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2017年2月4日土曜日

論文紹介 戦間期におけるイギリスとドイツの空軍を比較する

1919年から1939年の20年間は各国で航空戦力の増強が飛躍的に進んだ時代に当たります。第一次世界大戦で得られた航空戦の教訓を踏まえ、空軍の役割が活発に議論されたのもこの時期のことです。当時、専門家の議論をリードした著作がジュリオ・ドゥーエの『制空』だったのですが、一方で世界中の空軍士官が彼の戦略思想に傾倒していたというわけでもありませんでした。

今回は、戦間期におけるイギリスとドイツの戦略思想を比較した研究を紹介し、両国の空軍がそれぞれ異なる発展の道を歩んだ歴史的経緯について考察したいと思います。

文献紹介
Murray, Williamson. 1980. "British and German Air Doctrine Between the Wars." Air University Review, 31: 39-57.(http://www.au.af.mil/au/afri/aspj/airchronicles/aureview/1980/mar-apr/murray.html)

イギリスとドイツで違った航空戦略
ジュリオ・ドゥーエ(1869-1930)
イタリアの軍人、将来の戦争では戦略爆撃の意義が大きくなると主張し、陸海軍から独立した空軍の創設を働きかけた。
この論文の著者は、ドゥーエが航空戦略の先駆者として歴史上、重要な役割を果たしたことを認めていますが、その一方で彼が敵国の政経中枢に対する戦略爆撃(strategic bombing)こそが空軍の最重要任務だと強調するあまり、それ以外の任務を軽視する傾向にあったことを批判してもいます。

著者の見解によれば、空軍の発達は各国の事情、特に地理的要因によって大きく異なるものでした。そのため、一概に戦略爆撃だけが空軍の最重要課題であるかのように議論するわけにはいかず、航空偵察や近接航空支援といった陸軍や海軍との統合運用についても考慮すべきという立場を取っています。このような視点から、著者はイギリス空軍の特徴を次のように述べています。
「まったく異なった戦略的要請から、独特な航空戦略と多様なエアパワー概念が導き出されたことに注意しておかなければならない。イギリス人は、島国に住んでおり、ヨーロッパ最大の海軍を保有しているため、戦略爆撃について考えるだけの余力があった。第一に、イギリスに対して敵が打撃を加えることが可能な手段は航空戦力だけであった。そのため、戦間期を通じてブリテン諸島に対する敵の爆撃の脅威についてイギリスは過剰に心配していた」
これを次のドイツの事例と比較すると、空軍を建設する前提がそもそも違っていたことが分かります。
「しかし、ドイツの戦略問題は正反対であった。ドイツは島嶼国家ではなかった。ドイツは大陸国家であった。ドイツ帝国が軍事力を用いる可能性があるすべての紛争において、ドイツ人は軍事行動の序盤から陸上作戦の可能性に直面すると考えられた。したがって、ドイツ空軍がロンドン、パリ、ワルシャワを攻撃すると同時に、ドイツの敵が国境地域でドイツ陸軍を撃破し、ドイツはシュレジエン、東プロイセン、ラインラントを失う可能性があった。ドイツの領土は敵対勢力によって取り囲まれていたために、ドイツ人は主として大陸における陸上戦争について考えざるを得なかった」
ヴェルサイユ体制の下で軍備が長らく制限されていたため、ドイツ軍は空軍に配備する装備を爆撃機ばかりにする余裕はありませんでした。ドイツ軍としては限られた陸軍を効果的に運用するためにも、空軍を積極的に活用する必要があったのです。

技術的根拠もなく主張された戦略爆撃の効果
ヒュー・トレンチャード(1873-1956)
陸軍軍人だったが、第一次世界大戦で初めて航空部隊の指揮をとり、戦時中にイギリス空軍の参謀長として創設に携わる。
次にイギリスの空軍の歴史を個別に見てみましょう。イギリス空軍の発達史はいささか理論先行型であったことが著者によって述べられています。
1918年に創設されたイギリス空軍で参謀長に就任したトレンチャード(Hugh Trenchard)は、ドゥーエが述べたように、空軍だけでイギリスを防衛することが可能であるという立場をとっていました。そのため、戦闘機や攻撃機よりも、爆撃機を重視する傾向が強く、またそのことを積極的に宣伝してもいました。

当時のイギリスでの航空作戦に関する研究にはジョン・スレッサー(John Slessor)の『エアパワーと軍(Airpower and Armies)』(1936)という著作があるのですが、その内容を読むと、将来の戦争は敵の中枢部に対する爆撃によって決する可能性が高く、産業基盤を破壊された側はもはや第一次世界大戦のような大規模な武器、弾薬を供給し続けることは不可能になるだろう、と予測されています。これはドゥーエの思想に極めて近い内容であり、著者は筋が通っている部分もあると認めていますが、あくまでも概念上の議論の段階に過ぎなかったことをあくまで強調しています。

著者の調査によれば、戦間期のイギリス空軍にそもそも戦略爆撃を実施する能力があったのか疑問が持たれます。戦略爆撃とは、要するに自国の基地から敵国の中枢まで長距離飛行を行った上で、事前に示された工業施設といった目標に対して爆弾を正確に投下する作戦ですが、そもそもそのようなことが当時の技術水準で可能であったかどうかが明らかではないのです。そして、著者は当時の戦略爆撃の擁護者はこうした技術的困難を十分に検討していなかったと指摘しています。
「専門家が目標を発見し、これを打撃することは難しくないと感じていたことは明白である。1936年の帝国防衛委員会による見積りが主張するところによると、自動爆撃照準器を搭載した航空機が10,000フィートの高度で戦艦に爆弾を命中させる確率は11%であった。しかし、この報告書は艦船の運動、高角砲の射撃や戦闘機を回避するといった問題について言及していなかった。イギリス空軍研究所のジャーナルでは晴天であれば20,000フィートの高度から投下した爆弾の50%が、マルタ、ジブラルタルなどの造船所地域内部に落下するであろうと主張しており、『海上の艦隊に対しては1日で5~10%は命中可能である』とされていた」(Ibid.)
実際のところ、当時の技術水準で事前に示された目標を爆撃するということは大変困難な作業でした。著者はその根拠として、1937年に実施された試験の結果について紹介しています。

半径が500ヤードの円形の中に配置された30機の航空機を1週間にわたって高空飛行または低空飛行でイギリス空軍の爆撃部隊が爆撃するという試験でしたが、試験終了後に完全に破壊できていたのは2機に過ぎず、修理不可能な損傷を与えたのは11機、修理可能な程度の損傷を与えたのは6機、残りの11機はまったく無傷だったとされています。
この試験に参加した爆撃機の数や種類、投下された爆弾の総量は明らかではありませんが、著者はこうした当時の実験を踏まえると、戦略爆撃はあくまでも一つの戦略思想から導かれる構想であり、実際に戦果を期待できるほどの技術的根拠に乏しかったと評価しています。

経験に裏付けられたドイツ空軍の教義
1937年、スペイン内戦でドイツが実施したゲルニカ爆撃の効果を記録した写真
戦間期のドイツ空軍の発達はイギリス空軍とは大きく異なる方向に向かって進められていました。その最も重要な点は戦略爆撃の能力が重視されていなかったということです。
一部の研究者は、戦略爆撃の軽視をドイツ空軍の欠点と評価しますが、これは著しく公平性に欠けたものであると著者は反対しています。つまり、ドイツ空軍の教義は最初からイギリス空軍の教義とはまったく異なるものを目指しながら発展していた経緯がり、それは欠点ではなく、選択の結果だったと論じられています。

この著者の議論で特に重視されているのはスペイン内戦でドイツ空軍が得たいくつかの戦訓です。
スペイン内戦に送り込まれたドイツ空軍のコンドル軍団は1937年にゲルニカを爆撃しましたが、これはドゥーエ的な戦略爆撃の考え方に沿うものでした。つまり、ドイツ人も当初はイギリス人のように戦略爆撃の効果に期待を持っていたのです。
しかし、効果を評価してみると、ゲルニカ爆撃の戦果は必ずしも期待通りではなく、むしろ長距離の戦略爆撃に技術的な課題が多くあることが認識されるきっかけとなりました。

ドイツでこのような作戦を実施しようとしても、一年を通じて悪天候が多いドイツの気候では、正確な長距離飛行を実施すること自体が技術的に難しいと考えられたのです。
それに、国内の資源が限られたドイツの戦略環境は、戦略爆撃のように効果が出るまで時間がかかる作戦に航空機を使用することを許しませんでした。
それに加えて、軍備制限の関係で陸軍でも砲兵装備が不足していたために、ドイツ陸軍は近接航空支援や航空阻止を必要としていました。
著者は、こうした要因が組み合わさったことで、ドイツ空軍は1939年に陸軍との統合運用に必要な装備や教義を整備していきました。
「1939年までにドイツ空軍は最前線で行われる作戦に継続的な支援を行うことができる航空機と教義を発展させていった。シュトゥーカ(Stuka)はドイツの機甲部隊に直接支援を行うための素晴らしい航空機であることを証明し、ハインケル(Heinkel He III)やユンカースJu 88(Junkers Ju 88)のような航空機は阻止のための優れた航空機であった。Bf 109はスピットファイアと同等でヨーロッパの他の戦闘機よりも優れていたため、ドイツ戦闘戦術は戦争の最初の空中戦で高性能であることが明らかになった」
ドイツ空軍は結局のところドゥーエが理想した形態と異なる航空戦力を発達させていきましたが、その有用性はポーランド、そしてフランスでの戦いで実証されたのです。

むすびにかえて
20世紀初頭の空軍史で興味深いのは、どの国家も手探りの状態から出発していることです。極めて限られた経験だけで将来の戦略・戦術を調査し、装備を開発させていかなければなりませんでした。こうした状況においては、その国家が持っている研究能力が大きな意味を持ちます。

過去の教訓が利用できない状況では、どうしても研究において思想や理論が先行しがちです。しかし、スタンダードだと見なされているドゥーエのような戦略思想も、各国の国力国情に合致しない場合がありました。ドイツはその手詰まりをいち早く突破した国家であtっと言えます。スペイン内戦で得た経験を素早く組織的に学習し、いち早くドゥーエの戦略思想から離れ、自国の戦略的要求に合った空軍を巧みに作り上げていったのです。

無論、著者はイギリス空軍が失敗事例であったと述べているわけではありません。イギリス空軍がその後のブリテンの戦いでドイツ空軍の攻勢を食い止めたことはよく知られています。しかし、イギリスとドイツの事例を比較すると、ドゥーエの戦略思想にも適用可能性に限界があったということを理解することができるのです。

KT

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