1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してから1年も経たない1990年8月31日に東西ドイツ統一条約が調印されたことは国際政治の歴史にとって画期的な出来事でした。 当時の有識者、研究者の多くはソ連が安全保障の観点から見て重要な東ドイツをこれほどあっさりと手放すはずはないと思っていましたが、最後にソ連は東西ドイツ統一をただ黙認しました。 今回は、1989年から1990年のドイツ統一交渉でソ連が東西ドイツ統一を認めたわけを理解するため、アイケンベリーの分析を取り上げて紹介してみたいと思います。 東西ドイツ統一に向けた動きと米国の外交政策 1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツは深刻な経済的・社会的な混乱、そして政情不安に見舞われて弱体化していきました。 西ドイツはこの機会を捉えて統一ドイツ実現に向けて動き始め、11月28日に「10項目のプログラム」を発表します(242頁)。 これは東西ドイツ間で旅行や経済的支援を拡大し、東ドイツで自由選挙を実施することにより、連邦化を段階的に進め、最終的に一つのドイツを発足させるという政治構想でした(同上)。 この時の西ドイツが巧みだったのは、国内に向けて統一の機運を高めるだけでなく、東西ドイツ統一に対する西側諸国の間の懸念を取り除くことでした。 特に北大西洋条約機構(NATO)の盟主である米国に対しては「西ドイツはNATOに対して『揺らぐことのない忠誠心』を持っている」と明言しておいたことは、統一を加速させる上で重要な措置でした(同上)。 この西ドイツの意向を受けた米国も統一ドイツ建設に向けて動き始め、12月に開催されたマルタ会談でブッシュ大統領はソ連のゴルバチョフ政権に向けて東西ドイツ統一を受け入れるように働きかけを始めています。 ブッシュはゴルバチョフとドイツ問題について対話した際に、「米国が東欧情勢を利用しようとしたことはない」と強調し、「私自身、あなた方の状況がむずかしくなるような行動はとってこなかった。『ベルリンの壁』の様子を見て、私が浮かれることがなかったのもそのためだ」と西側主導の東西ドイツ統一を安心して見守るように呼び掛けています(同上、243頁)。 しかし、ゴルバチョフはまだこの時点で米国の要求を受け入れるわけにはいかないと考えており、それを防ぐために動いて...
使用するサービスをnoteに移行しました。noteアカウント(https://note.com/takeuchi_kazuto)をフォローして頂くようにお願い申し上げます。