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学説紹介 なぜ勝者が敗者に譲歩すべきなのか:外交により平和を維持する方法

世界の歴史において戦争の勝者は敗者に対して多額の賠償金を課し、領土を割譲し、あるいは軍備を制限するなどの措置をとってきましたが、これらは果たして合理的な措置なのでしょうか。 今回は、戦争の勝者が敗者に対してあえて譲歩を行うような外交には、有利な側面もあるという議論をアイケンベリーの説に沿って紹介してみたいと思います。 将来報復を受けるリスクを考えよ 基本的に戦勝国は講和条約を締結するための条件を敗戦国に対して提示できる立場にあります。 この際に最も強硬な立場をとることもできれば、穏健な立場を示すこともできますが、アイケンベリーは強硬な立場で和平交渉に臨むことには批判的です。 これは将来的に敗戦国が報復してくるリスクを考慮に入れた上で自国の条件を提示することが必要だからであり、最悪の場合、両国の勢力関係が逆転したとしても、敗戦国の軍事行動を阻害する要因を講和の条件に含ませるべきだと彼は考えているのです。 「戦勝国は、勝利の結果、司令的立場に立つ。しかし、戦勝国が運用する戦後秩序に正統性がなければ、戦勝国の支配は十分には実現されず、また、安定もしない。正統的な戦後秩序とは、秩序構成国が進んで参加し、そのシステムの全体的方針に同意する秩序である」(アイケンベリー、57頁) つまり、戦勝国が現段階における軍事的優勢を利用して有利な講和条約を締結する利益が見込めたとしても、それは将来的に予測される敗戦国の軍事的報復によって生じる不利益によって相殺されてしまうので、長期的に考えれば戦勝国の特権を手放して平和を維持できるようにした方がよいと考えられます。 戦勝国は自国の能力の行使を制限すべき それでは将来の平和をより長く維持するには戦勝国はどのような姿勢で敗戦国と交渉を進めるべきなのでしょうか。 この点についてアイケンベリーは意外なことを述べています。それは自国の能力の一部を自ら進んで手放すことだというのです。 「全体として、主導国は、弱小・追随諸国を、戦後秩序に関する一連のルールと制度に縛り付けたいと希望する。言い換えれば、主導国は諸国を予測可能な行動パターンの中に固定し、その一方で、自らは制度的拘束と責務から解放され、自由であることを望む。しかし、新秩序に弱小諸国を積極的に参加させ、これら諸国に秩序ルールを順守させるためには、主導...

学説紹介 リアリストから見た国際法―勢力均衡は国際法の血肉である―

国際法という言葉は、あたかも国際社会に国内社会と同じような法体系があるかのような印象を与えるかもしれませんが、両者はまったく異なるものです。 なぜなら、国際法は国内法に伴う強制力が存在せず、それを破ったからといって、無条件に国家の行動が制限されることはないためです。 国際政治学、特にリアリズムの立場から見れば、これは国際法の分権性を示す特徴であり、また国際政治が本質的にアナーキーであることを裏付けてもいます。今回は、この問題に関するモーゲンソーの議論を紹介してみたいと思います。 国際法とは原始的な法体系に似ている モーゲンソーは近代的な国際法の体系が15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで出現し、三十年戦争の講和の際に締結されたウェストファリア条約として確立されたとと述べています(モーゲンソー、291頁)。つまり、国際法には少なくとも数百年にわたる発達の歴史があり、国家間の関係を形成する上で影響を及ぼしてきたと認めているのです。 しかし、国際法の影響力を決して過大に評価すべきではないともモーゲンソーは述べており、例えば国際連合憲章のような文章はしばしば無視される場合があると指摘しています(同上、292頁)。その上で次のように述べられています。 「しかし、国際法の存在を認めることは、それが国内法制度と同程度に事項的な法制度であり、より具体的に言えば、国際法が国際情勢における権力闘争を規制して抑制する上で有効だと断定するのと同じことではない。国際法はオーストラリアのアボリジニやカリフォルニア北部のユーロク族のような、文字を持つ以前の社会で一般に見られる法に類似した原始的な類型の法である。それが原始的な類型の法というのは、主としてそれがほとんど完全に分権的な法であるためである」(モーゲンソー、292頁) ここでモーゲンソーが指摘しているのは、国際法が存在したとしても、その国際法が機能するとは限らない、ということです。ここで述べている分権的な法とは、国際社会が単一の権威の下で支配されていないという状態を意味しています。 国内社会とは異なり、国家は自らの権利を自らの実力で守る必要があるのです。 国際法が有効であるための条件とは 分権的な国際法が機能する仕方は国内法とまったく異なりますが、モーゲンソーはそれが国際社会の特徴である分...

軍人が「人殺し」ではない理由

戦争とは本質的に大量殺戮であると考える人々にとって、第一線で武器を手に戦う兵士が「人殺し」であるということには、疑問の余地がほとんどありません。 しかし、このような単純化に問題があると感じている人は少なくなく、また兵士自身にとっても自分たちの仕事が犯罪のようにレッテル張りされることは不名誉なことです。 ここで問題なのは、このレトリックに反論する方法が、多くの人々にとって明確ではないという点です。 戦場で兵士が任務を遂行するために人命を奪うことはあり得ることであり、それは兵士という職務の重要な一部分を成していることは事実です。 そのため、軍人を「人殺し」と同一視する職業差別的なレトリックであると考える人でさえ、直感的にはそのような物言いが真実の一面を捉えているようにも感じられるのです。だからこそ、これは真剣に取り組まれるべき重要な検討課題と言えます。 今回は道徳的な観点から兵士が「人殺し」ではない理由を明らかにするために、哲学者のマイケル・ウォルツァーの説を紹介し、その意味するところを考えてみたいと思います。 戦争とは他の手段をもってする政治の延長である 軍人を「人殺し」と呼び、その職務を犯罪的行為であるかのように見なすことの最大の問題とは、戦争を個人的な活動と見なしていることにあります。 かつてクラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の延長である」と述べましたが、これは戦争が個人の行動に還元できるものではなく、国家を構成する人々が政治権力の下で組織的に武力を行使する活動であることを示しています。 戦争は個人の行為ではなく、国家の行為であることを裏付ける根拠として重要なものに国際法があります。 戦争はルール無用の殺し合いのように見えますが、現実には数多くのルールが存在しており、その多くは慣習法として成立してきたものですが、現代ではその多くが明文化されています。 ウォルツァーはこの点について次のように述べています。 「戦争とは、『二つか、それ以上の集団に、武力による紛争の遂行を同等に認める法的状態』である。そして、われわれの目的とってはより重要なのだが、戦争はまた、実は主権国家のレベルではなく、軍隊は個々の兵士のレベルで同一の許容が含まれている道徳的状態でもある。平等な殺人の権利がなければ、ルールに統制された...