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ジョミニが考える軍事政策の基本原則

アントワーヌ・アンリ・ジョミニ(1779-1869)、スイス出身 スイス軍、フランス軍を経てロシア皇帝の軍事顧問となった軍事学者、著作に『戦争術概論』 19世紀の軍事学者 アントワーヌ・アンリ・ジョミニ の研究業績で最も有名なのは、戦略の基本原則に関するものです。例えば、敵の兵站線に脅威を及ぼすように、我が勢力を機動させることは、ジョミニが主張した戦略上の原則としてよく参照されています。しかし、ジョミニの研究は戦略の分野だけでなく、軍事政策の方面にも及んでおり、現代の用語で言うとこれは「防衛行政」または「防衛政策」に該当します。 今回は、ジョミニの軍事政策に関する考察を紹介し、それが戦争の指導においてどのような意義を持つのかを考察したいと思います。 軍事政策の問題とは そもそも、軍事政策とはどのように定義される政策なのでしょうか。 ジョミニの説によると、軍事政策は対外政策や戦略など軍隊の対外的な使用に直接関係する部分を除外することによって定義することができます。また、その問題には人員の確保、資金の管理、統帥の確立、士気の保持などが挙げられます。これらの事項をよく検討し、それらが作戦に及ぼす影響をよく見極めることが重要となります。 「この分類によれば、国民の情念、軍事制度、現役、予備役、資金、自己の政府と社会制度に対する愛着、執政部の特性、軍隊の司令官の特性、軍事的能力、司令官の作戦行動を決定する首都の内閣会議や戦争指導会議の影響、幕僚が支持する戦争方式、一国の常備軍と軍備、侵攻を企図する国家の軍事地誌、軍事統計、直面することが予想されるあらゆる種類の敵の勢力と障害、そして外交と戦略に含まれない一切がこの軍事政策に含まれている。  政府はこれらの詳細な知識を入手することに決して怠慢であってはならず、全ての計画の立案においてこれらを考慮に入れることが必須である。これ以外のことで軍事政策について確立された法則というものは存在しない」(Jomini 1862: 38-9) ここで述べられた通り、軍事政策は軍事的要因だけでなく、政府や社会といった非軍事的要因が相互に影響し合う複雑な問題です。軍隊を一から作り上げるために必要な人的、物的資源を包括的に調達するだけでなく、それらを適切な仕方で管理しなければなりません。軍隊の規模が大きくなるほど...

論文紹介 第一次世界大戦の原因は「シュリーフェン・プラン」だけではない

1914年、西部戦線に向けて鉄道で輸送されるドイツ軍の部隊。 車体の落書きにはドイツ語で「パリへの旅行(Ausflug nach Paris)」などと書かれている。 第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)の諸要因で特に重要だったのはドイツの戦争計画だったという説があります。それによれば、当時のヨーロッパ大陸で東のロシアと西のフランスに挟撃される事態を恐れたドイツが、両国を各個撃破する目的で対フランス戦を急いだ結果、第一次世界大戦が引き起こされたと考えられています。 しかし、この説明は完全なものではありません。というのも、ドイツよりもロシアが先に動員を行っていたことが十分に考慮されていないためです。 今回は、第一次世界大戦の要因を考え直すために、当時のロシアが行った動員の政治的な重要性について再評価を試みた研究を紹介したいと思います。 文献情報 Trachtenberg, Marc. 1990-1991. "Meaning of Mobilization in 1914," International Security , 15(3): 120-150. 第一次世界大戦直前の国際情勢と軍事バランス 第一次世界大戦における主要陣営の政治地図。ドイツ、オーストリア、イタリアから構成される同盟国(茶色)と、イギリス、フランス、ロシアから構成される協商国(緑色)の間で戦われた戦争。この政治地図では同盟国の盟主であるドイツはロシアを東側に、フランス、イギリスを西側に挟まれる位置関係にあることが分かる。 第一次世界大戦はイギリス、フランス、ロシア(後にアメリカ、イタリア)等の協商国とドイツ、オーストリア(後にトルコ)等の同盟国との戦争でした。 この戦争がどのような軍事バランスの下で勃発したのかをドイツの視点から簡単に解説しておきたいと思います。 ドイツにとって最も脅威が大きかったのは動員規模が大きいロシアでした。その兵力は1300万名程度であり、ドイツの兵力1325万名にほぼ匹敵します。ドイツと同盟関係にあるオーストリアの兵力は900万名ですが、ロシアと手を結ぶフランスの兵力が820万名であることも考えると、ドイツがこのロシアの脅威に対処できるかどうかは非常に難しい状況にありました。 戦争...

論文紹介 兵站は戦略を制約する

今回は、安全保障学で(残念ながら)特に知名度が低い研究領域、兵站学に関する議論を紹介します。 兵站学の論文は特に第二次世界大戦が終結してから数多く書かれるようになりましたが、その中でも特にアメリカ軍の兵站に関する優れた事例研究があります。 論文情報 Sykes, H. F., Jr. 1947. "Logistics and World War II Army Strategy," Military Review , 35(2): 47-54. この論文の著者である米陸軍大佐H. F. Sykes, Jr.の貢献は、第二次世界大戦におけるアメリカ軍の大戦略の決定を決定した要因として兵站が決定的だったことを実証的に明らかにしたことです。 日本海軍による真珠湾攻撃を受けてから間もない1942年1月の議会演説で、ルーズベルト大統領は「この圧倒的な優勢を獲得する目的から、合衆国はその国力のほぼ限界まで航空機、戦車、火器、艦船を生産しなければならない」と発言しました(Sykes 1947: 47)。 この発言から示される通り、アメリカにおける戦略と兵站の関係は「父と子の関係」ではなく、全く逆の関係でした。 つまり、アメリカは戦略を策定するよりも先に、その戦略に必要な武器や装備を生産するところから戦争指導を着手し、その後に当面の戦略を策定したのです。 著者は、このような結果として、戦略と兵站のどちらの領域においても長期的な指針が確立されていなかったと指摘しています(Sykes 1947: 47)。 この主張を裏付けるために、著者は1939年以後のアメリカ軍の兵站がどのように指導されていたかを動員という観点から検討しています。 ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した1939年、アメリカ軍の勢力は最初21万名でしたが、9月には22万7000名に増勢されます。当初の計画によれば1941年10月1日までに100万名、1942年4月までに400万名に増勢するつもりでした。 この戦力を整備するために必要な費用はおよそ73億ドルと見積もられましたが、予算の総額はルーズベルト大統領の要求によって30%程度ほど削減されてしまいます(Sykes 1947: 48)。 この予算削減の決定から間もなくして、武器や装備を生産する防衛産業の能...

文献紹介 不足する弾薬と工廠の役割

兵站において補給を優先しなければならない最も基本的な物資が三つあります。それは、糧食、燃料、そして弾薬です。 戦場において軍事力を発揮するためには、大量に消費される弾薬を適切に補給することが兵站の最も重要な仕事の一部と言えます。 今回はこうした関心から、第一次世界大戦のアメリカにおける弾薬の供給についての著作を紹介したいと思います。 文献情報 Crowell, B. 1919. America's Munitions, 1917-1918 , Washington, DC: U.S. Government Printing Office. 第一次世界大戦では火力戦闘の重要性が高まったため、戦場での弾薬の消費が飛躍的に増加した事情があります。 そのためアメリカでも工廠(軍隊内部の軍需工場)で大規模な弾薬の増産に乗り出さなければならなくなりました。 ワシントンDCに建設された工廠の写真。 事実関係を確認しておくと、アメリカが第一次世界大戦に参戦するのは1917年4月からのことです。 この参戦によってアメリカは第一次世界大戦でのドイツの敗北を決定的なものにしたと研究では一般に言われています。 しかし、この報告書で指摘されているのは、アメリカが兵站の側面で数々の問題を抱えており、特に弾薬の補給に関しては他の連合国に大きく依存していたことです。 あまり知られていないことだと思いますが、報告書によるとアメリカの防衛産業で砲兵の弾薬の増産が本格的に開始されたのは、1918年の夏以降になってからでした。 つまり1917年4月に参戦を決定したことを考慮すれば、弾薬の増産への移行に1年以上の時間を費やさなければならなかったことが分かります。 1914年からドイツと戦っていたフランスやイギリスの産業が供給する一か月あたりの弾薬量と比べると、1918年10月上旬の段階でさえその供給力は半分程度だったことが指摘されています(Ibid: 33)。 したがって、1918年11月に戦争が終結することを考えればアメリカが弾薬の補給に関して連合国の供給に依存していた関係が分かります。 この資料の下の図によると1917年4月1日から1918年11月11日までにイギリスが生産した弾薬を基準にすると、フランスの供給した薬莢が固定された弾薬(完...