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2018年8月15日水曜日

学説紹介 東アジアとヒトラーの外交―見捨てられる中国、利用される日本―

日本がドイツと同盟を結ぶのは、日中戦争が続いていた1940年のことですが、ドイツこの戦争が始まる前から中国を支援してきた歴史があります。つまり、ドイツは東アジアにおけるパートナーを中国から日本に切り替えたのです。ここで疑問となるのは、なぜドイツは東アジアの外交において中国から日本に重点を移したのか、ということでしょう。

今回は、中国大陸において日独関係がどのように展開していたのかを考察した研究の成果を紹介してみたいと思います。

バーター貿易で結び付いていたドイツと中国

1928年に撮影されたドイツの工場を視察する中国の外交官の蒋作賓(中央男性)。彼はドイツ・オーストリア公使として派遣され、ドイツと中国の関係を強化することに尽力したが、特に経済的連携が両国にとって重要だった。
ドイツの東アジア政策を動機づけていたのは、まず経済的困窮への対応でした。第一次世界大戦終結後、ドイツでは各地で食料が不足しており、しかも外国との取引を決済するための外貨を持っていないという状況でした。そこでドイツは戦時中に拡大した工場設備を利用して工業品を大量に輸出し、その見返りとして農産品を輸入するバーター貿易を拡大しようとしました。

この時のバーター貿易で主要な取引相手だったのが中国でした。当時の中国は工業化に必要なドイツの工業製品を必要としており、その見返りとして工業原料や食料をドイツに輸出しました(周恵民、150頁)。1933年に発足したヒトラー政権も、こうしたドイツの対中貿易の重要性をよく認識しており、外交的にも中国の立場を尊重していました。

すでに日本が満州事変(1931年)で中国の東北部に進出した後でしたが、ヒトラー政権の外務大臣ノイラート(von Neurath)は、東京に赴任した外交官に対して満州国への訪問要請を断るように指示を出しています(同上、151頁)。

ドイツは日本と同じく1933年に国際連盟を脱退しますが、その後もドイツの外務省では中国との関係を損ねる可能性があったため、満州国を承認しようとはしませんでした(同上)。これらはいずれもドイツとして対日外交よりも対中外交を重視していたことの現れでした。

満州国に関してヒトラーは、1934年の時点で「我が国は、経済的な利点が保証されれば満州国を承認する用意がある」と述べるに留めており、日本の外交的主張からは距離を置き、その間にも大量の軍需物資を中国に提供していたのです(同上)。

英独関係の行き詰まりと対日外交の転換

1938年4月撮影、外務大臣に就任する前からリッベントロップは非公式の外交組織であるリッベントロップ機関を率い、ヒトラーの指示の下でドイツ外務省の意向に背く形で対日政策を推進した。
ドイツの対中政策が変化の兆しを見せるのは、英独関係が行き詰まってからのことでした。もともとヒトラーはドイツの勢力を東方で拡大するため、イギリスとの関係を重視していました。ヒトラーはリッベントロップ(von Ribbentrop)をイギリスに派遣し、同盟締結の可能性を模索したこともありましたが、イギリスはドイツの提案を拒みました(同上、153頁)。

こうした経緯もあり、ヒトラーは自らの政策を見直す必要に迫られます。そして、ヒトラー政権は東アジア正面でイギリスに軍事的圧力をかけることを通じて、ヨーロッパ正面におけるイギリスに対抗するという遠大な政策を構想するようになり、中国と戦っていた日本が海上兵力を保有していることに着目しました(同上)。

1936年、リッベントロップは日本との交渉を重ね、11月に共産主義の脅威に対抗することを目的とする日独防共協定の調印にこぎつけました(同上)。表面的には共産主義に対抗するための同盟でしたが、これは日本をドイツの対イギリス外交で利用するための重要な一歩でもありました。

このようなドイツの政策は、それまで築き上げてきた対中関係を損なう可能性があったため、ノイラートをはじめとするドイツ外務省の幹部は望ましくないと考えていたようです。1937年に盧溝橋事件が発生し、日中戦争が本格化すると、ドイツの外務省では対日政策を見直し、中国を積極的に援助すべきだという主張が台頭してきました。このことについて著者は次のように述べています。
「外務省幹部ヴァイツゼッカーは7月28日、この点を次のように述べていた。「日本は中国での行動を共産主義に対する闘争であると主張し、防共協定で正当化しようとしているが、これは邪道である。(中略)我が国の考えでは、日本の行動はむしろ防共協定に反すると見なすことができる。なぜならそれは中国の統一を阻害し、中国における共産主義の拡大を促進し、最終的には中国をソ連の懐に追いやるからである」(同上、154頁)
ここで指摘されている通り、この時期の中国はドイツが対ソ政策を展開する上で重要なパートナーだと考えられていました。ドイツは中国に軍事顧問団を派遣し、武器を提供しており、日本はそうしたドイツの対中政策に公式の抗議を行っていたほどです(同上)。こうした情勢から、ヒトラー政権は東アジアにおいて日本と中国のどちらをパートナーとして重視すべきか、天秤にかける必要に迫られることになりました。

ノイラート罷免後の日独の急速な接近

1939年撮影、ノイラートはドイツ外務省の対中関係を引き続き重視する姿勢をとったため、対日政策を推進したいヒトラーやリッベントロップの路線とは対立した。
1937年の末に日本軍は中国の首都だった南京を攻略、占領しましたが、日中戦争が終結する見通しは立っていませんでした。この頃になってヒトラーは外務大臣ノイラートを罷免することを決心し、それまで対日交渉を推進してきたリッベントロップをその後任に据える人事を発令しました(同上、154-5頁)。

このヒトラーの決定は、ドイツとして対中政策に見切りをつけ、対日政策に力を入れることを後押しする姿勢を内外に示す意味がありました。著者は次のように指摘しています。
「当時ドイツ外交は相当な混乱状態にあり、さまざまな政策が構想されていた。一方ではリッベントロップやディクセンを含む一部の外交官がヒトラーの考えに追随していた。彼らはイギリスを主要な敵と見なし、外交政策はこの原則に基づいて決定されるべきであると考えた。しかしドイツは当時まだイギリスと雌雄を決する実力に欠けていたので、やむを得ずイギリスを相手に交渉しなければならなかった。彼らは、イギリスに対抗するという目標に到達するため、ドイツはイタリアおよび日本と強固な同盟を建設しなければならないと考えた」(同上、155-6頁)
しかし、ドイツ外務省の中堅幹部を中心に、対中関係を重視する意見は根強く残っていました。つまり、ヒトラーはこうした外務省内部の反対を押し切る形で、対日政策を転換するため、リッベントロップを外務大臣に据えることが政治的理由から必要だったと理解することもできます。

翌1938年5月に入り、ドイツは満州国を国家承認し、外交的立場を日本と同じくすることを決めました(同上、156頁)。その2カ月後の7月には、中国から軍事顧問団を撤収させることで、ドイツは中国から日本へと東アジア正面のパートナーを切り替えていったのです(同上、162頁)。

むすびにかえて

ドイツは戦後の復興期において中国との貿易で大きな経済的利益を得ていました。しかし、ドイツがヨーロッパでイギリスに対抗する必要を感じたところから状況は変化し、そのことがドイツと日本を結び付けることに繋がっていったと考えられます。

戦間期でのヒトラーの外交政策は、来るべき戦争のための準備という傾向がありましたが、その観点から見れば、経済的利益をもたらす中国より、軍事的能力でイギリスやアメリカを圧迫できる日本の方の方が利用価値があるという判断に変っていったと理解することもできるでしょう。1940年に日独伊三国同盟が成立する前に、こうしたドイツの外交の転換があったことを知ることは、この時期の日本の政策と戦略を考える上で大きな意味があります。

日本の外交では、日英同盟や日米同盟など、その時代の大国と同盟を結ぶことで、自国の立場を強化することが常に重視されてきました。確かに自国より強大な国家と同盟を結ぶことは一般的に大きな優位をもたらすといえます。しかし、その同盟相手がどのような思惑で近付いているのかをよく分析し、その国と日本の利害が完全に一致することはあり得ないということも理解しておかなければならないでしょう。

KT

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事例研究 第二次世界大戦におけるヒトラーの外交と戦略

参考文献
周恵民「日独同盟と中国大陸:「満州国」・汪精衛「政権」をめぐる交渉過程」工藤章、田嶋信雄編『日独関係史1890-1945』東京大学出版会、2008年、2巻、145-73頁

2018年8月8日水曜日

文献紹介 日本はなぜ開戦に踏み切ったか

1941年12月に日本が下した対米開戦という決定は、政治的、戦略的観点から見て非常にリスクの大きなものであり、その後の研究でも当時の意思決定の妥当性が検討されてきました。

そうした研究の結果として、当時の日本の政策決定において、政治的リーダーシップをとり、包括的な戦争計画を構想できる主体が不在のまま開戦に至ったことが分かっています。
今回は、そうした研究成果を巧みに総合し、当時の対米開戦の原因が政策決定のプロセスにあったと指摘した著作を取り上げたいと思います。

文献情報
森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか:「両論併記と「非決定」」』新潮社、2012年

広い視野に立って対米開戦の経過を観察

著者の業績は政治的観点から日本の対米開戦を考察したものが多いのですが、陸海軍の内部で構想されていた各種の作戦計画に関する軍事的考察や、日本の対外諜報の実態に関する調査も行っています。

個別の人物や事象に視野を限定することなく、常に全般の政治状況を見据えた議論を行っており、この著作でもそうした視点の高さが複雑な事象に一貫した説明を与えることを可能にしています。

この著作の狙いは、これまでの研究成果を踏まえて、日本が対米開戦に至った経緯の全体像を示すことにあります。
まず、明治憲法における政治制度と政策決定のプロセスから始まっており(第1章)、日米交渉が行き詰まる1941年9月の政策決定の展開を描き(第2章)、近衛内閣の崩壊(第3章)、東条内閣の成立と対米政策の動揺(第4章)、対米交渉の条件や期限をめぐる内部の対立(第5章)と続きます。

そして、対米交渉の最終局面に日本がひねり出した条件である甲案と乙案のそれぞれの内容と思惑(第6章)、乙案に基づく対米交渉の展開(第7章)、そしてアメリカが日本に突き付けた「ハル・ノート」が与えた影響(第8章)が説明され、最後に対米開戦の決断に達しています。

政治的リーダーシップが存在しない政策過程

著者は、当時の日本がいかに多元的、分裂的な政治情勢の下で、政策決定を下そうとしていたのかを詳細な叙述とともに説明しています。

もともと明治憲法で規定された日本の政治制度は天皇を頂点としながら多元的な権力構造が形成されており、例えば政府組織と軍事組織がそれぞれ独立して天皇を輔弼(陸海軍の統帥部については輔弼ではなく輔翼)すると定められていました(森山、16頁)。それだけでなく、総理大臣と他の国務大臣との間にも指揮関係はなく、総理に閣僚の任免権がありませんでした(同上、16-7頁)。

これは総理と閣僚が対立した際に閣僚を辞めさせることができず、閣内対立が直ちに内閣崩壊に繋がる恐れがあることを意味します。
天皇は政争から距離を置き、統帥部と政府が一致して裁可を求めた際に、それを承認することが慣習となっていたので、総理は特に統帥部との政争で不利な立場に立たされることが少なくありませんでした。

この制度的な問題を解決するために、第一次近衛内閣では大本営政府連絡会議が設置され、政治と戦略の調整が図られたこともありました。
しかし、統帥部に対する統制が強化されることに反発した参謀本部は、1938年から開催に反対するようになり、連絡会議は2年以上にわたって途絶しています(同上、20-1頁)。

1940年12月からは大本営政府連絡懇談会が代わりに開催されるようになり、ここで国策の決定を行うことが始まりますが、この連絡懇談会は法的根拠を持たず、拘束力を持たせるためには閣議決定を必要としました。

ところが、この閣議では秘密保全を理由に作戦関連の事項が削除された文章が採択されるなど、政治と戦略の調整という本来の機能を果たすことはできていません(同上、23頁)。

そのため、当時の日本では重要な国家政策上の決定がコンセンサス方式で行われ、政策文章でも両論併記が行われていました(同上、40-1頁)。
「つまり、政策担当者の対立が露呈しないレベルの内容でとりあえず「決定したことにする」のが「国策」決定の制度であった」と著者は述べています(同上、41頁)。

むしろ、どうやって対米開戦を決定したのか

このような分裂的、多元的な政治制度を理解すれば、日本が対米開戦という重要事項を決定できたことの方がむしろ不思議に思えてきます。

著者は開戦に至る政策過程の経過で天皇、内閣、外務省、陸軍、海軍などが繰り広げた数え切れないほどの駆け引きが行われたことを示し、「その道程は決して必然的ではなく、どこかで一つ何かのタイミングがずれたら、開戦の意思決定は不可能だっただろう」と評しています(同上、212頁)。

ここで全ての経緯を示すことはできませんが、対米開戦に踏み切ることになった要因は大きく国内政治上の要因と国際政治上の要因に分けるとよいでしょう。
国内政治上の要因の一つとして著者が指摘しているのは、最悪の事態を想定することを避けなければ、そもそも政策決定それ自体が不可能だった、ということです。

1941年に東条内閣が発足し、国策の再検討が進むにつれて、どのような政策案を採用するにしても、日本に明るい未来はないということが明らかになってきました。

すでに米国が日本に対して石油の禁輸措置をとった以上、油田を獲得するための軍事行動を起こさず「臥薪嘗胆」の道を選べば、次第に資源は枯渇し、最後に日本は戦争遂行能力を失います(同上、158-9頁)。
しかし、対米開戦するとしても、日米の国力の格差は圧倒的であり、戦争が3年目以降に突入すれば、どうなるかは陸海軍にとっても不透明でした(159頁)。
それでは対米開戦を避け、英国とオランダに対してのみ開戦して南方に進出すればどうかという考え方も出てきますが、後になって米国が参戦すれば結局日本の本土と南方の作戦線を断たれることになり、敗れることは避けられません(同上)。

結局、日本は「最悪のケースに追い込まれることにおびえ、もっと最悪の事態を自ら引き寄せた」ということになります(同上、160頁)。
もし、対米戦が3年目以降に突入した際に惨敗することが、もっと明確に認識されていれば、政策決定はまた違った形になっていたに違いないと著者は主張しています(同上)。

むすびにかえて

日米開戦の原因に関する調査研究はさまざまありますが、著者の研究は当時の複雑な政治状況、政策過程を全体的、包括的に捉えられるように考慮されていると思います。

開戦の責任を陸軍や海軍といった特定の部署に帰するような議論もあり、著者もそうした論調に言及していますが、全体として見れば、やはり日米開戦は国内外の政治力学の結果として捉えるべきだったことが分かります。

国際政治の観点から見れば、戦争を理解する上で勢力均衡、特に軍事力の相対的な優劣は大変重要なものです。
ただし、国内政治の観点からも戦争の原因を理解しておくことは必要です。日米開戦はその必要性を示す格好の事例だといえるでしょう。

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2018年8月1日水曜日

論文紹介 イギリス海軍が見た日本海軍の航空攻撃―1941年の衝撃から1943年の分析まで

マレー沖海戦で日本海軍の航空攻撃を受けるイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(左前方)とレパルス(左後方)。いずれも撃沈されており、イギリス海軍のアジアにおける軍事的プレゼンスは低下した。
1941年12月に日本海軍が南方へと進出しようとしたとき、それを最初に阻んだのはイギリス海軍でした。
当時、イギリス海軍はシンガポールに基地を置き、南シナ海にも軍事的プレゼンスを確保していましたが、日本海軍の航空攻撃によって壊滅的被害を受けてしまいました。

この出来事はイギリス海軍において大きな衝撃をもって受け止められ、日本海軍の航空攻撃の威力についてさまざまな調査が行われるきっかけともなりました。

今回は、第二次世界大戦においてイギリス海軍が日本海軍の戦術をどのように評価していたのかを調査した研究を参照し、特に航空攻撃に関する部分を中心に内容を紹介したいと思います。

衝撃的だった日本の航空戦術の威力

沈没しつつある戦艦プリンス・オブ・ウェールズから救助のため駆けつけた駆逐艦に移乗しようとする水兵。
1941年12月10日、日本海軍の航空攻撃でイギリス海軍はシンガポールを基地としていたプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという主力艦をほとんど同時に失いました。
これら主力艦の喪失は極東におけるイギリス海軍のプレゼンスを大幅に低下させることになりましたが、これはイギリス海軍にとって完全に予想外の事態でした。

著者はこれが「日本の脅威の重大性に対する判断ミス」だったことを率直に指摘しています(252頁)。

実際、イギリス海軍は日本海軍の能力を相当過小に評価しており、高性能な航空機を製造する能力がない、優秀な搭乗員を育成できない、などの見方がありました。しかし、1941年の敗北でこうした見解はイギリス海軍から一掃されました(同上、253頁)。

しかし、その後も戦局の悪化は続き、シンガポールの陥落後にイギリス海軍がセイロンに新たに配置した東洋艦隊も、1942年4月に南雲忠一が率いる艦隊がインド洋に進出することを食い止めることができず、多大な損害を出してしまいます(同上)。
「その損害にはコロンボとツリンゴマリの空爆、重巡ドーセッシャーとコーンウォール、軽空母ハーメス、合計23隻の商船の沈没が含まれていた。艦載機によって多くの損失がもたらされ、日本海軍の搭乗員の技量と航空機の性能による航空戦力の強大さに、現場にいた英国海軍の指揮官は圧倒された」(同上)
このような戦闘の経過の中でイギリス海軍では日本海軍の航空戦術に関する調査が始まりました。
当初は日本海軍の航空攻撃の精度や効率に衝撃を受けた者が多かったこともあり、調査結果もそれに引きずられたものが自然と多かったようです。

敵の弱点に気付き始めたイギリス

南太平洋海戦で日本海軍の航空攻撃を受けているアメリカ海軍の空母ホーネット。当時、この艦に搭乗していたイギリス海軍の士官は、日本の航空機の脆弱性に関する重要な報告をイギリス海軍にもたらしている。
1942年にインド洋で劣勢に立たされたイギリス人は、日本海軍の航空攻撃の正確さや威力に驚き、まずその原因は装備の性能にあるのではないかと考えたようです。
当時の東洋艦隊司令官のサマヴィルは英日両軍の装備の格差があまりにも大きく、互角に戦うことが難しいとの判断を下したことは、その表れでした(同上)。

しかし、現場からの証言が集まってくると、装備以外にも搭乗員の技量が素晴らしいことも分かってきました。
航空攻撃で撃沈されたドーセッシャーの艦長は、対空防御を突破した日本海軍の航空攻撃に関して「日本の急降下爆撃機が太陽を背にして襲撃したため、対空砲火による防御を困難にし、さらに対空防御の盲点である直上から」降下してきたと報告しました(同上、253-4頁)。

イギリス海軍ではこうした証言を踏まえて、日本海軍の航空戦術の優位性がどのような要因によるものなのか分析されましたが、次第に装備の優位性については疑問が出されるようになりました。
当初、日本の急降下爆撃機は特別に急角度で降下可能であり、攻撃に使用する爆弾も高性能などと指摘されていたのですが、これらの認識は事実ではなく、実際には搭乗員の練度の高さに相当程度依存した戦術だと分かってきました(同上、254頁)。

また、アメリカ海軍が太平洋において活動を活発化させると、イギリス海軍はオブザーバーとしてアメリカの軍艦に士官を派遣し、日本海軍に関する報告を行わせるなど、情報収集の体制を強化しました(同上)。
海軍大尉ルアードもその一人であり、彼は南太平洋海戦を空母ホーネットで観戦しました。
ホーネットはこの戦闘で沈没してしまいますが、ルアードはこの戦闘で重要な観察を得ました。

それは、日本の航空機も迎撃機や対空砲火で十分に阻止できるということであり、また「日本機は非常に軽く脆弱で、機体にマグネシウムが大量に含まれ、装甲も施されていないため燃えやすい」と指摘したのです(同上、255頁)。
これは日本海軍が航空機と搭乗員の防御を手薄にしていることをイギリス海軍が認識する上で重要な報告でした。

偏見を乗り越え、敵を理解する

1945年1月にイギリス海軍の空母インディファティガブルから発艦し、日本軍の施設への攻撃に向かう航空隊。イギリス海軍は1944年からインド洋方面にも空母を配置し、対日作戦に投入した。
1941年の壊滅的敗北を受けて、イギリス人は日本海軍の航空攻撃に関する調査研究を進め、1943年末になる頃には当初ほど恐れることはなくなっていました(同上)。

この頃には日本海軍の航空戦術の実態がかなり詳細に把握されるようになり、太平洋方面から入手される情報もあって、日本海軍の航空戦術にも問題があること、特に航空攻撃の成否が優秀な搭乗員の技量に依存する度合いが大きいことが分かってきたためです。

とはいえ、著者は1941年から42年までの日本海軍の快進撃はイギリス海軍にとって予想外だったこと、そしてイギリス海軍の中で蔓延していた日本に対する人種差別的見解が一掃され、客観的な脅威分析が進んだが重要だと論じています(同上、259-60頁)。
「英国海軍は今世紀最初の数十年、主に日本海軍の「人」(彼らの長所と短所、訓練状況、および近代海戦に対する練度)に焦点を絞っていたが、第二次世界大戦中は組織としての装備や戦術をより重視するようになった。また、この変化は誤解に満ちた人種的先入観や、日本人の国民性を愚かに単純化することなど、戦間期に英海軍の日本海軍への客観的な評価を阻んだ要因をも一掃させたようである」(同上、260頁)
確かに、イギリス海軍は日本海軍の実力を不正確に低く見積もっており、戦争の序盤で大きな犠牲を出しました。

とはいえ、いったん調査が始まれば、徹底的な分析が行われ、日本海軍の航空攻撃にも弱点があることを突き止めたのです。

むすびにかえて

この研究成果が持つ意義の一つは、戦争が始まるまで脅威の能力を正しく見積もることが非常に難しいことを歴史的事例で明らかにしていることでしょう。

イギリス海軍は敵の能力を分析する能力を持たなかったわけではありません。戦争が始まってからイギリス海軍が見せた情報分析、組織的学習の速度はむしろ優秀な部類に入るでしょう。

戦前に本来の分析能力が発揮できなかったのは、著者が指摘するように人種的偏見、もっと一般化していえばバイアスによるところが大きかったのだと思います。
イギリス海軍はかつて自分たちの弟子だった日本海軍に負けるはずがなく、自分たちが長年にわたり培ってきた戦術や技術がそう簡単に凌駕されることはないはずだと信じていました。

過去の勝者が未来の敗者に陥る典型的なパターンだったといえるかもしれません。

KT

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事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難
論文紹介 知られざる太平洋戦争での米海軍戦術発達史

参考文献
フィリップ・シャーリエ「日本海軍の戦術と技術に対する英海軍の評価:1941-1945」平間洋一、イアン・ガウ、波多野澄雄編『日英交流史 1600-2000』東京大学出版会、2001年、252-262頁

2018年7月27日金曜日

学説紹介 軍隊における上官との付き合い方―米海軍におけるフォロワーシップ―

組織の中で仕事を進める際に多くの人が悩むのが上司との関係です。
これは軍隊においても当てはまる問題であり、仕事の進め方や対人関係をめぐって対立することは珍しいことではありません。

数万名、数十万名という組織を運営しなければならない軍隊にとって、これは決して小さな問題ではなく、上官と部下の関係を適切に処理するためのテクニックについてさまざまな議論が行われています。

今回は、米海軍の参考書を参照しながら、フォロワーシップに関する議論を紹介し、部下が上官とどのような姿勢で付き合うべきなのかを考えてみたいと思います。

フォロワーシップの基本原則

上官に対する部下の姿勢、態度についてはフォロワーシップ(followership)という言葉でよく議論されています。
これはリーダーを「補佐する」能力と誤解されることもありますが、言葉に沿って厳密に定義するならば、これは「服従する」能力といえます。

つまり、フォロワーシップは制度上の指揮系統の中で命令を受ける立場にある人間がどのようにふるまうべきなのかを明らかにするために使われる概念なのです。

フォロワーシップの原則についてはリーダーシップの文献で取り上げられることが多いのですが、例えば「リーダーシップだけでは十分ではない」という論文でまとめられているフォロワーの原則は次のように紹介されています。
「よいフォロアーとは、
(1)自己の仕事とそれがいかに部隊の使命達成に寄与しているかを知っている。
(2)リーダーの特性を知っている。
(3)インスピレーションを与える能力をもっている。
(4)上司および部下に対して忠誠をつくす。
(5)能力に見合うイニシアチブを発揮する。
(6)権限と責任の委譲を容易に受諾し、かつまた受諾する用意がある。
(7)リーダーの決定を受諾し、全幅的にこの決定を実施するために最善をつくす。
(8)リーダーの部下のために配慮する能力と限界を十分に知り、不当な期待をかけることによって、上司のリーダーシップの負担をふやさない」(196-7頁)
これは望ましいフォロワーの特性をまとめたチェックリストであり、参考書の著者は「各士官は、リーダーの弱点を探す前に、フォロアーとして自分自身の責任を果たしているかを確かめるべきである」とも述べています(同上、197頁)。

しかし、これほどの特性を身に着けるには、「実践による学習」が不可欠であり、また上官の監督によらず、独力で問題を解決できる能力を備えることも求められます。

したがって、フォロワーシップは一朝一夕に習得できるものではなく、それは日頃からのリーダーと良好な関係を構築することを通じて、次第に習得されるものだと考えられています。

上官の第一印象に気を付けること

上官との関係がフォロワーシップの涵養にとって重要であるのですから、上官と初めて対面する際には、どのような第一印象を与えるのかよく注意する必要があります。

新しい部隊で勤務する際には、心身ともに万全の状態を整え、定められた期限までに上官に報告し、決して遅れることがないように心がけなければなりません。
「若い士官が上司に与える第一印象の重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはない。はじめて新しい勤務に出勤する場合は、必ず最良の肉体的、精神的状態で到着するようにすべきである。なかんずく、時間通りにしなければならない。通例は、朝の当直交替前に新任務に報告することであるが、報告する士官は、もし前日の午後に到着すれば、艦のルーチンな手続きがよりよく受け入れることができることがわかるであろう」
著者は、期限に遅れたわずかな時間を狙って艦艇をあえて出航させる習慣が海軍にあると紹介しています。
もしそうなれば仕事を始める前から訓告処分を受ける危険がある、と読者である士官候補生に指摘しています。

ただ、重病や怪我といったやむをえない事情がある場合、司令部に報告して応急休暇をとり、また赴任する部隊に事情をよく説明すればよいとも指摘しており、無理をしないように配慮しています。

ただ、いずれの場合でも、新しい上官と対面して最初の報告を行う際には、制服を着用し、失礼がないように万全の注意を払うように述べられています。
それが上官と部下との関係を築く第一歩となり、引いてはフォロワーシップを涵養する出発点となるからです。

上官をあらゆる角度から研究せよ

軍隊の指揮系統の中で上官は部下に対して絶大な権限を持っています。
上官は部下を絶えず評価して報告し、その内容は昇進や任務配置を決定する影響力を持っています。

ここで部下にとって重要なことは、自分の上官がどのような人物なのかをよく研究し、適切な対策をとることです。
「この上司は、言葉のあらゆる意味で優秀な海軍士官であるかもしれない。その反対に、もっともこれは部隊ではまれな例であるが、個人としての部下に無関心で、ただ部下が仕事をうまくやっているかどうかのみに関心をもつかもしれない。たとえば、部下の個人的な反応を考慮しないで命令を出したりすることもあり、より立派な指令やリーダーシップのテクニックを率先して使えば、部下はより多くのよりよい仕事をするであろう、ということを忘れてしまっていることもある」(同上、188頁)
つまり、著者は海軍においても無能な士官が存在することを想定しており、部下はそうした上官を反面教師として見ることを推奨しています。
もちろん、これは軍隊にとって望ましいことではありませんが、だからといって上官に歯向かうことは適切ではなく、その上官を満足させる方法を研究する方がよい、と述べられてもいます(同上)。
「個人的に状況をコントロールできる範囲で、上司を満足させるべく最善をなすことができる。「老犬は新しい芸を覚えない」とは古い諺であるから、若い士できうるかぎり上司の観点からものを見るように努めるがよい。それができれば、他に先んじて上司を満足せしめることになろう」(同上、188-9頁)
部下は上官と割り切って付き合うことが必要だということです。「新しい芸を覚えない」のですから、上官に変化を求めることはフォロワーシップとしてあまり有効ではなく、部隊にも混乱をもたらします。

例えば、上官と部下との間で問題となる典型的な事柄に書類における言葉の使い方があるのですが、著者は部下が正しい用語、言葉遣いをすることが重要だとしながらも、上官のやり方を研究することも重要だと述べています。
つまり、上官が過去に作成した書類を手に入れ、それを詳細に研究することが勧められています。

上官の仕事の進め方を詳細に調べ、それに適応した行動をとることが上官を満足させることを考えた方がよいとされています。

むすびにかえて

著者はフォロワーシップに関する議論として、上官に助言を求めること、上官の指導や譴責を率直に受け入れることの意義についても述べています。
いずれの場合においても部下はフォロワーとして、リーダーたる上官を「研究する」ことに努めるべきであり、そのことによって高い評価を勝ち得ることが次の昇進や仕事に繋がると考えることが必要です。

部下として上官から距離を置き、一種の研究対象として見なしながら、それに対して最適な対応を明らかにしていくという発想は、あたかも戦術分析のようにも見えますが、部下として上官との関係を適切に処理するためには、こうした客観的な姿勢を持つこともまた必要なのかもしれません。

KT

関連項目
学説紹介 下士官の権威で兵卒は戦う
学説紹介 どうすれば士気を高めることができるか

参考文献
アメリカ海軍協会『リーダーシップ アメリカ海軍士官候補生読本』武田文男、野中郁次訳、日本生産性本部、1981年(新装版2009年)

2018年7月23日月曜日

学説紹介 いかにリアリズムとリベラリズムを使い分けるべきか

リアリズムとリベラリズムは国際政治学で最も初歩的、基礎的な理論モデルとして位置付けられています。
いずれも国際政治における対外行動を説明、予測するためのモデルなのですが、それぞれ前提とする条件に違いがあるため、分析に適用する際には注意が必要です。

今回は政治学の入門者のために、モデル構築の前提の違いに注目した政治学者のジョセフ・ナイの解説を紹介し、どのような状況で使い分けるべきなのか、また使い分けることが難しい場合がどのようなものかを説明したいと思います。

リアリズムとリベラリズムの前提の違い

はじめにナイは、リアリズムとリベラリズム(厳密には複合的相互依存)のモデルが異なる前提に依拠することを説明しています。

その説明によれば、リアリズムには三つの基本的前提があり、それは(1)国家がただ一つの行為主体であり、(2)軍事力こそ重要な手段であること、(3)安全保障が主な政策上の目標であることだと考えられています(ナイ、270頁)。

リベラリズムはこれらの前提を逆転させることで導き出すことができます。

つまり、(1)国家だけでなく、非国家主体も国際政治の行為主体として考えるべきであり、(2)経済政策や国際制度の活用が重要な手段として使われること、(3)安全保障よりもむしろ国民の福祉が追及されることが、リベラリズムの基本的前提といえます(同上)。

つまり、リアリズムとリベラリズムは相補的な関係にある学説であり、それぞれ異なる条件から異なる結果を予測しているのです。

例えば、領土問題を抱えるインドとパキスタンの外交関係を分析する場合にはリアリズムが適切ですが、欧州連合を通じて共通の利害を持つフランスとドイツの外交関係を分析するならリベラリズムの枠組みの方が適合しやすいというように、その時々の国家間の状況によって適用すべきモデルを使い分ける必要が出てきます。

二面性があるアメリカと中国の関係

しかし、分析が一筋縄ではいかない場合もあります。
特に現代のアメリカと中国の関係を分析する際には、リアリズムとリベラリズムの両方の視点が必要になります。

このことについてはナイも説明しています。
まず、アメリカは中国に対する巨額の貿易赤字を抱えていますが、アメリカは中国から禁輸措置を受けたとしても、他国から輸入できるという利点も持っているため、双方とも裏切るより協力した方がよいと判断するだけの条件が整っています(同上、271頁)。

ただし、中国は軍事力を急速に拡張しており、東アジアの勢力均衡を変えようとしているとの認識が持たれています。
特に1996年以後の日米安全保障体制の再構築に見られるように、アメリカとしても近隣諸国と連携し、中国が海洋正面に進出することを食い止める動きを見せています(同上)

以上のことから、米中関係を理解する際には、複数の争点が複雑に組み合わさっていることを分析する必要があり、安全保障上の敵対関係が直ちに全面的な敵対関係に発展することを防ぐような共通の利益もあることを考慮しなければなりません。

このような場合、リアリズムとリベラリズムのモデルを使い分けることは難しくなるため、政治学者の間でも見解の相違が大きくなります。

最近の米中関係をめぐる議論で、東アジアの覇権をめぐって敵対する可能性を重視する論者と、中国と米国が共存できる可能性を重視する論者に分かれているのも、この分析対象に対して適応されているモデルが一定ではないことも関係しています。

むすびにかえて

国際政治学は他の社会科学と同じように不完全な科学であり、発展途上の領域が数多く残されています。
そのため、理論モデルといっても、それですべての事象の説明がつくわけでも、予測が可能になるわけでもありません。

また、ここではリアリズムとリベラリズムの理論的特性を単純化した上で説明してきましたが、より詳細に見ると両者の理論モデルの内容はより細かく分けて議論することもできます。
例えば、ネオクラシカル・リアリズムのように国家の対外行動を国内政治の観点から説明するモデルもあれば、制度論的リベラリズムのように国際法、国際規範による対外行動の規制を重視するモデルもあります。

とはいうものの、国際情勢について学ぶ人にとってリアリズムとリベラリズムの基礎を押さえておけば、敵対勢力に対しては軍事力で対抗し、友好関係にある国とは経済協力を強化するといった対外政策の基本的な考え方を理解できるようになると思います。

KT

参考文献
ジョセフ・S・ナイ・ジュニア『国際紛争』原書7版、有斐閣、2009年(注意、原書最新版をお求めの場合は第10版を確認してください)

2018年7月20日金曜日

学説紹介 戦力投射を軽視したマハン―着上陸作戦は海軍の本来の任務なのか―

米国海軍士官であり、退役後は著述家になったマハン(Alfred T. Mahan)は近代海軍の戦略思想に絶大な影響を残した人物ですが、軍事学の世界ではさまざまな批判が加えられている人物でもあります。

その批判の一つとして挙げられるのが、戦力投射に対する軽視です。
つまり、マハンは海上部隊を使って地上部隊を遠隔地に輸送し、上陸を支援するという運用に対して一貫して否定的な立場をとっていたのです。(戦力投射に関する過去の記事

今回は、この論点について取り上げた研究者の議論を紹介し、マハンの戦略思想の限界を考えてみたいと思います。

兵力の集中を重視したマハンの思想

アルフレッド・セイヤー・マハン
アメリカ海軍士官として勤務する傍ら海軍史の研究を続け、海軍兵学校では戦略学の教官に就任し、自らの戦略思想を発展させていった。
マハンの戦略思想を理解するためには、彼が兵力の集中に大きな意味を持たせていたことを知らなければなりません。

マハンの戦略思想は軍事学者アントワーヌ・アンリ・ジョミニの学説の影響を強く受けており、マハンは彼の説を引用しながら「集中こそ海軍作戦における「卓越した原則」」と繰り返し主張していました(同上、402頁)。

戦略の原則として集中の重要性は広く知られていますので、この見解自体は特に注目すべきものではありません。

しかし、マハンはこの原則をあまりに厳密に解釈していたようです。

マハンは艦隊の運用において兵力の集中を実現するため、着上陸作戦さえも海上作戦として望ましくないと主張していました。
「いうまでもなく、海軍力の分割はマハンにとって禁句であった。おそらくそれゆえ、マハンは上陸作戦に必要な条件ならびにこの種の作戦の海軍戦略中に占める地位については、一瞥の注意しか向けなかったのであった。ジョミニが『戦略概論』で、敵海岸への「強襲上陸」と呼ばれる軍事行動のために一章を当てているのを考えれば、マハンがこのように強襲上陸作戦を無視したことはまったく驚くべきことである」(同上、404頁)
マハンの研究において海軍の任務を陸軍の任務とはっきり分離されていました。

そして、強襲上陸のような作戦は海軍の本来的任務として位置付けられていなかったのです。

このことが意味しているのは、マハンが考える海軍の役割は一般的に理解されているそれよりもはるかに狭いものに規定されていたということです。

海軍の戦略思想としてマハンの認識は必ずしもバランスのとれたものではなく、特定の海上作戦の要素が持つ意義を極端なまでに強調するものになっていたといえます。

着上陸作戦では海軍が陸軍の作戦に制約される

マハンの頭の中では、着上陸作戦の位置づけが極めて小さく、海軍本来の海上作戦の範囲から除外されていましたが、さすがに海軍が地上部隊の輸送に従事する場合があるという事実までは否定しません。

とはいえ、地上部隊を海上輸送する任務に対するマハンの立場は一貫して否定的であり、海軍として陸軍の作戦に拘束されてはならない、と考えられていました。
「いずれにせよ、マハンは「遠隔水域への海洋遠征」については慎重であった。マハンはこのような遠征作戦の持つ「独特の性格」について「乗船した陸軍遠征部隊が洋上では何ら身を守る手段を持っていない」と指摘している。マハンは「海軍力の優位を確立するまでは、このような遠征を安全なものと考えてはならない」と警告し、上陸作戦が終わり次第、海軍をその任務から早期に解放し、艦隊を輸送と「その本来の使命である海洋任務」につけるべきであると主張している」(同上)
遠隔地に部隊を展開させる遠征作戦でマハンが懸念していたのは、地上部隊を輸送する艦隊が上陸地点の周辺にくぎ付けにされることでした。

もしそのような事態になれば海軍の行動は陸軍の行動に制限される恐れがあるというのがマハンの持論でした。
「もし、艦隊の任務が単に「一またはそれ以上の陸上地点」の防衛に縮小されるならば、「海軍は陸軍の単なる一支隊になってしまう」とマハンは警告し、「海軍作戦の真の目的は」……あらゆる機会に敵艦船と艦隊を攻撃することにより、「敵海軍に対し優勢を保って海洋を制することである」と主張している」(同上、404-5頁)
ここでマハンが考えた「海軍作戦の真の目的」は海軍が取り組む可能性がある任務の範囲を非常に狭く捉えたものです。

このような観点からマハンの議論を捉えると、彼はジョミニの戦略原則に依拠しながら、海軍の役割を主観的基準で規定し、陸軍との統合運用による戦力投射を軽視していたといわなければなりません。

マハンに対する批判者は、マハンが陸軍に対する海軍の独立を強調するあまり、統合運用の重要性を軽視したと考えており、著者もこうした立場からマハンが艦隊による決戦という思想に固執する傾向があったことを指摘しています。

南北戦争がマハンに与えた影響

南北戦争のさなかである1862年に撮影された北軍の艦艇USS Wissahickonの乗組員。中央に280mmのダルグレン砲が写っている。艦載砲として必要な軽量性を実現しようとしたが、その分だけ強度が犠牲になり、射程の延伸は容易ではなかった。
しかし、なぜマハンはこれほど海軍の戦略投射上の役割を軽視したのでしょうか。
著者はこの疑問に対して興味深い説明を行っています。

すなわち、南北戦争(1861-65)で北軍の艦艇が南軍の沿岸要塞に対する艦砲射撃がほとんど見るべき戦果を上げることができなかったため、マハンは当時の教訓を踏まえて艦隊を沿岸に近付けるべきではないという思想を持っていたのではないかと考えられているのです(同上、405頁)。
「南北戦争中の北軍艦艇による南軍要塞に対する艦砲射撃の体験や知識が、海岸砲台に対する艦砲の効果に疑念を持たせたのであった。「艦艇が同一金額で建造された海岸要塞との戦いに対抗できないのは、要塞が艦艇と競争できないのと同じである」と記し、また、「海岸で海軍の直接攻撃を防御するのは比較的容易である。なぜなら艦艇は……要塞との戦いに明らかに不利であるから」とも述べている」(同上)
このマハンの解釈で興味深いのは、マハンが着上陸作戦を軽視した理由を、当時の軍事情勢によるものだと指摘していることです。

著者が視差している通り、強固な掩体で守られた大口径の火砲は、洋上で絶えず動揺して照準が難しい艦艇よりも、はるかに遠くから命中弾を送り込むことが可能でした。

しかもまた高い防護性を兼ね備えていたため、射程が短い艦載砲を運用する立場の海軍士官としては、艦艇を沿岸砲台に接近させるリスクを重視せざるを得なかったのです。

このような時代背景と照らし合わせれば、マハンの戦略思想の限界は、マハンの限界というよりも、当時の技術環境の限界と重なっていたのではないかと理解できます。

むすびにかえて

著者はマハンが上陸作戦における海軍の役割を軽視した背景について説明していますが、「海戦の基本的な不変の原則を解明する研究において、艦砲射撃の効果と陸上目標に対する渡洋強襲作戦の有効性をほとんど省略してしまったことは、あまりにもひどい無視というべきであろう」と厳しく批判することも忘れていません(同上)。

戦略投射の意義を軽視したとは、それだけでマハンの戦略思想の価値が全否定されるわけではありません。
重要なことは、マハンが生きた時代の軍事情勢を理解し、彼の議論の適用範囲に自ずと限界があることを理解することだと思います。

もし着上陸作戦の問題を考える場合、海上部隊が対地攻撃で発揮できる能力と、陸上部隊が対艦攻撃で発揮できる能力を比較することが重要でしょう。

マハンの議論に対して出された批判を学ぶことも、マハンの戦略思想をより深く学ぶ上で役立ち、またそれを通じて海軍の戦略思想を理解することに役立つと思います。

KT

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用語解説 戦力投射(force projection)とは何か

参考文献
フィリップ・A・クロール「海戦史研究家アルフレッド・セイヤー・マハン」『現代戦略思想の系譜』ダイヤモンド社、1989年、391-418頁


2018年7月14日土曜日

学説紹介 経済的平等が軍隊を強くする―モンテスキューの考察―

18世紀フランスの思想家モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu、1689年 - 1755年)は政治学の歴史で三権分立を唱えたことで知られています。

しかし、モンテスキューの思想は三権分立にとどまるものではなく、ある国家が世界で一大勢力に発展するには、軍隊が優秀でなければならず、古代ローマが滅亡した要因も、その軍隊が弱体化したことにあったなどと考えていました。

今回は、ローマ軍が弱体化した理由に関するモンテスキューの考察を取り上げ、格差の拡大、つまり国内における経済的不平等が拡大したためだという議論を紹介しましょう。

ローマは戦争によって発展を遂げた

ローマはティレニア海に注ぐテヴェレ川の河口からおよそ25kmほどさかのぼった丘陵地帯に立地する都市国家であり、その国土に平野部は少なく、人口が増加するにつれて農地が不足しやすいという弱点を抱えていました。

そのため、ローマが大国に発展するには、戦争によって周辺諸民族を征服し、新たな土地を併合することが求められました。この点についてモンテスキューは次のように述べています。
「ところで、戦争は大抵の場合人民にとって好ましいものであった。というのは、戦利品を巧妙に分配することによって、戦争を人民にとって有用なものとする方途が見出されていたからである。
 ローマは商業をもたず、またほとんど工芸ももたない都市であったので、略奪が個々人にとって富を得るためにとりうる唯一の手段であった」(モンテスキュー、18頁)
モンテスキューはローマが多くの戦争を経験していたから軍事大国になれたと主張しているわけではありません。

モンテスキューが重視しているのは、戦争で得た資産を配分するメカニズムがよく工夫されており、市民に幅広い恩恵をもたらすようになっていたということです。

紀元前509年にローマで王制が廃されるのは紀元前509年のことであり、それ以来ローマ人は任期付きの執政官に権力を付与する共和制を採用してきました。

共和制それ自体が平等を確証するわけではありませんが、モンテスキューにとって共和政ローマでは少なくとも相対的に土地の分配で公平さを維持するように注意が払われていました。

経済的平等の実現は社会保障のテーマで考えがちですが、モンテスキューはこの政策がローマ軍の強さの源泉となっていたと考えたのです。

つまり、あらゆる市民に一定程度の財産を持たせることで、市民団を一つに団結させ、国防のために貢献する動機づけを強化していたというのです。

財産の再配分を通じて軍事への貢献を強化した

ローマ人は征服した土地を公有地と私有地に二分し、私有地を貧しい公民に配分し、その代わりに地代を国庫に納付する義務を負わせていたとモンテスキューは説明しています(同上、18-9頁)。

いわば、戦争で勝利を重ねるたびにローマでは貧しい市民に土地を与える救済策がとられていたのであって、これは市民の間の不公平を是正するだけでなく、士気を高める効果がありました。
「古代共和国の創設者は土地を平等に分配した。これによってのみ、人民は強力になりえた。すなわち、社会はよく統制されることができたのである。また、これによってこそ、よき軍隊が作られ、各人が祖国を防衛するために、等しく、かつ非常に大きな関心を持つことができたのである」(同上、35頁)
共和政のローマは歩兵を中心とする軍隊を保有しており、その戦闘効率を高く維持するには、厳格な規律と高度な訓練が求められました。

まとまった財産もなく、国庫に納税できる収入もなく、その日を生きるだけで精一杯の住民であれば、戦争になっても国家のために戦うことは不可能です。

そのような人々は、戦場に出ても脱走した方が合理的だと考えるでしょうし、場合によっては敵に通じることさえ考えるかもしれません。

しかし、経済的に余裕を持つ市民であれば、従軍するため一致団結する必要性を理解することも可能です。いわば、ローマは市民が軍事的に貢献することを土地の配分という経済的な誘因(インセンティブ)で促していたのです。

モンテスキューは「あれほどの慎重さでもって戦争を準備し、あれほどの大胆さでもって戦った民族は決していなかった」とローマ軍の強さを高く評価しますが、それは軍隊それ自体の強さというよりも、国家の制度が巧みに運営されていたためだと考えていました(同上、30頁)。

貧富の格差が広がり、市民の美徳は損なわれた

しかし、ローマの経済発展が進むにつれて、ローマ軍の様子は変わり始めます。規律は悪化し、団結も弱化するなど、戦闘能力の低下が見られるようになります。

その要因としてモンテスキューが指摘するのが、市民の間で広がった所得の格差です。
「法律が厳格に順守されなくなると、ある人々の貪欲さ、他の人々の浪費によって、土地は僅かの人間の手に移った」(同上、35頁)。
大地主になった一部の市民が奴隷を使って大規模な農園を経営し始めると、ますます中小農民の市民の事業はますます圧迫され、貧富の格差は広がっていきました。

これがモンテスキューにとって問題なのは、貧困や不公正が道徳的に悪いという理由よりも、戦争が勃発した際に、国防のために貢献しようとする市民がいなくなることにありました。
そうなれば、国家は軍事力の整備で傭兵や外国軍への依存を強めざるを得なくなります。

富裕層は日頃から贅沢に慣れているため、能力の面で国防の役に立たない、とモンテスキューは書き残しましたが(同上、35-6頁)、問題は彼らの軍事的な無能さだけではありません。

より致命的なのは、富裕層の多くが企業家として振る舞うようになるため、「本来的に祖国をもたず、あらゆるところで自分の職業をいかすことができたから、失うものも、守るべきものもほとんど持っていなかった」ことであり、いわば命を懸けてでも国を守るように動機づけられていなかったことでした(同上、36頁)。

財産を失った貧困層はその日暮らしに追われるため、政治への関心を失い、防衛意識もなくなります。
しかも、富裕層と貧困層は社会の中で隔絶されており、共通の利害を持たないため、互いに国家の防衛のために自分を犠牲にしようとは思いません。

こうした社会状況が放置された結果として、ローマの防衛体制はますます空洞化していき、傭兵への依存を招いたというのがモンテスキューの考えです。

まとめ

貧富の格差が社会の分断だけでなく、軍隊の劣化、そして長期的に国家の滅亡をもたらす要因になると指摘したのはモンテスキューだけではありません。

格差の拡大が国家を危険な状態に晒すことは、アリストテレスの時代から繰り返し論じられている問題であり、マキアヴェッリは外国軍や傭兵に依存すれば、国防は必ず危うくなると強調しています。

こうした議論があったことを知れば、モンテスキューの主張は、さほど突飛なものでも、目新しいものでもありません。
しかし、貧富の格差という問題を軍事力の効率と直接的に結び付けて考えたという意味でモンテスキューの議論には独創性があったのだと思います。
現代の軍事社会学の観点から見ても、こうした視点は参考になるところが多いと思います。

所得政策を実施し、所得格差を是正することを通じて、社会の一体性と国家への忠誠心を確保することも、長期の観点で見れば国防政策の一部であり、またそのようにあるべきだともいえるでしょう。

KT

関連項目
学説紹介 アリストテレスが語る、政治の逆説的論理
学説紹介 国土に人口を分散配置せよ―マキアヴェリの考察―
学説紹介 モーゲンソーが考える国力の九要素

参考文献
モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』田中治男、栗田伸子訳、岩波書店、1989年

2018年7月11日水曜日

論文情報 ドイツにおける軍事史の歩み―政治に翻弄された学問の小史―

ドイツは近代的な歴史学が誕生した国として知られています。19世紀の歴史学者レオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke)は、実証的な立場から史料批判を行う方法を確立し、その後の歴史学の発展に大きな貢献を果たしました。ドイツは近代的な軍事学がいち早く発展した国でもあり、軍人であり、軍事学者でもあったカール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz)は、戦争を軍事行動として理解すべきではなく、政治活動として分析すべきだと指摘したことで知られています。

ところが、歴史学と軍事学の間を繋ぐ軍事史という研究を見てみると、ドイツでは長らく軍事史が学術的研究と見なされず、作戦・戦闘といった極めて狭いテーマだけを扱うことが一般的だったのです。ランケとクラウゼヴィッツを生んだ国でこのような研究の停滞が起きていたことは一見すると不可解に思えます。その理由を理解するため、今回はドイツにおける軍事史の歴史について考察した論文を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。

論文情報
ヴィルヘルム・ダイスト「ドイツにおける軍事史の展開に関する覚書」伊藤智央訳、トーマス・キューネ、ベンヤミン・ツィーマン編著『軍事史とは何か』中島浩貴ほか訳、原書房、2017年、440-50頁

マックス・イェーンスによる軍事史の位置付け

ドイツにおける軍事史の出発点として、著者はマックス・イェーンス(Max Jähns)の著作『戦争学の歴史』を取り上げています。
「100年以上前、マックス・イェーンスによる3巻からなる『戦争科学の歴史』が出版された。その中でこのプロイセン退役中佐でありハイデルベルク大学名誉博士は、古代から18世紀末までの戦争科学の文献に関する「目録作りという試み」を行った。彼はその際クラウゼヴィッツと同じく、戦争科学の課題を、「戦史をもとに過去の経験を突きとめ、現在のそれと比較すること」と見た」(同上、440頁)
つまり、イェーンスは戦争科学、つまり軍事学を経験科学として捉えるだけでなく、それを軍事学の基礎をなす領域と位置付けたのです。それと同時にイェーンスは軍事学が「実践」のための学問でもあるとも考え、「新たな実践のために改めて準備を整えること」を目的としていたことも述べられています(同上)。

この観点から見れば、軍事史はあらかじめ応用されることを目的としており、軍事教育の手段としての役割が大きいことが強調されていました(同上、440-1頁)。もちろん、イェーンスの意図は軍事史の範囲を限定するというわけではありませんでした。例えば軍制の歴史を研究する上では「諸民族の文化史や政治史」との関連で考察される必要があることを認めています(同上、441頁)。

しかし、全体として見ると、軍事史の始まりは、軍隊の実務に寄与するように強く方向付けられていたと考えることができるでしょう。ドイツでは史料の批判に基づく実証的な歴史学が発展することになるのですが、軍事史はそうした潮流から次第に孤立を深めていくことになります。

ハンス・デルブリュックによる方向転換の試み

著者は、イェーンスの考え方に次いで、ハンス・デルブリュック(Hans Delbrück)の軍事史に対する立場を取り上げており、彼が「軍事・戦争関連の出来事を歴史学の対象とすることを語気を強めて主張」したことを評価しています(同上)。当時のドイツにおける軍事史は、軍事学の一領域に位置付けられるあまり、歴史学の方法から切り離された研究領域となっていました。

デルブリュックはこの状況を変えようと奮闘し、客観的批判を通じて、それまで軍人が独占してきた軍事史の歴史解釈に問題があることを指摘したのです。その代表的な例がプロイセン国王フリードリヒ二世の戦略に対する軍部の解釈に対する批判であり、この論争ではフリードリヒ二世の戦略を消耗戦略と見なせるかどうかをめぐって、陸軍の専門家と対立しました。
「フリードリヒ二世の戦略を消耗戦略と解釈することで、彼はいわゆる「戦略論争」の中で参謀本部戦史部との長期にわたる論争をも引き起こした。というのも参謀本部は、国民の軍事史を独占できるという自らの要求が脅かされていることを見て取ったからであった」(同上、442頁)
ドイツにおける軍事史の発展にとってデルブリュックのような研究者が陸軍の公式見解を批判したことは、研究史において意義のある事件だったといえます。とはいえ、軍隊が示す公式見解が軍事史そのものだった当時の通念を打ち破るまでには至りませんでした。著者はデルブリュックが第一次世界大戦が終結した後で国立史料館歴史委員会に招聘され、戦争の政治的、経済的、社会的、文化的側面に関する叙述を盛り込もうとしたにもかかわらず、成果を上げなかったことを指摘しています(同上、442頁)。

ゲルハルト・エストライヒの国防史の試み

第一次世界大戦後のデルブリュックとは異なる立場から軍事史のあり方を再検討するように主張する議論が出されました。この議論の担い手として著者はゲルハルト・エストライヒ(Gerhard Oestreich)を挙げています(同上)。エストライヒは軍隊による純粋な戦史としての軍事史という枠組みを乗り越えようとしていた点で評価されていますが、ただしそれは民族主義的なイデオロギーの影響を強く受けてもいました(同上)。
「彼は1940年に刊行された論文の中で、すべての学問と同様に「民族の生存維持と強化、保全と増強のために」存在している国防学の中心的な部分として「国防史」を位置づけた。「評価を下し、秩序を与えるという、国防や戦争の中の観点」が、「国防学研究の範疇や手法」を規定する。国防史は――伝統的な戦史のように――戦争の軍事的な部分を叙述することで満足するのではなく、「歴史的経過の中における国防力創出や国防思想に関するあらゆる領域」を捉え、「国防の観点から国家活動と民族生存を賭けた闘争」を観察し、それによって「国防政治に関する必要不可欠な教育を国民に施すことに」寄与する」(同上、442-3頁)
著者はエストライヒのイデオロギー的な立場に留意しながらも、彼の軍事史に対する視野が以前のそれよりもはるかに広いものであったことを確認しています。エストライヒの研究は1945年にナチ体制が崩壊したことを受けて、歴史学における影響力を失っていきました(同上、443頁)。

しかし、「国防史」という概念それ自体はその後も生き残り、西ドイツにおける伝統的な戦史叙述はその名も『国防学(Wehrkunde)』という雑誌で引き続き行われていました(同上、444頁)。著者はこの国防史という概念を取り巻くイデオロギー的な背景があったことも、大学における歴史学者が関わり合いを避ける要因になったと指摘しています(同上)。

1960年代末に進んだ軍事史の再定義

著者の議論で最も興味深いのは、こうした潮流が1960年代に変わっていったと指摘している部分です。1967年に創設された『軍事史報(Militärgeschichtliche Mitteilungen)』の第1巻で示された軍事史の概念規定には、それまでの軍事史の枠組みを新しくすることが強く意識されたものになっていました(同上)。
「それによれば、軍事史とは「ある国家における武装勢力の歴史である。(…)軍事史は、政治の道具としての武装勢力を問題とし、平時および戦時におけるこの勢力の管理という問題に取り組む。しかし軍事史は戦時の場合、純粋に軍事に関する懸案のみを観察するだけでなく、戦争を一般史の中に組み入れる。その結果、戦争は歴史的現象として理解・把握・解明され、そして徹底して検討される。(…軍事史は)加えて軍隊(…)経済生活、社会生活そして全公共生活の〔ひとつの〕要素として研究する。しかし、軍事史は、とりわけ政治勢力としての武装勢力に向き合う。だが、軍事史の中心にあるのは(…)全生活領域における兵士である」」(444-5頁)
ドイツにおける軍事史を新しく方向付ける上で、この概念規定は非常に重要なだけでなく、軍事史という研究領域を大きく広げる意義がありました。長い時間をかけて、ドイツの軍事史はようやく軍隊の公式見解と距離を置き、かつ国防史のようなイデオロギー的な要素も取り除かれた歴史学の一領域として発展できるようになったのです。

むすびにかえて

著者は現在の軍事史の方法論について「学問として軍事史は、歴史批判の方法のみを基礎としてもちうる。この方法を放棄することは、軍事史の学術的性格を放棄することを意味する」という考えを紹介しています(同上、445頁)。ドイツにおいて軍事史が歴史学の一分野として認められ、また戦闘や作戦だけにとらわれない枠組みを獲得するまでに、どれほど多くの努力が必要だったのかを考えれば、この言葉が持つ意味の重みが分かると思います。

軍部主導の軍事史からの脱却は容易なことではなく、またその途中でイデオロギー的に政治利用されたことも、軍事史に正当な学問的地位を与えることを難しくしていたのです。しかし、そうした時代は過ぎ去りました。著者は最後に次のように述べています。
「この20世紀を俯瞰してみると、いかなる留保にもかかわらず以下のことが言えるであろう。軍事史を歴史学の部分領域として大学に定着させるという、当時失敗に終わったデルブリュックの試みは、今や成功しているように思われる。軍隊のあらゆる表現形態は、批判的な歴史学研究の対象となったのである」(同上、446-7頁)
著者の研究は、ドイツにおける軍事史を取り巻く政治的、思想的、学問的状況がどのように変遷していったのかを明らかにするという意味で興味深いものです。また、軍事史が特定の勢力によって政治的に利用されていた実態も浮き彫りにもしています。

特定の政治的勢力が軍事史という学問の方向性や枠組みを規定し、それによって学問の本来あるべき発展が妨げられることは、軍事史だけの問題ではありません。政治と学問の適切な関係を考える上でも示唆に富む議論ではないかと思います。

KT

関連記事
学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか
リデル・ハートの軍事教育論

2018年7月6日金曜日

用語解説 戦力投射(force projection)とは何か

戦力投射(force projection)とは、味方の作戦部隊を動員してから、作戦地域へと移動を完了し、さらに戦闘展開するまでの一連の部隊活動をいいます。
戦略投射能力に優れた軍隊とは、大規模な部隊を所望の地域に迅速に展開させる能力を備えた軍隊だといえるでしょう。

今回は、米軍の教範での戦力投射の解説を紹介し、戦力投射の原則や具体的な意味の内容について考えてみましょう。

戦力投射は勢力投射の一要素である

そもそも戦力投射は作戦レベルで軍事行動を分析する際に使われることが多い用語です。
それは戦時だけでなく、平時においても実施される場合があり、例えば危機管理のため緊張が高まっている地域に予防的に展開することも戦力投射の一種と位置付けることができます。

米軍の教範では次のように説明がなされています。
「戦力投射は勢力投射の軍事的要素である。それは国家軍事戦略の中心を占める。最も重要なのは速度であり、戦力投射は味方の部隊と敵の部隊との競争である。最も素早く戦闘力を構築できた側が主導権を獲得できる。したがって、各段階の速度や輸送手段が決定的な意義を持つわけではなく、敵の準備が整う前に、あるいは状況がさらに悪化する前に作戦地域に戦闘可能な部隊が展開することが決定的な意義を持つのである」(FM 3-0, C1: 1-25)
戦力投射と似た用語に勢力投射(power projection)という用語があるのですが、この解説で指摘されている通り、戦力投射は軍事行動に意味が限定された用語です。
したがって、非軍事的手段をも駆使して自国の影響力を遠隔地に及ぼそうとする勢力投射とは区別しなければならないということです。

戦力投射のプロセスを分析する

また、戦力投射の具体的なプロセスについても概観されていますが、その詳細は以下のように区分されています(Ibid.)。
・動員(mobilization):軍隊を戦闘可能な勤務状態に移行させ、部隊の人員、武器、装備を充足させる過程のこと。
・展開(deployment):命令を受けて作戦地域に部隊を移動させること。
・運用(employment):任務遂行に必要なあらゆる種類の作戦行動をとること。
・後方支援(sustainment):部隊が任務を遂行するまで、武器や弾薬を補給し、人員の衛生状態を向上させ、戦闘力の維持増進を助けること。
・再展開(redeployment):動員した場所や別の作戦地域に部隊や物資を戻すこと(Ibid.: 4-8を参考)。
つまり、戦力投射という部隊活動は、部隊の動員を発令した直後から始まっており、部隊が戦場に展開してからも、そこで戦闘力を発揮できるように後方支援を整えることも考慮しておかなければなりません。

とはいえ、実際の戦力投射でこれらの段階が整然と進むことはなく、重複、反復されることもあれば、入り混じった形で進められることもあるとも指摘されています(Ibid.:  1-25)。

まとめ

より広い視点で捉えるならば、戦力投射は機動戦の一要素と位置付けてもよいでしょう。
つまり、戦略投射はまだ接触、交戦していない敵部隊に先んじて、有利な陣地を占領するために行う戦略機動であり、これによって将来の作戦をさらに円滑に推進することが期待されるのです。

反対に、もし全般的な軍備で優勢であっても、戦力投射能力に問題があり、所望の地域に部隊が展開するまでに多大な時間を要するなら、実質的な軍事バランスでは大きな不利を被ることになります。

日本の防衛体制は日米同盟の下で有事に米軍が必要な戦力を増援することを前提としていますので、米軍がどれだけ戦力投射できるのかを絶えず確認することが肝要です。

極東正面に対して米軍はどの程度の時間で、どれだけの部隊で来援できるのかを見積もることができれば、我が国の所要防衛力を見積もる上で参考になります。

KT

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参考文献
U.S. Department of the Army .2017. Field Manual 3-0: Operation, Washington, D.C.

2018年7月1日日曜日

論文紹介 18世紀プロイセン陸軍にいた一兵卒の視線

兵士の日常を外部から知ることは容易なことではありません。18世紀の軍隊のことになれば、なおさらのことです。
しかし、近年では軍事史の研究で国家や政治指導者の視点だけに頼らない叙述が模索されるようになっています。

今回は、七年戦争でプロイセン陸軍の一兵卒として従軍した経験を持つブレーカーの日記を手掛かりとして、当時の兵士の生活実態を考察した研究を取り上げたいと思います。

論文情報
阪口修平「近世プロイセン常備軍における兵士の日常生活:U・ブレーカーの『自伝』を中心に」阪口修平編著『歴史と軍隊:軍事史の新しい地平』創元社、2010年、124-55頁

ブレーカーとは何者か、なぜ入隊したのか

ウルレヒ・ブレーカー(1735-1798)スイス出身の日記作家として知られる。著作『トッゲンブルクの貧しき男の生涯と実際の遍歴』はプロイセン陸軍での生活実態を知る貴重な史料として価値があると指摘されている。
ブレーカー(Ulrich Bräker)は、スイスのトッゲンブルク地方に住んでいた貧しい農家の生まれであり、民衆の生活を記録した日記作家として知られています。

軍事史の観点で興味深いのは、彼にプロイセン陸軍の兵卒だった時期があるためです。
当時、ちょうどフリードリヒ二世が指揮をとっていた時代のプロイセン陸軍を一兵卒の視点で見ていたことになります(阪口、2010年、127頁)。

まず、ブレーカーが入隊するまでの経緯を簡単に確認すると、プロイセン陸軍が募兵のためにどのような取り組みをしていたのかが分かります。

もともと父親が破産したため、ブレーカーの家庭は経済的に困窮していました。ブレーカーは長男だったこともあり、日雇い労働で家計を助けている状況でした。

そんな時に父の知り合いだった斡旋人と出会うことになり、ブレーカーは報酬金を目当てに入隊を決意します(同上、133-4頁)。
まず、斡旋人と共にスイス国境付近の都市シャフハウゼンに赴き、そこに派遣されていたプロイセン陸軍の募兵団で検査を受けることになりました(同上、134頁)。

候補者を連れてきた斡旋人には募兵団から斡旋手数料が支払われるという仕組みだったのです(同上)。

これで兵士になれるかと思いきや、ブレーカーは検査で兵役に不適格、つまり失格の判定を受けてしまいました(同上)。
兵士として採用された時にもらえるはずの手付金も受け取れず、ブレーカーは失望しますが、募兵団の団長マルコーニに見出され、彼の個人的従者として働くことになりました。

プロイセン陸軍の兵員募集の実態

シャフハウゼンはスイスの北端に位置しており、ドイツ語圏に属する都市。18世紀にはプロイセンから派遣された募兵団が拠点を置き、各地から志願兵を集めていた。
こうして募兵団に加わったブレーカーですが、この小さな機関は募兵将校1名、下士官3名の合計4名で編成されており、宿屋や居酒屋を拠点として使用していました(同上、135頁)。

こうした募兵団の活動実態を見てみると、武器の使用が可能な程度の身長があることが採用の条件とされており、それを下回る候補者には入隊を認めていなかったことが分かります。
「兵士として最も重要な要件は、身長であった。当時の銃は前操銃であり、腕が長くなければ銃口から火薬を詰めることができない。腕の長さは身長に比例するので、それだけの背丈が必要なのである。ブレーカーも、まず靴を脱いにで身長を測られ、その結果兵士としては失格となったのである」(同上)
また、一般的な募兵のイメージとして、若者に酒をふるまって酔わせ、兵役の契約を強引に結ぶといった手法もあったと考えられていますが、ブレーカーの記述でそのような実態は記録されていません。
むしろ、各地に出向いて有力者と面談するなど、かなり地道な活動実態だったと著者は指摘しています(同上)。

もちろん、募兵活動の全てが適切なものだったわけでもなく、詐欺に近い方法で兵士を集めることも一部ではあったようです。
もともとマルコーニの募兵団は何週間もかかって数名の兵士を集めていたに過ぎず、資金の多くは贅沢な遊興に浪費されていたことがブレーカーの記述からも分かっています(同上、136頁)。

そこで、当初は従者として雇用したブレーカーを、募兵将校は新兵としてベルリンに派遣することにしました。
ブレーカー本人がそのことに気がついたのはベルリンに到着した後のことであり、兵士として検査に合格した際に受け取れるはずの手付金をもらえないまま兵士として勤務せざるを得なくなったのでした。

待ち受けていた過酷な新兵生活

ブレーカーは1756年3月にプロイセンの首都ベルリンに到着し、そこでイッツェンプリッツ連隊のリューデリッツ中隊に編入されました(同上、138頁)。

すぐにブレーカーは自分が欺かれたことに気がつき、中隊長にそのことを申し立てましたが、有無を言わさずに軍務契約を押し付けられ、6年間の兵役期間が通告されてしまいます(同上)。

手付金も受け取れないまま新兵となったブレーカーを待ち受けていたのは、過酷な新兵訓練でした。著者はブレーカーの記述も引用しながら、その様子を次のように要約しています。
「最初の1週間はまだ準備期間で自由にベルリン市を見学できたが、2週目から地獄のような教練が始まった。「若い下級将校がほんの些細なことで鞭を打つ」、また訓練も、「軍服で締め付けられたまま何時間も棒のようにまっすぐに行進」させられたり、「稲妻のように迅速な武器の操作」などを叩き込まれた。すべては将校の命令一下であった。練習から戻れば、今度は洗濯、銃、弾薬の手入れ、帯革、制服をきちんと繕う仕事などが待っていた。「少しでも乱れていると、翌日にはめちゃくちゃに殴られる」。」(同上、139頁)
懲罰を伴う厳しい教練が続き、ブレーカーは身体的にも、精神的にも非常に疲弊していたようです。
そうした兵卒の面倒を見たのが古参兵であり、ブレーカーはツィッテマンという古参兵から「銃をきれいに保つ方法、制服の手入れや兵隊風の散髪のしかたなど」を教わったと記録されています(同上)。

しかし、ブレーカーは不本意な形で兵士になったので、新兵生活が始まってからも、どうやって脱走しようかと計画を練っていました。
もし途中で見つかれば厳しい懲罰が待っていましたので、確実に脱走できる状況が来るのを待つ必要がありました。

その計画を実行に移すことになるのは、戦争が勃発し、戦闘に送り込まれることになってからのことです。

行進、宿営、戦闘

ブレーカーが入隊した当時、プロイセンはすでに七年戦争に突入していました。ブレーカーの連隊は8月22日に出動することになり、徒歩行進で戦地に向かいます。

行進の途中で宿営する場合、民家を使用する舎営と野営の二つの方法があるのですが、ブレーカーの記述によると最初の2週間を舎営で過ごし、戦場に近付くにつれて野営に切り替えたようです。

舎営の場合は30名から50名が一組になって民家に泊まり、住民は1グロッシェンだけの代金で食事などを提供しなければならなかったことが記されています(同上、144頁)。
夜になると兵は家屋にワラを持ち込み、壁に向かって一列に並んで眠っていたようです(同上、144頁)。

野営が実施される場合、6名の兵士と1名の補充兵が一組になって天幕に入り、古参兵で規律を維持し、歩哨、調理、食材探し、薪集め、ワラ集め、会計と野営の業務を分担して処理していたようです(同上)。
野営地では軍隊を相手にする商人が売店が開いていたようで、必要なものはそこで調達できました。

こうして行進と宿営を繰り返し、部隊はようやく戦場に辿り着きます。ブレーカーは以前から目論んでいた脱走を実行に移すことにしました。
戦闘では一般に部隊が広く展開するため、兵卒でも将校や下士官の目を盗むことがやりやすくなります。

いわば、ブレーカーのような兵卒にとっては、最初から戦闘で敵と戦うつもりはなく、味方から逃れる好機としてしか考えられていなかったことになります。
著者は当時の戦闘でプロイセン軍から出た脱走兵の中にブレーカーが実在していたことを確認し、次のように論じています。
「ブレーカーが皇帝軍の本陣ブディンに連行されたのは翌10月1日であったが、すでにそこには200人ものプロィセン脱走兵がいたという。驚くべきことに、そのなかには郷人のバッハマンも混じっていた。両者が、ブディンに陣取った皇帝軍に投降し脱走者の名簿に並んで記載されているのは、前述のとおりである。この名簿には、クロースターフースが調査し、筆者も確認したところによれば、1757年9月17日から10月26日までの40日間に、394名のプロイセン兵の脱走者が記載され、10月11日だけでも138人に上っている。ブレーカーの叙述のとほぼ一致すると見てよい。近世における戦闘は、まさに脱走の世界であるといえよう」(同上、147頁)
当時の戦闘で発生する人的損害のかなりの部分が脱走によるものだったという指摘は、軍隊の歴史を考える上で興味深いものです。
指揮官は敵火で倒れる味方の心配をする前に、脱走しないかどうかを心配する必要があり、その考慮が軍隊の運用を制約していたことが分かります。

むすびにかえて

ブレーカーの日記は18世紀の兵士の視点でプロイセン軍の軍事行政の仕組みを記録したものとして重要な価値を持っています。
仲介人を通じてプロイセン陸軍の募兵団が集めていた人々の中には、不本意な形で従軍している者が少なくなく、彼らは常日頃から脱走することばかりを考えており、敵との戦闘は絶好の機会でしかありませんでした。

これが18世紀の戦略や戦術の発達を制限する要因であり、また戦争の様相を規定してもいたと考えられます。
一般に戦術の研究では撃破した敵に対する追撃として、戦場内の追撃と戦場外の追撃を分けていますが、フリードリヒ二世は戦場外追撃に対して否定的な立場をとっています。

これは純粋に戦術の観点で考えれば不可解なことですが、脱走兵が続出する当時のプロイセン軍の実情を知れば、戦場外追撃を行うと味方から多数の脱走兵が出る恐れがあったためだと理解できます。

脱走兵になった後もブレーカーの人生は続くのですが、ここでは割愛します。もし興味があれば参考文献の方を参照してみるとよいでしょう。

KT

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学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール

参考文献
ウルリヒ・ブレーカー『スイス傭兵ブレーカーの自伝』阪口修平、鈴木真志訳、刀水書房、2000年

2018年6月29日金曜日

学説紹介 戦いの原則(principles of war)はどのように作られたのか―フラーの学説を中心に―

軍事学の歴史は長く、その起源は古代にまでさかのぼることができます。
古来より軍事学者は戦争術を調査、研究し、勝利を獲得する上で依拠すべき原理原則を明らかしようとしてきました。

古代中国の兵家だった孫武、ローマ帝国の軍事著述家だったウェゲティウス、ビザンティン帝国の皇帝だったマウリキウス、フィレンツェの行政官だったマキアヴェッリなど、多くの研究者で戦争術の基本原則を定式化しようと努力を重ねています。

しかし、現代において戦いの原則として知られているのは次の、(1)目標、(2)主導、(3)集中、(4)経済、(5)機動、(6)統一、(7)保全、(8)奇襲、(9)簡明の9個ですが、これらは20世紀に入ってから確立された原則です。
その原型を提唱した人物はイギリス陸軍軍人ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーであり、彼は戦間期に多くの著作を残しました。

そこで今回の記事では、フラーの研究の経過を紹介し、戦いの原則がどのように抽出、整理されたのかについて紹介したいと思います。

戦いの原則に関心を持ったきっかけ

J.F.C.フラーはイギリス陸軍の軍人。多くの軍事学の著作を残しており、リデル・ハートと交流があったことでも知られている。フラーの研究はドイツで注目を集めたこともあり、親ドイツの立場をとったこともある。
フラーが研究を始める前から、戦いの原則(principles of war)という概念は軍事学において存在していました。ただし、その内容ははっきりとはしていなかったのです。

それはごく少数にとめられる戦争術の一般的な原理原則をまとめたものであり、あらゆる時代、あらゆる地域において普遍的に通用するものだという点では一致していましたが、それを具体的な形でどうまとめるかについては、研究者の間でさまざまな見解の違いがあったのです。

1911年にフラーは戦いの原則に関する研究を始めたとき、まず1909年度版のイギリス陸軍の野戦教範を研究したのですが、その最初には次のように書かれていたことを紹介しています。
「戦争の根本原則はそれほどたくさんあるわけではなく、また不安定なものでもないが、それを応用する方法が難く、法則のように見なすことはできない。原則を正しく状況に適用することは、それが本能になるほどの研究と実践によって作り上げられた健全な軍事知識の結果である」(Fuller 13)
これにフラーは感銘を受けたようですが、戦争の根本原則が何かというところについてはあまりはっきりとはしていませんでした。

ナポレオンが原点だったフラーの研究

ナポレオン・ボナパルトはフランス陸軍軍人であり、後に皇帝に即位する。ナポレオンは戦争を原理原則に基づいて指導することを主張していたこともあり、その思想はフラーにも影響を与えた。
次にフラーが興味を持ったのはナポレオンの戦争術であり、1912年にわたってフラーはこれを詳細に研究することで戦いの原則を明らかにしようと試みました。
その結果をフラーは自著を引用しながら次のようにまとめています。
「目標の原則:敵が最も決定的に撃滅される地点を真の目標とすることであり、これは一般的に最も抵抗が小さい前線に見出される。集中の原則:決定的地点に戦力を集中すること。攻勢の原則。警戒、奇襲、機動(例えば迅速さ)の原則」(Ibid.: 14)
つまり、この時点でフラーの研究は目標、集中、攻勢、警戒、奇襲、機動という6個の原則を定義したことになります。
フラーはここでいったん研究成果に満足し、それが便利であることを認識するようになります。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、フラーはイギリス陸軍の士官として従軍することになりましたが、そのさなかの1915年12月に彼は「1914年から1915年の戦役を参照した戦いの原則(The Principles of War with Reference to the Campaigns of 1914-15)」という論文を匿名で執筆します(Ibid.)。

この際にフラーは先ほどの6個の原則に加えて戦力節約に関する経済の原則と、部隊間の連携に関する協調の原則を追加し、自らの考えを修正しています(Ibid.)。
こうして、フラーの研究は広く知られ、1917年の夏にフラーはオールダーショットにある陸軍の学校で士官に戦いの原則について講義を行うように求められます(Ibid.)。

教官として影響力を増したフラー

カンブレーにある幕僚大学校の校舎。フラーは戦いの原則に関する研究が認められ、ここで高級士官のための教育に携わり、野戦教範の改訂の参考とするための資料を作成した。
フラーは教官となり、講義録は小冊子として1918年3月に刊行されたことで、イギリス陸軍におけるフラーの影響力はさらに高まりました。

第一次世界大戦が終わった1919年に、イギリス陸軍で野戦教範の改訂作業が進められた際にもフラーに戦いの原則に関する問い合わせがあり、先ほどの小冊子が研究資料として受け入れられました(Ibid.)。

その後もフラーは研究を続け、1920年7月には「戦争学の基礎(The Foundations of the Science of War)」と題する論文を発表し、それらをもとにして1923年には『戦争の変容(The Reformation of War)』という著作を出版します(Ibid.)。

幕僚大学校でも教官として務め、「戦争学(The Science of War)」あるいは「戦争術の分析(The Analysis of the Art of War)」に関する講義を担当しました(Ibid.)。

それらの授業でフラーは目標の原則、警戒の原則、攻勢の原則、機動の原則の基礎を改めて再検討し、奇襲、経済、集中、協調という4つの原則と併せて再整理しました(Ibid.)。

修正が加えられた戦いの原則

リデル・ハートはイギリス陸軍軍人だったが、退役後に軍事史の著述、研究に専念する。フラーの思想に影響を及ぼした一人だが、自身も間接アプローチといった概念を提唱した業績で知られている。
1923年の秋にこれらの原則は改めて書籍としてまとめられましたが、リデル・ハート(B. H. Liddell Hart)からの批判を受けて、もう少し単純な形に直した方がよいとフラーは考えるようになりました(Ibid.)。

さらに、いくつかの原則の呼称について修正を行います。
1924年版のイギリス陸軍の野戦教範では(1)目標の保持、(2)攻勢行動、(3)奇襲、(4)集中、(5)戦力の経済的使用、(6)警戒、(7)機動、(8)協調とまとめられたのは、こうした経緯からだったと説明されています(Ibid.: 16)。

このフラーの研究でまとめられた戦いの原則の(8)を指揮統一の原則に変え、簡明の原則を9番目に追加したものが現代の戦いの原則ということになります。

ちなみに、フラーはこの8個の原則を後に9個の原則に増やしているのですが、それは協調の原則を放棄し、持久(endurance)と決定(determination)の原則を加えたものでした(Ibid.)。
この戦いの原則はあまり知られていませんが、フラーが考えた戦いの原則を理解する上で興味深い修正です。

むすびにかえて

フラーにとって、戦いの原則が重大な関心事だったのは、それが軍事学の最も基本的な意義を持っていたためです。
それは戦争で勝つために守るべき鉄則を表しており、教育においても、実際の指揮にも役立つものです。

今でも戦いの原則は重要な軍事学者にとって重要な検討課題であり、新しく追加すべき原則に関する考察も行われています。
そのため、フラーが残した研究成果が持つ歴史的な意義は今後も維持されるものの、実際的な意義は低下する傾向にあると思います。

なお、戦いの原則を分析で実際に応用する方法については武内「戦いの原則」をまた別途参照してください。

KT

関連記事

参考文献
Fuller, John Frederick Charles. 2018(1926). The Foundations of the Science of War. Forgotten Books.
武内和人「戦いの原則:1939年のポーランド戦役を読み解く」『軍事学を学ぶ 2018年6月号』Kindle版、国家政策研究会、2018年

2018年6月22日金曜日

学説紹介 フリードリヒ二世の参謀部員―シェルレンドルフが語る18世紀の参謀組織―

軍事史においてプロイセンは近代的な参謀組織を初めて整えた国家であり、特に19世紀末以降には世界各国でその軍事制度が研究されたことがあります。

しかし、それは19世紀になって突然に誕生したわけではありません。18世紀の頃からプロイセン国王フリードリヒ二世(Friedrich II 1712 – 1786)の指導の下で少しずつ改善が進んでいたのです。

今回の記事では、シェルレンドルフの研究に依拠し、オーストリア継承戦争と七年戦争で名を馳せたプロイセン国王フリードリヒ二世が発達させた参謀組織について紹介したいと思います。

シェルレンドルフ(Paul Bronsart von Schellendorff, 1832-1891)は、プロイセン(ドイツ)の陸軍軍人であり、1883年から1889年までの6年にわたり戦争大臣を務めています。

彼は軍制に対する学識が非常に深かったことでも知られており、『一般幕僚の要務(Der Dienst des Generalstabes)』(初版1875年、2版1884年)の著者でもあります。これは普仏戦争が終わってから世界各国で研究された文献であり、プロイセンの参謀組織の発達に関する研究も含まれています(Schellendorff 1875)。

軍隊における参謀の役割とは

パウル・フォン・シェルレンドルフはプロイセン陸軍軍人であり、戦争大臣として在任している間に重要な改革を手掛けている他、軍事政策を中心に軍事学の著作も複数残している。
そもそも参謀組織とは何かというところから始めましょう。
軍隊においては、作戦の成否に関する責任を明確にするため、指揮官が全責任を負うことになっています。
例えば、師団の行動については師団長が、分隊の行動について分隊長が責任を引き受けることになり、合議による意思決定は一切行われていません。

しかし、部隊の規模が大きくなるにつれて、指揮官が処理すべき問題が複雑になると、単独で指揮をとることは現実的に難しくなります。
そのため、大隊以上になると指揮官に参謀がつくことになります。彼らは指揮をとることはせず、あくまでも指揮官の補佐に回るのが仕事となります。

戦時における参謀の具体的な役割について、シェルレンドルフは次のように解説しています。
1 軍隊の宿営、警備、行進、戦闘に関する現状に応じて必要な処置を行うこと
2 口達命令、あるいは文書命令を適時に必要な範囲で布告すること
3 戦域の特性や戦況に関する情報を収集、整理、分析し、地図や計画を作成すること
4 敵の部隊について得た情報を収集し、その価値を判断すること
5 我が軍の戦闘状況を監視し、あらゆる面で効率的に戦うことができる配置を維持すること
6 日誌を記述し、交戦について報告を書き、戦史編纂のための重要な資料を収集すること
7 その他の特別な任務、特に偵察を行う(Schellendorff 1907: 5)
ここで述べられている通り、参謀の仕事は作戦に関するものから、情報に関するものなど幅広く、戦時における指揮官の負担を軽減できるように考慮されています。

しかし、こうした参謀組織が普及したのは最近のことであり、それまでは指揮官が一手に引き受けなければなりませんでした。
プロイセン国王のフリードリヒ二世は、まさにそうした問題に直面した当事者の一人でした。

フリードリヒ二世に仕えていた参謀部員

ロイテンにおけるフリードリヒ二世とその参謀部員たち。フリードリヒは高級副官として8名を従えていたようだが、これだけの人数で毎日の情報収集、計画立案、命令書起案などの業務を処理することは難しく、フリードリヒ二世自身が相当量の参謀業務を処理していたことが推察される。
1740年にプロイセン国王に即位したフリードリヒ二世は軍事学に通じた啓蒙君主として知られていますが、1757年まで自身のための参謀組織を持っていませんでした。

より厳密に言えば、彼は需品総監の参謀部員から支援を受けることはできましたが、参謀の業務を指揮する参謀総長はいない状況であり、自身で相当な参謀業務を処理しなければならなかったのです(Ibid.: 12-3)。

シェルレンドルフの調査した未刊行の手書き名簿によれば、フリードリヒ二世を補佐した高級副官として置かれていたのは騎兵科の大佐が2名、歩兵科の大佐が6名(うち1名は旅団副官)でした(Ibid.: 13)。
さらに、下級副官として騎兵科の少佐1名と歩兵科の少佐4名がいたことも分かっていますが、それぞれが担当していた仕事の内容についてはよく分かりません(Ibid.)。

また、先ほどの需品総監は1728年から、需品総監補は1730年から参謀部員として国王を補佐していたようです(Ibid.)。
しかし、その体制は不安定だったようで、需品総監の補佐官は1756年の時点で6名いたのですが、七年戦争の最中に2名にまで減らされています(Ibid.)。

結局、フリードリヒ二世は、自分が頼りにできる参謀組織もなく、必要な情報要求を出すところから、作戦計画の立案作業、そして命令の起案業務までを一手に引き受けなければならない状態にあったのです。

段階的に進められた参謀組織の改革

フリードリヒ二世は戦時中に参謀組織を抜本的に改革することは避けていましたが、少しずつ改善を進めていました。

具体的な事例を見てみると、フリードリヒ二世が七年戦争の最中に置いた旅団副官というポストがあります。
これは地図がない地域で軍が行進を行うとき、最先頭を進み、行進縦隊を所定の方向に誘導しました(Ibid.: 14)。
旅団副官を含む高級副官は、下級副官と扱いが違っており、原隊で勤務する必要がなかったため、彼らは参謀部員としての業務に専念することが可能だったようです(Ibid.)。

フリードリヒ二世が高級副官を重視していたことは、各連隊から需品総監の補佐をさせるための中尉を選抜していることからも裏付けられており、七年戦争が終わった翌年の1764年に定員が12名に拡大されています(Ibid.)。

また、フリードリヒ二世は参謀部員の定員を拡大するだけでなく、その能力を高めることにも取り組んでいました。
シェルレンドルフの著作では多くの優秀な参謀部員がフリードリヒ二世の下で選抜されたことを紹介しています。

その中にはマッセンバッハ(Christian Karl August Ludwig von Massenbach 1758 – 1827)大佐が特別な審査を通過して需品総監の補佐官に任命されたことや、フリードリヒ二世本人から軍事学の指導を受けたリュッヒェル(Ernst Wilhelm Friedrich Philipp von Rüchel 1754 - 1823)が需品総監の補佐官に取り立てられたことも含まれています(Ibid.: 15)。

彼らはいずれも昇進を重ね、その後のプロイセン軍の近代化に多大な貢献を果たしています。その後のプロイセンに与えた影響を考えれば、フリードリヒ二世の改革は長期的なプロイセン軍の発展に寄与したといえるでしょう。

むすびにかえて

フリードリヒ二世の参謀組織は現代の軍隊と比べて弱小ではありましたが、フリードリヒ二世はその重要性を認識し、それを強化するために努力していたことが分かります。

プロイセン軍で近代的な参謀組織が発達する上でフリードリヒ二世自身の功績はあまり過大評価できませんが、それでも後に本格的な参謀本部を構想することになるマッセンバッハのような優秀な士官を取り立て、その後の陸軍改革に繋げたことは、歴史的に見過ごすことができない貢献です。

こうした歴史を学べば、組織を改革するということは、地道な改善の積み重ねであり、強いリーダーシップを発揮するだけでなく、世代を超えた長期的な努力が必要であることが分かるのではないでしょうか。

KT

関連記事
学説紹介 攻勢を好まなかったフリードリヒ二世の戦略思想

参考文献
Schellendorff, P. B. von. (1875). Der Dienst des Generalstabes, Berlin.(Schellendorff, P. B. von. 1907. The Duties of the General Staff, 4th edn. London: H.M. Stationery Office)

2018年6月16日土曜日

道路と行進―行進速度を計算する方法―

私たちはどこかに行こうとすると、どのような経路が使用できるのか、どれだけ時間がかかるのかを調べます。
軍隊の作戦計画を立案する作業でも、同じような経路研究が行われていますが、異なっているのは移動しようとする車両が1両ではないということです。

小隊や中隊程度の部隊規模であれば、特に複雑な計算は必要ないかもしれませんが、師団や軍団になってくると、行進の問題は極めて複雑になってきます。

今回は、軍団が車両行進を実施する場合を想定し、行進を計画する際に考えるべき問題を紹介し、分進合撃の有効性についても触れたいと思います。

細い道路に阻まれる巨大な部隊

3個師団で編成された軍団の指揮をとっていると想定しましょう。
この軍団を1本の道路上で前進させなければならないのですが、ざっと見積っても25,000両の車両を一斉に動かす必要があるとします。
このような条件下で25km前進するためには、どの程度の所要時間を見積もるべきでしょうか。

ここでは問題点を分かりやすくするために、行進縦隊ごとの間隔は無視することにしましょう。
車両間に100mの安全間隔を設定すると、1km当たり10両が路上の空間を占有しながら走行することになります。
したがって、軍団が道路を前進しようとすれば25,000/10=2,500となり、つまり路上空間を2,500kmにわたって占有することが予測されます。

変な話に聞こえますが、路上にずらりと並んだ軍団の全長は、これから前進しようとする距離の100倍の長さになるのです。
これだけ行進する部隊が大規模になると、時速25kmで安全走行を心がけ、道路状況に一切の異常がなく、25,000両が全て交通事故を起こさないとしても、25kmの前進には4日以上かかると考えられます。

ただし、どこか一カ所でも交通事故が起きれば、後続の車両がすべて遅れることになるため、実際に目的地に到着する時間はさらに遅れる可能性があるものと考えなければなりません。
行進のスケールをこのような数字で捉えると、軍隊の移動が一般的に考えられているより難しい問題であることが分かるのではないでしょうか。

分進合撃の威力を数字で考える

さらに議論を先に進めてみましょう。1本の道路で軍団の行進速度を向上させるには限界があることが分かりました。このままでは作戦上の要求に到底対応できません。

そこで、複数の経路を同時に使用する必要があると分かります。
つまり、軍団の戦力を数カ所にばらばらの地点から前進させ、所望の時期、場所で合流させる計画を立案しなければならないのです。このような方法を分進合撃といいます。

もし先ほどの軍団が使用できる道路が5本割り当てられたなら、25kmの車両行進の所要時間はどれだけ短縮できるのでしょうか。
まず25,000/5=5,000ですので、1本の道路に5,000両ずつ車両が配分されることになります。
どの部隊をどの道路に割り当てるべきかという点についてはひとまず脇に置いておきます。

5,000両が先ほどと同じ車両間隔で走行するとすれば、それぞれ500kmの路上空間を占有する計算になります。
その状態で各部隊が時速25kmで走り、特に事故も起こらなければ、20時間、つまり1日も経たずして部隊が行進を完了させることができると見積もれます。

大ざっぱに比較すると4分の1の速度で現地に到着できることになりますので、もし彼我の戦力が同じだとしても味方の軍団は予定戦場に先に全体の部隊展開を済ませることができます。
つまり、3日間を準備に費やした上で防御戦闘に臨むことができますし、展開未了の敵を捕捉して撃破する攻撃戦闘も可能なのです。

むすびにかえて

地形や気象、交通状況の変化などの要因を十分に考慮していない簡単な計算ではありますが、戦略機動する作戦部隊の規模が大きくなるほど、分進合撃の威力が増すことははっきりと認識できたのではないかと思います。
分進合撃は複雑な計画を必要としますが、戦場で集中させたい戦力規模が大きくなるほど、重要性が増す技術です。

19世紀にはナポレオンがこの方式を巧みに用いたことで知られており、彼の戦略思想の特徴として注目されることもあります。
その後、このような行進の方法は軍事学者の間でよく知られるようになり、クラウゼヴィッツも道路容量の制約と行進縦隊の全長との関係について考察を残しています。

KT

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