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2017年7月15日土曜日

論文紹介 攻撃的な軍事教義ではなく、戦術的な非効率性が問題だった―第一次世界大戦の考察―

第一次世界大戦があれほど多くの犠牲者を出してしまったことの説明として、列強の軍事教義がいずれも攻勢を重視する傾向にあったことを重視する説があります。
つまり、技術進歩で武器の火力が増大し、防御がますます容易になるにもかかわらず、間違った戦闘教義を採用した結果、あれほどの損害が出てきたという見方です。

今回はそうした見解に批判的な歴史学者マイケル・ハワードの研究を取り上げ、第一次世界大戦で多大な犠牲が出た背景には教義以前に陸軍の戦術能力の問題があったとする説を紹介したいと思います。

文献情報
マイケル・ハワード「火力に逆らう男たち―1914年の攻勢ドクトリン」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、447-461頁

フランス陸軍での戦術研究の動向
第一次世界大戦が勃発する前からヨーロッパ列強の軍人の間で技術革新による火力の優勢がますます強化される傾向にあることをはっきりと認識していたとハワードは論じています。

しかし、その火力の強化が戦場で攻撃者を有利にするものなのか、それとも防御者を有利にするものか、という点で意見が分かれていました。
「一方の側では、ヤン・ブロッホが1898年に公刊した何巻にも及ぶ膨大な著書『将来戦』で強調したように、将来は正面への突撃は単にどうしようもなく高価なものとなるだけでなく、統計的に不可能になる、と主張された。(中略)しかし、ブロッホは民間研究者であったし、軍人の側では、新しいテクノロジーは防御と同程度以上に攻撃にも有利に働く、という意見が優位を占めた」(ハワード、448-9頁)
第一次世界大戦の壮絶なまでの火力を考えれば、攻撃を可能とする軍人側の意見はあまりにも楽観的に思えます。
しかし、これは根拠のない議論ではなく、軍人は火力の優勢の問題について認識を持っていました。

例えば、フランス陸軍大学校で教鞭をとっていたフェルディナン・フォッシュは「その手前にほとんど通過不能な地域が横たわる。そこでは、弾の雨が地面を叩き、掩護された前進経路は残っていない」と書き残しており(同上、449頁)、攻撃を成功させるにはこの地域を突破する方法を明らかにしなければならないと考えていました。

フランス陸軍が1875年の歩兵操典の改訂で散兵を攻撃を実施するための隊形として位置付けるようになったことは、そうした問題意識に対する対応の一つでした(同上、450頁)。
それまでのフランス陸軍では散兵は密集隊形の部隊よりも前方に進出し、その部隊の突撃を支援するものだと見なされていたのですが、もはやすべての部隊が散兵として攻撃を行うようになっていったのです。

ただし、問題もありました。フランス陸軍の中では密集隊形を必要とする保守的な意見が根強く残っていたため、新たな歩兵戦術は必ずしも共通の認識にならず、教育訓練や調査研究も決して十分に実施されなかったのです。

19世紀後半に密集隊形を支持する軍人がいたことは、現代の我々にとっては不思議なことに思えますが、当時の多くの士官は散兵のまま戦ったのでは兵士が容易に仲間を見失い、すぐに敗走すると思っていたのです(同上)。
1894年にフランス陸軍の歩兵操典では「肘と肘を接した密集体系で、ラッパとドラムの響きに従って」攻撃せよと規定された背景には、こうした兵士の戦場心理に対する懸念がありました(同上)。

しかし、第一次世界大戦が勃発する前の歩兵操典の改訂(1904年12月)によってフランス陸軍はまた散兵を全面的に導入する方針に切り替えました。
ただし、このときには陸軍内部で戦闘教義をめぐる深刻な内部分裂が巻き起こり、結果として意図した戦術の改革に繋がらなかったとハワードは評価しています(同上、453頁)。

軍人の一部は火力の優勢を機動の工夫で戦術的に対応できるという着想を得つつあったのですが、その研究はまだ結論を得ておらず、具体的な成果としてまとまることがありませんでした。

戦術的な非効率を合理化した消耗戦略
新たな技術環境に適応するための戦術の研究が完成しないまま1914年の戦争勃発を迎えたことは、戦闘効率で大きな問題を引き起こしました。
ハワードは1914年のフランス陸軍の問題は攻勢的な軍事教義を持っていたかどうかではなく、そもそも軍隊として効率的ではなかったことだと指摘しています(同上、458頁)。

フランス陸軍の士官は野戦での戦術能力が十分に訓練されておらず、「戦争が始まったとき、フランス軍の各級指揮官は、何らかの体系的な訓練計画にしたがって反応するよりも、直感的に反応した」と述べられています(同上)。
その代償としてフランス陸軍は1914年8月上旬に西部戦線に投入した150万名の部隊のおよそ25%に当たる38万5000名の兵士をわずか6週間で失っています(同上)。

興味深いハワードの指摘として挙げられるのは、これら序盤の損害の大部分が陣地攻撃ではなく、遭遇戦の中で発生していることです。
つまり、準備された陣地に対する攻撃ではなく、敵と味方が戦場で縦横に機動している最中に起こる戦闘で大きな損害が発生していたのです。
このことから、現場で真っ先に対応に当たらなければならない下級指揮官の戦術能力に問題があったことが伺われます。

西部戦線が大規模な塹壕戦の局面に入ったのは1915年以降のことであり、ハワードはこの時期から次第に防御陣地を全面的に破壊する砲兵火力の掩護が攻撃の成功に不可欠だという見解が形成されていったと述べています。
「しばしば攻撃は成功したが、ドイツ軍陣地に侵入して設定された橋頭堡は、十分に長期間保持するように早期に増援できなかったので、これらの失地を回復するためにドイツ軍が迅速に行った逆襲に抵抗できなかった。そして連合軍は多大の損害を出して出発地点に押し戻されるのがつねだった。唯一の解決策は逆襲に対して脆弱でない橋頭堡を確立するために、十分に広い戦線で攻撃すること、それも防者の抵抗力を全面的に破壊するほど猛烈な砲兵火力の掩護の下に攻撃することであると思われた」(同上、459頁)
しかし、砲兵の火力支援を受けながら広正面で実施される攻撃も時間がたつにつれて対策が編み出されてきました。

1916年のソンムの戦いでイギリス陸軍は突撃に先立ち集中的な砲撃を加えていますが、強固な地下壕を持つドイツの防御陣地を完全に破壊し尽くすことができず、手痛い反撃を受けて甚大な損害を出しています(同上、459-60頁)。

重要なのは、このソンムの戦いで示された戦術上の行き詰まりが消耗戦略の手段として合理化されるきっかけになったということです。

ハワードの視点からすれば、これは戦略的な必要性に基づく戦術の選択ではなく、戦術上の非効率性を戦略用語で覆い隠すものでした。
「攻撃は12月まで続いたが、そのときまでに戦闘に加わった英仏陸軍は50万近くの損害を生じた。しかし、そのときまでには戦いの目的が変わった。それはもはや地域を占領することではなく、ヴェルダンで攻撃したときのドイツ軍の本来の目的のように、ドイツ軍を戦わざるをえないようにし、その兵力を使用しつくさせることであった」(同上、460頁)
むすびにかえて
第一次世界大戦で大きな損害が出た原因についてハワードは攻撃的な軍事教義の影響をあまりに過大視すべきではないという立場をとり、次のように論じています。
「1914年以前に流行した攻勢のドクトリンと第一次世界大戦間に生じたおそるべき大損害とをあまりにも密接に結びつけようとするのは誤りだろう。新しい火力の強さの下では重大な損失が不可避なものと受け取られたことは事実である。(中略)しかし、戦争における士気の至高の重要性とあらゆる障害に直面しても攻撃的精神を維持することの必要性に関して、1914年以前に書かれたものの大部分は、あらゆる時代の戦争に妥当する心理を言い直しただけに過ぎない」(同上、460-1頁)
ハワードの眼から見てより深刻だったのは、教義の問題ではなく陸軍としての効率性の低さであり、特に「必要な規模で火力と運動を結合するときのまった組織的な問題」でした(同上、461頁)。
これはどのような時代にも繰り返し現れる戦術問題でしたが、第一次世界大戦でこの問題を解決するためには長い時間がかかりました。

一般に戦術は戦略に従いますが、だからといって戦術の問題が戦略の問題よりも重要性が小さいと理解すべきではありません。
そもそも戦術の問題が解決できていないにもかかわらず、どのような戦略が実行可能だと主張できるのでしょうか。

KT

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