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学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

18世紀のフランスでは、軍人が主体となって軍事学の議論が活発に行われ、そのいくつかの成果は19世紀の戦略や戦術に大きな影響を与えたとされています。 例えば、歴史学者マイケル・ハワードは、ヨーロッパの軍事史を総括する中で、18世紀に見られた戦術をめぐる革新に着目し、それらを「ナポレオン革命」というタイトルの下で考察しています。歴史的影響が大きかったということが、このタイトルからも示されています。 今回は、このハワードの学説に沿って、18世紀のフランスにおける軍事学の研究動向を中心に紹介し、その歴史的意義について考えてみたいと思います。 1、軍の師団への分割 ピエール・ド・ブルセ(1700 – 1780) イタリア北部出身のフランス陸軍軍人、山岳戦の研究で知られている。 ハワードの見解によると、ヨーロッパの陸軍が師団のような部隊編制を採用し始めるのは17世紀の末からだとされており、18世紀の中頃には主力から独立して行動する分遣隊を用いることがますます一般的になっていました。 しかし、このような方法が軍事理論として裏付けられるのは、18世紀の後半にフランスの将軍ピエール・ド・ブルセが発表した『山岳戦の原則』(1775年)が発表されてからのことだったとハワードは述べています。 「遠隔の分遣隊をともない一つの塊となって運動する軍の代わりに、ブルセは、『山地戦の原則』の中で、軍隊を、すべての兵種から成る自律的「師団」に分けることを提案した。各師団は、おのおのの前進路に沿い運動し、相互に支援するが、おのおの持続した運動をする能力を持つ。このことは、はるかに速い運動速度ばかりでなく、新しい柔軟な機動性を可能にした」(ハワード、131-2頁) 現代の陸軍で当たり前のように採用されている師団編制ですが、これが普及する以前では、司令官は全ての兵力を軍としてまとめながら行進する必要があり、鈍重で統制しにくいだけでなく、警戒可能な範囲も限られていたのです。 軍を師団に分割することができたからこそ、それぞれの部隊にそれぞれの道路を割り当て、迅速に行進し、必要があれば独立した戦闘部隊として行動することもできたのです。 2、自在に行動できる散兵 主力から離れて行動する部隊が増加してくると、その行進の途中で小規模な敵部隊に遭遇するような場面も増えてき...

ナポレオンが軍団を設置した理由

現代の陸軍の組織では、軍(army)、軍団(corps)、師団(division)、旅団(brigade)、連隊(regiment)、大隊(battalion)、中隊(company)、小隊(platoon)、分隊(squadron)という編制がおおむね当然のものになっていますが、このような編制に到達するまでには長い歴史的経緯がありました。 軍団が設置されたのは19世紀と比較的最近のことなのですが、これを最初に実施したのはフランスの ナポレオン・ボナパルト でした。 なぜナポレオンは従来の陸軍の組織構造を見直したのでしょうか。この点について理解するため、今回は軍事学者の ジョミニ によるナポレオンが採用した軍団編制に関する考察をいくつか紹介したいと思います。ジョミニの議論を踏まえながら、18世紀までの陸軍のあり方とナポレオンの陸軍の組織構造にどのような変化が起きていたのかを説明していきます。 フランス革命までの陸軍の戦列 18世紀後半までヨーロッパ列強の軍隊は戦列(line of battle)という一種の陣形を維持することによって、戦闘における部隊の行動を統制していました。軍隊はこの戦列を展開することができるように組織されていたのです。その特徴についてジョミニは次のように解説しています。 「フランス革命が起きるまで、全ての歩兵は連隊または旅団に編制されており、これらの部隊はそれぞれ一つの戦闘集団として集められ、左右両翼に広がって部隊を2列に展開した。騎兵は通常であれば、各歩兵部隊の両翼に位置しており、さらに当時は非常に扱いにくかった砲兵についても、それぞれの歩兵部隊が構成する中央正面に沿って配置されていた。軍は集まって宿営し、横陣もしくは縦陣で行進した。例えば、4個の縦隊で構成される縦陣により行進するなら、歩兵部隊と騎兵部隊はそれぞれ2個の縦隊に区分される。また(側面への機動に特に適した)横陣によって行進する際には2個の縦隊に区分された。それ以外にも地形が特異であるため、騎兵部隊もしくは歩兵部隊の一部を第3列で宿営させることもあったが、これは非常に珍しいことであった」(Jomini 2007: 222) 戦列の大きさのイメージが持てないという方のために、いくつか基本的な数値について補足しておくと、18世紀の列強の戦争では3kmから5kmに...

戦闘陣の正しい使い分け方

戦闘で任務を遂行するためには、その部隊の能力が適時適所で発揮できるように配置されていなければなりません。戦術学の研究では、戦場で部隊を配置する方法を戦闘陣(combat formation)として区別します。これは戦術を理解する上で非常に重要なポイントであり、さまざまな戦史を理解する手がかりともなる論点です。 今回は米軍の教範で示された分類方法に基づいて、その代表的な戦闘陣のいくつかを紹介することにし、その利害得失について一般的に説明してみたいと思います。 なぜ戦闘陣は重要なのか 戦闘陣の適否は任務、敵情、地形によってさまざまな仕方で変化してくる。 特に地形は選択可能な戦闘陣を直ちに規定する要因であり、起伏が険しく、また視界が狭まるほど、部隊を統制しにくくなる傾向が生じてくる。さまざまな状況に即した戦闘陣を使い分けることができることは戦術能力の重要な要素である。 戦術は戦闘において任務を遂行するための部隊の行動を規定するものですが、戦場のどこに部隊を配置するのかという問題は非常に重要です。 「戦闘陣は上級指揮官の企図及び任務に適応した態勢を保ちながら戦場で部隊が移動することを可能にするものである。部隊は攻撃が進展する間に複数の戦闘陣に展開することができるが、それぞれの陣形には利点と欠点がある。また、その特定の状況を考慮しながら、戦闘陣を構成する隷下の部隊も各々で戦闘陣を展開できる」(FM 3-90-1: 1.26) 例えば、ある師団が攻撃、前進する場合でも、漫然と手持ちの部隊を戦場で横一列に展開させることは危険です。 そのような陣形を形成すると、戦闘正面が増大して両翼が過剰に離れてしまいます。また戦闘が始まってから敵が味方の一翼に戦力を集中させてきても、味方の部隊は第一線に展開して交戦中となるため、増援として用いれる部隊がない状態になります。 敵の動向をいち早く察知するための前衛や側衛、後衛を区分し、その上で部隊の大部分を主隊として温存しておかなければなりません。しかし、その組み合わせ方も任務、敵情、地形によってさまざまに変化するため、一概にこの陣形が最良ということはありません。それゆえ、歴史を通じて国力国情に応じた戦術を具体化する戦闘陣の研究が重ねられてきました。 日本語の文献で戦闘陣の意義を述べたものはあまり見られませんが...

戦争で味方に休養を取らせるための戦術

戦術学において、宿営とは部隊がその戦闘力を回復もしくは充実させ、事後の行動を準備する目的で行進を停止し、長時間にわたって休養させている状態、またはその状態に至る行動をいいます。 宿営の基本的な分類は、既存の建物で行う宿営である「舎営」と野外で行う宿営である「野営」という二分法です。 しかし、後者の野営に関しては作戦天幕や携帯天幕などの装備品を展開し、部隊や装備を一時的に保護する簡易式の施設を構成する「幕営」と、それらを使用しない「露営」に細分化することもできます。 宿営の基本的な要領の多くは、趣味として広く知られているキャンプと本質的に同じですが、敵襲を想定して行う点が決定的に異なります。 今回は、戦術研究の観点から宿営を考える際に、どのような問題があるのかを説明してみたいと思います。 宿営地は本質的に野戦陣地でなければならない ハイチで幕営を行っている米海軍の部隊。 長期にわたる作戦において宿営は重要な問題であり、特に戦時に行う宿営では兵站上の考慮だけでなく、戦術上の考慮も必要となる。 敵地に赴いた部隊をいかに安全に休養させるかという問題は、指揮官にとって切実な問題です。特に部隊の行進がもっぱら徒歩行進に頼っていた時代の戦争では、兵士が長い行進で疲れ果てると落伍してしまう恐れもあるため、戦場で本来の能力を発揮できなくなるためです。 そこで指揮官は行進の途中で宿営を実施し、戦場に到着する前に部隊の戦闘力が失われないように注意しなければなりません。 しかし、敵地を行進する味方の部隊は宿営している最中に敵の襲撃を受ける危険があります。夜襲を受けるようなことになれば、小規模な敵襲でも味方の部隊から大きな損害が出るかもしれません。 宿営地が全体として防御陣地となるように着意して構成することが指揮官に求められます。 政治学者であり、軍事学者でもあったマキアヴェリは、この問題を検討する際に、古代ローマ軍の宿営要領を紹介しています(マキアヴェリ「戦術論」233-43)。 ローマ軍を描いたレリーフ。規則的に並んでいる天幕を取り囲んで防壁が構築されている。 宿営地の防備を適切にするために野戦築城が必要なことは、いつの時代の戦場でも変わらない。 それによれば、ローマ軍は宿営地を基本的に方形に構成し地形に応じて東西南北に走る交通路と...

論文紹介 知られざる太平洋戦争での米海軍戦術発達史

第二次世界大戦の海軍戦術に関する研究を読むと、日米で空母の運用に関する研究進捗に相違があったという見方があります。1941年の真珠湾攻撃で空母の集中運用に成功した日本海軍ですが、その後に空母の戦術、運用の研究を進めた米海軍の戦術によって敗北したという捉え方もここに含まれるでしょう。 しかしながら、そもそも米海軍で戦艦重視の教義が空母重視の教義へと転換したという解釈はどれほど妥当なのでしょうか。その結果、米海軍は日本海軍に対して戦術的優位に立ったと判断できるのでしょうか。これらの疑問は必ずしも解決されていませんでした。 今回は、この問題に取り組んだ研究論文を取り上げ、その内容を一部紹介してみたいと思います。 文献情報 Hone, Trent. 2009. "U.S. Navy Surface Battle Doctrine and Victory in the Pacific," Naval War College Review , 62(1): 67-105. そもそも艦隊決戦を想定していた米海軍の戦闘教義 著者は、米海軍が日本海軍よりも迅速かつ的確に戦艦中心の教義を捨て、空母による航空打撃戦の教義を発展させたという解釈は、非常に一面的で問題が多いと批判しています。 なぜなら、当時の米海軍の内部で進められた戦術研究を調べると、米海軍は当初から空母による航空打撃戦に重点を置いて戦術の研究に取り組んでいたわけではないためです。 1941年、太平洋艦隊司令長官に就任したニミッツ(Chester W. Nimitz)は日本海軍の真珠湾攻撃によって損害を受けた艦隊の再建に着手します。しかし、日本海軍が見せた空母の集中運用が直ちに米海軍の戦闘教義に取り入れたということはありませんでした。これは当時の米海軍の教義がすでに戦間期に確立されており、これを容易に変更することが難しかったことと関係しています。 戦間期に米海軍の教範で策定された標準的な戦闘陣の概念図。 戦列の針路(太矢印)は敵の方向(細矢印)に対して直角に向け、その周囲に駆逐艦、巡洋艦が占位する。 戦列から敵の方向に対しては視界・射界を確保しており、典型的な艦隊決戦を想定していることが分かる。 (Ibid.: 70) 当時の米海軍の教義では「戦列(bat...

文献紹介 エンゲルスが考える散兵戦術の歴史的重要性

フランス革命戦争で最初の勝利を収めたとされるヴァルミーの戦い。 マルクスと共に社会主義の研究で有名なフリードリヒ・エンゲルスは、軍事学の方面において数多くの論文を書き残しています。 今回は彼がフランス革命戦争・ナポレオン戦争の戦術について取り上げた未完成の論文「1852年における革命的フランスに対する神聖同盟の戦争の諸条件と見通し」の内容を一部紹介したいと思います。 フランス革命戦争・ナポレオン戦争での戦術でエンゲルスが注目したものに散兵がありました。 それまでの戦術において兵士は大隊ごとに戦列と呼ばれる密集隊形をとり、指揮官の号令によって集団的に部隊行動をとっていました。 いわば、兵士の仕事は指揮官が出す「横隊、前へ進め」、「横隊、止まれ」、「目標正面、控え銃」等の号令に従って動くだけであり、自らの判断に基づいて行動する余地は一切なかったのです。 しかし、当時のフランス革命軍が採用した散兵方式はこのような戦列と大きく異なる戦い方を可能にしました。 散兵は密集隊形をとらず、敵の射撃を避けるために散開しましたが、それだけ散兵は自分自身で判断する必要が増大しました。 ただし、散兵だと指揮官が部隊行動を統制しずらいため白兵戦闘には不向きであり、それゆえ19世紀以降も一部で戦列は使用され続けるのですが、エンゲルスはフランス革命戦争における散兵戦術の登場が近代以降の戦術にとって重要な意味を持っていると考えたのです。 その理由として、エンゲルスはこの戦い方は従来よりも部隊行動で大きな「運動性」を発揮することを可能にしたことを挙げています。 そして、この部隊行動の運動性を高めるためには、下士官と兵士の教育水準の向上が欠かせなかったことを指摘しています。 「しかし、この運動性には、兵士のある教養程度が必要であり、兵士は多くの場合自分自身でやってゆくことを知っていなければならない。斥候や糧秣徴発や前哨勤務等々がいちじるしく拡大したこと、兵士の一人一人に要求される積極的行動性がより大きくなったこと、兵士が各個に行動し各自の知力にたよらざるをえない場合がよりしばしば繰り返されること、そして最後にその成功は各個の兵士の知力や眼識および精力に依存している散兵戦の大きな意義などが、すべて、老フリッツの時代にくらべて、下士官や、兵士の、より大きな教養度を前提と...

戦車小隊の隊形とその戦術的な特徴

陸上戦闘だけで考えるのであれば、戦車は最も強力な武器体系に位置付けられます。 戦車は戦闘で必要な火力、機動、防護という機能をバランスよく兼ね備えており、もし戦場でこれを発見したならば最優先で対処すべき脅威として指導されます。 今回は、戦術の観点から戦車小隊の隊形について紹介したいと思います。 まず戦術とは一般に戦闘で任務を遂行するために部隊を運用するための科学または技術のことを意味しており、味方の部隊が敵の部隊に対して有利な態勢を占めるための機動を指示することもこれに含まれます。 次に戦車小隊(tank platoon)について述べると、これは戦車部隊の基本的な単位であり、車両4両によって編成され、各車両に車長、砲手、装填手、操縦手の4名が搭乗するのが一般的な編成です。 戦車小隊の戦術において基本となる隊形にはいくつかの分類がありますが、米軍の教範で紹介されている戦車小隊の隊形には次の種類があります(以下の解説はATP3-20.15: 3-14を参照)。 縦隊(column)は部隊行動の統制が容易であり、側面に対する射撃にも適しているが、正面では十分に火力を発揮することができないので、敵の部隊と接触する恐れが少ない場所で、経路が狭まった狭隘な地形を通過する時に使用すべき隊形です。 千鳥縦隊(staggered column)縦隊の特性を残しつつ、正面と側面に対して火力を発揮することができる隊形であり、特に敵の部隊と接触する恐れがある地域で迅速にその場所を通過する必要がある時に使用します。 突撃隊形(wedge)正面に対して最大限の火力を発揮できると同時に、側面に対しても良好な火力を使用することが可能な隊形であり、若干の起伏がある地形や広漠とした地形で敵の部隊に対する突撃に適しています。 V字隊形(vee)は正面に対する射撃にはあまり適しておらず、部隊の統制と防護を優先した隊形です。狭隘な地形で視界や機動が妨げられている場合、前方を進む車両を後方の車両が視界に入れて警戒しながら前進する際に使用できます。 円形隊形(colt)は戦車小隊が他の小隊から独立して行動する場合、防御体制を準備するために使用され、小隊長が登場する...

歩兵部隊の戦闘陣形とその歴史的変化

歩兵は世界最古の戦闘職種であり、古来より陸上作戦の中心的存在であり続けてきました。 そのため、歩兵の戦闘陣形は武器装備の変化に応じて数多くの創意工夫が試みられてきた歴史があります。 今回は、近世末期から近代初期にかけて変化した歩兵部隊の戦闘陣形について説明したいと思います。 そもそも戦術学において陣形とは何のために形成されるのでしょうか。 陣形に関する考え方は時代によっても異なるのですが、第一次世界大戦当時の研究では次のようにその目的が説明されています。 「陣形を構成する目的とは、部隊を結合することであり、それは通常なら機動の前に、全体を見渡しやすい限られた空間において行われるものである。陣形を構成することは、行進を開始する前、戦闘を開始する前に、敵の射撃が及ばない場所から戦場に部隊を前進させるために、部隊の態勢を整える目的でも行われる」(Balck, 1915: 42) もちろん、ここで述べているのは陣形全般のことであり、戦闘陣形についてはより細かい規定が求められます。戦闘陣形に限定した議論では、次のように説明されています。 「戦闘陣形はあらゆる武器(小銃、槍、騎兵刀、大砲)を使用することを可能にするものであるべきである。これは縦陣では行うことができず、横陣によってのみなしうる。近代的な火器の威力は、あらゆる密集した陣形が敵の効果的な射撃に晒されながら存在する余地をまったく許さないため、最も散開した展開が求められる」(Balck 1915: 43) 部隊を展開する方向として深さを優先すれば縦陣が、広さを優先すれば横陣が形成されますが、近代的武器の威力を考えれば、戦場で敵と縦陣で交戦することはできず、横陣で交戦すべきと考えられており、しかも各人の間には十分な間隔を確保する必要があることも指摘されています。 そのような戦闘陣形は具体的にはどのようなものなのでしょうか。 まず19世紀、普墺戦争でドイツ陸軍が使用した次の歩兵中隊の標準的な戦闘陣形を見てましょう。 上に向かって横陣に展開した独の歩兵中隊。 中隊長を先頭に、右翼から第一小隊、第二小隊、第三小隊の隊員が二列横隊の隊形で展開。 1個の歩兵中隊の定員は200名で、戦闘正面はおよそ80メートル。 一名当たりの正面は0.8メートル、前後もおよそ0.8メートルと通常間隔。 ...

文献紹介 第一次世界大戦での戦術の進化

第一次世界大戦は近代的な陸軍戦術の原型が始めて具体化された戦争であり、現在の戦術を考える上でも貴重な手がかりが数多く含まれています。 今回は、戦術の研究で知られた陸軍少将バルクにより執筆された第一次世界大戦に関する研究を紹介したいと思います。 文献紹介 Balck, W. 1922(1911). Development of Tactics: World War , Bell, H., trans. Fort Leavenworth: General Service Press. 目次構成 序論 1.平和の訓練と戦争の現実 2.機動戦 3.西部戦線における陣地戦、1914年-1917年 4.東部戦線とイタリア戦線における戦争 5.戦争における戦技 6.陣地戦における防御戦闘 7.限定的目標に対するドイツ軍の攻撃 8.機関銃 9.歩兵の攻撃 10.世界大戦の前の騎兵 11.砲兵 12.1918年 結論 戦術の基礎は教練(drill)にあります。どれだけ時代が進んだとしても、教練が兵士を諸制式を学ぶための出発点であり、あらゆる部隊行動の基礎であることには変わりはありません。(基本教練の概要については 過去の記事 を参照して下さい) 著者が「私たちは、検閲のためではなく、戦争のために教練を発達させるのである」と述べたように、部隊教練を戦争の現実に適合するように手直しすることが極めて重要となります(Balck: 1922: 14)。 それがゆえに、第一次世界大戦で戦闘様相の変化に直面した各国陸軍は戦闘教練の抜本的な再検討に取り組まなければなりませんでした。 バルクが注目した事例の一つにフランス陸軍の取り組みがあります。塹壕戦の膠着状態を打破してドイツ軍に対抗するため、フランス軍は戦術を基礎から見直し、特に歩兵部隊の火力を運用するための戦術を大幅に刷新しています。 第一次世界大戦が勃発した当初、歩兵部隊は味方の砲兵と連携しながら攻撃をしていました。 つまり、歩兵部隊は敵の防御陣地が味方の砲撃で破壊された後に攻撃を開始していました。 確かに敵の防御陣地をあらかじめ破壊することができれば、歩兵部隊が前進する上で有利だと考えられますが、実際に砲撃を受けた敵は攻撃の企図を事前に察知することが可能であり、また突撃支援射...

いかに陸軍の戦闘陣形は拡大してきたか

戦闘陣形(battle formation)は作戦地域において部隊の配置、展開を規定するものであり、戦術的な分類としては縦陣や横陣、斜行陣などの種類があります。 しかし、今回は戦術上の戦闘陣形ではなく、戦略単位となる部隊、つまり師団以上の規模の部隊が採用する陣形について考えてみたいと思います。 古代から現代にわたる戦闘陣形で最も顕著な変化は、時代が下るにつれて兵士の密度が低下する傾向です。 先行研究によれば、古代の陸軍で100,000名の兵士が戦場に展開する場合、その正面はおよそ6.67キロメートル、縦深は0.15キロメートルほどでした(Dupuy 1985: 28)。 このような戦闘陣形が採用されていた理由としては、古代から中世にかけての部隊行動では白兵戦闘能力が重要視されていたことが挙げられます。 白兵戦闘では交戦距離が1メートル以下となりますので、兵士各人の側面や背後を相互に掩護するためには部隊を密集隊形にまとめておく必要がありました。さらに加えると、部隊の指揮官が部下の状態を掌握する上で、兵士たちをまとめておくことのほうが望ましいという理由も挙げられます。 しかし、火器の導入によってこうした戦闘陣形には問題が出てきます。 兵士たちが部隊として密集していると野戦砲やマスケットで射撃を受けた場合に損害を受けやすく、例えば野戦砲が部隊に対して一発の命中弾を送り込むと縦に並ぶ兵士たちが一度に吹き飛ばされるという脆弱性が認められました。 こうした理由から、ナポレオン戦争の時代には100,000名程度の部隊が展開した正面は2.5キロメートル、縦深は8キロメートルにも拡大していきます(Ibid.)。 これだけの空間に部隊が展開すると、25.75平方キロメートルが占有される計算となります。 さらに第一次世界大戦の時代に移ると100,000名の展開する空間の広さはさらに拡大しました 正面は20,83キロメートル、縦深は12キロメートルに達しました。これらの数値から計算すると、部隊が占有する面積は247.5平方キロメートルにも及びます。 この時期に導入された機関銃、戦車、航空機、化学武器などに対処するためには、部隊を戦場に分散させることが必須の条件となっていました。 現代の私たちがイメージする陸上作戦の原型はこの時期に出現していたと考...

オランダの独立を可能にした軍事革命

1574年、八十年戦争でのライデン攻囲戦を描いた絵画。 このスペインの攻囲に耐え抜いたライデンにライデン大学が設置される。 Otto van Veen(1574 - 1629)作 今回は、国家が存亡の危機に直面した時、研究者ができることが何なのかを私自身考えさせられたオランダの軍事革命の歴史を紹介したいと思います。 この話は1568年にスペインに対してオランダが独立を求めて武装蜂起したことにまでさかのぼります。この反乱は後に八十年戦争と呼ばれることになり、休戦を挟みながらも1648年まで続きました。 開戦当初、オランダ軍はスペイン軍に対して劣勢な状況だったのですが、その最大の理由は当時のオランダ軍にはスペイン軍の優れた戦術に対抗する手段がなかったためでした。 当時、スペイン軍はテルシオと呼ばれる野戦方陣に基づく戦術を完成させていました。 テルシオというのは槍兵を中央に配置し、正面にアルケブス小銃を持つ小銃手、そしてそれ以外の側面をマスケット小銃を装備する小銃手を配置した横陣の戦闘陣形だと考えて下さい。 一つのテルシオはおよそ200名の中隊規模で構成され、特に防御戦闘で有効な縦深が十分確保されているため、オランダ軍が白兵戦闘でテルシオを敗走させることは至難のことでした。 戦局が好転しない中で1588年、オランダの最高指導者の地位についたマウリッツは、スペイン軍の戦術を打破するためには、陸軍を改革する必要があると判断します。そして、その改革の方針を定めるに当たって研究プロジェクトを立ち上げることを決定しました。 マウリッツは研究プロジェクトを立ち上げるに当たって、国内の大学から文理両方の研究者を招集し、スペイン軍の戦術に対抗する方法を解明するように求めました。 この研究プロジェクトの方向性に当初から大きな影響を及ぼした研究者がリプシウス(Justus Lipsius)という政治哲学者でした。 リプシウスは政治学を専門とするライデン大学の教授でしたが、古代ローマの軍事思想に関する知識がありました。 そこでスペイン軍の戦術を研究するに当たっては、古典時代以降の軍事思想を再検討する必要があると判断し、ウェゲティウスなどの文献に関する調査を行っています。 さらに、当時まだ普及から間もない小銃や火砲の研究も並行して進められ、研究者たちは...

補足 武器の威力を定量的に評価する意義と限界

この記事は以前に発表した「 武器の威力を数値化する方法 」の続きです。 理論致死指数に関する記事を発表したところ、予想より多くの閲覧者からその指数の適用範囲に関する問い合わせがありましたので、若干の情報を追記します。 そもそもデュピュイが理論致死指数という指数を考案した目的は、軍事戦略上の戦力比較をするための計算に武器の威力を考慮する必要があったためでした。 あくまでも射撃術のような分析レベルで武器の威力や性能を考えているわけではなく、より大局的な観点から武器を評価しています。 冷戦期にデュピュイがこの指数を考案するまで、あらゆる形態の武器を統一的な基準で比較する方法論はまだ確立されていませんでした。 第二次世界大戦、冷戦を通じて武器体系が複雑化していましたので、戦力比較はますます難しい作業になっており、軍事分析の方法論について再検討が求められていました。 そのような状況で、デュピュイは火力に基づく武器の威力を比較するという方法を採用し、小銃から戦車、航空機、最終的には核弾頭に至るまでさまざまな武器の性能を比較する基準を考えた次第です。 それゆえ、小銃だけに適用範囲が限定された指数ではありません。 理論致死指数の適用範囲はあらゆる武器に及んでおり、非常に粗雑ではありますが、銃剣のような近接格闘の武器に関しても分析することも視野に含まれています。 例えば、銃剣格闘を一般的に考えて交戦距離1メートル以内、1時間に殺傷可能な人数60名、有効な攻撃を加えた場合に戦闘不能にする確率0.4、正確性0.95、信頼性1と想定するならば、理論致死指数は23.521と求めることができます。 もう一つ付け加えておくべきことは、理論致死指数からは運用致死指数という別の指数を導くことができるということです。 これはまた別の記事で詳細に説明すべき事項ですが、理論致死指数の計算では1平方メートルに対して敵の兵士1名が分布するという非現実的な想定に依拠しています。 実際の戦闘では戦闘陣形に基づいて広い地域に分散しているため、この点を考慮に入れて実際に発揮される威力を計算しなければなりません。 第二次世界大戦の場合で考えると、10万名の部隊が展開する地域の平均的な面積はおよそ3000平方キロメートルであるため、理論致死指数/3000で運用致死指数が求め...