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文献紹介 軍事史における通信技術―戦場における電話の歴史を中心に―

戦場において情報が正しく伝達されなければならないことは当然のことですが、問題はそれだけにとどまりません。 敵にこちらの情報が漏洩することを防止したり、敵の攻撃や戦闘の混乱でも確実に伝達することも求められるためです。 そのため、古来より軍人は通信手段の研究と開発を積み重ね、さまざまな技術や手法を確立してきました。 今回は、その成果を知ることができる文献を取り上げてみたいと思います。 文献情報 David L. Woods, A History of Tactical Communication Techniques , New York: Arno Press, 1974. 長い歴史を持つ軍事通信 この著作の特徴は、古代から現代までの軍事通信を幅広く取り上げていることです。 例えば、古代の軍事通信の事例としてアレクサンドロスの時代からトランペットやファイフのような楽器、そして軍旗がファランクスの部隊行動を統制する手段として使われていたこと、ポエニ戦争でハンニバルがアフリカとスペインに遠隔地から送信される松明の信号を受けるための通信塔を建設していたことなども紹介されています(Woods 1974: 7-8)。 しかし、著者は基本的に時代ごとに使われた軍事通信の歴史を調べるアプローチはとっていません。 その代わりに通信手段を腕木通信、信号旗、伝令、手旗信号、パイロテクニクス、電信、音響信号、光信号、軍事気球、有線通信、無線通信、航空通信のように形態ごとに分類し、それぞれの歴史的変遷を辿っています。 結果として、本書はさまざまな軍事通信の技術的変化を包括的に知る上で優れた研究資料となっています。 以下では、本書の具体的な内容を紹介するため、現代の通信においても重要な電話に関する記述に注目してみましょう。 電話の発明と軍事利用の始まり 1892年に電話の試験を実施する工学者ベル、以降の通信技術の発達に大きな影響を与えた。 Gilbert H. Grosvenor Collection, Prints and Photographs Division, Library of Congress. 現代の私たちが電話として親しんでいる通信手段を技術的に確立したのは米国の工学者ベル(Alexand...

学説紹介 「攻撃的兵器」の分類に根拠はあるのか

日本は専守防衛の観点から、いわゆる攻撃的兵器を保有しない政策をとっていますが、その分類には何か学問的根拠があるのでしょうか。 そもそも、何のために兵器が攻撃的なものと防御的なものに区別されることになったのでしょうか。 この疑問について答えるためには、国際政治、安全保障の研究動向を少しさかのぼる必要があります。 今回は1940年代から1990年代にかけて技術と軍事バランスの関係をめぐる政治学者の学説をいくつか紹介し、そこで攻撃能力と防御能力が区別されるようになった経緯を説明したいと思います。 1940年代から1960年代までの代表的な研究 兵器を攻撃的兵器と防御的兵器に区別されるようになった遠因は、1945年の核兵器の登場にあります。 この出来事で軍事技術上の革新が世界の軍事バランスを一変させる可能性があることが学者の間で強く認識されるようになり、さまざまな研究が発表されました。 米国の研究者クインシー・ライト(Quincy Wright)も技術力と軍事バランスの関係に関心を寄せた一人であり、1949年の彼の論文「近代テクノロジーと世界秩序」は技術力が国際情勢に及ぼす影響を指摘するものでした(Wright 1949)。 また米国の政治学者 バーナード・ブロディ (Bernard Brodie)らが著した1962年の著作『クロスボウから原爆まで』も、軍事史の観点から武器の発達を辿る試みであり、技術革新が戦争の歴史に与えた影響が考察されています(Brodie and Brodie 1962)。 とはいえ、ライトとブロディは軍事バランスにとって技術力が与える影響が存在することを示唆するにとどまり、それに基づいて具体的なモデルを構築するところにまでは至っていませんでした。 こうした課題が解決されるのは1970年代の後半に入ってからのことであり、二人の政治学者の業績がその後の議論の潮流を作り出しました。 「安全保障のジレンマ」で予想された技術の影響 技術力と軍事バランスの関係を考える上で現在でも広く知られる業績は米国の政治学者ロバート・ジャーヴィス(Robert Jervis)によるものです。 ジャーヴィスは1978年に「安全保障のジレンマの下での協調」と題する論文において、攻撃能力と防御能力とを区別しています。 そし...

フラーの機甲戦思想と戦車の戦略的重要性

研究者は第一次世界大戦に実戦投入された戦車が、その後の戦争の歴史を大きく変えるだけの影響を持っていたことを(程度の差はありますが)広く認めています。しかし、この影響はしばしば戦術的レベルしか理解されていません。 今回は、戦車が戦略的レベルでどれほどの影響を及ぼしたのかを考察した フラー (J. F. C. Fuller)の学説を紹介し、それを説明したいと思います。 機甲戦の可能性を予見したフラー J.F.C. フラー(1878-1966) 第一次世界大戦でイギリス軍の実験的な戦車部隊の運用研究で重要な成果を残したものの、戦後の予算縮小や戦車に批判的な立場を取る勢力との対立に直面したことなどから、次第に戦車から遠ざけられて退役した。機甲戦に関する学説は現在でも世界的に知られている。 フラーは、近代以降における軍事学の研究に貢献したイギリスの軍人であり、戦車の運用研究に寄与したことで知られています。 彼は第一次世界大戦で新設された戦車軍団で本格的な戦術研究に着手し、史上初の機甲戦とも呼ばれる1917年のカンブレーの戦いにも参加しています。その後、幕僚大学校で教官となった後に1930年に退役し、軍事学の著作を数多く発表しました。 フラーの学説の特徴は戦車が次世代の戦争を考える上で見過ごすことができない重要な武器体系であることを予見し、まだ戦車の技術的発達が十分でなかった頃から機甲戦の意義を主張していたことにあります。 彼の学説では確かに戦場における戦車の戦術的運用が中心的な課題とされていますが、しかし戦争における戦車の戦略的運用についても大きな関心を寄せてもいました。 「戦術は戦場で兵士を動かす技術であり、それは使用する武器と輸送手段によって変化する。新しい武器や改良された武器または移動方法は戦争術において適切な変化を必要とするものであり、現代においては戦車の導入が戦争術における抜本的な変革を求めている」(Fuller 1936) ここでも戦車は単に塹壕戦の問題を解決する一手段ではなく、戦争の歴史において一つの画期と見なすべきであると考えていたことが分かります。フラーは戦車を広い戦争史の文脈に位置付けて理解していたのであり、その導入によって戦術だけでなく戦争術全般が変化する可能性を指摘していました。 戦車...

論文紹介 航空母艦に将来性はあるのか

海軍の歴史を振り返ると、それは技術革新の歴史であったことが分かります。内燃機関の導入、砲弾の威力向上、軍艦の機能分化、装甲艦の一般化など新たな技術が登場すれば、それは海上戦闘の様相を一変させ、引いては国際政治の勢力関係を変えてきました。 今回は、20世紀の海軍史に大きな影響を与えた航空母艦を取り上げ、21世紀における将来性について評価した研究論文を紹介したいと思います。 文献情報 Rubel, Robert C. 2011. "The Future of Aircraft Carriers." Naval War College Review , 64 (4): 13–27. この論文で著者は教義という観点から米海軍における空母の運用を考察した上で、現在の海軍を取り巻く技術的環境を分析し、両者を総合することで空母の将来性を評価しています。 空母の発達と主力艦としての運用 当初、米海軍における空母の運用は情報収集を主眼としたものでした。これは軍事目的での航空機の運用が(第一次世界大戦における)陸上作戦の航空偵察から始まったことが関係しており、いわば空母は海上で偵察機を運用するためのプラットフォームとして位置付けられていたのです(Rubel 2011: 15)。しかし、このような空母の運用は航空機の性能が改善されるにつれて変化していきました。 米海軍で空母が戦闘で決定的役割を果たすことが認識されるようになった契機は第二次世界大戦であり、日本海軍による真珠湾攻撃、米海軍によるドゥーリットル空襲で一撃離脱を基本とする空母の集中運用の有効性が確認されることになります(Ibid.)。 それまで海軍では主力艦(capital ship)という用語は主として排水量が大きく、砲力に優れた艦艇に対して用いられてきましたが、航空攻撃の威力が増大するにつれて空母も主力艦としての役割を果たし得るという考え方が広がり、主力艦の一種として見なされるようになります(Ibid.: 15-6)。 技術革新による空母の脆弱性の増大 第二次世界大戦が終結すると、空母の新たな役割として核攻撃のプラットフォームが追加されることになりました。核ミサイルを塔載した原子力潜水艦の運用が確立されるまでの間、空母は洋上から戦略爆撃機を発進させるという任務を担い、核...

オランダの独立を可能にした軍事革命

1574年、八十年戦争でのライデン攻囲戦を描いた絵画。 このスペインの攻囲に耐え抜いたライデンにライデン大学が設置される。 Otto van Veen(1574 - 1629)作 今回は、国家が存亡の危機に直面した時、研究者ができることが何なのかを私自身考えさせられたオランダの軍事革命の歴史を紹介したいと思います。 この話は1568年にスペインに対してオランダが独立を求めて武装蜂起したことにまでさかのぼります。この反乱は後に八十年戦争と呼ばれることになり、休戦を挟みながらも1648年まで続きました。 開戦当初、オランダ軍はスペイン軍に対して劣勢な状況だったのですが、その最大の理由は当時のオランダ軍にはスペイン軍の優れた戦術に対抗する手段がなかったためでした。 当時、スペイン軍はテルシオと呼ばれる野戦方陣に基づく戦術を完成させていました。 テルシオというのは槍兵を中央に配置し、正面にアルケブス小銃を持つ小銃手、そしてそれ以外の側面をマスケット小銃を装備する小銃手を配置した横陣の戦闘陣形だと考えて下さい。 一つのテルシオはおよそ200名の中隊規模で構成され、特に防御戦闘で有効な縦深が十分確保されているため、オランダ軍が白兵戦闘でテルシオを敗走させることは至難のことでした。 戦局が好転しない中で1588年、オランダの最高指導者の地位についたマウリッツは、スペイン軍の戦術を打破するためには、陸軍を改革する必要があると判断します。そして、その改革の方針を定めるに当たって研究プロジェクトを立ち上げることを決定しました。 マウリッツは研究プロジェクトを立ち上げるに当たって、国内の大学から文理両方の研究者を招集し、スペイン軍の戦術に対抗する方法を解明するように求めました。 この研究プロジェクトの方向性に当初から大きな影響を及ぼした研究者がリプシウス(Justus Lipsius)という政治哲学者でした。 リプシウスは政治学を専門とするライデン大学の教授でしたが、古代ローマの軍事思想に関する知識がありました。 そこでスペイン軍の戦術を研究するに当たっては、古典時代以降の軍事思想を再検討する必要があると判断し、ウェゲティウスなどの文献に関する調査を行っています。 さらに、当時まだ普及から間もない小銃や火砲の研究も並行して進められ、研究者たちは...

武器の威力を数値化する方法

戦争を理解するためには、武器の威力を考察することが不可欠です。 文明は長い時間をかけてその時代、その地域に応じた武器を開発し、軍備の中心に据えてきました。しかし、その威力を定量的に考察する方法が考案されるようになったのはごく最近のことです。 今回は、1970年代にデュピュイ(Trevor N. Dupuy)が考案した理論致死指数(theoretical lethality index)という概念を説明し、いくつかの武器の威力を数値的に比較してみたいと思います。 まず理論致死指数は、小銃から核弾頭に至るまで、さまざまな武器の威力を評価する指数であり、特に火力が判断基準になっている指数だと考えて下さい。理論致死指数の計算式は次の通りです。 理論致死指数=射撃速度×威力範囲×殺傷効果×射程要因×正確性×信頼性 ・射撃速度 1時間にその武器で連続して射撃が可能な回数(小銃の性能を扱う場合は400発/1分×2で求めます) ・威力範囲 一度の射撃で危害を加えることが可能な人数(これは榴弾砲のよう場合に特に重要な変数です。小銃の場合は1と置きます。) ・殺傷効果 命中した場合の死亡率(小銃の場合は0.8と置きます) ・射程要因 有効射程(メートル単位)を基本とする場合には=1+(√0.001×有効射程)(有効射程が不明の場合は初速と口径から推計する方法を用いますがまた別の計算式になります) ・正確性 その武器が本来の機能を果たした場合に目標に命中する確率(小銃射撃の場合は0.8を置く場合が多いですが、銃の特性により±0.1と修正してもよいと思います。ここは分析者の定性的判断によります) ・信頼性 その武器が本来の機能を果たす確率(この部分は故障率と関係しています。小銃の場合、おおむね0.8を最高値とします) この計算式を使って、いくつかの小銃の理論致死指数を比較してみましょう。 まず現在の自衛隊の最新式の小銃である89式小銃の致死指数を計算すると、およそ1321と分かります。(以下の計算結果はいずれも四捨五入済み) 64式小銃で同様の計算をしてみると計算結果は791であり、89式が小銃としてより優れていることが分かります。 別の国の小銃に分析の対象を広げてみると、日本の国産小銃の相対的な威力がよりよく分かります。 194...