最近人気の記事

2018年8月8日水曜日

文献紹介 日本はなぜ開戦に踏み切ったか

1941年12月に日本が下した対米開戦という決定は、政治的、戦略的観点から見て非常にリスクの大きなものであり、その後の研究でも当時の意思決定の妥当性が検討されてきました。

そうした研究の結果として、当時の日本の政策決定において、政治的リーダーシップをとり、包括的な戦争計画を構想できる主体が不在のまま開戦に至ったことが分かっています。
今回は、そうした研究成果を巧みに総合し、当時の対米開戦の原因が政策決定のプロセスにあったと指摘した著作を取り上げたいと思います。

文献情報
森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか:「両論併記と「非決定」」』新潮社、2012年

広い視野に立って対米開戦の経過を観察

著者の業績は政治的観点から日本の対米開戦を考察したものが多いのですが、陸海軍の内部で構想されていた各種の作戦計画に関する軍事的考察や、日本の対外諜報の実態に関する調査も行っています。

個別の人物や事象に視野を限定することなく、常に全般の政治状況を見据えた議論を行っており、この著作でもそうした視点の高さが複雑な事象に一貫した説明を与えることを可能にしています。

この著作の狙いは、これまでの研究成果を踏まえて、日本が対米開戦に至った経緯の全体像を示すことにあります。
まず、明治憲法における政治制度と政策決定のプロセスから始まっており(第1章)、日米交渉が行き詰まる1941年9月の政策決定の展開を描き(第2章)、近衛内閣の崩壊(第3章)、東条内閣の成立と対米政策の動揺(第4章)、対米交渉の条件や期限をめぐる内部の対立(第5章)と続きます。

そして、対米交渉の最終局面に日本がひねり出した条件である甲案と乙案のそれぞれの内容と思惑(第6章)、乙案に基づく対米交渉の展開(第7章)、そしてアメリカが日本に突き付けた「ハル・ノート」が与えた影響(第8章)が説明され、最後に対米開戦の決断に達しています。

政治的リーダーシップが存在しない政策過程

著者は、当時の日本がいかに多元的、分裂的な政治情勢の下で、政策決定を下そうとしていたのかを詳細な叙述とともに説明しています。

もともと明治憲法で規定された日本の政治制度は天皇を頂点としながら多元的な権力構造が形成されており、例えば政府組織と軍事組織がそれぞれ独立して天皇を輔弼(陸海軍の統帥部については輔弼ではなく輔翼)すると定められていました(森山、16頁)。それだけでなく、総理大臣と他の国務大臣との間にも指揮関係はなく、総理に閣僚の任免権がありませんでした(同上、16-7頁)。

これは総理と閣僚が対立した際に閣僚を辞めさせることができず、閣内対立が直ちに内閣崩壊に繋がる恐れがあることを意味します。
天皇は政争から距離を置き、統帥部と政府が一致して裁可を求めた際に、それを承認することが慣習となっていたので、総理は特に統帥部との政争で不利な立場に立たされることが少なくありませんでした。

この制度的な問題を解決するために、第一次近衛内閣では大本営政府連絡会議が設置され、政治と戦略の調整が図られたこともありました。
しかし、統帥部に対する統制が強化されることに反発した参謀本部は、1938年から開催に反対するようになり、連絡会議は2年以上にわたって途絶しています(同上、20-1頁)。

1940年12月からは大本営政府連絡懇談会が代わりに開催されるようになり、ここで国策の決定を行うことが始まりますが、この連絡懇談会は法的根拠を持たず、拘束力を持たせるためには閣議決定を必要としました。

ところが、この閣議では秘密保全を理由に作戦関連の事項が削除された文章が採択されるなど、政治と戦略の調整という本来の機能を果たすことはできていません(同上、23頁)。

そのため、当時の日本では重要な国家政策上の決定がコンセンサス方式で行われ、政策文章でも両論併記が行われていました(同上、40-1頁)。
「つまり、政策担当者の対立が露呈しないレベルの内容でとりあえず「決定したことにする」のが「国策」決定の制度であった」と著者は述べています(同上、41頁)。

むしろ、どうやって対米開戦を決定したのか

このような分裂的、多元的な政治制度を理解すれば、日本が対米開戦という重要事項を決定できたことの方がむしろ不思議に思えてきます。

著者は開戦に至る政策過程の経過で天皇、内閣、外務省、陸軍、海軍などが繰り広げた数え切れないほどの駆け引きが行われたことを示し、「その道程は決して必然的ではなく、どこかで一つ何かのタイミングがずれたら、開戦の意思決定は不可能だっただろう」と評しています(同上、212頁)。

ここで全ての経緯を示すことはできませんが、対米開戦に踏み切ることになった要因は大きく国内政治上の要因と国際政治上の要因に分けるとよいでしょう。
国内政治上の要因の一つとして著者が指摘しているのは、最悪の事態を想定することを避けなければ、そもそも政策決定それ自体が不可能だった、ということです。

1941年に東条内閣が発足し、国策の再検討が進むにつれて、どのような政策案を採用するにしても、日本に明るい未来はないということが明らかになってきました。

すでに米国が日本に対して石油の禁輸措置をとった以上、油田を獲得するための軍事行動を起こさず「臥薪嘗胆」の道を選べば、次第に資源は枯渇し、最後に日本は戦争遂行能力を失います(同上、158-9頁)。
しかし、対米開戦するとしても、日米の国力の格差は圧倒的であり、戦争が3年目以降に突入すれば、どうなるかは陸海軍にとっても不透明でした(159頁)。
それでは対米開戦を避け、英国とオランダに対してのみ開戦して南方に進出すればどうかという考え方も出てきますが、後になって米国が参戦すれば結局日本の本土と南方の作戦線を断たれることになり、敗れることは避けられません(同上)。

結局、日本は「最悪のケースに追い込まれることにおびえ、もっと最悪の事態を自ら引き寄せた」ということになります(同上、160頁)。
もし、対米戦が3年目以降に突入した際に惨敗することが、もっと明確に認識されていれば、政策決定はまた違った形になっていたに違いないと著者は主張しています(同上)。

むすびにかえて

日米開戦の原因に関する調査研究はさまざまありますが、著者の研究は当時の複雑な政治状況、政策過程を全体的、包括的に捉えられるように考慮されていると思います。

開戦の責任を陸軍や海軍といった特定の部署に帰するような議論もあり、著者もそうした論調に言及していますが、全体として見れば、やはり日米開戦は国内外の政治力学の結果として捉えるべきだったことが分かります。

国際政治の観点から見れば、戦争を理解する上で勢力均衡、特に軍事力の相対的な優劣は大変重要なものです。
ただし、国内政治の観点からも戦争の原因を理解しておくことは必要です。日米開戦はその必要性を示す格好の事例だといえるでしょう。

関連記事
論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦
文献紹介 なぜルイ十四世は戦争を繰り返したのか―シュンペーターの考察―