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クラウゼヴィッツの兵站学

戦場において危険と苦痛に立ち向かうことは、兵士として最も優れた美徳と言えるでしょうが、それは各人の空腹が満たされている場合にのみ発揮することができると言っても過言ではありません。 食料を欠かさず部隊に提供することができなければ、どれだけ多数の兵士がおり、どれだけ高価な武器が配備されていたとしても、戦争を遂行することは不可能です。 今回は、クラウゼヴィッツの著作で兵站学の観点から補給、特に兵士の食糧を給養する問題に関する考察を紹介したいと思います。 「軍の給養は、近代の戦争においては往時に比して遥かに重要な事項になった。しかもそれは二件の理由による。第一は、一般に近代の軍は、兵数において中世の軍はもとより古代の軍に比してすら著しく巨大になったということである。(中略)第二の理由は、これよりも遥かに重要でありまた近代に特有のものである、即ち近代の戦争における軍事的行動は、以前に比して遥かに緊密な内的連関を保ち、また戦争の遂行に当たる戦闘力は不断に戦闘の準備を整えているということである」(中216) 近代戦争において敵と継続的に対抗し続けるために、独立した補給体系が確立されたことは、クラウゼヴィッツにとって必然的なことだと考えられていました。 特に、フランス革命が勃発して以降の戦争で実施された兵站の方式を見てみると、フランス軍の将軍たちは軍隊の補給の一切を徴発、奪取、略奪に頼るようになっており、これが戦争を遂行する新方式になったと述べられています(中221)。 さらに詳細に当時の兵站を調べると、このような現地での物資の調達にも四種類の異なる手法が組み合わせて用いられていたことが説明されています。 ・舎営する市町村による給養 これは人口稠密地において貯蔵されている食料を軍隊に提供させる方法であり、一般に都市部よりも農村部において調達が容易であると述べられています。 クラウゼヴィッツが述べているところによると、1平方マイル当たり2000名から3000名の人口を有する地方であれば、150,000名の軍隊は1日から2日は食料の補給に支障を来すことはありません(中224)。 ・軍隊自身の徴発による給養 ここで考慮されているのは10,000名程度の師団の補給であり、それ以上の規模の部隊の給養であれば、このような方式は有効ではないとされています。と...

カルドーの「新しい戦争」とその批判

クラウゼヴィッツによる最も重要な発見の一つは、時代や地域の特性といった、社会の文脈によって戦争の形態が変化することを、法則的な事象として認めて分析を加えたことでした。 それ以来、戦争はそれ自体で独立した活動なのではなく、絶えず社会との関連を持った活動として考えられています。 このクラウゼヴィッツの着想を現代の文脈で発展させる過程で、「新しい戦争」と呼ばれる議論が注目を集めてきました。 この議論の発端はカルドーの著作『新しい戦争』(1999年)です。 この著作でカルドーは冷戦が終結してから戦争の形態が根本的に変化したことを主張し、大きな論争を引き起こすことになりました。 その著作によれば、新しい戦争とはグローバリゼーションの文脈から生まれたものであり、特徴として次のような点が指摘されています(Kaldor 2013: 2)。 ・(行為主体)戦争の担い手が国家主体ではなく非国家主体であること ・(目的)戦争の目的が地政学的な権益やイデオロギーなどの政治的目的ではなく、宗教的、文化的なものであること ・(手段)戦闘が主要な交戦手段ではなく、民族虐殺や市民へのテロ活動といった暴力が重要な手段であること ・(財政)戦争の経済的要素を支えているのが通常の国家の財政ではなく地球規模に展開する金融のネットワークであること こうした「新しい戦争」はもはやクラウゼヴィッツの理論では説明することができないというのがカルドーの判断でした。 なぜなら、クラウゼヴィッツの理論は近代的な国家が成立することを前提としているためであるというのがその理由でした。 しかし、この議論は非常に幅広い層の研究者から批判を集めることになります。 そもそもカルドーは十分にクラウゼヴィッツを研究していたわけではなく、また戦争の歴史に関する知識が不足していたことがその主な原因と考えられます。 カルドーに対する批判的見解をカルドー自身がまとめた論文が2013年に発表され、そこで「新しい戦争」としてカルドーが特徴づけた戦争の形態は記述として不確かなものであることが認められました。 カルドーの整理に従って、批判を整理すると三つの議論にまとめることができます。 第一の批判としてカルドーが定義した「新しい戦争」の多くの特徴が過去の戦争に見出すことができるというものでした。...

戦争は政治とは異なる手段で行う政治の継続に他ならない

安全保障学で特に難しい研究の一つは政策と戦略の両方にまたがる意思決定を分析するものです。 政策と戦略はそれぞれ異なる領域のものなので、別個の原理原則で動いています。 しかし、両者の交差する領域ではこの別箇の領域を総合して判断することが必要となるので、ここで理論的に見た場合においても、また現場においても混乱が生じやすいのです。 数あるクラウゼヴィッツの命題の中でも、恐らく最も知られている命題がこの戦争と政治の関係を述べた命題であり、著作『戦争論』の中でも最も重要な議論を占めている箇所です。 「そこで戦争は政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり、彼我両国の政治的交渉の継続であり、政治における手段とは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。  そうしてみると、戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争において用いられる手段に固有の性質に関連するものだけである。  ところで、こうした場合に戦争術が一般に求めることができること、そしてここの場合に将軍が要求しても差し支えないことがある。  それは政治の方針と意図がこれらの手段と矛盾しないということである。と言ってみても、この要求は実際には決して些細な事柄ではない。  しかし、こうした要求が政治的意図にどの程度強く反映されるとしても、そのようなものが逐一政治的意図を変更することができるなどと考えてはならない。  政治的意図が常に目的であり、戦争はその手段に過ぎないためである。そして、手段が目的なくして考えられないことは言うまでもないことである」『戦争論』第1章、第25節より ここで述べられている「政治」というのは、テクストの前後の文脈から「対外政策」の意味で用いられていることが分かります。 つまり、戦争とは対外政策の道具であり、その手段としての戦争は政策の目的において従属しているということが主張されています。 ここで特に興味深い議論なのは、「こうした場合に戦争術が一般に求めることができること、そしてここの場合に将軍が要求しても差し支えないことがある」という部分です。 クラウゼヴィッツはそれに続けて「政治の方針と意図がこれら(軍事的)手段と矛盾しないということである」、そして「そのようなものが逐一政治的意図を...