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2017年8月24日木曜日

論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

第二次世界大戦はさまざまな国家が敵味方に分かれ、それぞれが共通の目的を持って連合作戦を遂行しました。

連合国が枢軸国の陣営に対して最終的に勝利を収めることができたのも、この連合作戦の成功によるところが小さくなかったのですが、外交的、軍事的に見れば連合国の側の連合作戦にもさまざまな問題がありました。

今回は第二次世界大戦における連合国の連合作戦の問題について考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
モーリス・マトロフ「ヨーロッパにおける連合国戦略、1939-1945年」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、585-607頁

連合作戦の調整とそれぞれの政治的思惑
著者は第二次世界大戦でドイツやイタリア、日本を打倒するに至るまでの経緯を研究する場合、アメリカ、イギリス、ソ連という3カ国が、それぞれ別の思惑を持っていたことを明らかにすることが重要だと述べています(マトロフ、587頁)。
「大同盟を構成する各国は、それぞれの目的のために戦争を戦った。各国には、それぞれの戦略をつくり出す独自の政軍システムがあった。各国は、同盟の一因としての立場と、戦況の変化とによって妥協をはからねばならなかった。三つの同盟国は伝統も、利益、政策、地理、資源も異なっているため、ヨーロッパの戦争を違ったメガネで見ていた」(同上、586-7頁)
例えば、イギリスの戦略ではインドに通じる地中海の海上交通路を保護し、日本の脅威が高まる極東との連絡線を維持することが必要でした。

そのため、ヨーロッパ大陸に乗り込んでドイツから正面から戦うよりも、ドイツの占領地で反乱や破壊工作を支援し、消耗を強いることを望んでいました(同上、587頁)。

しかし、アメリカではイギリスとは異なり、ヨーロッパにおけるドイツよりもアジア太平洋における日本を深刻な脅威と見なされていました。

著者が述べているように「多くのアメリカ人にとっては、ドイツよりむしろ日本の方が本来の敵のように見えた」のです(同上、588頁)。

さらにソ連に目を移すと、英米と異なり日本とは戦争状態になく、必然的にドイツに対する作戦に専念していました。

それゆえ、ソ連軍は兵力を一正面に集中しやすい環境にあったのですが、「資本主義国による包囲をいまだにおそれ、敵にも味方にも同じように不信感を有するソ連は、第二次大戦を通じて、ぎこちない同盟国のまま」でした(同上、589頁)。

つまり、イギリス、アメリカ、ソ連は連合作戦について合意できる事柄はほんの一部に過ぎなかったのです。

戦争の最中に発展した連合国の対独戦略
著者はアメリカ、イギリス、ソ連の連合国が戦略構想を発展させる過程を1941年から1942年までの形成期、1943年の中間期、そして1944年末から1945年までの末期に区分して議論しています。

連合国としての戦略が議題となったのは1941年の初めにワシントンで開催された会議のときでした。

この会議でアメリカとイギリスはドイツの打倒をひとまず優先するという原則を確立し、日本軍に対しては連合国として防勢に徹することが決まります(同上、590-1頁)。

ただし、原則が確立された後も各作戦地域ごとの兵力の配分を決める段階で、さまざまな対立が生じました。

例えばアメリカ軍は対日戦のために太平洋に兵力をある程度残しておこうとしますが、イギリス軍は速やかにヨーロッパに兵力を移動させるよう反発したことはその一例です(同上、591頁)。

その後、アメリカとイギリスは北アフリカ方面に主力を派遣し、ヨーロッパ大陸の南側「柔らかな下腹」部分を攻撃の重点としますが、まだこの段階でソ連軍との連携は十分に図られていませんでした(同上)。

1943年に入るとソ連もスターリングラードの戦闘で勝利を収め、ドイツ軍に対して主動的地位に立つことができるようになっていました。

戦争全般におけるソ連軍の軍事的貢献が重要になると、ソ連が連合国の戦略策定に影響を及ぼす度合いも大きくなり、テヘラン会議ではソ連が強硬に北フランス侵攻を主張するようになります(同上、596頁)。

これは地中海で引き続き作戦を継続しようとしていたイギリスの立場と対立するものでした。
「チャーチルは、オーヴァーロードの延期という犠牲を払ってでも、イタリア、エーゲ海、東地中海で作戦を行うことを雄弁に訴えた。(中略)スターリンはオーヴァーロード作戦を強力に支持し、今後の地中海での作戦はオーヴァーロードを直接支援する作戦、すなわち南フランス進攻だけに限定すべきであると主張した。そのかわりソ連は、それらの作戦とともに東部戦線で全面的攻勢を開始することを約した」(同上、596頁)
ソ連軍はアメリカ軍、イギリス軍の兵力を使ってドイツ軍を東西から挟撃することが可能となり、これがオーヴァーロード作戦に繋がっていくことになり、第二次世界大戦の動向は終末期に向けて動き出すことになります。

次の時代を見据えた各国の戦略
1945年における連合国の対独作戦はおおむね順調に進んでいましたが、各国の思惑の違いが再び表面化しつつありました。

1944年までに確立されていた戦略に基づいてアメリカ軍とイギリス軍は着実に西ヨーロッパからドイツに向けて進撃を続けていたのですが、ソ連軍はポーランドからバルカン半島に向けて前進しています。

これは特に地中海に権益を持つイギリスにとって見過ごせない動きだったと著者は指摘しています。
「しかし、ポーランドとバルカンへの急速なソ連の進撃を注意深く見ていたチャーチルにとって、戦争はこれまで以上に大きな政治的利害をめぐる争いとなり、彼はドイツ軍の後退によって生じた真空地帯をうめるために西側連合軍を転用し、それによってソ連軍の殺到を阻止することを望んだ。戦略が戦場で展開されるにつれて、戦争にタイル二つのアプローチは、つまるところ、軍事的戦術か、政治的工作かという問題になった」(同上、599頁)
しかし、ローズヴェルトはこの重要な局面においてイギリスと同調してソ連に対するバランシングには動かず、あくまでもドイツと決着をつけるという姿勢を崩そうとはしませんでした(同上)。

これはローズヴェルトは対日戦に取り組むために、対独戦を早期に解決する必要があったためだったと著者は考察しています(同上)。

さらに、ローズヴェルトは熱心な国際連盟論者でもあり、勢力均衡に基づく国際政治の考え方を拒否したことも影響した、とも考えられています(同上、600頁)。

イギリスとしては地中海にソ連の脅威が及ぶことを防ごうと、アメリカに対して警告を発し続けますが、対独戦が予定よりも長引くにつれて、連合作戦の戦略策定におけるイギリスの影響力はさらに低下していきました(同上)。

むすびにかえて
第二次世界大戦における連合国の連合作戦を研究すると、それが各国の政治的・外交的思惑、戦略的考察を妥協で無理やり組み合わせたものであり、一貫性と呼べるものはほぼなかったことが分かります。

当時の連合作戦の特徴について著者も次のように結論付けています。
「その戦略は混成の産物―アメリカの直接さと、イギリスの用心深さと、ソ連のぶっきらぼうさの合成物―であった。その最大公約数は、大陸での巨大なクルミ割りの締めつけによってドイツを打倒することであった。しかし、連合同盟国の軍隊が互いに接近しドイツの敗北がより確実になると、その政治的食い違いはより明白となり、各国を結び付けていた絆も崩れ落ちた」(同上、606-7頁)
連合作戦は別の外国の兵力を自国のために利用する絶好の外交的手段に見えますが、 それは自国にとって薬にもなれば、毒にもなり得るものであり、その成否は国際情勢の動向よるところが大きいと理解する必要があります。

脅威が存在しなくなり、ともに戦う理由がなくなれば、それまで味方だった兵力が突如として敵に変わる可能性もある、ということです。

KT

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