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2018年3月28日水曜日

学説紹介 シンプルで奥深いジョミニの戦略思想

ジョミニはスイス出身の軍人であり、ナポレオン戦争の頃にはフランス陸軍で、戦後はロシア陸軍で働き、19世紀のヨーロッパを代表する軍事学者として有名になりました。
最近、日本でも新しい翻訳が出るなど、部分的に関心が高まっている傾向も見られますが、依然として研究の量は少ないままであり、より多くの人がジョミニに関心を持つことが期待されます。

今回は、そんなジョミニの戦略思想について簡単に解説してみようと思います。ジョミニの学説の重要性について理解して頂ければ幸いです。

ジョミニにとって戦略とは何か

ジョミニの見解によれば、戦略とは「作戦地域の全体を含む図上で戦争を遂行する技術」と定義されます(Jomini 1862: 69)。
この定義はよく知られているものですが、あまりにそっけない定義なので、一読で理解しにくいところがあります。
補足すると、地図の上で戦争の計画を立てたり、必要な命令を起案する技術が戦略なのだと解釈できます。ただ、ジョミニが考えた戦略概念をより正しく理解するには、定義を調べるだけでは不十分です。

ジョミニが戦略をどのように把握していたのかを知るためには、彼が戦略、戦術、兵站を一つの近代戦争のシステムとして認識していたことに注意しなければなりません。
ジョミニにとって戦略は、近代的な戦争術を構成する要素の一つに過ぎず、戦術や兵站と並列に置かれる機能のように見なされていました。

これは「戦略はどこで行動するかを決定し、兵站は部隊をこの地点に動かし、大戦術はその部隊の要領と展開を決定する」という彼の言葉からも分かります(Ibid.: 69)。
戦争を指導する際にまず問題となるのは戦略の決定なのですが、それに基づいて部隊を移動させる兵站が機能しなければ、あるいは戦術に不備があれば、戦略それ自体も意味をなしません。

つまり、戦略、兵站、戦術がそれぞれの機能を果たすことを通じて戦争が遂行されるとされていたために、ジョミニは戦略の定義を形式的でシンプルなものに止めていたと理解することができます。

戦略家が研究すべき課題の一覧

ジョミニが考える戦略概念は兵站、戦術との関係を前提としていたと考えると、戦略の問題も自ずと明確になってきます。つまり、戦略の研究は兵站や戦術の研究を進める上での前提を与えるものでなければならない、ということです。

ここでジョミニが示している戦略の基本的な研究課題を示します。
 「戦略においては以下の論点が含まれている。
 (1)戦域の選択とそこに含意されるさまざまな関連に関する考察。
 (2)戦域の組み合わせにおける決勝点と、最も有利な作戦方針の決定。
 (3)恒久的な基地と作戦地帯の選択と設定。
 (4)攻勢と防勢における目標地点の選択。
 (5)戦略正面、防衛線、作戦正面。
 (6)目標地点と戦略正面を接続する作戦線の選択。
 (7)所定の作戦で最良の戦略線とあらゆる事態に対応するために必要なさまざまな機動。
 (8)必然的に使用する作戦基地と戦略予備。
 (9)機動と考えられる軍の行進。
 (10)補給処の位置と軍の行進との関係。
 (11)軍の避難場所として、また攻囲や守備に見られるように軍の前進の障害となる戦略的手段としての要塞。
 (12)駐屯地や橋頭堡に適当な地点。
 (13)牽制の実行とそれに要する大規模な分遣隊(Ibid.: 68-9)」
攻勢と防勢のいずれをとるのかといった課題は、まさに戦略の研究そのものだと言えますが、この一覧の全部をよく調べてみると、基地の設定や部隊の移動といった兵站に関連する項目が大部分を占めていることに気がつきます。

興味深いのは、敵に向かって展開、機動する軍の作戦線(line of operation)を確保することに大きな注意が払われていることであり、作戦目標となる地点と作戦基地となる地域との間の交通手段をどのように組み合わせるかについて慎重な分析が必要だとジョミニが考えていたことが伺われます。

作戦線が戦略の研究で焦点となる

作戦線の概念図、基地(base)から目標(objective)までの経路全体が作戦線に該当する。なお、作戦線上には決定的地点(decisive point)が占めており、ここを敵に攻撃されると作戦線の途絶の恐れが出てくる。
最後に、ジョミニが4つの戦略原則を確立したことを紹介します。その全文をここに示しますが、やはりそこでも作戦線の重要性が強調されています。
「戦争における全ての作戦の基礎には一つの根本原理が存在する。優れた作戦を立案するに当たって、それは必ず準拠しなければならないものであり、以下のような原則がある。
 (1)我の後方を掩護しながらも、その戦域の決定的地点または敵後方に対して、我の軍主力を戦略機動によって可能な限り継続的に指向すること。
 (2)我の主力が敵の一部と交戦するように機動すること。
 (3)戦場において敵を打破するために最も重要な決定的地点または前線の部分に対して主力を投じること。
 (4)単に決定的地点に対して我の主力を投じるだけではなく、適当な時期に十分な戦力で交戦する準備を整えること」(Ibid.: 70)
これだけを見せられると、ジョミニの戦略思想が政策との関係を軽視していたり、あまりに画一的な運用を重視していたとの印象を受けますが、そのことはジョミニは戦略という概念をあえて厳格に定義していたことを思い出せば理解できることです。

ジョミニは兵站や戦術を研究するための基礎を確立するために戦略の研究を位置付けており、彼我の軍の作戦線に対しては最大限の注意を払っていました。
それゆえ、ジョミニの原則においても作戦線という概念が基礎に据えられており、それを中心に望ましい戦略のあり方が構想されているのです。

むすびにかえて

ここまでジョミニの戦略思想について紹介してきましたが、現代の戦略に関する研究でジョミニの業績が参照されることは少ないと言わざるを得ません。
むしろ重視されているのはクラウゼヴィッツの業績です。理由ははっきりしませんが、クラウゼヴィッツは戦略を政治的目的を達成するために軍事的手段を適用することだと考え、ジョミニよりも広い意味で戦略を理解していました。
そのため、クラウゼヴィッツの考える戦略概念の方がジョミニのそれよりも理解しやすく、また概念を理論的に拡張するといった操作も行いやすかったのだと思います。

しかし、だからといってジョミニの戦略思想がクラウゼヴィッツのそれに劣るということにはなりません。
ジョミニの業績にはクラウゼヴィッツの業績にはない利点があり、特に作戦線の概念を通じて兵站と戦略を直接的に結びつけるジョミニの視点は、戦略の成否を分析する際の判断基準となり得るものです。

一般に後方連絡線が絶たれ、兵站支援が途絶することは、兵站を軽視した結果であると見なされることもあります。
しかし、ジョミニに言わせればそれは兵站の失敗ではありません。より根本的な問題として戦略が失敗した結果なのです。
戦略は、戦域の特性を踏まえ、全ての作戦線が絶えず掩護されるように軍を配備、機動しなければならず、後方地域で兵站支援が続行できる条件を完全に整えなければなりません。

政治的目的を達成するように軍を運用することも戦略ですが、その軍が兵站基地から切り離されることがないように処置することも戦略だということをジョミニは教えてくれます。

KT

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参考文献
Baron Antoine Henri de Jomini. 1862. The Art of War. trans. G. H. Mendell and W. P. Craighill. West Point: U.S. Military Academy.(邦訳、ジョミニ『戦争概論』 佐藤徳太郎訳、中央公論新社、2001年)

2018年3月26日月曜日

お知らせ 「軍事学を学ぶ 2018年4月号:中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線」

新しく配信する電子雑誌『軍事学を学ぶ 2018年4月号:中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線』の予約受付をAmazonのページ開始いたしました。

今号では「中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線」というテーマで最新の軍事学の研究動向を調査し、新たな論争の展開を示す学術論文の紹介記事3本と、演習問題1本の合わせて4本の記事でお届けしています。コンテンツの内容はいずれも本ブログには掲載していない書下ろしのものです。

配信日時とコンテンツの概要
『軍事学を学ぶ 2018年4月号:中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線』は4月7日土曜日に配信される予定です。下記リンクで詳細をお確かめ下さい。
ご承知の方も多いかと思いますが、A2/ADは中国軍の戦略を説明するために研究者の間で広く使われている用語であり、A2は接近阻止(Approach Denial)を、ADは領域拒否(Area Denial)を表しています。

A2/ADの狙いは弾道ミサイルや人工衛星といった手段を駆使し、西太平洋にまで及ぶ広い空間を中国軍の勢力下に置くことで、東アジアの紛争から米軍の勢力を締め出し、少なくとも弱体化させることを意図した作戦構想です。詳細については以前の記事でも解説しています。(今さら聞けない中国軍の接近阻止/領域拒否(A2/AD)

この中国軍の脅威に対抗するため、米国においては2010年前後からエアシー・バトル(現在は名称変更)をはじめとするさまざまな作戦構想が検討されるようになり、その議論の動向については対中戦略に関心を寄せる日本の研究者も注目してきたところです。
このブログでもエアシー・バトルに関連した研究をいくつか紹介しています。(事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは論文紹介 エアシー・バトル(AirSea Battle)とは何か、なぜ日本が関係するのか

今回の記事で取り上げている論文は、いずれも従来のA2/ADの研究を再検討する必要性について指摘したものであり、今後の論争に新しい方向性を与える可能性があるものです。

はじめの論文紹介「中国軍と米軍の勢力は拮抗する」で取り上げたビドルとエルリッチの研究論文では、中国軍のA2/ADとそれに対抗する米軍のエアシー・バトルのいずれの構想にも技術的な限界があり、東アジアにおける米中間の軍事力は均衡状態になるという予測が示されています。
A2/ADのような作戦が実際の技術的制約の下で実行可能かどうかについて検討されており、米軍のエアシー・バトルについても批判的な考察が述べられています。

次の論文紹介「中国軍の海洋進出に対抗できるのか」にて紹介した論文でも、東アジアで軍事的な均衡が維持されるとの予測が示されていますが、先ほどの研究と違うのは、米軍ではなく、台湾軍、自衛隊、ベトナム軍、インドネシア軍、マレーシア軍の勢力の重要性を指摘しているところです。
米軍が中国軍の海洋進出に直接対抗することは必要ではないという積極的阻止との戦略が提唱されており、米国の戦略論争の動向を考える上でも注目すべき議論です。

最後の論文紹介「接近阻止の理解を問い直す」で取り上げた米海軍大学校の研究者が発表した論文では、接近阻止に対する過去の研究者の理解の仕方そのものが批判されています。
現代の中国に限らず、過去の軍事史で見られる接近阻止戦略の特徴を一般的に研究すると、非軍事的手段の運用が大きな役割を果たしてきたことが分かります。
それにもかかわらず、米国における接近阻止の議論はあまりにも軍事的側面ばかりに注目しており、バランスを欠いた対策が米国政府によってとられていることに対して懸念が示されています。

最後の演習問題のコーナーでは、古代の戦争史からマケドニア国王であるアレクサンドロスがペルシアを遠征する際に採用した政策と戦略について考えています。
単に歴史上のアレクサンドロスとダレイオスが戦争でどのような駆け引きを繰り広げていたのかを学ぶだけでなく、自分がアレクサンドロスの立場に立った場合にどのような決定をしたのかを考えて頂くきっかけになればと思います。

むすびにかえて

軍事学の研究情報誌というコンセプトはこれまでに聞いたことがないもので、当方としても初めての試みとなりますが、軍事学の最先端でどのような議論が行われているのかを日本で手軽に知ることができるようになれば、一定の社会的意義があると判断した次第です。

次号の刊行時期に関しては未定ですが、21世紀の戦争形態と陸上作戦の今後というテーマで論文紹介の記事を準備し、演習問題も作成中です。また詳細が決まり次第、告知させて頂きたいと思います。

引き続き軍事学の普及促進に繋がる活動を続けていきたいと考えております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

KT

2018年3月21日水曜日

学説紹介 戦場における歩兵と戦車―グデーリアンが考える諸兵科連合―

第一次世界大戦で戦車が初めて実戦に投入されて以来、この新兵器をどのように運用すべきかをめぐって議論が交わされてきました。
ある者は歩兵を支援する兵器として戦車を位置付け、ある者は戦車を独立して運用すべき兵器として位置付けたのです。

今回は、ドイツ陸軍軍人であるグデーリアンが戦間期に歩兵と戦車の協同についてどのように考察していたのかを取り上げ、複数の兵科の部隊を協同させる諸兵科連合(combined arms)の観点からそれにどのような意義があったのかを考察してみたいと思います。

歩兵と戦車の協同はどうあるべきか

グデーリアンは第一次世界大戦の戦闘を経験して以来、戦車の役割に関する論争が二つの陣営に分かれて繰り広げたことを紹介しています。

一方の論者は歩兵こそ唯一無二の「戦場の女王」であると考え、それ以外の兵科は歩兵部隊を援助する役割を果たすべきだと主張しました(邦訳、グデーリアン、393頁)。
すなわち、歩兵部隊が徒歩で戦場を移動している間、機甲部隊は動く楯のように歩兵の前方で行動するべきだということです(同上)。

この思想に反対するのが機甲部隊の独立を主張する論者であり、彼らはその機動力を活用して敵の側背を突き、さらに縦深にわたって敵陣地を突破するという新しい戦術運用を構想していました。
このことによって、防御陣地に立て籠もる敵部隊を奇襲することが可能となり、塹壕戦で手詰まりになる事態を避けようということです(同上、394頁)。

グデーリアン自身の思想は基本的に後者のものでしたが、諸兵科連合という観点から見て機甲部隊と歩兵部隊との協同が重要であることも認識していました。次の記述からもそのことが読み取れます。
「他兵科との協同は、装甲部隊にとって必要なことである。それ単独では(他の兵科もまたそうであるように)、与えられる戦闘任務のすべてを遂行できないからだ。装甲部隊には他兵科の部隊と協同する義務があるし、逆もまた真なり、他兵科の部隊が恒常的に戦車との協同用に配されているとあらば、なおさらである」(同上、394頁)
機甲部隊の独立性が重要だとしても、機動力が全く異なる二つの兵科を戦場でどのように運用すべきかという問題への解答にはなりません。
将来の戦争で歩兵と戦車の協同を実現するためには、戦術の観点から詳細な分析が求められていました。

対照的だったイギリスとフランスの対応

グデーリアンは歩兵と戦車の関係をめぐる論争を整理するため、イギリスとフランスとの間で対応がどのように異なっているのかを調査しています。

当時、イギリス陸軍の教範では、歩兵との協同を維持しつつも、戦車がその本来の機動性を活用して攻撃できるように配慮することを優先するように指示されていました。
「他兵科との協同に関しては、1927年にイギリス軍が出した『戦車・装甲車による訓練に関する暫定教令』の文言が重要だ。以下、引用する。「その出現以来、目下のところ、戦車は主要戦闘兵器となっている。それゆえ、戦車と歩兵の協同攻撃は、歩兵の前進や砲兵の支援射撃に鑑みても、戦車の攻撃に好都合なように区分されなければならない。戦車の機動性はすべて活用されなければならないのであり、目標選定や攻撃の時間配分案もそれに左右される」」(同上、394-5頁)
フランス陸軍の戦車に対する認識はイギリス陸軍とかなり対照的なものでした。グデーリアンの調査によれば、フランスでは戦車が歩兵の協同において従属的な役割を与えられており、戦場で機動力を発揮することはあまり期待されていません。
「ここで、イギリス軍の見解のかなりの部分が装甲部隊の独立運用に傾いているのに対して、公表された1935年のフランス軍教範『歩兵教則第二部 戦闘』は従前通りに歩兵と戦車の緊密な協働を要求していることを強調しておこう。このフランス軍教範は「戦車との戦闘」の章で、戦車に関して、世界大戦終結時の技術的状態による数字を挙げている。たとえば、軽戦車の最高速度は時速7キロ、戦闘速度は時速2キロ、平均速度は時速3.5キロといったぐあいだ」(同上、402頁)
また、フランス軍の教範では、戦車が歩兵と同じ目標を攻撃することも記されており、歩兵中隊が攻撃する場合は戦車小隊1個が、歩兵大隊が攻撃する場合は戦車中隊1個がこれを支援することも紹介されています(同上)。

歩兵と戦車との協同についてイギリスとフランスの取り組み方がどれほど異なっていたかが分かりますが、グデーリアンは一概にイギリスを称賛し、フランスを批判しているわけではありません。
基本的にイギリスの考える独立した機甲部隊の運用が望ましいものの、諸兵科連合として歩兵と戦車の直接協同を考えるならば、フランスの取り組みにも評価すべき要素はあると認めています。

グデーリアンが考える歩兵と戦車の協同

前述のように議論をまとめた上で、グデーリアンは自らの考える歩兵と戦車の協同についていくつかの原則を示そうとしています。
グデーリアンによれば、歩兵と戦車の協同を考える上で重要なことは地形であり、地形の特性に応じて対応を分類する必要があります。

もし堅固な防御陣地を敵が占領しているとしても、その前方に多数の起伏や建物があれば、攻者はこれら地形地物を利用して攻撃することが可能であるため有利です。
しかし、身を隠すものが何もない地形であれば、敵陣地に到達するまでに激しい射撃を受けることになるため、攻撃には不利だと言えます。

絶対に避けるべきは掩蔽されていない敵陣地の正面を歩兵と戦車が同じ速度で攻撃前進することであり、これは不必要な損害をもたらすとグデーリアンは警告しています(同上、405頁)
この場合、まず戦車が歩兵に先行して突撃を開始し、直接照準射撃で敵の陣地を制圧している間に歩兵がそれに追随すべきと考えられています(同上)。

しかし、もし反対に攻撃する側にとって有利な地形であれば、グデーリアンは歩兵と戦車が同時に攻撃することは可能だと認めており、あえて戦車の機動力を使わずに歩兵と共に前進してもよいと考えました。

さらに興味深いのは歩兵が戦車に先行して攻撃すべき場合についても考察されていることであり、次のように記述されています。
「歩兵が、戦車よりも先に攻撃する場合、歩兵はまず他兵科、とくに砲兵と工兵によって支援されていなければならない。この方法は、河川の一部や遮蔽物といった障害物が、戦車の速やかな投入を妨げていて、最初に他兵科の部隊が橋頭堡もしくは通路を確保しなければならないときに用いられる」(同上、405頁)
なお、このような攻撃要領をとる場合、戦車は歩兵が攻撃を行う前進軸に対して斜めの方向にそれながら前進し、別の側面から攻撃することも述べられています(同上、406頁)。

また、視界が悪化しても味方同士が識別できる目印を用意し、きちんとした隊形を整えておくことの重要性についても記述があります(同上)。
これらはいずれも味方である歩兵と戦車の間で誤射などが起こらないようにするための処置だと言えます。

むすびにかえて

軍事学におけるグデーリアンの業績は、機甲戦術の研究を発展させたことだと一般的には考えられています。
確かに、戦間期の陸軍においてグデーリアンの立場は機甲部隊の独立的な機動運用を重視する潮流に属しており、フランスよりもイギリスの研究に影響を受けていました。

ただし、グデーリアンがフランスが考えていた戦車と歩兵の協同の問題を見逃していたわけではなく、大きな関心を持って研究していました。
諸兵科連合に基づいて、戦車と歩兵が緊密に協働する場面においては、地形、状況に応じて、機甲部隊の機動力をあえて使わない運用も可能であり、むしろ歩兵が先行して戦車がそれに続行するような戦術も検討する必要があると考えていたのです。

KT

参考文献
ハインツ・グデーリアン『戦車に注目せよ:グデーリアン著作集』大木穀訳、作品社、2016年

2018年3月15日木曜日

学説紹介 大艦隊がなくても海洋は支配できる―地中海を閉鎖したローマの戦略―

大陸を支配するなら陸軍を、海洋を支配するなら海軍をそれぞれ強化するという考え方は、国家政策として当然に思えます。しかし、軍事的にはそれが常に正解とは限りません。
大規模な海上兵力がなくても地理的条件によっては陸上兵力だけで海洋の支配を確立できる場合があるためです。

今回は、そのことを示すために、ローマの戦略に関するイギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーの分析を紹介したいと思います。

大艦隊なしでも海洋の支配は可能
戦略の研究では、海上交通路を防護するには大規模な戦闘艦隊が求められるという説があり、その根拠は19世紀後半に米国海軍軍人であるマハン(Alfred T. Mahan)のシーパワーの理論に求められます。

しかし、マッキンダーはマハンと異なる視点でシーパワーを考察しました。
艦隊が究極的には陸上にある海軍基地に依拠していることから、海域の地理的条件によっては陸上兵力で支配することもできると論じたのです。
「一般にわれわれがシー・パワーについて語るとき、よくその機動性とか、またその行動半径の長いことなどが長所としてとりあげられる。しかしながら、とどのつまりシーパワーを生かして使えるようにするものは、よく整備された、また生産力にすぐれた、安全な基地である」(邦訳、マッキンダー、46-7頁)
ここで述べている基地とは、港湾だけのことを指しているのではありません。艦隊の造成に必要な造船能力や整備能力、さらに食料や物資の備蓄を併せ持った都市的な地域のことです。

ある海域で基地を失うことは、そこで艦隊が継続的に作戦行動をとることはできなくなることを意味します。
そのため、マッキンダーは敵の基地をくまなく陸軍で占領することができれば、それだけで敵艦隊は活動不能になると論じています。
「たとえ海軍力の保護がなくても、海上の通商が安全に行われる場合がある。それは、あらゆる沿岸地帯がたった一つの陸上勢力(ランド・パワー)によって占められたときである」(同上、48頁)
もちろん、これはあらゆる海域に適用可能な戦略とは言えないでしょう。その海域の広さが限定的であり、しかもその海域の外部から艦隊が進出できないことが必要だからです。

こうした観点から見れば、他の海域から侵入しにくい地中海は、陸軍に依拠した海洋戦略を実施する上で好都合な戦域と言えます。

ローマにより閉鎖海になった地中海
紀元前226年の西地中海における勢力圏の概要。赤色がローマ人、緑色がカルタゴ人、黄色がギリシア人の勢力圏を表す。シチリア島の南部にあるシラクサ付近で三者の勢力圏が拮抗している。ポエニ戦争の結果、紀元前2世紀にカルタゴは滅亡し、ギリシアの勢力圏もローマに飲み込まれていく。
(Wikimedia Commons: Mediterraneo occidentale nel 226 a.C. dopo la prima guerra illirica (230-229 a.C.))
もともとローマはイタリア半島でも内陸部に立地し、テベレ川を通じて海上交通路と結ばれていたに過ぎません(同上、49頁)。
その地理的制約もあって、ローマが地中海に向けて海洋進出の動きを見せるのは、カルタゴが地中海で支配権を獲得した後であり、戦略的には大きく出遅れていたと言えます。

それでもローマ軍は3度にわたるポエニ戦争によってカルタゴを征服し、地中海に進出する上で重要な一歩を踏み出しました。
それでも、当時のローマの勢力圏は西地中海に限定されており、東地中海に向けてさらに勢力圏を拡張する余地が残されていました(同上、50頁)。
紀元前31年のアクティウムの海戦に勝利したローマはようやく地中海を一つの閉鎖海として完成させます。
この時からローマはシーレーン防衛のために巨大な艦隊を維持する必要がなくなったとして、マッキンダーはその歴史的意義を強調しています(同上、50-1頁)。
「事実、少数の警察のパトロール用を除けば、ローマは地中海の動脈ともいえるシーレーンを完全に確保する目的のために、まったく海軍力を必要としなくなった。これは、エジプトの国王達がナイル川の水流を支配したのと、ほとんど同じくらいの気楽さだったろう。これでまた、ランド・パワーがシー・パワーからその基地群を剥奪することによって、海上の覇権をめぐる一連の闘争に終止符をうつ、という歴史の一齣が完了したわけだ」(同上、52頁)
こうしてローマは強大な艦隊を維持することなく、ほとんど完全な制海権を手に入れました。

沿岸地域に沿って延長される防衛線

117年、ローマ帝国の領土が最も拡張されると、ヨーロッパから北アフリカ、中東に至る長大な防衛線が出現した。沿岸地域を防衛するため、東方、南方、北方の3正面に対して兵力を広域的に分散配置する必要が生じる。(Wikimedia Commons, Andrei nacu, The maximum extent of the Roman Empire
ただし、地中海の制海権と引き換えに、ローマ人は陸上で長大な防衛線を抱えることになります。つまり、この戦略に代償がまったくなかったわけではないのです。

沿岸地域を防衛するためには、港湾が整備された臨海都市を中心に守備を固めることが基本的な問題となります。
しかし、保持すべき都市の数があまりにも多くなると、各地に基礎配備しておくべき兵力規模が増大し、それに伴って恒常的に支出される部隊の維持費も膨らみます。

それだけでなく、ローマの戦略に関するマッキンダーの分析の中では、地中海の閉鎖性を脅かした勢力としてノルウェーから西ヨーロッパに進出してきたバイキングと、アラビア半島を基地としてシリアやエジプトに圧力を加えてきたイスラム勢力を挙げています(同上、55頁)。

個別に見れば小規模な兵力であったとしても、こうした脅威が地中海を取り囲む防衛線に進出して前哨陣地の守備や都市に襲撃を行う場合、事態の打開には長期間を要すると考えられます。

むすびにかえて

ランドパワーは大陸を、シーパワーは海洋を支配するものと考えられがちですが、ランドパワーであったとしても地理的な条件さえ整えば海洋を支配することは可能であり、そのことは歴史的にも確認されていることです。

マッキンダーの分析はランドパワーが海洋進出を行う際にどのような行動パターンをとるのかを予測する上で役立つものです。
つまり、ランドパワーが海洋進出する場合には、海域を取り囲む沿岸地帯を大きく一周するような運動を見せるということです。

沿岸地帯における基地を一つずつ攻略していけば、その海域を最終的には閉鎖し、自国の勢力圏に組み入れることが期待されるのです。
ただし、この方法で制海権を確立するためには沿岸地域の広域的な防衛体制を長期的に維持する必要があるため、この戦略をとる相手国に対処する場合には、その弱点を突くことが重要だと言えるでしょう。

KT

関連記事
学説研究 国際政治におけるランドパワーの重要性
論文紹介 海上優勢とは何か
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論文紹介 ローマ帝国の衰退と国家社会主義の限界

参考文献
Mackinder, Halford J. 1962(1919). Democratic Ideals and Reality. New York: Norton.(邦訳、H.J.マッキンダー『マッキンダーの地政学 デモクラシーの理想と現実』曽村保信訳、原書房、2008年)

2018年3月8日木曜日

学説紹介 火器の発達は戦争の形態を変えたのか―14世紀の中国から軍事革命を見つめ直す―

潜水艦、航空機、核兵器など軍事史に重大な影響をもたらした兵器はさまざまありますが、長期的に見て特に見過ごせない影響を及ぼしたのが火器、つまり火砲や小銃の影響です。

軍事史の研究では依然から16世紀の近世ヨーロッパで火器が普及したことにより、軍隊を支える政治、経済システムも大きく変化したという「軍事革命(military revolution)」の議論があり、ヨーロッパの列強が世界進出に成功した一因としても大変重視されています。(軍事革命の概要についてはウィキペディアのページにも短い説明があるようです)

しかし今回は、そうしたヨーロッパ史の研究に依拠した軍事革命の解釈を批判し、アジア、とりわけ中国の軍事史を踏まえた解釈を打ち出そうとした研究を取り上げ、その成果の一部を紹介したいと思います。

軍事革命論争で単純化されていた火器の影響

17世紀にヨーロッパで描かれた武器教練の解説書の挿絵(Jacob de Gheyn, Drill zur Waffenhandhabung bei Musketieren, 1664)
軍事革命の議論に対する批判はいろいろあるのですが、その一つには火器の影響に関する批判があります。
研究者のロージ(Peter A. Lorge)は軍事革命に関する従来の議論が抱えている問題点として、アジア各地の軍事情勢で火器の発達がどのような影響を与えたのかが十分に考慮されていないのではないかという指摘を出しました。

つまり、軍事革命の議論ではヨーロッパにおける火器の影響が念頭に置かれてきたために、それ以外の地域で火器が軍事的にどのようなインパクトを持っていたのかを比較検討できていないということです。
結果として、軍事革命の議論における火器の解釈にはヨーロッパ中心史観の影響があり、あまりにも単純化して理解されていると著者は考え、次のように論じました。
「アジアの社会と文化は、銃砲に対して、後にはヨーロッパの戦争流儀に対しても異なる反応を示した。だが、こうした議論の多くは非常に大事な点を見逃している。もし技術が文化の枠外で発達したのでないならば、それは発明というある種の客観中立的に見える世界に存在するものというよりはむしろ、ある種の文化的産物なのである。そこには興味深い組み合わせが見て取れる。銃砲は、中国ではその軍事的環境を離れて発達したのではなく、その枠内で発達していたのだった」(邦訳、ロージ、23頁)
したがって、同じ科学技術(軍事技術)を持っていたとしても、具体的な装備開発や運用方法では大きな地域差があるため、ヨーロッパの歴史だけで火器の影響を考察することは適切ではない、ということになります。

もし火器の影響を歴史的に考えるならば、それが使用された軍事情勢にどのような地域的な差異があったのかを理解することが大前提として必要でしょう。そうでなければ、火器が戦争の歴史に与えた影響を過大評価することにも繋がりかねません。

著者は火器の影響が地域により異なることを説明するために「文化的産物」という言葉を使っていますが、これは戦略文化(strategic culture)の産物と読み替えた方が理解しやすいと思います。
というのも、著者のその後の議論では文化それ自体を問題にしているというよりも、それぞれの軍事情勢への戦略的対応の相違が問題としているためです。

14世紀の中国ですでに普及していた火器

17世紀に畢懋康の『軍器圖説』で解説されている明軍の部隊教練。
もともと火薬が発明されたのは9世紀はじめの中国だったことはよく知られています。しかし、中国において火器の軍事的な使用が本格的に始まるまでには相当の時間がかかっているとロージは見積もっており、推定で13世紀後半、確証が得られるのは14世紀に入ってからだと述べています(同上、82-3頁)。

14世紀の中国で火器はもはや目新しい武器ではなくなっていた可能性が高く、この見方は考古学的な研究でも裏付けることが可能です(同上、82-4頁)。
ロージの記述では、120万名から180万名程度の規模と推定される明軍においては10%ほどの兵士が火器を使用していたこと、首都の武器工場では毎年3000門の火砲と3000丁の銃が製造されていたとも紹介されています(同上、80頁)。

これだけ大規模に火器が使用されていたなら、ヨーロッパで見られたような軍事革命、つまり火器の軍事的な使用に伴う政治的、経済的な変革が中国で起きていたと推察されるところです。
しかし、中国における火器の影響はヨーロッパにおけるそれと比べてはるかに限定的なものであり、少なくとも単独で革命的な影響を及ぼすようなことはなかったようです。
ロージはその背景には当時の明が脅威としていたのが、モンゴル人の騎兵だったことと関係していると指摘します。
「銃砲は、中国軍にとって、遊牧民騎兵に対する切り札になりそうになかったから、これを発達させる必要はなかった。だが、鉄砲は包囲攻城戦や海戦では非常に威力があり、帝国創設者にとって戦闘の切り札的存在であった。銃砲、とりわけ榴弾砲は、野戦でそれほど威力を発揮した訳ではなかった」(同上、84-5頁)
1372年に明軍がモンゴル人の騎兵戦術に大敗を喫したこと(同上、89頁)、さらには15世紀に明軍がモンゴル高原から軍事的に撤退し、万里の長城を再建したことを考えれば、火器の導入が軍事バランスに大きな変化をもたらしたと判断することはできません(同上、90-1頁)。

中国の事例を知れば、16世紀のヨーロッパで起きたとされる軍事革命の原因に対する理解にも疑問が出てきます。

軍事技術が戦争形態の変化やそれに連動する政治的、経済的なシステムを変革させる要因として位置付けることは適切ではなく、むしろ各地域の特性を反映して形成される戦略文化、ロージの言葉を借りれば「文化的産物」をより重視する必要があるのかもしれません。

むすびにかえて

ロージの議論も含めて軍事革命に関する論争は必ずしも決着がついた状況ではありません。この議論は軍事史、引いては軍事学において科学技術の影響をどのように理解するのが適切なのか、その視座をめぐって展開されている側面があり、非常に入り組んだ論点だからです。

現代の軍事情勢を理解する上で科学技術は非常に重要な役割を果たしていると一般に考えられており、それは現にその通りなのですが、その影響の程度を考察する際には背景的な要因についても注意しておく必要があるでしょう。
軍事技術それ自体が戦争を遂行するわけではありませんので、個々の軍事技術の内容をどのように当事者が認識し、それを軍事的にどう活用しようとしているのかを考察することが将来の戦争を考える上で重要だと思います。

KT

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参考文献
Lorge, Peter A. 2008. The Asian Military Revolution: From Gunpowder to the Bomb. Cambridge University Press.(邦訳、ピーター・A・ロージ『アジアの軍事革命:兵器から見たアジア史』本野英一訳、昭和堂、2012年)

2018年3月1日木曜日

学説紹介 連合作戦を遂行するための戦略の原則―クラウゼヴィッツの分析―

現在の日本は自らの防衛力を保持しながらも、米国との同盟に依拠する程度が大きく、有事においては両国が緊密な軍事的連携をとることが求められます。
軍事学において、このような数カ国が参加して行われる作戦は連合作戦と呼ばれているのですが、その実施は政治的、外交的利害の不一致から非常に難しくなると指摘されています。

今回は、連合作戦の問題について考察するため、クラウゼヴィッツの学説を取り上げて、そこでどのような戦略的原則が主張されているのかを紹介したいと思います。

指揮統一の徹底と作戦計画の共有

クラウゼヴィッツは政治、外交にも見識がある軍事学者でした。そのため、彼は勢力均衡の観点から同盟が極めて重要な働きを持っていることをよく理解し、連合作戦の必要性についても認めていました(邦訳、ロートフェルス、233-4頁)。

しかし、軍事的観点から見れば連合作戦は非常に難しい作戦であることも事実であり、クラウゼヴィッツはそれを遂行するには二つの基本的な原則に従うべきと考えました。一つは指揮の統一、もう一つは計画の共有です。
「有用な同盟関係にもとづいて目的にかなった戦争を行うために私の知っている事は、ただ二つの手段を用いることである。その一つは、戦争のために定めた戦闘用資材人員を集積してそれを投入する、そしてその指導を一人の将帥に委任することである」(同上、237頁)
「いま一つは、それぞれの国の自然的状態および利点にもとづき、共通の戦争計画を起案し、その後のしかるべき時機にその計画に関する一層詳細な原則や実例を与えるのである」(同上、237-8頁)
クラウゼヴィッツは、それぞれの措置の重要性について比較検討しているわけではありませんが、前者は後者よりも大きな意味を持っていると言えます。
つまり、2人の指揮官が部隊を指揮するのではなく、1人の指揮官が部隊を指揮することになれば、当然の結果として作戦計画は共有されるためです。

このような措置が必要な理由は、同盟国が戦時になってから利害相反に直面し、兵力の効率的な運用が妨げられるためです。
もし2人の指揮官が別々の計画に基づいて部隊を動かせば、敵部隊はこれを容易に各個撃破できるでしょう。

指揮統一がなされない場合の連合作戦

連合作戦を成功させるために指揮統一の原則が極めて重要だとクラウゼヴィッツが考えていたことが分かりましたが、もちろんこの原則がそのまま適用できないような状況は当然起こる可能性があります。

そのため、クラウゼヴィッツは続く考察で自らの分析をさらに展開し、二つの国の部隊の指揮を統一できないのだとすれば、それぞれ異なる作戦地域で活動することになるとして次のように述べています。
(1)二つの強国のそれぞれの重要な軍隊は、おそらくはそれぞれの独自の戦域をもつに違いない。
(2)それらの軍隊がそれぞれ独自の戦域をもつほどそれほど完全に離れて存在することができない場合、この場合はそれら軍隊をできる限り密接に相互に融合させる方が一層有利である。
(3)もしそれぞれの国の軍隊が独自の戦域をもつならば、それによって恐らく次の条件が生じるに違いない。(a)独自の戦域が攻勢的であるとすれば、この攻勢の目的をなす征服は攻勢を行おうとする強国の手中にある。(b)独自の戦域が防勢的であるとすれば、この防御に当たる強国の領土は不運な防御によって危険にさらされるに違いない。(同上、239頁)
ここで述べられている(3)の原則は連合作戦の利害を考える上で重要な意味を持っています。
例えば、A国とB国が指揮を統一せずに異なる地域で別々に作戦を遂行するなら、A国とB国はそれぞれの担当地域で攻勢をとるのか、防勢をとるのか別々に決めることになります。

このような情勢になると、敵対するC国がB国に向けて兵力を投入し、B国はそれに対して防勢に回って、A国だけがC国に攻勢をとる状況が起こってきます。そうなれば、B国はA国との同盟に基づいてC国と戦い、その損害を受けるにもかかわらず、A国だけがC国の領土に侵攻し、戦果を独占できると考えられます。

これが「不運な防御によって危険にさらされるに違いない」とクラウゼヴィッツが述べている意味であり、連合作戦が同盟国の間の利害の相反を浮き彫りにする危険があるものと認識しなければなりません。

むすびにかえて

一カ国だけで脅威に対応できるだけの十分な兵力を確保できない場合、同盟を結んで数カ国の兵力で対抗することが避けられません。
しかし、そのような同盟が実際の戦争で役に立つとは限らず、加盟国が増大するほどに利害の調整が難しく、指揮の統一や計画の共有で支障が出ることも考慮しなければなりません。

中国の軍備拡張が今後も続くと予想される以上、日本は米国との同盟を強化する必要がありますが、その際にも連合作戦がどのような難しさがあるのかをよく理解しておくことが重要だと思います。

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参考文献
Rothfels, Hans. 1980(1920). Carl von Clausewitz, Politik und Krieg: Eine ideengeschichtliche Studie. Dümmlers Verlag.(邦訳、ハンス・ロートフェルス『クラウゼヴィッツ論、政治と戦争:思想史的研究』新庄宗雅訳、鹿島出版会、昭和57年)