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2017年12月1日金曜日

学説紹介 近代的な戦略の概念が成立するまでの学説史

戦略とは基本的に政治的目的を達成するために武力をどのように運用するかを既定するものであり、軍事学の基本概念の一つとして広く知られています。
しかし、軍事学の歴史でこの概念が登場したのは18世紀の後半であり、新しい部類であることはあまり知られていません。

今回は軍事思想史の研究で知られる片岡徹也が戦略概念の成立をどのように整理しているのかに着目し、その議論を紹介したいと思います。

マイゼロアの先駆的業績

フランス学士院の正面。マイゼロアは軍事史の研究で高く評価された学者でもあり、古代の戦争術に関する著作が認められると王立アカデミーへの参加も認められた。
戦略という言葉はもともとギリシア語のstrategus(将帥)に由来するのですが、この用語が軍事学の文献で普及し始めたのは18世紀に入ってからのことだとされています。
片岡はフランス陸軍の軍人だったマイゼロア(Paul Gideon Joly Maizeroy, 1719 - 1780)が戦略という用語を新しく導入した経緯を次のように述べています。
「流通の契機を作ったのは、フランス陸軍の軍人で古戦史の研究者でもあったド・マイゼロア(1719-1780)である。彼はビザンチン帝国レオーン六世が900年頃に執筆したと推定されるTacticaの最初のフランス語訳を1770年に公刊し、さらに6世紀のビザンチン皇帝マウリキウスが将軍時代の578年頃に執筆したと推定される著書Strategiconの表題に着想を得て、Strategiesの語を新しい概念を表現として初めて1777年の自著『戦争の理論』のなかで用いた」(片岡、152-3頁)
こうして戦略という用語が軍事学の文献に登場するようになったのですが、マイゼロアは戦略と戦術を現代の私たちとかなり異なった意味で区別していました。
というのも、マイゼロアは戦争術の中で原理原則により教育可能な領域とそうでない領域を区別し、前者を戦略、後者を戦術と考えたのです(同上、153頁)。

これは明らかに現代の軍事用語としての戦略の意味と似て非なるものです。
マイゼロアは戦略という用語の提案者ではありますが、現代の私たちが考えるような戦略思想家だったというわけではありませんでした。

ビューローによる再定義

ビューローは短期間兵役に就いた後は主に著述に取り組んだ。フランスで革命が起きた時から、ヨーロッパ征服の可能性を予見し、プロイセン陸軍の改革を主張したが、受け入れられることなかった。
片岡の研究によれば、現代の意味に近い意味で戦略という概念を定義した功績はドイツのビューロー(Dietrich Adam Heinrich von Bülow, 1757-1807)に属すると考えられています。ビューローの研究業績に関して片岡は次のように整理紹介しています。
「そして今日の「戦略」と「戦術」を対概念で用いる用例を確立したのは、ドイツ人ビューローの功績である。彼ははっきりとTaktiksの意味を変更して、「戦略」と並ぶ軍隊を操縦する術という意味に用い、いわゆる用兵は「戦略」と「戦術」に区分されると主張した元祖である。そして対概念としての「戦略」と「戦術」はビューローや他のドイツ語文献を通じて19世紀の間にヨーロッパ各国に浸透し、受け入れられていった」(同上、153頁)
当時、ドイツ語圏でもマイゼロアの著作は読まれていましたが、ビューローはあえてマイゼロアの定義した戦略と戦術の意味から離れました。

ビューローの説では「戦略を「敵の視界外もしくは火砲の射程外の作戦行動」、戦術を「これらの範囲内のあらゆる作戦行動」と定義」されており、作戦部隊が戦闘状態に入る前の活動を戦略で定め、戦闘状態に入ってからの活動については戦術の領域として取り扱うことになったのです(同上)。

ただし、まだ私たちが考える戦略概念とかけ離れている部分があるとすれば、それは「視界」や「射程」によって戦略と戦術を区別していることしょう。
技術的条件が変化し、部隊行動を広域的に監視できるようになった場合のことや、武器の射程が延伸する技術的可能性をビューローが考慮していなかったことは明らかでしょう。

ビューローの研究では、戦略と戦術の概念に不確かな部分が残されることになったのですが、この問題は間もなくクラウゼヴィッツの批判によって明らかにされることになりました。

クラウゼヴィッツによる概念の発展

マイゼロアが提唱した用語をビューローが再定義し、クラウゼヴィッツはそれを軍事理論の中で洗練させた。戦略と戦術の区別を敵との接触の有無に求める方法を捨て、本質的に異なる領域のものとして戦略は戦争全体を見通し、戦術は戦闘に着目するという分類を確立した。
マイゼロアから始まり、ビューローで再定義された戦略概念は、クラウゼヴィッツの理論の下でより明確な規定が与えられることになります。
この点で片岡はクラウゼヴィッツが近代的な戦略概念を完成させたものとして位置付けており、その業績は次のように要約されています。
「ビューローの功績を認めつつも、さきの彼の戦略の定義が恣意的であると批判したのがクラウゼヴィッツである。 『戦争論」第2篇第1章で彼は戦闘において兵力を使用する手立てが戦術、戦争目的を達成するために戦闘を使用するのが戦略と定義を下している。さらにクラウゼヴィッツは第2篇第2章で戦略と戦術の目的と手段の性格を明瞭に分けて理解する必要があることについて強調している。彼によれば戦術の手段は戦闘を遂行するべく訓練を積んだ兵力、目的は勝利である。だが戦略にとって本来、戦術的勝利は手段の一つに過ぎないとクラウゼヴィッツはいう」(同上、154頁)
クラウゼヴィッツの戦略概念はビューローが定義した戦略概念よりも一般的であり、また実際的な価値もありました。
戦術においては敵との戦闘で勝利することが任務遂行の判断基準となりますが、戦略ではそうした勝敗が持つ意味は戦争を取り巻く情勢によって変化することがよく考慮されているのです。

これはクラウゼヴィッツが戦争を軍事的観点だけでなく、国家が遂行する政策の一部として考えなければならないと考えていたことと関係があり、片岡は「戦略の究極の目的は講和にあると彼は考える。戦場の勝利は講和の達成という戦略の目的に寄与したときに戦略の手段としての意味を持つ」と解説しています。

クラウゼヴィッツにとって戦略とは、ある政治的目的を達成するために戦闘行動とその結果を利用することだと考えられていたため、、戦略の成否は戦闘の勝敗で測れる性質のものではなかったということです。

むすぶにかえて

マイゼロアからビューローを経てクラウゼヴィッツに至る戦略概念の成立史をたどると、18世紀後半から19世紀前半にかけて軍事学が学問として急激に体系化されていった経緯をうかがい知ることができます。
基地や作戦線など、今では当たり前に使われている軍事学の基本概念の多くがこの時代の軍事学者の研究によって生まれており、戦略という概念もそうした研究活動の中で会い乱された概念でした。

その後、現在に至るまでに戦略という概念はさらにさまざまな研究者によって再定義、再検討が行われており、例えば大戦略と軍事戦略といった細分化も行われているのですが、こうした議論もすべて戦略という概念がなければ成り立ち得なかったでしょう。
時折、こうして現在では当たり前に使っている概念の歴史をたどると、私たちの議論が多くの学者の研究成果に支えられていることを改めて考えさせられます。

KT

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参考文献

片岡徹也『軍事の事典』東京堂出版、2009年