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事例研究 戦争より革命を恐れたヴィルヘルム二世

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世(1915年頃) German emperor Wilhelm II, United States Library of Congress's Prints and Photographs division かつてドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム二世(Wilhelm II, 1859 - 1941)は、第一次世界大戦を自ら進んで引き起こした張本人かのように評価されていました。 しかし、こうした単純化された見方は、その後の研究で修正されています。 ヴィルヘルム二世はドイツ国内を安定化できるまでは、ドイツとして戦争を避けるべきだと認識していたことも、そうした研究の過程で明らかにされています。 今回は、第一次世界大戦直前のドイツの国防体制に関するホルガー・ハーウィックの分析を参照し、当時のヴィルヘルム二世の政策が対外戦争の回避を目指していたことを考察したいと思います。 軍制改革を拒否していたユンカー 1888年、初めて帝国議会の開会を宣言するヴィルヘルム二世、即位当初は従来の社会主義者を弾圧する政策の見直しを進めたが、後にこれを弾圧する姿勢に戻しており、ユンカーの支持を受けて政権運営に当たった Anton von Werner (25. Juni 1888) 20世紀初頭のドイツ帝国において、国防政策の決定に影響力を行使できる人物は極めて限られていました。 ハーウィックの研究が指摘しているように、当時のドイツにはイギリスの帝国防衛委員会やフランスの戦争最高会議のような組織が欠如しており(ハーウィック、487頁)、国防政策の重要案件は皇帝個人が決裁を下し、陸軍省、軍事内局、参謀本部、海軍局、軍令部、帝国宰相はその意向に沿って政策を実施していたに過ぎません(同上)。 こうした状況に対して帝国議会が行使できる権限はほとんどなく、5年または7年ごとの予算の承認・不承認によって影響力は行使するに止まっていました。 それだけヴィルヘルム二世が主体となって政策を決定する程度は大きかったということが言えます。 しかし、ヴィルヘルム二世は国防政策に専念できたわけではなく、自らの政治的な支持基盤となってくれる人々を組織化し、不満分子や政敵を抑圧するという政治家の仕事にも取り組まなければなりませんでした...

事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争

1905年からイギリスはドイツを公式に脅威として判断し、戦略の研究に着手した ある戦略上の目標を達成するために陸軍と海軍を連携させようとすると、どうしても統合作戦の準備を整えておく必要が生じてきます。 ただし、それは制度の整備だけではなく、運用といった面での準備ということも意味しています。 今回は、1905年から対ドイツ戦略の一環としてイギリス陸海軍で研究されていた統合戦略の構想が行き詰まり、結局は陸海軍の間で明確な合意に達することができなくなった経緯について考察したいと思います。 20世紀初頭の世界情勢 1902年に帝国防衛委員会を設立した首相アーサー・バルフォア イギリスで戦略問題を議論する帝国防衛委員会が設置された1904年は、東アジアで日露戦争が勃発した年に当たります。 この戦争に先立ってイギリスは近代化を推進していた日本と同盟を結ぶことにより、東アジア地域におけるロシアの南下に対して有効なバランシングを行うことができました(グーチ、563頁)。 こうしてアジアにおけるロシアの脅威が後退したため、イギリスは1905年からヨーロッパにおけるドイツの脅威に対する戦略を本格的に検討し始めます(同上、556頁)。 厳密にいえば、ドイツを仮想敵国であると判断した時期はイギリス海軍が1900年、イギリス陸軍は1902年のことでした(同上、563頁)。 両者はドイツの脅威についてある程度の共通認識を持っていましたが、具体的な戦略の策定段階において合意に達することができるような議論がなかなかできず、調整は難航します。 実はイギリス陸海軍は19世紀からそれぞれ関係を持たず、戦略思想の統一も皆無に近い状態が続いていました。 イギリス陸軍のチャールズ・キャルウェル少佐はそうした伝統的思想に挑戦し、日清戦争、米西戦争、日露戦争の研究成果に基づいて、海上作戦と陸上作戦を一つの戦略の下に指導することが重要だと主張しています(同上、564頁)。 このキャルウェルの統合作戦の思想は、1905年にイギリスがドイツの脅威を公式に認めるようになって以降注目されることになり、その後の帝国防衛委員会でも陸海軍の共通の構想を模索する機運が高まるきっかけとなりました。 研究段階で行き詰まった統合作戦の構想 20世紀初頭当時のシュレスヴィ...

事例研究 第一次世界大戦のドイツを苦しめた食料問題

「腹が減っては戦はできない」という言葉はよく知られています。 つまり、広大な領土を持ち、世界に誇る工業力、軍事力を備えた国家であっても、ひとたび食糧難に直面すれば、敗北してしまうという意味です。 ドイツ人はこのことは第一次世界大戦で身をもって知ることになりました。 今回は、『総力戦』の著者であるドイツ陸軍軍人エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff, 1865-1937)が、戦時中の食糧難の問題についてどのように考察していたのかを紹介してみたいと思います。 食料確保が戦略の目標となる 第一次世界大戦が勃発した1914年当時、ルーデンドルフは西部戦線で第2師団を指揮していましたが、東部戦線で功績を上げた後で1916年に参謀次長(後に第一兵站総監に改称)に就任しており、ドイツ軍の戦略に直接責任を負っていた人物です。 戦後に出された『総力戦』はそうした経験が反映されており、兵力の展開、移動、集中といった古典的な戦略問題も考慮されているのですが、特に興味深いのは戦時経済に関する考察です。 それを読むと、食料問題についてルーデンドルフが大きな関心を払いながら戦争を指導していたことが分かります。 「ドイツで、人への食料と、家畜への飼料の供給が世界大戦中にどれほど深刻なまでの展開していったのかは、世界大戦を意識的に体験した世代にとっては記憶にまだ新しいであろう。少なくとも人間用の食料と可能であれば飼料についても必要量を確保しようとする努力を正しく評価するために、このことは記憶にできる限りしっかりとどめておかなければならない」(邦訳、ルーデンドルフ、64頁) 食糧難が具体的にどのような影響をもたらしのかを説明するために、ルーデンドルフはルーマニアとウクライナでのドイツ軍の作戦について次のように書き記しています。 「例えば、後者(飼料のことを指す)の不足がどれほど深刻なものであったかは、私が東部で少なくとも胃袋を満たすことができるように馬用の資料におがくずを混ぜなければならなかったことから理解できる。その際に、馬の体力と健康が低下したことは、その深刻な帰結であった。ルーマニアが我々へ宣戦布告した後、対ルーマニア戦をワラキアの獲得まで継続するという私の決意は、同盟国の困難な食糧供給に関す...

論文紹介 軍事的虚構としての「フーチェル戦術」

第一次世界大戦、西部戦線に配備されたドイツ軍部隊の突撃隊。 第一次世界大戦の歴史で興味深いのは、極めて短期間の内に数々の新戦術が編み出され、戦争の様相が大きく変化したことでしょう。戦車、機関銃、航空機などが開発されると、それを運用する戦術が考案され、次に敵がそれに対抗する武器や戦術を考案し、その相互作用で戦術が飛躍的に発達したのです。 今回は、浸透という攻撃方法を体系化し、教義として確立したと考えられているドイツ陸軍軍人オスカー・フォン・フーチェル(Oskar Emil von Hutier)の歴史的影響について批判的な立場から考察した論文を紹介したいと思います。 論文情報 Alfoldi, Laszlo M. 1976. "The Hutier Legend," Parameters, Journal of the US Army War College , 5(2): 69-74. マスメディアで劇的に取り上げられた「フーチェル戦術」 オスカー・フォン・フーチェル(1857-1934) 1918年の春季攻勢で第十八軍司令として目覚ましい戦果を上げたことで知られている。 長い戦争も終盤に入りつつあった1918年、ドイツ軍は西部戦線に展開するイギリス軍、フランス軍を早期に打倒し、米軍が来援する前にドイツに有利な条件で講和に持ち込む必要がありました。 この政治的目的を達成するため、エーリッヒ・ルーデンドルフは1918年3月21日に開始された春季攻勢を実行に移しました。 春季攻勢は西部戦線の状況を一変させるものでした。ドイツ軍とイギリス・フランス連合軍の間で塹壕、鉄条網、機関銃により保たれていた膠着状態が消滅したためです。 当時の春季攻勢に参加したドイツの第二軍、第十七軍、第十八軍は100キロメートルの攻撃正面で前進に成功し、もはや堅固な防御陣地を構築したとしても、相手の突撃を防ぐことができるとは限らないことが明らかになりました(Alfoldi 1976: 69)。 当時、ドイツ軍でも特に驚くべき戦果を上げているのはフーチェルが指揮した第十八軍でした。 初日に10キロメートルの前進を達成しただけでなく、2日目には12キロメートル、3日目には8キロメートル、4日目に再び8キロメートルも前進しました(I...

事例研究 アルゴンヌの戦い、ホイットルセーの死闘

第一次世界大戦に参戦した米国の欧州派遣軍の兵士たち。 戦争で指揮官が立派に任務を遂行した功績は、時として美談として語られることも少なくありませんが、そのことがかえって軍事上の教訓を分かりにくくすることもあります。 第一次世界大戦で名誉勲章を授与された米陸軍のホイットルセーの功績もこれに含まれると思います。彼はアルゴンヌの戦いでドイツ軍に完全包囲される中、粘り強く戦い抜いたことが高く評価されましたが、師団の立場で見れば重大な戦力運用上の過失が見られました。 今回は、アルゴンヌの戦いを紹介し、この事例からどのような軍事的教訓を読み取ることができるのかを考察してみたいと思います。 ムーズ・アルゴンヌ攻勢の概要 ムース・アルゴンヌ攻勢(1918年9月-11月)。 フランスとベルギーの国境付近の地域で実施され、 赤線が独軍の主抵抗線を表す。 地図で見ると米軍部隊の左翼が南方から北進し、ドイツ軍を後退させていることが分かる。 1914年に勃発した第一次世界大戦はすでに四年目に入り、ドイツ軍の戦闘力は限界に達しつつありました。1918年、米国は部隊を西部戦線に配置し、ドイツ軍に対する数的優勢を確保しながら戦うことができるようになりました。 この機会を利用するため、米軍は大規模な攻勢作戦を計画します。この攻勢はムーズ・アルゴンヌ攻勢と呼ばれています。 9月から実施されたムーズ・アルゴンヌ攻勢は、第一次世界大戦の最終局面を形成する重要な作戦でした。この攻勢作戦において特に主攻の目標とされたのは、交通の要所であるセダン(Sedan)でしたが、単にセダンを奪取するだけでなく、ドイツ軍に決定的な打撃を加え、戦争を早期に終結へと導くことが戦略的に意図されていました。 ムーズ・アルゴンヌ攻勢におけるアルゴンヌの戦闘 ホイットルセー(Charles W. Whittlesey)少佐。 ハーバード大学法科大学院修了、米国が参戦を決定した1917年に陸軍入隊。 アルゴンヌの戦闘を指揮した功績で名誉勲章が授与されている。 1918年10月2日、セダンを目標とする攻勢作戦に参加していた米軍の第七十七歩兵師団では、アルゴンヌの森の北端部を占領するドイツ軍の防御陣地に対して攻撃が実施されることになりました。 この攻撃に使用された部隊の一つにホイッ...