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戦術研究 ニーウポールト会戦

ニーウポールト会戦(1600年7月2日) 戦闘の背景について 16世紀のオランダはヨーロッパで最も経済的に繁栄していた地域の一つでしたが、スペインの国王フェリペ二世の統治に対する政治的反発が日に日に増していました。オランダの南部諸州ではカトリックが依然として信じられていましたが、北部諸州でプロテスタントが増加していました。そのため、カトリックを擁護するフェリペ二世は、北部諸州におけるプロテスタントの勢力に対する締め付けを強化し、これに反発する形でオランダが独立戦争を引き起こしたのです。 1600年7月1日、オランダ軍はフランドル地方の一都市を攻囲していたスペイン軍の部隊を撃退し、さらに次のスペイン軍の攻撃目標と見られていたニーウポールトに向けて前進を開始します。 しかし、この時点でスペイン軍はすでに前進を開始していました。オランダ軍は予想と異なるニーウポールト付近の地点でオランダ軍とスペイン軍が対峙するに至りました。 当時、オランダ政府がスペインの支配下にあったフランドル地方を占領するために、オランダ軍を進攻させていたため、戦略的にはオランダ軍が攻勢、スペイン軍が防勢の立場であったと言えます。 オランダ軍の指揮をとるのは軍制改革の推進者として知られるマウリッツ・ファン・ナッサウであり、これに対抗するのはイギリスとの戦争でもその軍功が知られていたスペイン領ネーデルラント総督のアルブレヒト七世でした。 テルシオと呼ばれる方陣を組んだ時に発揮されるスペイン軍の歩兵部隊の粘り強さをマウリッツはよく心得ていました。何か手立てを打たなければ、強固な敵の陣形を崩す前に、味方が疲弊してしまいかねません。 そのため、マウリッツは砲兵の火力を有効に活用する必要がありました。とはいえ、当時の砲兵は射程が短く、精度も悪いため、敵と味方がある程度接近した後でなければ有効な射撃は期待できません。 そのため、マウリッツが注意すべきことは、敵の動きをよく把握し、味方の砲兵の火力を発揮しやすい状況を作り出すことにあったと言えます。 戦場の特性、戦力の規模、戦闘の経過 季節は夏、日差しが照り付けますが、暑さはそれほどではありません。 戦場は海岸付近の地域であり、その日は午前中に潮汐の変化が生じることが予測されました。内陸方面には起伏を伴う砂丘であったので、両軍が部隊...

戦力比を補完する独立変数、戦闘効率

クラウゼヴィッツの『戦争論』には戦闘理論の数理的モデルを基礎づけるような記述が多く見られます。 その一つの議論が第3編戦略の第8章「兵数の優越」です。 ここでクラウゼヴィッツは戦闘を抽象化し続けると、究極的には彼我の戦力の相違だけが区別できるに過ぎず、「このように考えられた戦闘においてなら、兵数が勝利を決定することになる」と述べました。 事実、こうした部隊の規模が戦闘の結果に直接的な影響をもたらすことはその後の実証研究からも明らかになっています。しかし、今回取り上げたいのは、こうしたモデルでは説明がつかない例外的事例です。 以前に、1600年から現代にかけて記録が残っている戦闘のデータベースを利用して、戦力比が攻撃の成功率にどのように寄与しているかを紹介したことがあります。 ここで紹介しているのは戦力比が非常に劣勢( 攻撃者/防御者の戦力比<1 )であるにもかかわらず攻撃が成功した事例だけを抽出した資料です(McZuine 1993: 977)。 これまで確認されているだけで15例あり、20世紀に戦われた事例は8例、そのうちの一事例に日本軍の戦闘も含まれています。 これは攻撃者に極端に不利な戦力比であるにもかかわらず、攻撃に打って出た非常に珍しいサンプルだと言えます。 日本軍の兵員は7000名に対してイギリス軍の兵員は12000名、戦力比は0.58なので、日本軍は二倍近い敵に対して攻撃を行ったことが分かります。 しかし、この戦力比を補完する独立変数を取り入れると、この事例をよく説明することができるようになります。それが戦闘効率(Combat Effectiveness)です。 この日本軍とイギリス軍の戦闘は1941年に日本がマレー半島に侵攻する過程で発生したものですが、その戦闘に投入された部隊を比較すると、その質的側面において戦闘効率に格差があったことを指摘することができます。 この戦闘でイギリス陸軍の第11インド人師団を攻撃したのは日本陸軍の第5師団でした。 戦史に詳しい読者の方はご承知のことかと思いますが、第5師団は1888年に創設された歴史ある部隊であり、日清戦争、日露戦争、満州事変、シベリア出兵、支那事変で豊富な戦闘経験を有する部隊でした。 1941年、シンガポールを行進する日本陸軍の第5師団の...