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事例研究 イタリア戦争とフランスの限界

同盟は二カ国以上の国家がその軍事的能力を結合させ、侵略においては相手を包囲し、防衛においては相手を抑止することができます。 したがって、対外政策の手段としての同盟と軍備を切り離して考えることはできません。同盟を締結したとしても、結局のところ国際政治において相手に具体的な強制力を発揮するには軍備が必要です。 今回は、16世紀のヨーロッパ情勢におけるフランスの対スペイン政策を取り上げて、同盟と軍備の関係について説明したいと思います。 16世紀のヨーロッパ情勢を見ると、ハプスブルク家が見せた勢力はヨーロッパ全域に及んでいました。 15世紀後半から16世前半にかけてハプスブルク家は西端のジブラルタルから東端のハンガリーに至る広大な領土を政略結婚や領土相続によって獲得していました。 しかし、このようにハプスブルク家がヨーロッパで台頭することにフランスは強い危機感を抱いていました。 当時のフランス王国を統治していたフランソワ一世は、1519年にカール五世が神聖ローマ皇帝に即位してヨーロッパの広大な地域を支配し始めると、フランスはその勢力を抑制するために、さまざまな外交的、軍事的な措置を講じ始めます。 スペインとフランスが最初に衝突したのはちょうどルネサンスが花開いていたイタリアでした。 当時、フランスとスペインは北イタリアの都市ミラノ、ナポリの正統な支配権をめぐって対立していましたが、フランスはスペインに対して勝算があると判断し、軍隊を派遣して占領します。 しかし、スペインは間もなくイタリアの防衛のための軍隊を派遣し、テルシオとして知られる新たな方陣を導入することで戦術的優位を確保し、フランス軍に対して戦略的反攻に転じます。 スペイン軍の攻勢を受けて最終的にフランス軍は1525年のパヴィアの戦いで大敗し、陣頭指揮をしていたフランソワ一世は捕虜として捕らえられます。 その後、フランスは一時は軍隊を引き揚げますが、およそ3年後には再編成した軍勢をイタリアに派遣し続けたため、戦争は長期化していきました。 それでもフランスはスペインと軍事的に対決しても勝ち目がないと当初の判断を改めるようになります。 16世紀のスペインとフランスがどの程度の軍事力を保有していたかを正確に知ることはできませんが、ある研究によれば1470年代におけるスペイン軍の規模...

戦術研究 ニーウポールト会戦

ニーウポールト会戦(1600年7月2日) 戦闘の背景について 16世紀のオランダはヨーロッパで最も経済的に繁栄していた地域の一つでしたが、スペインの国王フェリペ二世の統治に対する政治的反発が日に日に増していました。オランダの南部諸州ではカトリックが依然として信じられていましたが、北部諸州でプロテスタントが増加していました。そのため、カトリックを擁護するフェリペ二世は、北部諸州におけるプロテスタントの勢力に対する締め付けを強化し、これに反発する形でオランダが独立戦争を引き起こしたのです。 1600年7月1日、オランダ軍はフランドル地方の一都市を攻囲していたスペイン軍の部隊を撃退し、さらに次のスペイン軍の攻撃目標と見られていたニーウポールトに向けて前進を開始します。 しかし、この時点でスペイン軍はすでに前進を開始していました。オランダ軍は予想と異なるニーウポールト付近の地点でオランダ軍とスペイン軍が対峙するに至りました。 当時、オランダ政府がスペインの支配下にあったフランドル地方を占領するために、オランダ軍を進攻させていたため、戦略的にはオランダ軍が攻勢、スペイン軍が防勢の立場であったと言えます。 オランダ軍の指揮をとるのは軍制改革の推進者として知られるマウリッツ・ファン・ナッサウであり、これに対抗するのはイギリスとの戦争でもその軍功が知られていたスペイン領ネーデルラント総督のアルブレヒト七世でした。 テルシオと呼ばれる方陣を組んだ時に発揮されるスペイン軍の歩兵部隊の粘り強さをマウリッツはよく心得ていました。何か手立てを打たなければ、強固な敵の陣形を崩す前に、味方が疲弊してしまいかねません。 そのため、マウリッツは砲兵の火力を有効に活用する必要がありました。とはいえ、当時の砲兵は射程が短く、精度も悪いため、敵と味方がある程度接近した後でなければ有効な射撃は期待できません。 そのため、マウリッツが注意すべきことは、敵の動きをよく把握し、味方の砲兵の火力を発揮しやすい状況を作り出すことにあったと言えます。 戦場の特性、戦力の規模、戦闘の経過 季節は夏、日差しが照り付けますが、暑さはそれほどではありません。 戦場は海岸付近の地域であり、その日は午前中に潮汐の変化が生じることが予測されました。内陸方面には起伏を伴う砂丘であったので、両軍が部隊...

オランダの独立を可能にした軍事革命

1574年、八十年戦争でのライデン攻囲戦を描いた絵画。 このスペインの攻囲に耐え抜いたライデンにライデン大学が設置される。 Otto van Veen(1574 - 1629)作 今回は、国家が存亡の危機に直面した時、研究者ができることが何なのかを私自身考えさせられたオランダの軍事革命の歴史を紹介したいと思います。 この話は1568年にスペインに対してオランダが独立を求めて武装蜂起したことにまでさかのぼります。この反乱は後に八十年戦争と呼ばれることになり、休戦を挟みながらも1648年まで続きました。 開戦当初、オランダ軍はスペイン軍に対して劣勢な状況だったのですが、その最大の理由は当時のオランダ軍にはスペイン軍の優れた戦術に対抗する手段がなかったためでした。 当時、スペイン軍はテルシオと呼ばれる野戦方陣に基づく戦術を完成させていました。 テルシオというのは槍兵を中央に配置し、正面にアルケブス小銃を持つ小銃手、そしてそれ以外の側面をマスケット小銃を装備する小銃手を配置した横陣の戦闘陣形だと考えて下さい。 一つのテルシオはおよそ200名の中隊規模で構成され、特に防御戦闘で有効な縦深が十分確保されているため、オランダ軍が白兵戦闘でテルシオを敗走させることは至難のことでした。 戦局が好転しない中で1588年、オランダの最高指導者の地位についたマウリッツは、スペイン軍の戦術を打破するためには、陸軍を改革する必要があると判断します。そして、その改革の方針を定めるに当たって研究プロジェクトを立ち上げることを決定しました。 マウリッツは研究プロジェクトを立ち上げるに当たって、国内の大学から文理両方の研究者を招集し、スペイン軍の戦術に対抗する方法を解明するように求めました。 この研究プロジェクトの方向性に当初から大きな影響を及ぼした研究者がリプシウス(Justus Lipsius)という政治哲学者でした。 リプシウスは政治学を専門とするライデン大学の教授でしたが、古代ローマの軍事思想に関する知識がありました。 そこでスペイン軍の戦術を研究するに当たっては、古典時代以降の軍事思想を再検討する必要があると判断し、ウェゲティウスなどの文献に関する調査を行っています。 さらに、当時まだ普及から間もない小銃や火砲の研究も並行して進められ、研究者たちは...