、究極的には彼我の戦力の相違だけが区別できるに過ぎず、「このように考えられた戦闘においてなら、兵数が勝利を決定することになる」と述べました。 事実、こうした部隊の規模が戦闘の結果に直接的な影響をもたらすことはその後の実証研究からも明らかになっています。しかし、今回取り上げたいのは、こうしたモデルでは説明がつかない例外的事例です。 以前に、1600年から現代にかけて記録が残っている戦闘のデータベースを利用して、戦力比が攻撃の成功率にどのように寄与しているかを紹介したことがあります。 ここで紹介しているのは戦力比が非常に劣勢( 攻撃者/防御者の戦力比<1 )であるにもかかわらず攻撃が成功した事例だけを抽出した資料です(McZuine 1993: 977)。 これまで確認されているだけで15例あり、20世紀に戦われた事例は8例、そのうちの一事例に日本軍の戦闘も含まれています。 これは攻撃者に極端に不利な戦力比であるにもかかわらず、攻撃に打って出た非常に珍しいサンプルだと言えます。 日本軍の兵員は7000名に対してイギリス軍の兵員は12000名、戦力比は0.58なので、日本軍は二倍近い敵に対して攻撃を行ったことが分かります。 しかし、この戦力比を補完する独立変数を取り入れると、この事例をよく説明することができるようになります。それが戦闘効率(Combat Effectiveness)です。 この日本軍とイギリス軍の戦闘は1941年に日本がマレー半島に侵攻する過程で発生したものですが、その戦闘に投入された部隊を比較すると、その質的側面において戦闘効率に格差があったことを指摘することができます。 この戦闘でイギリス陸軍の第11インド人師団を攻撃したのは日本陸軍の第5師団でした。 戦史に詳しい読者の方はご承知のことかと思いますが、第5師団は1888年に創設された歴史ある部隊であり、日清戦争、日露戦争、満州事変、シベリア出兵、支那事変で豊富な戦闘経験を有する部隊でした。 1941年、シンガポールを行進する日本陸軍の第5師団の...

論文紹介 一次大戦の浸透戦術における砲兵の役割

現代の戦術学の理論や概念は第一次世界大戦の数多くの犠牲によって生み出されたものが少なくありません。 諸兵科連合の記事 でも指摘しましたが、第一次世界大戦は近代的な武器体系を用いた最初の事例であり、興味深い史実が多く見られます。 今回はこの戦争でドイツ軍が用いた戦術でも特に浸透(Infiltration)を取り上げ、この戦術で砲兵が果たした役割を議論した論文を紹介したいと思います。 軍事において浸透とは敵を戦闘によって撃滅するのではなく、小規模に分割された突撃部隊によって敵の背後に進出して目標を攻撃する機動方式です。 同じ攻撃の一種である 迂回 と決定的と異なるのは、敵との接触を維持したまま行う点だと言えるでしょう。 Ukeiley, Scott E. 1997. ''Tempo and Fires in Support of WWI German Infiltration Tactics,'' Field Artillery , 5(September/October): 26-29. 1918年1月、ドイツ陸軍は『陣地戦における攻撃』という教範で西部戦線に新しい教義を示しました。 この教範では攻撃が成功するために決定的に重要な条件として速度と奇襲が述べられていました。 そのため歩兵部隊は従来のように散兵線の隊形で攻撃するのではなく、小隊ごとの突撃によって素早く敵の背後に前進する浸透を重視するようになります。 もう一つ重要だったのは教範で砲兵の突撃支援射撃は短期的かつ集中的に行われるべきと規定された点です。 以前の突撃支援射撃では砲兵は歩兵が攻撃する経路上のあらゆる障害物を全て砲撃するようにしていました。 しかし、この方法はあまり有効ではないことが判明したため、重機関銃や軽機関銃は砲撃目標から除外されなければなりませんでした。 また突撃支援射撃で過剰に地形が破壊されると攻撃部隊の前進を妨げる点が指摘されていたことも理由に挙げられます。 そこでドイツ軍の砲兵隊では無力化砲撃(Neutralization Fires)という教義を導入されました。 これは一時的に使用ができなくなる程度の損害を与えるにとどめる砲撃を行うことによって、突撃支援射撃の目的を達成しながら上記の問題を解決するための教義...