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2017年6月23日金曜日

論文紹介 ミハイル・トゥハチェフスキーの縦深戦闘(Deep Battle)とは何か

ソ連の軍人として有名なミハイル・トゥハチェフスキー(Mikhail Tukhachevsky 1893-1937)ですが、彼は今日の軍事学のトレンドにも影響を与えた研究者の一人としても知られています。
1937年に粛清されてしまいましたが、当時のソ連軍の近代化に尽力した功労者であり、戦後のスターリン批判で名誉回復されています。

今回は、トゥハチェフスキーの生涯を簡単に紹介した上で、彼が構想した縦深戦闘の概念について紹介したいと思います。

文献情報
McPadden, Christopher P. 2006. Mikhail Nikolayevich Tukhachevsky (1893-1937): Practitioner and Theorist of War. The Land Warfare Papers, No. 56W August. Arlington: The Institute of Land Warfare.

トゥハチェフスキーはどのような軍人だったか
1935年に元帥に昇進したトゥハチェフスキー(左下)。その右にヴォロシーロフ、エゴロフ、後列左からブジョーンヌイ、ブリュヘルがいる。
もともとトゥハチェフスキーは元地主で没落した貴族の家に第4子として生まれ、経済的に厳しい生活を送っていたのですが、1909年に陸軍幼年学校に入学してからその才能を開花させていきます(McPadden 2006: 3)。

学校でトゥハチェフスキーは優れた成績を収め、1912年に入学した士官学校でも1914年の卒業時に歴代卒業生の最優秀成績保持者として記録されたほどでした(Ibid.)。
卒業した年に勃発した第一次世界大戦ではロシア軍の士官として従軍し、ドイツ軍の捕虜となってしまいますが、捕虜収容所から脱走することに成功し、1917年にロシアに帰国します(Ibid.)。

ところが、当時すでにロシア革命が進行中であったため、トゥハチェフスキーが軍に戻れる政治状況ではありませんでした。
そこでトゥハチェフスキーはトロツキーと接触を持ち、1918年にモスクワ防衛を担当する軍事委員に任命されます。それから彼はロシア内戦で軍司令官として多くの功績を上げることになり、レーニンからも高く評価されることになりました(Ibid.: 4)。

1924年にレーニンが死去し、スターリンが政権を掌握してからも、トゥハチェフスキーは軍の要職で指導的役割を果たし、1925年には赤軍の参謀総長として軍制改革に取り組むようになります(Ibid.: 5)。
この軍制改革でさまざまな成果を残したことから、1935年には元帥に昇進し、その後のソ連軍の軍事思想にとって重要な影響を及ぼす1936年度版の『野外教令』を完成させました(Ibid.: 6)。

しかし、トゥハチェフスキーの軍歴の最後は決して輝かしいものではなく、1937年には赤軍大粛清を受けて処刑されてしまいます。トゥハチェフスキーをはじめ多くの士官が粛清された結果、ソ連軍は大変な混乱に見舞われました。

縦深戦闘(Deep Battle)の先駆的研究
攻撃を控えたソ連軍、敬礼しているのは第36自動車化狙撃兵師団ペトーロフ師団長(1939年撮影)
トゥハチェフスキーの研究業績が現在でも重視されている理由はいくつかありますが、歴史的視点から考えると、彼の著作が縦深戦闘の概念を発展させる上で重要な意味があったことが挙げられます。
ここでは作戦レベルに限定して縦深戦闘に関するトゥハチェフスキーの説を紹介したいと思います。

著者はトゥハチェフスキーの著作『戦争の新たな問題』の一節として、縦深戦闘の概念に関する次の記述を紹介しています。
「縦深戦闘、つまり敵の戦術的全体像を全縦深にわたって同時に分断する戦闘を準備するためには、戦車が持つ2つの特性が必要である。一方においては、戦車は前方の歩兵を支援し、それに随伴しなければならない。他方においては、戦車は敵の背後に浸透し、敵を混乱させるだけでなく、敵の予備から敵の主力を完全に孤立させなければならない」(Ibid.: 17)
冒頭の記述の「敵の戦術的全体像を全縦深にわたって同時に分断する戦闘」が縦深戦闘のコアになる定義となります。
つまり、敵の部隊が戦場として想定した範囲をはるかに超える速度で浸透・突破することにより、第一線に配置された敵部隊と後方にいる敵の予備を切り離すことが目指されているのです。

こうした縦深戦闘において主要な目標となるのは第一線の敵部隊ではなく、砲兵陣地、後方連絡線、そして司令部に他なりません。
「そして戦車による縦深を持った浸透は、敵に後退行動を強制するような障害をもたらし、敵の主力を撃破しなければならない。それと同時に、この突破は敵の砲兵を撃破し、後方連絡線を遮断し、司令部を奪取しなければならない」(Ibid.)
トゥハチェフスキーは空挺部隊や航空阻止のような航空作戦も研究していましたが、こうした手段もすべて縦深突破の概念と結びつけて理解することができます。
敵を左右ではなく、前後に分断することによって、壊滅的な打撃を加えようという発想は、第二次世界大戦以降のソ連軍をはじめ西側の陸軍にも影響を与えました。

むすびにかえて
トゥハチェフスキーの死後、縦深戦闘の支持者は影響力を低下させ、代わって第一次世界大戦的な陣地戦を重視する考え方が台頭する時期もありました。
しかし、1939年から1940年のフィンランドとの冬戦争の散々な結果を受けて、ソ連軍は改めて自らの軍事教義を再検討する必要に迫られ、その中でトゥハチェフスキーの研究が再び注目されるようになったと著者は述べています。
「トゥハチェフスキーは粛清され、記録の大部分が破棄されたが、フィンランドの屈辱とそれに続くソ連軍の改革の後で、スターリンはトゥハチェフスキー的な作戦志向を持つ何人かの士官を復帰させた。ソ連がトゥハチェフスキーの作戦構想を実践するにつれて、第二次世界大戦の残りの期間におけるソ連軍の戦果は著しく改善した」(Ibid.: 19)
トゥハチェフスキーの研究は必ずしも縦深戦闘だけにとどまらないのですが、やはりこの概念を着想し、それを実際の運用に結び付けたことは、一つの画期だったといえるでしょう。
ちなみに、ソ連軍の専門家であり、ブッシュ政権で国務長官も務めたコンドリーザ・ライスはトゥハチェフスキーの軍事思想について検討しており、ドイツのハインツ・グデーリアンとかなり近い内容を含んでいたと指摘しています(ライス「ソ連戦略の形成」577頁)。

彼女が示唆した通り、トゥハチェフスキーの軍事思想は確かにグデーリアンとの類似性があります。しかしトゥハチェフスキーは機甲部隊が歩兵部隊の支援に回されていたことに必ずしも反対の立場をとらなかったことも考慮すると、必ずしも機甲部隊を縦深戦闘の必須の要素として考えていなかったと考えられるため、やはり両者の立場は似て非なるものと理解する必要があるでしょう。

KT

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参考文献
コンドレーザ・ライス「ソ連戦略の形成」ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、563-584頁
*冒頭画像は1936年のもの、撮影者不明

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