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2018年2月25日日曜日

事例研究 第二次世界大戦におけるフィリピンの敗北―ケソンとマッカーサーの挫折―

フィリピンは北の台湾、南のインドネシアに挟まれて位置する国であり、東にフィリピン海、西に南シナ海に面した島嶼国家です。
第二次世界大戦で何度も戦闘が繰り広げられた地域としても知られており、現在では中国の南シナ海への進出の脅威に直接さらされている国でもあります。

今回は、そのフィリピンの安全保障について考えるため、第二次世界大戦でフィリピンがどのような政策、戦略をとっていたのかを紹介してみたいと思います。

日本の脅威を見据えたケソンの対外政策

マニュエル・ケソン(Manuel Quezon)
第二次世界大戦が勃発する5年前の1934年、米国の連邦議会でフィリピンの独立を承認する法案が成立し(タイディングス・マクダフィー法)、翌1935年に独立準備を担う政府を率いる大統領としてマニュエル・ケソン(Manuel Quezon)が選挙で選出されます。

ケソンはフィリピンを独立国家とすべく国内外の課題に取り組みますが、その中で特に困難な問題だったのが国防でした。
1939年のデータでフィリピンの総人口を見てみると、およそ1600万2000人とされており(邦訳、ミッチェル、9頁)、これは同じ東南アジアのタイやマレーシアよりも人的資源で恵まれています(ただし、数字に関しては情報源によって1700万人程度とされている場合もあり、はっきりしません)。

しかし、軍備拡張の基盤となる工業がフィリピンでは欠落していました。つまり、海上兵力、航空兵力の独力整備はほとんど不可能な状態だったのです。
これは当時のケソンがフィリピンの軍事的脅威として見なしていた日本に対抗する上で致命的な弱点でした。

1940年のデータで日本の総人口はおよそ7193万3000人とされています(同上、8頁)。これだけでも大きな国力差があることが伺われますが、それに加えて日本は科学技術力、工業生産基盤でフィリピンを圧倒しており、しかも台湾の基地を根拠としてフィリピンの北部に兵力を機動展開することも可能でした。

つまり、脅威に対してバランシングを図るには、ケソンはフィリピン軍の増強を米国の軍事援助に頼らざるを得ず、特に武器や装備の大規模な移転を受けることが国防上絶対に欠かせませんでした。
しかし、米国においてフィリピンの国防に対する関心は必ずしも高くなく、ケソンが望むような軍事援助を引き出すことは容易なことではありませんでした。

そこでケソンは個人的に親交のあったダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)に働きかけ、彼を通じて米国の援助を取り付けようと動きます。

マッカーサーの兵力整備計画とその結末

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)
ケソンは、1935年にマッカーサーをフィリピン軍の顧問として招聘しただけでなく、1936年にフィリピン陸軍元帥という階級を与えています(Tucker 2005: 1181)。
これは破格の待遇と言えますが、ケソンは軍事に疎かったので、フィリピン軍の拡張と具体的な計画の立案をマッカーサーのような職業軍人に委ねる必要があったとして理解できるでしょう。

当時、マッカーサーはフィリピンの所要兵力を魚雷艇50隻、航空機250機、正規軍4万名、非正規軍41万9300名と見積もりましたが、フィリピンは国内で十分な資金を調達することはできず、また米国もフィリピン防衛に関心が薄く、必要な資金を提供しようとしませんでした(邦訳、マンチェスター、上巻、185頁)。
そのため、1935年から始まったフィリピンの軍拡は遅々として進んでいませんでした。

しかし、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、米国はようやくフィリピンが日本の脅威を受けていることを認識し始め、本格的な援助に乗り出します。
1941年7月に在比米軍とフィリピン軍を極東陸軍として再編成し、マッカーサーがその司令官に就任します。これは米国の政策転換の結果であり、この時期からようやくマッカーサーが思い描いた軍拡が可能となります(同上、211頁)。

とはいえ、無策の時代に失われた時間は取り戻せません。
1941年の時点でフィリピンの防衛に当たる陸上兵力は9万、配備されている魚雷艇は2隻、航空機は40機であり、物資、訓練ともに不十分な状態にありました(Tucker 2005: 1181)。
これらの数値とマッカーサーの所要兵力見積から充足率を計算すると、陸上兵力21.46%、海上兵力4%、航空兵力16%となります。

したがって、1941年12月に日本がフィリピンに対する軍事行動を開始した時、マッカーサーがこれを食い止めることができず、フィリピンから撤退せざるを得なかったことは当然の結果と言えるでしょう。
マッカーサーを招聘したケソンも同じく米国への亡命を余儀なくされ、第二次世界大戦の終結を迎える前に現地で死去します。

むすびにかえて

このような歴史的経緯を知れば、第二次世界大戦の太平洋戦域において米国が日本にフィリピンを奪われたことは、米国の失策によるところが少なくなかったことが分かります。

アジア・太平洋地域において、フィリピンは重要な戦略陣地を構成しており、特に南シナ海からフィリピン海に通じる海上交通路に利害を持つ国にとって、フィリピンを攻略する戦略的な意義は非常に大きなものがありました。
それにもかかわらず、米国はフィリピンの防衛に必要な予算を確保せず、問題を先送りにしたため、戦闘が始まるとフィリピンで壊滅的敗北を喫することになったのです。

現在もフィリピンには防衛産業基盤としての工業生産力が不足しています。
つまり、島嶼国家としての国土特性に応じた兵力整備が困難という事情があり、しかもこの状況は今後も大きく変わるとは思えません。外国の軍事援助をどれだけ受け取ることができるかによってフィリピンの安全保障は大きく左右される危険があることは、改めて認識しておく必要があるでしょう。

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参考文献
Manchester, William. 2008(1978). American Caesar: Douglas MacArthur 1880-1964. New York: Back Bay Books.(邦訳、ウィリアム・マンチェスター『ダグラス・マッカーサー』全2巻、鈴木主税、高山圭訳、河出書房新社、1985年)
Mitchell, Brian R. 1998. International Historical Statistics: Africa, Asia & Oceania 1750-1993. Macmillan Reference Ltd.(邦訳、ブライアン・R・ミッチェル編著『マクミラン新編 世界歴史統計2 アジア・アフリカ・太洋州歴史統計 1750-1993』東洋書林、2002年)
Tucker, Spencer C. 2005. "Philippines, Role in War," in Tucker, Spencer C. The Encyclopedia of World War II: A Political, Social, and Military History. Santa Barbara: ABC-CLIO, 3 vol. pp. 1181-1182.