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事例研究 第二次世界大戦におけるフィリピンの敗北―ケソンとマッカーサーの挫折―

フィリピンは北の台湾、南のインドネシアに挟まれて位置する国であり、東にフィリピン海、西に南シナ海に面した島嶼国家です。 第二次世界大戦で何度も戦闘が繰り広げられた地域としても知られており、現在では中国の南シナ海への進出の脅威に直接さらされている国でもあります。 今回は、そのフィリピンの安全保障について考えるため、第二次世界大戦でフィリピンがどのような政策、戦略をとっていたのかを紹介してみたいと思います。 日本の脅威を見据えたケソンの対外政策 マニュエル・ケソン(Manuel Quezon) 第二次世界大戦が勃発する5年前の1934年、米国の連邦議会でフィリピンの独立を承認する法案が成立し(タイディングス・マクダフィー法)、翌1935年に独立準備を担う政府を率いる大統領としてマニュエル・ケソン(Manuel Quezon)が選挙で選出されます。 ケソンはフィリピンを独立国家とすべく国内外の課題に取り組みますが、その中で特に困難な問題だったのが国防でした。 1939年のデータでフィリピンの総人口を見てみると、およそ1600万2000人とされており(邦訳、ミッチェル、9頁)、これは同じ東南アジアのタイやマレーシアよりも人的資源で恵まれています(ただし、数字に関しては情報源によって1700万人程度とされている場合もあり、はっきりしません)。 しかし、軍備拡張の基盤となる工業がフィリピンでは欠落していました。つまり、海上兵力、航空兵力の独力整備はほとんど不可能な状態だったのです。 これは当時のケソンがフィリピンの軍事的脅威として見なしていた日本に対抗する上で致命的な弱点でした。 1940年のデータで日本の総人口はおよそ7193万3000人とされています(同上、8頁)。これだけでも大きな国力差があることが伺われますが、それに加えて日本は科学技術力、工業生産基盤でフィリピンを圧倒しており、しかも台湾の基地を根拠としてフィリピンの北部に兵力を機動展開することも可能でした。 つまり、脅威に対してバランシングを図るには、ケソンはフィリピン軍の増強を米国の軍事援助に頼らざるを得ず、特に武器や装備の大規模な移転を受けることが国防上絶対に欠かせませんでした。 しかし、米国においてフィリピンの国防に対する関心は必ずしも高くなく、ケソンが望むような軍...

論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦

1941年、日本は真珠湾攻撃を実施し、太平洋各地で勢力圏の拡張に成功したが、当時の軍首脳部に対米戦に勝利できるとの見通しはなく、米国の反攻が始まってからは苦戦を強いられることになった The USS Arizona (BB-39) 1941/12/7 なぜ国力で劣る日本は米国に対して開戦したのかという疑問は、これまで数多くの研究を生み出してきました。 政治的、外交的、経済的、文化的、軍事的要因など数多くの要因がこの一事象に関係していますが、今回は当時の日本の政策決定が大きな硬直性を持っていたことを指摘する研究を取り上げて、その一部の内容を紹介したいと思います。 文献情報 森山優「「非決定」の構図―第二次、第三次近衛内閣の対外政策を中心に」軍事史学会編『第二次世界大戦(二)』錦正社、1991年、15-31頁 妥協を積み重ねた政策決定の硬直性 日本では政策と戦略の調整に当たったのは1937年に設置された大本営政府連絡会議だったが、法的根拠を持たなかったが、天皇が出席する会議であったことから大きな権威があった 1943年4月29日朝日新聞『アサヒグラフ増刊 天皇皇后ヨーロッパご訪問の旅』(朝日新聞社、1971年)93頁 政権の座についた近衛文麿は従来より政府が統帥部を統制しやすい体制を作ろうとしており、1940年7月27日に大本営政府連絡会議を復活させたこともその取り組みの一つであると説明されています(森山、18頁)。 しかし、この会議で取り上げる議題は事前に関係部署の意見一致が必要だったこともあり、近衛が主導して政策を立案できるような制度ではありませんでした。 これ以外にも政府と統帥部の政策を調整する制度として、御前会議がありましたが、これは天皇が出席することもあり、議論の場所というよりも、政府と統帥部の意見の一致を天皇に表明することが最優先されました(同上、19頁)。 もし御前会議で政府と統帥部の意見の不一致があった場合、天皇は決断を下すことはせず、間接的に見解の不一致を指摘するに止め、さらに検討を重ねるよう促していたため、近衛政権としてはいかに御前会議の場で政府と統帥部の対立が表面化させないかが主な政治努力の焦点となっていました(同上)。 「「一致」の表現が前提となった結果、対立意見の「併記」や結論の先送りが最...

論文紹介 第二次世界大戦における日本軍の水陸両用作戦

現在、自衛隊では水陸機動団の創設や、有事における民間の輸送船の活用などの取り組みが進められています。これら取り組みを通じて自衛隊が目指しているのは、島嶼防衛に必要な水陸両用作戦(amphibious operation)能力を構築することなのですが、戦前においても日本で水陸両用作戦の研究が活発だった時期がありました。 今回は、第二次世界大戦以前に日本軍が水陸両用作戦の能力をどのように発展させてきたのかを検討した研究論文を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。 文献情報 二宮充史「日本軍の渡洋上陸作戦―水陸両用戦争の視点からの再評価」『海幹校戦略研究』2016年7月(6・1)、97-125頁 イギリス軍の強襲上陸の問題点 第一次世界大戦のガリポリの戦い(1915年)は、イギリス軍が採用する強襲上陸の方法に限界があることを示す事例であり、日本軍でも従来の水陸両用作戦の考え方を見直す契機となった。 そもそも日本軍の水陸両用作戦といっても、大陸方面で戦うことが多かった日本軍に果たして水陸両用作戦の概念が存在したのかという疑問が出てくるでしょう。 この疑問に対して著者は、日本軍が水陸両用作戦という用語を用いることはなかったものの、実際にはその重要性を認識しており、明治から昭和までの戦闘経験を通じて独自の発展を遂げてきたことを明らかにしています(二宮、99頁)。 著者によれば、日本軍が水陸両用作戦の研究に着手したのは、日清戦争、日露戦争で日本軍が先遣部隊を船舶輸送で朝鮮へ派遣してからのことでした。ただ、当時の船舶輸送は日本海軍ではなく日本陸軍の責任で実施されていたため、陸上戦力と海上戦力が統合運用されていたというわけではありませんでした(同上、100頁)。 これは明治期の日本軍がイギリス軍の教義の影響を受けていたためであると著者は論じています。 当時、イギリス軍の着上陸要領としては、第一段階では地上部隊は海上部隊によって護衛された徴用商船によって輸送され、第二段階では上陸地点において軍艦の支援を受けながら海軍の海兵隊がまず強襲上陸し、第三段階では橋頭保が確保されると地上部隊の人員や装備が揚陸され、最後に戦闘の準備を整えた後に展開していく、というものでした(同上)。 「日本軍の日清・日露戦争の上陸要領は、この英国式に類似し、英...