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2017年6月18日日曜日

論文紹介 「海洋戦略」の策定を支えた米海軍の研究努力

戦略がないということは、どのような教育訓練を行うべきか、どのような装備体系を持つべきか、戦時にいつ、どこに、どれだけの部隊を展開すべきかも知らないことと同じです。それゆえ、平素から戦略を策定しておくことは、国家安全保障の基本中の基本といえます。

しかし、実現可能な戦略を確立するためには軍事情勢、特に対象となる脅威の意図や能力を詳細に研究する必要となります。これは一朝一夕に成果が出る作業ではありません。

今回は、1980年代の米海軍が対ソ戦略として「海洋戦略(Maritime Strategy)」を策定するに至るまで、どのような研究努力を行ったのかを考察した研究を紹介してみたいと思います。

文献情報
Hanley, John T., Jr. "Creating the 1980s Maritime Strategy and Implications for Today," Naval War College Review, Spring 2014, Vol. 67, No. 2, pp. 11-29.

敵に隙を見せていた米海軍
カーター大統領とブレジネフ書記長が戦略兵器制限交渉条約Ⅱに調印している。カーターの対外政策は「人権外交」として知られているが、1979年のソ連軍アフガニスタン侵攻を抑止することに失敗した。
President Jimmy Carter and Soviet General Secretary Leonid Brezhnev sign the Strategic Arms Limitation Talks (SALT II) treaty, June 18, 1979, in Vienna.
1970年代の米海軍は決して準備万端とは言えない状況でした。予算は削減され、装備は旧式化し、兵力も減少していたためです。

論文の著者が調査したところによると、1962年から1972年までの10年間に米海軍は年間42隻の艦船を建造していましたが、1968年から1975年までの7年間で建造が計画されたのは年間12隻に過ぎず、艦齢が25年から30年に達する艦艇のことを考慮すると、毎年4%の艦艇を退役させなければならないと見積られていました(Hanley 2014: 11)。

1970年に第19代米海軍作戦部長に就任したエルモ・ズムウォルト(Elmo R. Zumwalt, Jr.)はこの状況に危機感を強めていました。

彼は1970年7月時点で海上における大規模な通常戦争が発生した場合、米国の勝率は55%であるが、1971年7月には45%に低下するなどと主張し、海軍予算の増額を求めていたのは、こうした危機感があったためです(Ibid.: 12-3)。

しかし、さまざまな政治的制約の下で米海軍の増勢は実現しませんでした。
もしヨーロッパ正面で米ソ戦争が勃発すれば、アジア太平洋地域に配備した戦力を振り向けるべきという議論(スイング戦略)が登場したのは、こうした米軍の戦力不足を作戦運用で補う意図がありました(Ibid.: 13)。

しかし、このような方策で国家間の軍事バランスを維持するということには、そもそも限界があり、1978-79年版の『ミリタリー・バランス』でも「もはやNATOには米ソ戦争が勃発した時点において同盟国にとり重要な海域すべての海上管制を維持する能力はない」と評価されるまでに落ちぶれてしまいます(Ibid.: 14)。

弾道ミサイル潜水艦の脅威
ヘイワードは1978年に米海軍作戦部長に就任し、米海軍の立て直しに大きな功績を残した。22nd Chief of Naval Operations Admiral Thomas B. Hayward, 2006.
しかし、1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、米ソデタントの時代は終わり、米海軍を取り巻く状況は一変することになりました。

1980年以降、米国政府は対ソ政策を見直し、米海軍の増強に乗り出します。しかし、先ほど述べた通り、米国ではソ連との海上戦争について長年無関心になっていたため、軍事バランスを回復するための具体的な戦略の策定は容易なことではありませんでした。

1981年、第21代米海軍作戦部長のトーマス・ヘイワード(Thomas B. Hayward)は海軍大学校の内部に海上戦争研究所を設立し、今後の米海軍のあり方について調査研究を行う体制を作り始めます(Ibid.)。これが米海軍にとって新戦略策定の第一歩となりました。

この研究所の中では戦略研究班(Strategic Studies Group, SSG)が6名の海軍士官と2名の海兵隊士官によって立ち上げられ、多くの時間をかけて海上作戦の討議や兵棋が行われるようになります(Ibid.)。

当時、軍事機密だった情報も利用して研究が行われたため、その成果は刊行されませんでしたが、著者は特に重要な研究成果として次のような見解がまとめられたと論じています。
「・戦略核攻撃、戦域核攻撃の実施するため、事前に弾道ミサイル潜水艦を展開し、また防護すること。
 ・敵の弾道ミサイル潜水艦と航空母艦からソ連とその同盟国を防衛すること。
 これらの任務の成果は、カラ海、バレンツ海、北ノルウェー海、グリーンランド海、日本、オホーツク海、北西太平洋海域の全部もしくは一部を管制し、ソ連の領土から約2000km離れた海域において海上阻止作戦を実施しようとすることに寄与するだろう」(Ibid.: 15)
ここで注目されているのはソ連の弾道ミサイル潜水艦の脅威です。
戦略研究班はソ連の戦略を研究する過程で、ソ連が核戦争を含めた作戦行動をとる判断基準として、数的な勢力関係を重視する傾向にあることを知っていました(Ibid.: 16)。

そのため、海上においてソ連海軍の弾道ミサイル潜水艦の脅威に対抗する術を用意すれば、核戦争に事態をエスカレートを防ぐことに寄与するのではないかと着想したのです。
ここから、米海軍としてソ連の弾道ミサイル潜水艦を追い詰めるための対潜戦の研究が本格化することになりました。

諸兵科連合型の対潜戦
1980年代の海軍では対潜戦においてP-3Cのような哨戒機をどのように効果的に運用すべきかが戦術研究上の課題となり、さまざまな研究が行われていた。
ソ連海軍と米海軍の兵棋を通じて、戦略研究班は米ソ戦争に突入した際に、米国がとるべき世界戦略が十分に研究されていないことを次第に認識するようになっていきます(Ibid.)。

ヨーロッパや中東などそれぞれの戦域において米軍の部隊がばらばらの考え方を持っていたため、これを対ソ戦略として一本化する研究が求められました。

さらに彼らはソ連の潜水艦を対象とした対潜戦を研究するに当たり、どのような戦術が有効なのか検討を行うようになり、次のような研究成果を出しました。
「分析によれば、米潜水艦の損失の大部分は反撃と機雷によるものだった(反撃は魚雷を発射した直後に使用された武器によるものである。米国は世界で最も静粛性の高い潜水艦を持っていたが、世界で最もやかましい魚雷も持っていた)。洋上哨戒機をヘリコプターを使用すれば、潜水艦の損害を減らすだけでなく、攻撃率を向上させることも可能となった。これは最も効率的なセンサを保護し、また弾薬の補給のために潜水艦を撤退させることを防ぐことによるものである」(Ibid.: 17)
この時に対潜戦において水上艦艇だけでなく、哨戒機を最大限に駆使すべきという戦術構想が詳細に研究されるようになり、諸兵科連合(combined arms)という陸上作戦の概念を援用するようになっていきました(Ibid.)。

諸兵科連合の概念を対潜戦に応用した方が、従来の対潜戦の戦術よりも、味方の潜水艦の損害を抑制し、かつソ連海軍の弾道ミサイル潜水艦を撃破しやすくなると分析され、この成果はその後の米海軍の戦略研究に受け継がれることになります。

「海洋戦略」の骨子が固まる
1982年に海軍作戦部長に就任したワトキンスは、新冷戦における米海軍の作戦指導に直接関与した。James Watkins, former Chief of Naval Operations. 1982
1982年の夏に戦略研究班は一度解散されますが、8月には次のメンバーが加わり、より実行可能な対ソ戦略を確立するため、ヨーロッパや北東アジアにおける具体的な作戦に関する分析を始めました(Ibid.: 19)。

ヘイワードは一貫して戦略研究班の調査研究を支援し、1982年10月に新たに海軍作戦部長に就任するジェームズ・ワトキンス(James D. Watkins)にその研究成果を報告しました(Ibid.: 20)。こうして米海軍の対ソ戦略が具体的な形として表れることになります。

また戦略研究班のメンバーは戦略の実施に影響を及ぼすであろうポストに異動していきました。
その中には対潜戦の研究開発に従事したウォルケンドーファー(Dan Wolkensdorfer)、海軍の建造計画の調整に携わったオーウェンズ(Bill Owens)、空母の航空団の指揮官に任命されたアート・セブロフスキー (Art Cebrowski)が含まれており、その後も彼らは「海洋戦略」の策定に手を貸しています(Ibid.: 21)。

戦略研究班の構想は演習の内容や技術の開発にも影響を及ぼしましており(Ibid.)、その一例として著者は1986年の事例を紹介しています。
「1986年3月、大規模なNATOの演習がノルウェー海全域で実施され、イギリスのノースウッド司令部で指揮がとられたが、その内容は諸兵科連合型の対潜戦の有効性を示すものであった。敵の潜水艦の所在を見積もるためにベイジアン・アプローチが採用することで、発見と同時に出撃する攻撃機よりNATOの部隊は高い探知能力を発揮し、対潜戦の常識を覆した」(Ibid.: 22)
従来よりも高い確率で敵の潜水艦を探知できるようになったことで、ソ連の弾道ミサイル潜水艦の脆弱性が増したことを実証した演習でした。
こうした取り組みを通じて、米国としてソ連に対する海上での軍事バランスを維持することに寄与しました。

むすびにかえて
1970年代の米海軍は対ソ戦略の研究を怠っていましたが、1980年代に入ってからはそのことを反省し、真剣に研究努力を重ねていたことが、この論文から分かります。

さらに著者は「海洋戦略」の策定を支えた研究努力は冷戦後における米海軍の戦略策定にも寄与するところがあったとも指摘しています(Ibid.: 23)。当時の研究によって得られた知見は今でも米海軍の財産として受け継がれているということです。

安全保障における戦略の重要性については多くの人が同意しますが、それを研究するために資源と労力を割くことの重要性は必ずしも十分に認識されているわけではありません。

確かに研究は直ちに目に見える成果をもたらすことはありませんが、組織の運用体制を長期間にわたって最適な状態で維持するためにはやはり調査研究を行う体制が必要があり、それは結果として資源と労力を節約することに繋がるのだと思います。

KT

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