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2017年2月26日日曜日

事例研究 準備なき宣戦―1939年の「まやかし戦争」

1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め込んだときに奇妙なことが起こりました。

ポーランドとの同盟に基づいてドイツに宣戦したフランスとイギリスの連合国が、すぐに西部戦線からドイツの背後を突くと思いきや、いっこうに戦闘が始まらなかったのです。当時の人々はこの戦争を「まやかし戦争(phony war)」と呼びました。

ここで疑問なのは、なぜ連合国が第二次世界大戦の極めて重要な局面において対ドイツ攻撃に踏み切れなかったのかです。

今回は、米国の政治学者ジョン・ミアシャイマーの分析を紹介し、1939年の西部戦線で連合国が攻勢に出なかった理由について考察してみたいと思います。

連合国の攻勢はドイツに抑止された
当時の国際情勢についてミアシャイマーは連合国の方がドイツによって抑止された状況であったと考察しています。

すでに連合国はドイツに宣戦していたので、この主張は一見すると奇妙に聞こえるかもしれません。

しかし、実際の連合国の行動は形式的な宣戦布告に限られていました。

そして、当時の連合国が武力の発動をためらった最大の理由は、攻勢が失敗するリスクを恐れたためだったとミアシャイマーは指摘しています。
「まやかし戦争は連合国が攻勢を開始する前の一時的な遅延に過ぎなかったと論じることができる。しかし、この議論を受け入れたとしても、連合国が短期的にドイツに対して軍事行動に出ることができなかった事実は残る。その期間は連合国の計算で最低でも2年から3年に及ぶものとされていた。連合国は1942年の前にドイツに攻め込んでも成功することはなく、大きな失敗の代償を支払うことになると考えていた」(Mearsheimer 67)
また連合国が攻勢を時期尚早と決定したのは、ポーランドが敗北する前のことだったことも述べられています(Ibid.: 68)。

このことは連合国を安全保障面で頼りにしていたポーランドにとって致命的なものでした。

しかし、ドイツの主力がポーランドに向かっている状況で、連合国、特に大きな陸上戦力を持つフランスが攻勢に出なかったのは、やや不思議なことだと思われます。

攻勢に慎重なフランス、関わりたくないイギリス
1939年の状況、ポーランドがドイツ、ソ連によって東西に分割併合されている。
なぜフランスとイギリスはドイツに攻め込むのをためらったのでしょうか。

実は戦間期のフランス軍の戦略思想では防勢が重視されており、特に砲兵の集中運用を軸にした消耗戦略が研究されるようになっていました。

ミアシャイマーは「フランス人にとって、戦場での勝利は消耗戦略の遂行を成功させることにかかっていた。結果として、フランス人は砲兵を重視するようになった」と書いています(Ibid.: 71)。

このような状況を考えると1930年代のフランス軍の作戦計画が短期決戦よりも長期持久を想定したことは必然的なことでした。当時の計画の要点は次のように説明されています。
「第一に、フランスとその同盟国が動員を行い、攻勢のために必要な物資や人員で優位に立てるまでの時間を確保する。(中略)第二に、攻者は防者より損害が大きくなるのが一般的だったので、戦争の序盤におけるドイツへの攻撃はより大きな損害を受けるであろう。(中略)最後に、フランスの計画は東部国境に沿って連続的な前線を確立し、その背後で全国民を総力戦に動員する」(Ibid.: 73-4) 
戦争が始まってから、フランス軍が攻勢に出るまでに必要な時間は2年から3年と見積もられていたことも考慮すると、フランスの攻撃が開始される時期は1941年から1942年だったということになります。

一方、イギリスの戦略は政策の大幅な見直しのために不明確なままでした。

当時、イギリス政府はヨーロッパ大陸に関与する政策を見直し始めており、ドイツとの陸上戦に巻き込まれるリスクが憂慮されていたためです(Ibid.: 80)。

そのため、驚くべきことではありませんが、英仏両国の間では直前まで対ドイツ連合作戦に関する具体的な協議が行われていなかったのです(Ibid.: 82)。

誰が攻勢のリスクを引き受けるのか
フランス陸軍大将モーリス・ガムラン(1872 – 1958)
第二次世界大戦では連合軍総司令官として対ドイツ作戦を指揮した。
対ドイツ作戦についてイギリス政府が実務レベルの協議を始めると決定を下したのは1939年2月8日であり、実際の協議は3月29日から始まりました(Ibid.)

当初からドイツがポーランドに侵攻した場合の連合国の行動方針が議題となっており、イギリスは自らが大きなリスクを冒す必要がないので陸上戦をドイツに仕掛けることを主張していましたが、これは地上部隊の展開を担うことになるフランスには到底受け入れられない案でした(Ibid.)。

結局、イギリスはポーランドが戦争から離脱しないように支援する役割を担う方向で議論が進みましたが、イギリスはポーランドを助けるためにフランスが攻勢に出ることはないと察していました。
「イギリスは幕僚協議で問題を提起していたが、帝国参謀本部総長のゴート(ジョン・ヴェレカー)将軍はその問題についてガムラン将軍に直接説得した。そしてゴートはフランス人にはポーランドを支援するために攻勢に出る意図がないということを学んだ」(Ibid.: 84)
このように、明確な合意が得られないまま1939年9月を迎えてしまいます。

連合国はポーランドの戦況が日々悪化していくのをわき目にしながらも、なお次の一手をどうするかについて長い協議を行わなければばならず、ポーランドが独ソで分割される瞬間までこの議論は続きました。

3月9日から英仏協議は始まっていましたが、「連合国は西部戦線で攻勢に出る計画を発展させる上で意義ある公的枠組みがまったく確立できずにいた」と評価できる状況でした(Ibid.: 88)。

むすびにかえて
外交の観点で見れば、ポーランドは同盟条約によってイギリスとフランスの兵力によって守られていました。

ドイツがポーランドに攻め入れば、イギリスとフランスがドイツに宣戦する義務がその条約では定められていたためです。

しかし武力の裏付けがない外交は国際政治において実効力を持ちませんでした。

イギリスとフランスはドイツに宣戦しますが、1940年にドイツからの侵攻を受けるまで、西部戦線で本格的な作戦行動を起こすことができなかったのです。

ミアシャイマーの見解によれば、「まやかし戦争」はドイツの抑止が連合国に対して機能したことによるものでした。

ただし、この抑止はドイツの戦略的な賢明さによるものというよりも、イギリスとフランスの攻撃能力の不備によるものと考えるべきでしょう。

ドイツ軍が兵力をポーランドに集中した隙を突いて、西部戦線から連合国が大攻勢に出ることができていれば、第二次世界大戦はもっと局地的な地域戦争に終わっていたのかもしれません。

KT

関連項目
文献紹介 抑止が難しい戦略もある
事例研究 なぜオーストリアは併合されたのか
事例研究 戦間期にイギリスが軍事的脅威を見逃した理由

参考文献
Mearsheimer, John J. 1983. Conventional Deterrence, Ithaca: Cornell University Press.

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