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事例研究 なぜオーストリアは併合されたのか

1938年、ウィーンのホーフブルク宮殿でオーストリア併合を宣言するヒトラー 1938年、オーストリアはドイツに併合されました。歴史的に見れば、この事件はドイツにとってヴェルサイユ体制を打破する一歩となり、チェコスロヴァキア危機に繋がる出来事でした。 しかし、当初オーストリアはヴェルサイユ体制で禁止されていた独墺合邦は回避しようと努力していました。それにもかかわらず、なぜドイツに併合されることになったのでしょうか。 今回は、オーストリア併合の事例に着目し、なぜオーストリアは独立を維持できなくなったのかを政治学の視座から説明してみたいと思います。 イタリアとの友好関係に賭けたオーストリア エンゲルベルト・ドルフス(1892年 - 1934年) 第一次世界大戦で敗戦国となったオーストリアは、多くの領土を失い、小国の地位に転落しました。そのため、戦間期にオーストリアが第一に重視しなければならなかったのは、国力の不足を補ってくれる同盟相手を見出すことでした。 国内にはドイツとの関係を重視し、独墺合邦(アンシュルス)を目指すべきとする勢力もいましたが、これは戦勝国であるイギリスやフランスから禁じられていました。外交的配慮を重視すれば、北のドイツよりも、南のイタリアとの関係を強化する方がオーストリアの対外政策として望ましいと考えられたのです。 こうして1930年2月、オーストリアはイタリアと友好条約を締結しました。しかし、イタリアとの友好関係を確立するに当たって問題となったのは、ムッソリーニ(Benito Mussolini)がオーストリアにファシスト国家になるように求めてきたことでした。これは当時のイタリアで周辺国をファシスト国家に移行させることを一つの対外政策の目標としていたためです。 イタリアにとって幸いなことに、オーストリアはその後、ファシズムの路線に近づいていきます。 1931年に国内最大のクレディット・アンシャルタルト銀行が倒産し、オーストリアで大規模な金融恐慌が起こると、有権者は現政府に対する不満を募らせることになりました。これはファシズムを支持する有権者の拡大に寄与する要因でした。 ただし、イタリアではなくドイツとの関係を重視するオーストリア・ナチ党も同時に支持を伸ばしつつあったため、オーストリア国内では深刻な対立がもたらさ...

事例研究 戦間期にイギリスが軍事的脅威を見逃した理由

1933年1月30日、ヴェルサイユ体制の修正を主張していたヒトラーがドイツで政権を掌握したことは、特に戦勝国であったイギリスとフランスにとって戦争のリスクをもたらすものでした。 もし、ヒトラーの下でドイツが再び国力を増強させ、戦争の準備を整えてしまえば、以前からの主張の通り、ドイツがヴェルサイユ体制で損なわれたドイツの地位を回復しようと図る可能性があったためです。 興味深いことに、当時のイギリスの政策決定者は、ドイツが軍事的脅威であるという見方をそれほど強めていませんでした。むしろ、ドイツとの軍縮交渉を進めたいイギリスとして、ドイツの政情が安定化することを歓迎する見方さえありました。 今回は、1933年から1934年にかけてイギリスでドイツの情勢をどのように認識していたのかを簡単に紹介し、その意味を考察してみたいと思います。 ナチス・ドイツを脅威として煽るべきでないとの見解 高速道路の起工式に主席するアドルフ・ヒトラー(1889-1945) 第一次世界大戦でイギリス、フランスなどを中心としたヴェルサイユ体制を打倒すべきとの立場をとっていた。 しかし、イギリスでヒトラー政権が直ちに危険視されることはなく、ドイツとの軍縮交渉に有利に働くとの見方があった。 1933年にヒトラーが政権を掌握するまでの間、ドイツの政治情勢は非常に不安定な状況にありました。当時、ドイツと軍縮交渉を進めていたイギリスは、このような政府の政治的脆弱性により、交渉がなかなか進展を見せないことを懸念していました。 そのような情勢の中で1933年1月にヒトラーが政権を掌握したことは、イギリスにとって必ずしも不利益になるとは考えられませんでした。 ドイツに駐在するイギリスの外交官フィリップスは本国の外務省に宛てて、「(ヒトラーによる政権発足の)署名は、過去におけるどのドイツ人の署名よりも、ドイツ全体を安定化させることになるだろう」と書き送っており、これはヒトラーの下でドイツの政治情勢が安定化すれば、より英独の外交交渉に進展が期待されるようになるという見通しを表すものです(Taylor, A. J. P. 1983: 73-4)。 現在のわたしたちの立場から考えれば、このような情勢判断はいかにも楽観的すぎるもののように見えますが、第一次世界大戦の記憶が生々しい中で、多...

論文紹介 現代日本の国家戦略としてのバックパス

日本の安全保障に関する研究では、平和主義(pacifism)の規範こそが戦略の形成に強い影響を与えているとしばしば説明されます。 国際政治における国内の社会的観念、規範的意識の影響を重視する構成主義(constructivism)の研究では、日本の「特異性」がこの平和主義の必然的な帰結として理解されてきました。 しかし、研究者の中にはこの見方とは全く異なる観点から説明が可能であることを主張する人もいます。 今回は、日本は平和主義という規範によってその安全保障上の決定を下しているのではなく、バックパスという国家戦略を展開しているのだという議論を展開した研究を紹介したいと思います。 文献紹介 Lind, Jennifer M. 2004. "Pacifism or Passing the Buck? Testing Theories of Japanese Security Policy," International Security , 29(1): 92-121. 著者が問題としているのは、これまでの日本の安全保障戦略を研究してきた人々が、日本の軍事力水準を正しく把握してこなかったことです。 日本の軍事的能力の低さを示すために研究者がよく参照するのは、GDPに対する防衛費の比率でした。先進主要国であればGDPに対する防衛支出の比率はおおよそ1.5%から3%の間ですが、日本はおよそ1%しか防衛予算を確保していないのです(Lind 2004: 95)。 しかし著者は、GDPに対する防衛予算の大きさではその国家の軍事的能力を評価するのに不適切であり、さらに予算規模だけでなく戦力規模からも評価を行うことが必要であると指摘しています。 著者の分析によると、日本の安全保障において軍事的能力は従来から必ずしも軽視されておらず、特に海上戦力と航空戦力に関して見れば、無論米国の水準に遠く及ばないものの、中国、フランス、ドイツ、イギリス、ロシア、イタリア等の主要国に対抗可能な水準ではあるとされています(Lind 2004: 97-101)。 このような根拠から、著者は従来の日本の安全保障上の政策や戦略に関する研究において平和主義が過大に評価されていたのではないか、と疑問を提起しています。 その上で著者は、国際政治における日本...

バックパスとは何か

国際関係論において、バックパス(Buck-Pass)とは「侵略者に対して自らは静観しながら別の大国に阻止させる」国家戦略のことをいいます(Mearsheimer 2001: Ch. 5)。 バランス(均衡)やバンドワゴン(追従)のように、現状維持を企図した大戦略の一種ですが、第三国を巻き込むことで自国の利益を図るところが特徴的な部分と言えます。 バックパスを行う国は自国の代わりに別の国に潜在的な侵略者を阻止させるために、四種類の手段を駆使します。 第一に、侵略者と良好な外交関係を構築する方法があります。一見すると、バンドワゴンと同じようにも見えますが、バンドワゴンと異なるのは第三者の対外行動に影響を及ぼすことが狙いである点です。 1930年代のヨーロッパでドイツの軍事的台頭が危ぶまれた際に、フランスは安全保障上の脅威を感じていたのですが、フランスはドイツとの関係を改善させるようとしていました。 これは潜在的な侵略者であるドイツとの外交関係を改善することで、ドイツの軍事力がフランスに向けられることなく、東側にあるソ連の方向へ指向することを期待していたためです。 第二に、バックパスを行う国は自国の代わりに侵略者と戦う国との外交関係を疎遠に保つ必要もあります。 これは一見すると不可解に思われるかもしれませんが、その最大の理由は侵略者と防衛者の両方に対して中立的な立場をとらなければ戦争それ自体に巻き込まれる危険があるためです。 自国に対する脅威を別の国に肩代わりさせながら、自国は何の犠牲を払うこともないことが転嫁においては重要です。 第三に、バックパスを行う場合には自国の余剰の資源を動員する方法も考えられます。 一般にバックパスは直接的な連合作戦への参加を回避することを意図していますが、それゆえ攻撃の対象とならないように、自衛のための防衛力を保有している必要が出てきます。 その意味において、転嫁という大戦略においても抑止という軍事戦略の基礎が不可欠と言えます。 第四に、バックパスを行う国は自国の代わりに戦う大国の成長を助けることも求められます。 侵略者と戦うことが可能なだけの能力を付与する必要があるため、バックパスのような戦略を遂行するためには相応の援助を行うことが欠かせません。 以上がバックパスに必要な処置となりますが、成...