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事例研究 シチリア遠征の失敗から学べること

ソクラテス(右)とアルキビアデス(左)の関係を描いた絵。 アルキビアデスはソクラテスの下で哲学を学び、ペロポネソス戦争当時はアテナイで最も有力な政治家の一人だったが、国内に政敵も多く、シラクサ遠征の最中にスパルタに亡命することになった。 Jean-Léon Gérôme作 「兵も船も、ことごく失われ、さしもの大軍も故国に帰り着いたものは、数えるほどしかいなかった」 歴史家トゥキディデスがこのように書き記すほど、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)におけるアテナイ軍のシチリア遠征作戦は凄惨な戦いとなりました。 そもそも戦争が勃発した当時のアテナイ指導者だったペリクレスは、敵国スパルタが保有する優勢な陸軍の侵攻を正面から食い止めることは危険と判断し、アテナイ軍として地上で防勢作戦を展開しつつ、優勢なアテナイ海軍をもってスパルタの同盟国に洋上から攻撃を加え、時間をかけて消耗させるという戦略を策定していました。 しかし、長期にわたる籠城でアテナイ市街に疫病が発生すると、それでペリクレスは命を落としてしまい、また想定以上にスパルタとの戦争が長期化したことで、アテナイ市民の間で不満が高まっていました。 このシチリア遠征はアテナイにとって戦況を一変させる一手としてアルキビアデスの主導の下に実施されましたが、結果的にアテナイ軍は多くの兵士を失い、アテナイがペロポネソス戦争に敗北する要因ともなってしまったのです。なぜ、このような事態になってしまったのかを理解するためには、当時の政策過程と作戦指導の関係を知らなければなりません。 アテナイの政治システムとシチリア遠征問題 アテナイの中心部に位置するプニュクスという丘は民会における論壇。 ペロポネソス戦争当時では民衆扇動を行う政治家が複数現れ、それが政策決定を難しくしていたとされている。 当時のアテナイの政治システムは民主制でした。議会に当たる民会では複数の市民が各党各派に分かれており、戦争に関する重要な問題については議論した上で多数決により決定を下していました。 ペリクレスの死後、アテナイの民会で影響力を拡大していた市民は複数いましたが、いずれも市民を扇動して政治力を拡大しようとする傾向があり、歴史家からは扇動政治家(デマゴーゴスdemagogos)と呼ばれていました。その中でも特...

プラトンは戦争の原因をいかに説明しているのか

世界で最も有名な哲学者であるプラトン(前427年-前347年)は哲学者(知を愛する者)こそが権力者とならなければ、国家は不正から逃れることができないと論じたことで知られています。 当時、プラトンがいた都市国家アテナイの政治体制は民主制でしたが、プラトンは民主制が個々人の私益のために暴走する傾向を持ち、また矛盾と混乱に満ちているとして批判的立場をとっていました。それゆえ、国家を適切に指導する能力を持つ哲学者でなければ権力を掌握するべきではないと考えていたのです。 このようなプラトンの政治哲学はよく知られていますが、今回はプラトンの政治哲学を踏まえた上で、彼が戦争の原因をいかに説明していたのかを紹介してみたいと思います。 アテナイの政治情勢と哲人政治の必要性 当時のアテナイでは民会と呼ばれる市民集会の議決によって政策が策定されていました。民会に出席する議員はアテナイ人を両親に持つ30歳以上の成人男性でなければならず、自由市民としての身分を持ち、また有事においては兵士として従軍する義務を負わなければなりませんでした。 したがって、常備軍は編成されておらず、官僚制に関しても市民がくじ引きで任期ごとに分担しているという状態でした。 言い換えれば、当時のアテナイ市民は兼業として政務に従事しており、政治権力に対するアクセスが容易でした。このことが市民同士の権力闘争を加速させており、プラトンは強い問題意識を持っていたのです。 権力闘争によって国家の結束が損なわれる危険性を除去し、人々が財産や名誉等の短期的な利益ではなく、知恵や謙虚さ、公正さといった重要な美徳に沿って善い人生を送るためには、哲学者(つまり徳の重要性を理解している知識人)が国王の地位に就き、その合理的な判断の下に人々の思想と行動を統制することが重要である、とプラトンは考えました。 しかし、王と言ってもその哲学者は世襲制であってはならないとプラトンは主張しています。 その結果、プラトンの政治哲学では、男女分け隔てなく、あくまでも実力主義に基づいて国民を知的能力に優れた最適者、戦闘能力に優れた守護者、そしてその他の民衆に区分する国家の理想的モデルが提案されています。 現代の研究では、このようなプラトンの政治思想を民主主義の批判に基づく全体主義の擁護として解釈する見方もありますが、その...

文献紹介 クセノフォンの騎兵戦術

古来より軍隊はさまざまな種類の部隊で組織されてきましたが、特に騎兵は近世までの戦場で重要な役割を果たしてきました。 騎兵の戦術について考察することが、直ちに現代の戦術に役立つわけではないのですが、戦術の基本原則の妥当性を検討する上で有意義な部分も少なくなく、歴史的関心から見ても興味深いテーマだと思われます。 今回は、こうした観点から、 クセノフォン の著作から古代の騎兵戦術に関する考察を紹介したいと思います。 文献情報 クセノポーン『騎兵隊長・馬術』田中秀央、吉田一次訳、生活社、1944年 このような騎兵戦術に関する考察がクセノフォンによってまとめられた背景には、紀元前365年にアテナイとテーバイの戦争が予期されるに至ったことが関係しています。 アテナイ軍で騎兵隊長の地位にあったクセノフォンであり、騎兵に対して強い研究心を持っていました。また、研究者によるとこの著作の執筆した時に2人の息子を兵役のためにアテナイに送り出した時期とも重なっているそうで、騎兵に関する研究成果をまとめて次世代に継承する必要を感じていたのかもしれません。 現代の観点からクセノフォンが考える戦術の特徴を考察すると、欺瞞の重要性が繰り返し強調されている点に気が付きます。 これは戦場における騎兵部隊の特性から、敵に物理的打撃を加える前に心理的衝撃を与えること、つまり奇襲を成功させることが戦果を上げるために重要であったことを反映したものと考えられます。 もちろん、クセノフォンは戦場における騎兵の戦術だけを議論したわけではなく、その管理の問題についても言及しており、特に古代アテナイで騎兵部隊がどのように運営されていたのかについて記してもいます。 クセノフォンはまずアテナイの法令に基づく定数1,000名の騎兵部隊を維持するためには、適切に新兵を配属するだけでなく、軍務に適格な軍馬を選抜することも重要であると述べています。 (旧字体の箇所など原文に手を加えて引用している箇所があります) 「騎兵隊の人員を満たすと同時に、馬が激務に耐え得るよう十分な糧秣を与えることに注意せねばならない。激務に耐え得ぬ馬は追いかけることも、逃げることもできないからである。従順ならざる馬は味方を益するよりは敵を助けることの方が多いから、馬を従順ならしめることが肝要である。乗馬する時蹴...