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文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか

戦術の発展を促してきた要因は一つではありません。その時代、その地域に主流だった隊形や編制、武器や装備など、多くの要因が相互に影響し合っています。 しかし、兵役制度が戦術思想の発展に与えた影響は比較的理解されているところが少ないかもしれません。 今回は、20世紀の兵役制度の変化が歩兵小隊の戦術をどのように変化させたのかを考察した社会学者アンソニー・キングの研究を紹介したいと思います。 文献情報 King, Anthony. 2013. The Combat Soldier: Infantry Tactics and Cohesion in the Twentieth and Twenty-First Centuries . Oxford: Oxford University Press. 歩兵小隊の戦術が重要な理由 この研究は20世紀に徴兵制から志願制へ兵役制度の移行が進む中で、陸軍の歩兵戦術、特に歩兵小隊の戦術にどのような変化が生じていたのかを研究したものです。 20世紀初頭の各国陸軍では徴兵制によって人員を集めることが一般的でしたが、戦闘効率で問題を抱えていたことを著者は指摘しています。 「20世紀の大衆軍(mass armies)は近代的な武器を使用させる上で集団行為の問題の解答を探し求めるために努力した。市民からなる歩兵部隊は、集団としての戦闘効率で問題を抱えていた」(King 2013: 60) つまるところ、徴兵制で集めた兵士で効率的な戦い方を行わせることには限界があったということです。 また著者は第二次世界大戦で兵士の行動を調査したマーシャルの有名な研究を取り上げ、第一線における兵士の発砲率の低さが指摘されていたことを紹介していますが、この研究も徴兵制で作り上げた陸軍の戦闘効率の低さを示唆しているものだと評価しています(Ibid.)。 しかし、マーシャルをはじめとする過去の研究は、この戦闘効率の改善が進んだ背景として、兵役制度の影響を十分に考察しておらず、この研究はその空白を埋めるためのものとして位置付けられています。 戦術単位としての歩兵小隊の成立 著者の調査によれば、19世紀末から20世紀初頭の歩兵戦術は短間隔、つまり密集した状態で部隊が行動することが前提とされていました。 この思想はプロイ...

論文紹介 兵士は恐怖との戦い方を知っている

恐怖とは戦争の本質と言えます。しかし、兵士は恐怖を押し殺し、自分の命を危険に晒してでも、断固として与えられた任務を遂行することが求められます。 銃声と爆音が辺りを支配し、敵の散兵と戦車が自分たちに向かって来るのが見えた時、兵士一人ひとりが規律と冷静を保ち、指揮官の命令に基づいて整然と自分の持ち場を守ることは、それ自体が一種の偉業とさえ言えるかもしれません。 しかし、これはどのようにして可能となっているのでしょうか。この疑問を解決するためには、軍事学において戦闘の恐怖がどのように研究されているのかを知る必要があります。 今回は、軍事心理学の研究を踏まえて戦場における恐怖について説明し、それに対応するための方法について考察した論文を紹介したいと思います。 文献情報 Daddis, Gregory A. 2004. "Understanding Fear's Effect on Unit Effectiveness," Military Review , July-August, pp. 22-27. 誤解されてきた戦場の恐怖 軍事学の歴史を振り返ると、戦争で人間が普遍的に感じるところの恐怖が研究の対象とされるようになったのは比較的最近のことであったと分かります。 これは恐怖を覚える兵士は勇敢であるとは言えない、という間違った通念が支配的だったため、表立って研究されることが少なかったためかもしれません。 著者が研究の出発点として位置付けているのは19世紀のフランスの軍事思想家シャルル・アルダン・ドゥ・ピック(Charles_Ardant_du_Picq)の研究であり、ドゥ・ピックは心理学的な観点から兵士が戦場で覚える恐怖に着目しており、それが「攻撃精神」を低下させ、引いては部隊の任務遂行に悪影響を及ぼしていることを初めて詳細に議論しました(Daddis 2004: 22)。 ただしドゥ・ピックの研究は一個人の研究であり、より体系的な調査が開始されるきっかけとなったのは第一次世界大戦以降のことでした。 この戦争で兵士はそれまでにない激しい砲撃や膨大な死傷者を目の当たりにし、第一線では兵士の恐怖にいかに対処するかが重大な問題として認識されるようになりました。 イギリス軍の軍医チャールズ・ウィルソン(Char...

歩兵部隊の戦闘陣形とその歴史的変化

歩兵は世界最古の戦闘職種であり、古来より陸上作戦の中心的存在であり続けてきました。 そのため、歩兵の戦闘陣形は武器装備の変化に応じて数多くの創意工夫が試みられてきた歴史があります。 今回は、近世末期から近代初期にかけて変化した歩兵部隊の戦闘陣形について説明したいと思います。 そもそも戦術学において陣形とは何のために形成されるのでしょうか。 陣形に関する考え方は時代によっても異なるのですが、第一次世界大戦当時の研究では次のようにその目的が説明されています。 「陣形を構成する目的とは、部隊を結合することであり、それは通常なら機動の前に、全体を見渡しやすい限られた空間において行われるものである。陣形を構成することは、行進を開始する前、戦闘を開始する前に、敵の射撃が及ばない場所から戦場に部隊を前進させるために、部隊の態勢を整える目的でも行われる」(Balck, 1915: 42) もちろん、ここで述べているのは陣形全般のことであり、戦闘陣形についてはより細かい規定が求められます。戦闘陣形に限定した議論では、次のように説明されています。 「戦闘陣形はあらゆる武器(小銃、槍、騎兵刀、大砲)を使用することを可能にするものであるべきである。これは縦陣では行うことができず、横陣によってのみなしうる。近代的な火器の威力は、あらゆる密集した陣形が敵の効果的な射撃に晒されながら存在する余地をまったく許さないため、最も散開した展開が求められる」(Balck 1915: 43) 部隊を展開する方向として深さを優先すれば縦陣が、広さを優先すれば横陣が形成されますが、近代的武器の威力を考えれば、戦場で敵と縦陣で交戦することはできず、横陣で交戦すべきと考えられており、しかも各人の間には十分な間隔を確保する必要があることも指摘されています。 そのような戦闘陣形は具体的にはどのようなものなのでしょうか。 まず19世紀、普墺戦争でドイツ陸軍が使用した次の歩兵中隊の標準的な戦闘陣形を見てましょう。 上に向かって横陣に展開した独の歩兵中隊。 中隊長を先頭に、右翼から第一小隊、第二小隊、第三小隊の隊員が二列横隊の隊形で展開。 1個の歩兵中隊の定員は200名で、戦闘正面はおよそ80メートル。 一名当たりの正面は0.8メートル、前後もおよそ0.8メートルと通常間隔。 ...

なぜ軍人は挙手の敬礼をするのか

  敬礼は世界各国の軍人に広く共有された文化の一種と言えます。 国によって姿勢は微妙に異なるのですが、一例として挙手の敬礼を簡単に紹介すると以下の通りです。 まず気を付けの姿勢(不動の姿勢)を基本とし、右肘は体側に対して90度の角度で持ち上げて地面に対して大体水平を保ちます。 さらに、五指をまっすぐに揃えながら右手の人差し指と中指の間がちょうど右目の右上方向と帽子のひさしとの交点に位置するようにします。 他にも細かい注意点があるのですが、これが挙手の敬礼の概要と言えます。 そもそも、なぜ軍人はこのような挙手の敬礼をするのでしょうか。挙手の敬礼の由来は何なのでしょうか。 この疑問についてこれまでさまざまな仮説が提示されてきましたが、結局のところ研究者の間で諸説分かれており、明確な結論が得られたわけではありません。 ここではJohn F. Geraci(2013)の整理を踏まえて二つの仮説を紹介してみたいと思います。 まず歴史的な観点から見てみると、右腕を上げる敬礼は古代ローマの軍隊において始まったという仮説があります。 これは語源からも裏付けられている考え方であり、英語で敬礼を意味するsaluteはラテン語のsalutareに由来しています(Geraci 2013: 698)。 このラテン語の本来の意味は「敬意を表す」というものです。これが敬礼の起源の一つという考え方があります。 ただし、ローマ軍の敬礼は右腕を高く上げる敬礼であり、敬礼の形が現在の挙手の敬礼と異なるという批判があります。 これとは異なるもう一つの考え方は、騎士の時代における慣習に由来するという考え方です。 中世のヨーロッパでは武装した騎士が相手に対して敵意を持たないことを示す際には兜の面頬を上げる動作をして見せていたとされています。 こうすることで、自分が何者であるかを相手に対して明らかにする習慣が戦場で形成されていたと考えられています。 つまり、挙手の敬礼はこの動作の名残として兜を装着しなくなった後にも残った戦場の慣習ではないかと考えられます(Geraci 2013: 698)。 これも仮説の域は出ませんが、こちらは先ほどのローマの敬礼と比べれば、より現代の敬礼の形に近い形式であるということが言えるでしょう。 今回の記事で取り上げたのは主に...

オランダの独立を可能にした軍事革命

1574年、八十年戦争でのライデン攻囲戦を描いた絵画。 このスペインの攻囲に耐え抜いたライデンにライデン大学が設置される。 Otto van Veen(1574 - 1629)作 今回は、国家が存亡の危機に直面した時、研究者ができることが何なのかを私自身考えさせられたオランダの軍事革命の歴史を紹介したいと思います。 この話は1568年にスペインに対してオランダが独立を求めて武装蜂起したことにまでさかのぼります。この反乱は後に八十年戦争と呼ばれることになり、休戦を挟みながらも1648年まで続きました。 開戦当初、オランダ軍はスペイン軍に対して劣勢な状況だったのですが、その最大の理由は当時のオランダ軍にはスペイン軍の優れた戦術に対抗する手段がなかったためでした。 当時、スペイン軍はテルシオと呼ばれる野戦方陣に基づく戦術を完成させていました。 テルシオというのは槍兵を中央に配置し、正面にアルケブス小銃を持つ小銃手、そしてそれ以外の側面をマスケット小銃を装備する小銃手を配置した横陣の戦闘陣形だと考えて下さい。 一つのテルシオはおよそ200名の中隊規模で構成され、特に防御戦闘で有効な縦深が十分確保されているため、オランダ軍が白兵戦闘でテルシオを敗走させることは至難のことでした。 戦局が好転しない中で1588年、オランダの最高指導者の地位についたマウリッツは、スペイン軍の戦術を打破するためには、陸軍を改革する必要があると判断します。そして、その改革の方針を定めるに当たって研究プロジェクトを立ち上げることを決定しました。 マウリッツは研究プロジェクトを立ち上げるに当たって、国内の大学から文理両方の研究者を招集し、スペイン軍の戦術に対抗する方法を解明するように求めました。 この研究プロジェクトの方向性に当初から大きな影響を及ぼした研究者がリプシウス(Justus Lipsius)という政治哲学者でした。 リプシウスは政治学を専門とするライデン大学の教授でしたが、古代ローマの軍事思想に関する知識がありました。 そこでスペイン軍の戦術を研究するに当たっては、古典時代以降の軍事思想を再検討する必要があると判断し、ウェゲティウスなどの文献に関する調査を行っています。 さらに、当時まだ普及から間もない小銃や火砲の研究も並行して進められ、研究者たちは...

軍隊と基本教練

基本教練という言葉があります。 これは「気を付け」、「休め」などの指揮官の号令によって、兵士が姿勢を変える仕方を規則的に定義したものを言います。 もちろん、基本教練は見栄えのためだけに行われているのではありません。 その基本的な目的は、個人と部隊を訓練して諸制式に習熟させることがあり、また部隊としての規律、団結を強化して作戦行動の基礎を作ることも目指されています。 古代ローマの著述家ウェゲティウスの著作でもさまざまな基本教練について解説されており、実際の戦闘でも部隊を特定の隊形に展開する際に用いられていました。 現代においても基本教練は新兵訓練の最初に教え込まれる事項であることに変わりはありません。 簡単に基本教練の初歩的な事項について触れておくと、特に徒歩教練(Foot Drill)には各個教練(Individual Training)と部隊教練の二つがあります。 各個教練は今でも体育の授業でも教えられるもので、例えば「気を付け(Attention)」の号令で両かかとをつけてつま先を45度に開き、胸を張って両肩を引き、両手を体の側面に密着させる不動の姿勢は各個教練の基本です。 不動の姿勢。全ての各個教練の基本となる重要な姿勢。 踵をつけて胸を張り、両手を握りこんで体側に密着させる。 (FM3-21.5: 4-2)より引用。 不動の姿勢の他にも休めの姿勢、敬礼、方向転換(右向け、右。回れ右、など)、行進(前へ、進め。分隊、止まれ。など)、銃を持っている時の動作(ひかえ、銃。になえ、銃。など)などがあります。 部隊教練とは、各個教練に基づいて隊員を特定の方向、位置、間隔で集合させ、行動させる教練で、厳密には分隊教練(Squad Drill)、小隊教練(Platoon Drill)、中隊教練(Company Drill)、大隊または旅団教練(Battalion Drill, Brigade Drill)があります。 例えば、分隊員を1列の縦隊に集合させる場合、指揮官は「縦隊、集まれ」と号令をかけます。 分隊員の中でも基準となる者は、その指揮官の前方6歩の場所に移動し、その後ろに1メートル間隔で他の者も整列します。これが部隊教練です。 分隊教練についての解説図。 上が1列横隊、右下が1列縦隊、左下は2列縦隊を示す...