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文献紹介 戦術的革新を生み出した組織的学習

第一次世界大戦でドイツ軍の部隊が精強であった理由は、しばしばその質実剛健な国民性というイメージから説明されることもあります。 しかし、このような説明では当時のドイツ軍の各部隊で行われていた研究努力が見過ごされてしまいます。 今回は、当時のドイツ軍における戦闘教義の革新を可能にした研究体制を調査した研究を紹介したいと思います。 文献情報 Lupfer, Timothy T. 1981. The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine during the First World War , Leavenworth Papers, Fort Leavenworth: Combat Studies Institute. 目次 1.弾力的な縦深防御 2.1918年における攻勢の戦術 3.一般的考察の試案 この研究の主な特徴は、第一次世界大戦における戦術そのものの変遷ではなく、戦術の更新を推進していた研究努力について注目していることです。 1914年に第一次世界大戦が勃発した当初、ドイツ軍のほとんどの士官は、砲兵火力の優位性と集密な攻撃こそが勝利の条件である、という当時の戦術上の通説を疑っていませんでした。 しかし、開戦から間もなくして、この戦争がこれまでの戦争とは異次元の戦争であり、これまでの攻撃を重視した戦術が通用するとは限らないという認識が陸軍の間で普及していきます(Ibid.: 1-2)。 1915年に西部戦線では広大な野戦築城に依拠した防衛線が構成されるようになり、ドイツ軍として犠牲が拡大しないように陣地攻撃を実施しない防勢作戦の方針を決定します。 この時期にイギリス軍とフランス軍が行った大規模な攻撃に対して、ドイツ軍は地域防御を実施するための戦術を研究する必要に迫られました。 1915年6月に刊行されたドイツ軍の教範では、防御陣地を構成する上で第二線を設定して敵の突破に備えるように指示され、本格的な戦術の見直しが進められました。 さらに現場での経験から、逆襲が防御戦闘において有効であること、敵の監視と間接射撃から部隊を守るために野戦陣地に逆勾配を設けることの価値などが、この時期に明らかにされています(Ibid.: 3) 一方のフ...

ルーデンドルフと全体戦争の問題

平素より本ブログをお引き立て下さいまして、誠にありがとうございます。 気が付けば既に閲覧数1000を超えており、つきましてはこの場を借りて、皆様にお礼を申し上げます。今後も安全保障に関する記事を投稿していきます。 さて、今回は戦略学の観点から全体戦争についての議論を紹介したいと思います。 戦略学で全体戦争の議論が始まるきっかけとなったのは第一次世界大戦であり、この時期にドイツでのちの日本の戦略思想にも影響を与えたルーデンドルフが『全体戦争論』という著作を発表します。(日本では『国家総力戦』という題名で知られています) ルーデンドルフは一次大戦の教訓として次のように論じました。 「しかるに世界戦争は過去150年間の全ての戦争と全く異なる性質を現した。 つまり参戦国の軍隊はそれぞれその相手の軍隊の殲滅に努力したばかりでなく、国民自身もまた戦争遂行の作業に深く関係して、戦争行為は直接的に国民に課せられ、国民自身も戦争の困苦を直接経験した。 こうして国民も軍隊も一体となって、その間には明確な区別はなく、文字通りの全体戦争となり、世界の諸国民はそれぞれ終結した全力を挙げて対峙した。 ここにおいて単に軍隊だけでなく参戦国の全国民の生活と精神に及ぼす、いわゆる全体戦争が生じてきたのであり、このことは一つには過去と異なった政治的形態により、一つは人口の増加とこれに伴う一般兵役法の採用、さらにますます威力が増大してきた新兵器に起因するものである。 今や戦場は文字通り交戦国の国土のすべての地域にわたって軍隊だけでなく国民全般もその程度の差こそあれ、直接的、または間接的に戦闘行為の対象となり、ともに戦禍に悩むことになってきたのである (中略)全体戦争の本質は全国民に対する致命的な脅威が実際に発生し、しかして国民が戦争の重荷を担う決意に満たされた場合に初めて実行することができるような性質のものであり、内閣による戦争の時代、限定された政治的目的を持つ戦争の時代は過ぎ去ったのである」 中央の人物 エーリッヒ・ルーデンドルフ ルーデンドルフの業績は全体戦争という概念を戦略概念としてかなり早い段階から定式化し、それに基づいた戦争指導の抜本的な見直しを主張したことでした。戦略的に特に重要な主張として次のものがあり...