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学説紹介 戦場における歩兵と戦車―グデーリアンが考える諸兵科連合―

第一次世界大戦で戦車が初めて実戦に投入されて以来、この新兵器をどのように運用すべきかをめぐって議論が交わされてきました。 ある者は歩兵を支援する兵器として戦車を位置付け、ある者は戦車を独立して運用すべき兵器として位置付けたのです。 今回は、ドイツ陸軍軍人である グデーリアン が戦間期に歩兵と戦車の協同についてどのように考察していたのかを取り上げ、複数の兵科の部隊を協同させる諸兵科連合(combined arms)の観点からそれにどのような意義があったのかを考察してみたいと思います。 歩兵と戦車の協同はどうあるべきか グデーリアンは第一次世界大戦の戦闘を経験して以来、戦車の役割に関する論争が二つの陣営に分かれて繰り広げたことを紹介しています。 一方の論者は歩兵こそ唯一無二の「戦場の女王」であると考え、それ以外の兵科は歩兵部隊を援助する役割を果たすべきだと主張しました(邦訳、グデーリアン、393頁)。 すなわち、歩兵部隊が徒歩で戦場を移動している間、機甲部隊は動く楯のように歩兵の前方で行動するべきだということです(同上)。 この思想に反対するのが機甲部隊の独立を主張する論者であり、彼らはその機動力を活用して敵の側背を突き、さらに縦深にわたって敵陣地を突破するという新しい戦術運用を構想していました。 このことによって、防御陣地に立て籠もる敵部隊を奇襲することが可能となり、塹壕戦で手詰まりになる事態を避けようということです(同上、394頁)。 グデーリアン自身の思想は基本的に後者のものでしたが、諸兵科連合という観点から見て機甲部隊と歩兵部隊との協同が重要であることも認識していました。次の記述からもそのことが読み取れます。 「他兵科との協同は、装甲部隊にとって必要なことである。それ単独では(他の兵科もまたそうであるように)、与えられる戦闘任務のすべてを遂行できないからだ。装甲部隊には他兵科の部隊と協同する義務があるし、逆もまた真なり、他兵科の部隊が恒常的に戦車との協同用に配されているとあらば、なおさらである」(同上、394頁) 機甲部隊の独立性が重要だとしても、機動力が全く異なる二つの兵科を戦場でどのように運用すべきかという問題への解答にはなりません。 将来の戦争で歩兵と戦車の協同を実現するためには、戦術の観点から詳細な分析が求めら...

論文紹介 戦間期におけるイギリスとドイツの空軍を比較する

1919年から1939年の20年間は各国で航空戦力の増強が飛躍的に進んだ時代に当たります。 第一次世界大戦で得られた航空戦の教訓を踏まえ、空軍の役割が活発に議論されたのもこの時期のことです。 当時、専門家の議論をリードした著作が ジュリオ・ドゥーエ の『制空』だったのですが、一方で世界中の空軍士官が彼の戦略思想に傾倒していたというわけでもありませんでした。 今回は、戦間期におけるイギリスとドイツの戦略思想を比較した研究を紹介し、両国の空軍がそれぞれ異なる発展の道を歩んだ歴史的経緯について考察したいと思います。 文献紹介 Murray, Williamson. 1980. "British and German Air Doctrine Between the Wars." Air University Review , 31: 39-57. イギリスとドイツで違った航空戦略 ジュリオ・ドゥーエ(1869-1930) イタリアの軍人、将来の戦争では戦略爆撃の意義が大きくなると主張し、陸海軍から独立した空軍の創設を働きかけた。 この論文の著者は、ドゥーエが航空戦略の先駆者として歴史上、重要な役割を果たしたことを認めていますが、その一方で彼が敵国の政経中枢に対する戦略爆撃(strategic bombing)こそが空軍の最重要任務だと強調するあまり、それ以外の任務を軽視する傾向にあったと批判もしてもいます。 著者の見解によれば、空軍の発達は各国の事情、特に地理的要因によって大きく異なるものでした。 そのため、一概に戦略爆撃だけが空軍の最重要課題であるかのように議論するわけにはいかず、航空偵察や近接航空支援といった陸軍や海軍との統合運用についても考慮すべきという立場を取っています。 このような視点から、著者はイギリス空軍の特徴を次のように述べています。 「まったく異なった戦略的要請から、独特な航空戦略と多様なエアパワー概念が導き出されたことに注意しておかなければならない。イギリス人は、島国に住んでおり、ヨーロッパ最大の海軍を保有しているため、戦略爆撃について考えるだけの余力があった。第一に、イギリスに対して敵が打撃を加えることが可能な手段は航空戦力だけであった。そのため、戦間期を通じてブリテン諸島に対...

事例研究 なぜオーストリアは併合されたのか

1938年、ウィーンのホーフブルク宮殿でオーストリア併合を宣言するヒトラー 1938年、オーストリアはドイツに併合されました。歴史的に見れば、この事件はドイツにとってヴェルサイユ体制を打破する一歩となり、チェコスロヴァキア危機に繋がる出来事でした。 しかし、当初オーストリアはヴェルサイユ体制で禁止されていた独墺合邦は回避しようと努力していました。それにもかかわらず、なぜドイツに併合されることになったのでしょうか。 今回は、オーストリア併合の事例に着目し、なぜオーストリアは独立を維持できなくなったのかを政治学の視座から説明してみたいと思います。 イタリアとの友好関係に賭けたオーストリア エンゲルベルト・ドルフス(1892年 - 1934年) 第一次世界大戦で敗戦国となったオーストリアは、多くの領土を失い、小国の地位に転落しました。そのため、戦間期にオーストリアが第一に重視しなければならなかったのは、国力の不足を補ってくれる同盟相手を見出すことでした。 国内にはドイツとの関係を重視し、独墺合邦(アンシュルス)を目指すべきとする勢力もいましたが、これは戦勝国であるイギリスやフランスから禁じられていました。外交的配慮を重視すれば、北のドイツよりも、南のイタリアとの関係を強化する方がオーストリアの対外政策として望ましいと考えられたのです。 こうして1930年2月、オーストリアはイタリアと友好条約を締結しました。しかし、イタリアとの友好関係を確立するに当たって問題となったのは、ムッソリーニ(Benito Mussolini)がオーストリアにファシスト国家になるように求めてきたことでした。これは当時のイタリアで周辺国をファシスト国家に移行させることを一つの対外政策の目標としていたためです。 イタリアにとって幸いなことに、オーストリアはその後、ファシズムの路線に近づいていきます。 1931年に国内最大のクレディット・アンシャルタルト銀行が倒産し、オーストリアで大規模な金融恐慌が起こると、有権者は現政府に対する不満を募らせることになりました。これはファシズムを支持する有権者の拡大に寄与する要因でした。 ただし、イタリアではなくドイツとの関係を重視するオーストリア・ナチ党も同時に支持を伸ばしつつあったため、オーストリア国内では深刻な対立がもたらさ...

事例研究 戦間期にイギリスが軍事的脅威を見逃した理由

1933年1月30日、ヴェルサイユ体制の修正を主張していたヒトラーがドイツで政権を掌握したことは、特に戦勝国であったイギリスとフランスにとって戦争のリスクをもたらすものでした。 もし、ヒトラーの下でドイツが再び国力を増強させ、戦争の準備を整えてしまえば、以前からの主張の通り、ドイツがヴェルサイユ体制で損なわれたドイツの地位を回復しようと図る可能性があったためです。 興味深いことに、当時のイギリスの政策決定者は、ドイツが軍事的脅威であるという見方をそれほど強めていませんでした。むしろ、ドイツとの軍縮交渉を進めたいイギリスとして、ドイツの政情が安定化することを歓迎する見方さえありました。 今回は、1933年から1934年にかけてイギリスでドイツの情勢をどのように認識していたのかを簡単に紹介し、その意味を考察してみたいと思います。 ナチス・ドイツを脅威として煽るべきでないとの見解 高速道路の起工式に主席するアドルフ・ヒトラー(1889-1945) 第一次世界大戦でイギリス、フランスなどを中心としたヴェルサイユ体制を打倒すべきとの立場をとっていた。 しかし、イギリスでヒトラー政権が直ちに危険視されることはなく、ドイツとの軍縮交渉に有利に働くとの見方があった。 1933年にヒトラーが政権を掌握するまでの間、ドイツの政治情勢は非常に不安定な状況にありました。当時、ドイツと軍縮交渉を進めていたイギリスは、このような政府の政治的脆弱性により、交渉がなかなか進展を見せないことを懸念していました。 そのような情勢の中で1933年1月にヒトラーが政権を掌握したことは、イギリスにとって必ずしも不利益になるとは考えられませんでした。 ドイツに駐在するイギリスの外交官フィリップスは本国の外務省に宛てて、「(ヒトラーによる政権発足の)署名は、過去におけるどのドイツ人の署名よりも、ドイツ全体を安定化させることになるだろう」と書き送っており、これはヒトラーの下でドイツの政治情勢が安定化すれば、より英独の外交交渉に進展が期待されるようになるという見通しを表すものです(Taylor, A. J. P. 1983: 73-4)。 現在のわたしたちの立場から考えれば、このような情勢判断はいかにも楽観的すぎるもののように見えますが、第一次世界大戦の記憶が生々しい中で、多...