最近人気の記事

2017年4月27日木曜日

文献紹介 第一次世界大戦の心理戦と移民コミュニティーの宣伝活動

L'exécution des notables de Blégny, 1914
近年、欧米諸国では移民の流入が大きな問題となっており、安全保障に対する移民の影響を考察する研究も増加する傾向にあります。

そうした研究動向を受けて、移民コミュニティーが母国のために外国で活発な宣伝活動を展開していたことも検討されるようになり、これを心理作戦(psychological warfare)、特に宣伝(propaganda)の観点で考察する研究者も出てきました。

今回は、第一次世界大戦の最中に米国でドイツ系移民コミュニティーが民間レベルでどのような世論工作に取り組んでいたのかを心理戦の視点から検討した研究を紹介したいと思います。

文献紹介
Chad R. Fulwider. 2016. German Propaganda and US Neutrality in World War I. Columbus, MO: University of Missouri Press.

米国におけるドイツ系移民コミュニティー
1872年に実施された調査でドイツ系の移民が居住する地域の分布を示した米国東海岸の地図
The Statistics of the Population of the United States, Compiled from the Original Returns of the Ninth Census, 1872. Perry-Castañeda Library Map Collection.
本書は不特定多数の大衆に対する心理作戦の歴史を取り扱ったものであり、世論工作がその中心を占めています。

第一次世界大戦で米国の世論を操作するために、ドイツ系の移民コミュニティーがドイツ政府の情報戦略とどのように結びついていたのかという課題に著者は取り組みました。

当時の時代背景を説明しておくと、第一次世界大戦が勃発した時点で米国には大規模なドイツ系移民のコミュニティーがすでに形成されていました。

ドイツでは19世紀後半から国内で維持し切れない余剰人口がますます大きくなり、政府批判の傾向を強めていたため、米国に限らず外国にドイツ人が移り住むようになっていたためです。

ドイツからの移民は現地の社会に同化するより、独自の言語、宗教、文化を維持するためのコミュニティーを形成する道を選びました。

米国のドイツ人コミュニティーは特に人口規模が大きかったこともあり、何百ものドイツ語新聞を発行していただけでなく、ドイツ語を話すルター派教会で組織化されており、地方自治体の選挙で大きな影響力を持っていたのです。

ドイツ系メディアの心理作戦の始まり
「ベルギー強姦事件」をモチーフにした戦時国債の販売促進のために作成されたポスター
Ellsworth Young. 1918. Remember Belgium, buy Bonds fourth liberty loan.
ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ人の移民コミュニティーは情報発信に乗り出しました。

それまでドイツ語だけで発信していたドイツ系メディアが英語での情報発信を行うようになり、本格的な世論工作に乗り出したのです。

ドイツ系メディアがこうした世論工作に乗り出すきっかけとなったのは、ドイツと敵対していたイギリスが「残酷宣伝(atrocity propaganda)」を成功させ、多くの米国の主流派に影響を及ぼしていたためであった、と著者は考察しています。

当時、ドイツと敵対していたイギリスの宣伝で軸足が置かれていたのは、ドイツ軍の行動を道徳的に貶めることでした。

第一次世界大戦でドイツ軍が実施したベルギー侵攻において、多数の女性に対する性的暴行を受けたという疑惑、いわゆる「ベルギーの強姦事件」と呼ばれる疑惑をイギリス側は米国に向けて効果的に宣伝していました。(ちなみに、この事件については最近では単なるイギリス側の宣伝ではなく、本当にあった事件だったと見直す研究も出てきています)

事の真偽は別として、著者はイギリスの宣伝活動は、「残酷宣伝」という新たな情報戦略の領域を確立する意味において画期的なものであったと評価されています。

つまり敵国が道徳的に残酷な存在であると宣伝することによって、中立国を参戦させる方法がとられたということです。

こうしたイギリス側メディアの宣伝が米国で勢いを増す中、こうした主張の多くが間違ったものであると批判する目的で、ドイツ系の移民は英語で対抗宣伝を始める必要に直面しました。

ただし著者の調査によると、ドイツ系メディアは扇動的な大衆紙的コンテンツを発信することは避けようとしたため、宣伝が多くの国民に届きにくい問題があったと指摘されています。

心理作戦としての成功と失敗
ニューヨーク港から出港するルシタニア、ドイツ大使館は新聞広告で事前にイギリス籍の船舶は攻撃対象となり、その危険は各個人が負うことになる危険があることを述べていた。N. W. Penfield. 1907. RMS Lusitania at end of record voyage.
メディア戦略の問題から、ドイツ系の移民コミュニティーは所望の成果を上げることができずにいましたが、次第に米国国内のイギリスに対する反発を強める手法を見出していきます。

その一つの転機となったのが、イギリス海軍による海上封鎖でした。

イギリスがドイツに対して行った海上封鎖はイギリス海軍の対ドイツ戦略の一環でしたが、その法的根拠は曖昧なままになっていました。

また、ドイツに対する海上封鎖はオランダに対する米国の貿易も妨害していたため、米国はイギリスに対して不満を募らせていたのです。

当時の米国大統領ウッドロー・ウィルソンは、この問題について懸念を示し始めており、それに便乗してドイツ系メディアは米国国内の親英世論の減退を図る宣伝を展開していきました。

大きな反響があったドイツ側の宣伝の一例として著者が紹介したのが、ハーヴァード大学の心理学者ヒューゴー・ミュンスターバーグ(Hugo Münsterberg)が寄稿した記事です。

ミュンスターバーグは米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James)と交流があったドイツ人の研究者であり、1897年からハーヴァード大学の教授に就任し、米国心理学会会長も務める心理学の権威だったのですが、たびたび親ドイツ的な発言を行っていることでも知られていました。

ミュンスターバーグの記事では、イギリス政府が1,000万米ドルの寄付を行うこととの引き換えに、ハーヴァード大学がミュンスターバーグを解任するように要求し、これを大学側が拒否した経緯が明らかにされました。

これはイギリス政府がアメリカの大学人事に対して介入した事例として世論に受け止められ、イギリス人に対する幅広い反発が米国で高まることになったのです。

これはドイツ系メディアの成果でしたが、こうした宣伝努力も1915年5月に起きたイギリス船籍の客船ルシタニア撃沈事件によって決定的打撃を受けてしまいました。

著者はこの事件で多数の米国民間人が犠牲になったこと、そして何よりも撃沈の原因がドイツ海軍の潜水艦による無制限通商破壊作戦であった、米国における反ドイツ世論が多数派を占めることに繋がりました。

間もなくウィルソン大統領がこの事件に対してドイツ政府に正式の抗議を申し入れ、英独関係は悪化の方向に向かったのです。

この時点でドイツ政府は無制限潜水艦作戦を中止する選択肢もあったのですが、1917年には戦略上の必要から作戦が再開されてしまい、米国のドイツに対する反発はさらに強まる結果となりました。

ここで米国におけるドイツ側の世論工作の試みは完全に頓挫することになってしまいました。

むすびにかえて
この研究は必ずしもドイツ系アメリカ人全体の意見や発言を踏まえたものではなく、焦点はあくまでも第一次世界大戦で米国国内のドイツ系移民コミュニティーという民間レベルで遂行されていた世論工作を調査することにあります。

したがって、当時のドイツ系移民の誰もがこうした宣伝活動に関与していたわけではない点に注意する必要があるでしょう。

この研究で興味深いのはドイツによる通商破壊が米国国内における心理作戦に与えた負の影響です。

あらゆる軍事行動には心理的影響が付きまといますが、戦略の観点から心理的影響を適切に管理することができないと、思いがけない逆効果を引き起こしかねません。

米国のような大国の局外中立を維持するために、世論工作は重要な意味を持っていましたが、ドイツ本国の戦争指導では、米国におけるドイツ系メディアの宣伝努力を重視しておらず、あくまでも軍事的効果に力点を置いていたように思われます。

反対にイギリス政府は戦争指導における心理戦の重要性をよく認識しており、それを最大限に活用していました。「ベルギー強姦事件」をはじめとするイギリスの「残酷宣伝」は米国で世論を動かす上で重要なテクニックであり、その後の情報戦略、心理戦においても繰り返し使用されることになりました。

ただし、その手法があまりに強引なものだと、ハーヴァード大学に対するミュンスターバーグの解任要求が後に暴露されてドイツ系メディアに利用されたように、かえって悪印象を広めることにもなりかねないことも、情報戦略としての重要な教訓と言えるでしょう。

KT

関連記事
事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争
論文紹介 第一次世界大戦の原因は「シュリーフェン・プラン」だけではない

2017年4月22日土曜日

学説紹介 国土に人口を分散配置せよ―マキアヴェリの考察―

ニッコロ・マキアヴェリの政治思想の特徴は、首尾一貫して実用主義的、実践的な態度で国家の統治方法を論じていることです。

政治家として成功したいのであれば、道徳的に批判される行為でもあえて行うべき状況があり、政治家は尊敬されるよりも恐れられた方がよい、と彼が論じたことはよく知られています。

今回は、そんなマキアヴェリが人口という問題についてどのように考察していたのかを紹介し、特に人口の計画的な配置が国家政策にとってどのような意味を持つのかを考察してみたいと思います。

人口配置を考慮した古代の国家政策の事例
2世紀中葉におけるローマ帝国の植民地の位置を示した地図。ローマを中心としながら勢力圏の拡大に応じて辺境の広範囲に入植していることが分かる。 Cresthaven.2015. Romancoloniae.
マキアヴェリの議論には古代史への言及が数多く見られます。

人口の問題に関してもマキアヴェリは古代の君主国や共和国の制度に注目するところから論じ始めています。
「古代の共和国や君主国の偉大で驚嘆すべき制度の中には多くの防備集落や都市が新たに建設される際に、今日では消滅してしまっているが、当時は常に採用されていた制度があった。というのは、最高の君主にとっても、秩序の整った共和国にとっても人々が安心して防衛と耕作ができるように、避難できる防備集落を新たに建設するという統治の制度にまさるものはなかったし、どの地方にとっても、それより有益なものはなかったからである」(マキァヴェッリ、133頁)
ここで述べられているのは、古代における国家がその領土を拡張していく典型的なパターンとして地方に「防備集落」という拠点を構築していくことが一般的だったということです。

防備集落は平時においては地方行政の中心であり、また戦時には国境警備に当たる陣地としても活用することができます。

さらにマキアヴェリは、「この制度は、新たな防備集落を建設する原因となったのみならず、敗者の土地を確実に勝者のものにし、無人の土地を住民で満たし、各地方に人々をうまく配分したのである」(同上、133-4頁)と述べており、国土の各地方に拠点を配置することの利点が、軍事と経済の両方面に及ぶということを強調しています。

なぜ人口を国土に広く分散させるべきか
ローマがイベリア半島に建設した植民市の一つアンプリアスの防壁、ローマの内戦においてポンペイウス陣営に味方したため、その敵のカエサルが勝利を収めた後で自治権を奪われ、中世にも襲撃を受けたために放棄される。Roman Wall, Empúries, 2005.
マキアヴェリはこうした古代の政策を復活させる必要があると確信していました。

これは自然にまかせていると豊かな土地にばかり人が移動し、国土に人口配置の不均衡が生じると予想していたためです。

この問題を放置すれば、防衛にとっても、経済にとっても不都合になるとマキアヴェリは考えていました。
「ある支配者が新たな占領地に設置した植民市は、外部の者に忠誠を守らせるための砦となり監視所となるからこそ、安全が実現するのである。のみならず、この制度がなければ、その地方全体に人を住まわせることも、その各地に人口をうまく配分することもできない。なぜなら、その地方の全部が肥沃な土地であり、あるいは健康な土地である、ということはないからである」(同上、134頁)
農業立地や工業立地の観点から考えて、経済的に成長しやすい地域が国土の一部に限定されやすいことは避けられません。

特にその国家経済の中心部から遠く離れた地域になるほどその傾向は強まります。

しかし、この傾向は安全保障上最も重要な国境地帯をすべて無人地帯に変えてしまう危険があり、領土の実効支配を確保するという国家の政策にとって問題です。

さらに人がいない地域が衰退するという問題だけでなく、人口が過密になる地域では住宅環境の悪化などの側面で生活水準の低下が生じてくる危険性もあります。

マキアヴェリはこの点について次のように述べています。
「そこである土地では人口が過多になり、ある土地では過小になる。もし過多になった土地から人口を引き抜いて、過小の土地に移さなければこの地方はまもなく荒廃する。人口が過小のところは荒れ果て、過多のところは貧しくなるからである。自然はこの乱調を埋め合わせることができないので、人の努力でそれを埋め合わせなければならない。そのことに多数の人々が一斉に取り組むことで、不健康な土地が健康な土地になるのである」(同上)
当時のイタリアに国土開発という概念はまだ存在していませんが、ここでマキアヴェリが提起している問題は国土開発にかなり近い内容を持っています。

国家がその国力を伸ばすためには、ある程度のバランスの下に人口が分散配置されている必要があり、そうでなければ国土の全般的な改善を推進することは困難なのです。

むすびにかえて
現代の政治学者の多くは人口の移動や配置を政治学の中心的な課題とまでは捉えていません。

しかし、常識的に考えれば、国家を統治していく上で人口が重要な国力の一要素であることは明らかであり、特に労働力人口の増減については経済成長や軍備増強を直接制約する可能性があることを考慮しなければなりません。

現代日本の少子化や地方の過疎化といった問題を「社会問題」という観点で見ていると、それが安全保障に与える影響にまで意識が及びません。

しかし、マキアヴェリの議論は、これらの問題が安全保障の領域にも影響する可能性を示唆しています。

もとより国家の安全保障は軍備だけで成り立っているわけではありません。

軍備をはじめとする国力の諸要素がバランスよく確保されていることで、はじめて国家は自らの存続を可能となるのです。

KT

関連記事
領土拡張のための「成長尖端」
国土防衛を考えるための軍事地理学
モーゲンソーが考える国力の九要素

参考文献
マキァヴェッリ『フィレンツェ史(上)』 齊藤寛海訳、岩波書店、2012年

2017年4月16日日曜日

学説紹介 どうすれば士気を高めることができるか

Staff Sgt. Katherine Spessa. Feb. 17, 2017. 
士気(morale)は部隊に所属する各個人の心理状態を合わせたものであり、戦闘効率を高める重要な要因として位置付けられています。

統率力(リーダーシップ)を発揮して士気を高めることは、指揮官が任務を遂行する上で欠かすことができないといえます。

今回は、アメリカ海軍協会から刊行された統率論の参考書に沿って、部下の士気を高めるために必要な措置に関する解説を紹介したいと思います。

士気は小さいことの積み重ねである
Lance Cpl. Sarah Stegall. Jan. 4, 2017.  Basic Warrior Training is a 48 hour training evolution that covers land navigation.
古来から軍人は士気を高めることの重要性を認識し、統率者の使命はこれを高いレベルに保つことだと考えてきました。

というのも、士気が低下すれば部隊の能力は低下し、転属や退職を願い出る者、規律を乱して事故を起こす者、最悪の場合には命令に従わないなどの重大な事態にまで発展する危険があるためです。

軍隊の戦闘力への影響で見れば、物理的要因の3倍の効果を心理的要因が及ぼすとナポレオンが主張したことは決して誇張ではありませんでした(アメリカ海軍協会、226-7頁)。

しかし、部下の士気を高めることは決して簡単な仕事ではなく、日頃の地道な取り組みがなければ士気を改善することができないと文献でも述べられています。
「「士気とは小さいことの積み重ねである」といわれている。これほど、この重要な要因を正確に表したものはあるまい。なぜならば、人間に満足感を覚えせしめるすべてのものは士気を増強し、個人としての人間を煩わすすべてのものは士気を低下せしめるからである」(同上、227頁)
こうした士気の複雑性は、手っ取り早い改善策が存在しないことの裏返しでもあります。

士気とは究極的には各個人の心理状態に起因するものですので、生活状況、食事、住宅、規律、給与、職務内容のすべてが影響してきます(同上)。

こうした諸条件において、その個人が集団の一員として重要な働きをしているという自己認識が士気に繋がると考えられているのです。

士気を高めるために講ずべき処置
Cpl. Carlos Cruz Jr. July 2, 2016. A rifleman gets a promotion to sergeant at Cultana Training Area in Australia.
さらに文献では士気を高めたいと考える指揮官の参考とするために、次のような具体的な処置を紹介しています。
(1)士官は、部隊が食事の質と量の両面につき、可能な限り美味しい食事を取れるよう注意すること。
(2)絶えず部隊の保健衛生状態を点検すること。
(3)部下の威服や装備が十分であり、クリーニングが能率的であるように配慮すること。
(4)部下が適当な自由と休暇を取ることを確保すること
(5)部下が昇進、褒賞、特権について、公正な待遇を受けることを確保すること(同上、230頁)。
これらは士官が統率上、配慮すべき最小限度の処置となります。

さらに加えて、部下のそれぞれの特性に応じた対応も必要となります。先ほど述べた通り、士気を阻害する要因は多種多様であるため、画一的な対応ですべてが解決できるわけではないためです。

部隊検閲や個人面談などを通じて、指揮官は一人ひとりの部下が不満や不平を抱いていないか把握することになります。

例えば、自分の専門的能力にどれだけ自信を持っているのか、福利厚生や休暇に不満は持っていないのか、将来どのようなキャリアを目指しており、そのための教育訓練の機会は与えられているのか、職務の配分や論功行賞で公平な取り扱いを受けているのか、こうした情報を集めておくことが統率の実務においては非常に重要となります(同上、229頁)。

もし士気を阻害する要因を発見したならば、指揮官は速やかにそれを排除できるよう努力しなければなりません。

長期の退屈と過度な労働に要注意
Seaman Cole C. Pielop. Aug. 14, 2016. A sailor reunites with his family after returning home from a seven-month deployment.
より具体的な処置としては勤務時間の管理について厳重に注意する必要についても述べられています。

というのも、士気を破壊する典型的な要因は第一に長期の退屈、第二に過剰な労働であるとされているためです。

娯楽に溢れた現代社会で余暇を持て余すことは考えにくいことですが、余暇における活動の停滞は「過去において存在したし、将来再び起こりうることが考えられる。強制待機命令の時には「談話会」、コンテスト、トーナメント、プロジェクトや競争練習さえも行うことによって、多くの余暇のの善導もなされよう」と述べられています(同上、231頁)。

勤務外の時間を自己の充実のために有意義に過ごすことができれば、それは職務の遂行においても好ましい影響をもたらすと考えられています。

現代の組織でより深刻な士気の阻害要因はむしろ過度な労働と言えるでしょう。

与えられた時間で処理しきれないほどの仕事を抱え込み、家庭から離れている時間が長くなるほど士気は低下し、また能率も低下していきます。

このことについて文献では「遊びなしの仕事は人を愚鈍にする」と表現されています(同上)。

もし士気を低下させるこれら要因が実際に確認されるのであれば、そのことを上官に報告することは士官としての義務であると文献では述べられており、速やかに事態を緩和するための措置を考慮しなければなりません(同上)。

むすびにかえて
統率の事例や実践は座学で学ぶことが難しいということは事実です。

しかし、統率において常に基礎とすべき原則や考え方というものもあり、士気を改善するという問題に関しては部下の待遇に可能な限り配慮することであると一般化することができます。

特に時間管理に関しては士気に与える影響が特に大きいことから、普段から仕事と余暇のバランスがとれるように注意を払う責任が指揮官にはあります。

統率において最も大事なことは、そうした日頃からの部下への配慮を通じて、部下の信頼を着実に積み上げていくことに他なりません。

こうした信頼関係があるからこそ、生死を分ける場面であっても部下は指揮官についていこうとするのです。

KT

関連記事
学説紹介 戦闘で兵士の内面で何が起きるのか
論文紹介 時代や地域で異なる士気の学説

参考文献
アメリカ海軍協会『リーダーシップ アメリカ海軍士官候補生読本』武田文男、野中郁次訳、日本生産性本部、1981年(新装版2009年)

2017年4月14日金曜日

論文紹介 どのような理論で軍事バランスを分析すべきか

U.S. Marine Corps photo by Cpl. Aaron S. Patterson
軍事バランスを評価する方法は、安全保障研究において重要なテーマの一つです。

冷戦期には米軍とソ連軍のどちらがヨーロッパで軍事的に優勢なのかを明らかにするため、さまざまな定量的分析が試みられました。

今回は、ヨーロッパにおける東西の軍事バランスを評価した研究でどのような方法論が用いられていたのかを検討し、これまでの論争を再解釈すべきだと主張した研究を紹介したいと思います。

論文情報
Biddle, Stephen D. "The European Conventional Balance: A Reinterpretation of the Debate," Survival, Vol. 30, No, 2(March/April, 1988), pp. 99-121.

冷戦期ヨーロッパの軍事バランスをめぐる議論
冷戦期の北大西洋条約機構の加盟国を示した地図。対ソ戦が勃発した場合、ヨーロッパに配備している部隊だけではソ連軍に対抗することが難しいため、米国本土の部隊を動員してヨーロッパに派遣する必要が生じるが、それまでの間に第一線のNATOの部隊が持ち堪えることが軍事バランスで可能なのかが主な論点となった。
U.S. Navy. 1962. U.S. Navy All Hands magazine.
冷戦期のヨーロッパは東西陣営の主戦場と見られていたため、米ソ戦争が勃発すればこの地域の軍事バランスの動向が戦争の勝敗を大きく左右すると考えられていました。

特にヨーロッパ戦域における米軍を中心とした北大西洋条約機構(NATO)の部隊とソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構(WP)の部隊との軍事バランスが重視されていたのですが、両軍の配備状況を見ればソ連軍が優勢というのが定説とされ、米軍としては戦時に米国本土から増援を派遣する必要があると議論されていたのです。

ただし、ソ連軍が優勢という判断は限られた定量的分析によって裏付けられていたに過ぎず、学術研究として議論の余地が残されていると著者は述べています(Biddle 1988: 100)。

従来までの定量的分析の内容を詳細に調べると、大きく2種類のタイプに分かれており、一方は軍事バランスの基礎となる兵士、装備、物資に焦点を合わせる分析、他方は軍事バランスの結果として発生する損害に焦点を合わせる分析があったとされています(Ibid.: 101)。

著者の見解によれば、あらゆる軍事分析はこの二つのどちらか一つに区分することができます。

さらに著者は前者の分析方法を「ビーン・カウント(bean counts)」と称される単純な分析方法と指数を用いたやや複雑な方法に細分して検討しています。

前者の方法は、単純に戦時に動員可能な部隊の規模、戦車や火砲などの武器体系の数を比較する方法ですので、武器や装備が持つそれぞれの特性が十分に考慮されません。この方法では米ソの軍事バランスを評価しようとしても難しくなります(Ibid.)。

例えば、戦闘開始から最初の15日間、米国はソ連に対して戦車の保有数で1:2から1:3の勢力比と判定されますが、こうした西側の戦車という装備の劣勢が軍事バランスにどのような影響があるのかを十分に論じることはできません(Ibid.)。

この問題を解決するため、機甲師団換算(Armored Division Equivalent)という方法論が編み出されており、これは複数の武器体系を米陸軍の機甲師団の編制に落とし込む尺度として使用されています(Ibid.)。

こちらの方法を採用する研究ではソ連の勢力比は1.5から2と見積もられます(Ibid.)。

ADEに基づく勢力比は多種多様な装備体系の数的優劣を一つの尺度に置き換える意味がありましたが、その勢力比が具体的に何を意味しているのかは明確ではなく、例えば損害がどの程度になるのか、何日間にわたって戦闘を継続できるのかは分からないという問題が残ります。

軍事バランスから導き出される損害の程度
地形、気象、装備、部隊の態勢などにもよるが、地上での戦闘が始まると師団には全体の1%から5%に相当する人的損害、つまり戦死者、負傷者、捕虜、行方不明者が発生する。ある程度の損害であれば戦闘を継続することは可能だが、それが一定以上累積すると部隊が崩壊して敗走が始まる恐れが出てくる。
先ほどの方法はいずれも軍事バランスを形成する要因に注目するものでした。

しかし、軍事バランスをその軍事行動の結果と関連付けて分析する方法もあり、著者は特に政策論争で広く参照されている方法としてランチェスター・モデル(Lanchester Model)と適応動態モデル(Adaptive Dynamic Analysis)の二つがあることを紹介しています。

ランチェスター方程式はもともと1914年にイギリスの技術者ランチェスターによって構築された数理モデルであり、勢力比から彼我の損害に及ぼす影響を見積もることができます。

この数理モデルを使った方法によって米ソの軍事バランスを分析した研究としてカウフマン(William Kaufman)の業績があります。

彼の研究成果によると米ソ両陣営の軍事バランスは現状で1.414:1であり、NATOにとって壊滅的敗北の危険性があり、もし1.8:1にまで軍事バランスがソ連に有利になってしまうと、40日以内にNATOの40個師団が全滅する危険が生じてくる、と判断されていました(Ibid.: 108)。

ランチェスター・モデルは時間の経過によって当初の軍事力の格差が損害によって加速度的に拡大すると想定するため、軍事バランスについては西側にとって悲観的解釈が導き出されることになります。

もう一つの適応動態モデルはブルッキングス研究所のエプステイン(Joshua Epstein)が構築したモデルであり、ランチェスター・モデルよりも西側にとって楽観的な見方を示します。

なぜこのような見解になるのかといえば、適応動態モデルではある程度の損害を受けると損害を抑制しようと、部隊の態勢が防御から退却に移ると想定されているためです。これはランチェスター方程式にはない要素です。

このモデルを用いた研究成果によると、NATOは確かに勢力比が不利ではあるため、次第にソ連軍に対して劣勢となるが、その損害が発生する速度はランチェスター方程式で想定されるよりも遅いとされており、具体的には40日後に米国本土から増援が到着するまでNATOの部隊が持ち堪えれば、増援の戦闘加入によって軍事バランスを改善することは可能だとされています(Ibid.: 108-9)。

ここで重要なポイントは、同じ情勢を分析しているにもかかわらず、ランチェスターモデル、適応動態モデル、どちらを使っているかによって、全く異なる解釈が引き出される可能性があるということです。

こうした方法論上の問題点を認めることで、著者は専門家、研究者の間で軍事バランスをどのように評価すべきかについての議論を深めることができるはずだと考えました。

むすびにかえて
軍事バランスの分析をどのような方法で行うべきかという考察には、まだまだ理論的に不完全な部分が残っており、著者はこの問題に取り組むことを避けていたは本当に有意義な政策論争もできないと述べています。
「もし本当の安全保障を実現するために進もうとするなら、この議論の方向性を見直すことが重要である。安定性に関する重要な問題、そして通常戦争における攻撃と防御の実施には注意を払わなければならず、また厳密に議論しなければならない。自覚しないまま軍事的妥当性をめぐる非生産的議論に力を注いではならない」(Ibid.: 114)
軍事バランスは安全保障のあらゆる問題につきまとう重要なテーマであり、ここで判断を誤るとその後の政策や戦略はすべて裏目に出てしまう恐れがあります。

正しい行動を起こすためには、正しい情勢判断が必要であり、その判断を裏付けるためには確固とした理論モデルを準備することが求められているのではないでしょうか。

KT

関連記事
論文紹介 通常戦力の報復攻撃でソ連を抑止すべき
はじめて学ぶ人のための勢力均衡―モーゲンソーの理論を中心に
論文紹介 安全保障のジレンマの原因は軍備それ自体ではない

2017年4月7日金曜日

事例研究 戦争より革命を恐れたヴィルヘルム二世

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世(1915年頃)
German emperor Wilhelm II, United States Library of Congress's Prints and Photographs division
かつてドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム二世(Wilhelm II, 1859 - 1941)は、第一次世界大戦を自ら進んで引き起こした張本人かのように評価されていました。

しかし、こうした単純化された見方は、その後の研究で修正されています。

ヴィルヘルム二世はドイツ国内を安定化できるまでは、ドイツとして戦争を避けるべきだと認識していたことも、そうした研究の過程で明らかにされています。

今回は、第一次世界大戦直前のドイツの国防体制に関するホルガー・ハーウィックの分析を参照し、当時のヴィルヘルム二世の政策が対外戦争の回避を目指していたことを考察したいと思います。

軍制改革を拒否していたユンカー
1888年、初めて帝国議会の開会を宣言するヴィルヘルム二世、即位当初は従来の社会主義者を弾圧する政策の見直しを進めたが、後にこれを弾圧する姿勢に戻しており、ユンカーの支持を受けて政権運営に当たった
Anton von Werner (25. Juni 1888)
20世紀初頭のドイツ帝国において、国防政策の決定に影響力を行使できる人物は極めて限られていました。

ハーウィックの研究が指摘しているように、当時のドイツにはイギリスの帝国防衛委員会やフランスの戦争最高会議のような組織が欠如しており(ハーウィック、487頁)、国防政策の重要案件は皇帝個人が決裁を下し、陸軍省、軍事内局、参謀本部、海軍局、軍令部、帝国宰相はその意向に沿って政策を実施していたに過ぎません(同上)。

こうした状況に対して帝国議会が行使できる権限はほとんどなく、5年または7年ごとの予算の承認・不承認によって影響力は行使するに止まっていました。

それだけヴィルヘルム二世が主体となって政策を決定する程度は大きかったということが言えます。

しかし、ヴィルヘルム二世は国防政策に専念できたわけではなく、自らの政治的な支持基盤となってくれる人々を組織化し、不満分子や政敵を抑圧するという政治家の仕事にも取り組まなければなりませんでした。

それゆえ、ヴィルヘルム二世は自分を支持する保守派の地主貴族、ユンカーの経済的利権、社会的特権を保護する政治的必要がありましたが、彼らはしばしば大規模な軍政改革を拒否していました。
「この頃、ユンカー貴族は、その数的および経済的影響力が急速に工業化と商業化により浸食されていた。彼らは将校団内部の特権的な地位の維持に努め、特に配属に関しては参謀本部と並んで威信のある近衛連隊や騎兵連隊を希望していた。将校団に属さない徴兵された兵員は、信頼が置けるとされた保守的な地方出身者から招集され続けた。1911年になって全人口の42%しか農村に住んでいなかったときにも、農村は全徴兵者の64%を供給していた。しかし、大都市の人口集中地域の徴兵者の割合は、わずか6%であった」(同上、490頁)
革新的思想を持つ都市部の若者が軍隊に浸透する事態を避けようとヴィルヘルム二世は努力しますが、こうした政治的配慮は国家総動員体制を確立する上で明らかな障害でした。

それに加えて、当時のドイツの国内情勢では都市労働者を中心とした社会主義運動がますます勢いを増すようになっていたため、問題は解消されないばかりか、ますます深まっていく傾向にあったのです。

国内政治上の脅威と見なされたドイツ社会民主党
1890年、ドレスデンに集まったドイツ社会民主党の支持者、中央左でテーブルに座っている人物がアウグスト・ベーベル、ドイツ社会民主党設立メンバーの一人
Geschichte der deutschen Arbeiterbewegung, Bd. 1. Berlin, 1966,
19世紀末から第一次世界大戦が勃発するまでの間にヴィルヘルム二世が主に関心を抱いていたのは、国内で高まる社会主義革命のリスクにいかに対処するかというものでした。

1878年に社会主義者鎮圧法が廃止されると、ドイツでは社会主義を主張する政党や政治団体が急増し、1890年2月20日の議会選挙では大幅に議席を増やしています(同上、492頁)。

当時の社会民主党の内情も必ずしも一枚岩ではなく、エドゥアルト・ベルンシュタインのような革命によらずに社会主義の実現を図ろうとする修正主義の立場もあったのですが、ローザ・ルクセンブルクやカール・カウツキーのように教条的に社会主義革命を主張する立場がより広く支持されていました。

革命を主張する革新派勢力の躍進を目の当たりにした陸軍大臣ヴェルディ・ドュ・ヴェルノワは、対内的安全保障のために軍隊を動員する準備を整えようとします。

彼はベルリンの近衛軍団だけでなく、ドイツ各地のほとんどすべての軍団に社会民主党の動向を監視させ、もし国内が不安定化すれば、速やかに幹部を逮捕できるように準備するようにという命令を達します(同上、493頁)。

ちなみに、この命令は18年後の1908年11月まで効力を持ち続けていました(同上)。

こうした社会主義者に対する敵対姿勢はヴェルノワだけでなく、ヴィルヘルム二世も完全に共有していました。ハーウィックは次のように説明しています。
「ヴィルヘルム二世は1890年10月にベルリン軍管区司令官に対する命令で「国内の敵」である社会民主党に対処するための最適の部隊と考えられていた近衛軍団と第三軍団の両方に自由裁量権を与えた。一年後、ヴィルヘルム二世は、まず第一に国内警察力として軍を用いるという決定を公に認めた。ポツダムの近衛部隊の新兵による忠誠の宣誓式を執り行う際、ヴィルヘルム二世は、もし必要とあらば新兵に「親類や兄弟を射殺させる」準備をしなければならないと忠告した」(同上、493)
ヴィルヘルム二世は政権の安定を支える基盤として軍隊により強く依存することになりましたが、これはドイツ帝国の国防政策をますます修正しにくいものにしていきました。

その一例として、兵力の規模に関する問題が挙げられます。

参謀総長に就任したヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ)は前任者が立案した対フランス戦略を実行するためには、軍事的理由から新たに30万名の増強が必要と進言したことがありますが、ヴィルヘルム二世はこの軍備増強が社会主義者の軍隊への浸透を招く恐れがあるという政治的理由で拒否したのです。
「陸軍の国内政治上の機能と国家戦略の目標との間の緊密な関係は、おそらく1913年にもっとも明らかとなった。新たに参謀総長に就任したヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ)は、シュリーフェンの大胆な包囲戦略を実施するために必要な部隊をドイツ軍が欠いていることを認め、30万人の増強を要求した。ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン陸将は、既存の軍の半分を占める大規模な軍の拡大に強硬に反対した。というのは、かつてアイネムが述べたように、こうした行為は将校の地位を「望ましくない階層」へと導くことになる恐れがあり、それによって軍を民主化」の危険にさらすことになるからである」(同上、496頁)
軍隊で対内的安全保障を実現することの限界がここで露呈します。

国内政治の安定化のための手段として軍隊は、もはや軍事的理由によって増強や改革を柔軟に進めることができなくなりました。

ヴィルヘルム二世は国内の脅威に注意するあまり、国外の脅威に対して、その国防体制を適応させることができない状態に追い込まれていたと言えます。

ヴィルヘルム二世の情勢判断
1894年2月、ポツダムで実施されたパレードで閲兵するヴィルヘルム二世
Carl Röchling, Parade im Lustgarten 9.2.1894
国防政策の改革が難しくなっていることは、ヴィルヘルム二世自身も認識していたので、あえてドイツから戦争を仕掛けるようなことはすべきではないと当時判断していました。

彼が極力、国外でドイツ軍を戦わせることは避けるべきと考えていたことは次のハーウィックの記述からも分かります。
「1905年12月、シュリーフェンが数的に有利な連合国に対する二正面戦争を戦うための有名な覚書を書いていた間ですら、ヴィルヘルム二世は、帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューローに対して、日増しに強くなっていく「赤の脅威」に直面して国民の安全と財産を危険にさらすことがないようにと述べている。なぜなら、ドイツ帝国は「あえてドイツの地から一人の兵士も派遣することはない」ので、近い将来に戦争の危険を冒す必要はないとヴィルヘルム二世は考えていたのである」(同上、495頁)
つまり社会主義者こそが最も重大な脅威であると見ていたので、ヴィルヘルム二世は、もし国外で戦争に踏み切らざるを得なくなったとしても、それは国内の敵を一掃した後であるべきと強く確信していたのです。

ハーウィックはヴィルヘルム二世が書き残した書簡を紹介し、その考え方をはっきりと紹介しています。
「社会主義者を撃ち殺し、血の海が必要とあらば、さらに彼らの首を刎ね、社会主義者を無害にする。そしてその後に、国境の外で戦争を行う。しかし、この順序を変えることはできないし、この順序の通りに事を進めるとしても性急に進める必要はない」(同上)
ヴィルヘルム二世が下した情勢判断が、政治的、軍事的観点から見てどれほど妥当だったのかという点に関しては議論が分かれるところかもしれませんが、ハーウィックは否定的に見ており、第一次世界大戦が勃発した当時「赤の脅威」には根拠がないことが露呈したとの見方を紹介しています(同上、519頁)。

むすびにかえて
ヴィルヘルムの帝政はユンカーの支持で成り立っていたため、大規模な軍拡を進めることは彼にとって政治的な自殺行為でした。

ユンカーと敵対した社会主義勢力がヴィルヘルム二世の眼に脅威として映ったことは、政治的立場として理解できることです。

この事例が興味深いのは、国内政治上の脅威に対処するために軍隊を使うことを優先したため、対外的な軍事行動に必要な改革や増強が拒否された点です。

そのためヴィルヘルム二世は対外戦争について慎重な姿勢を取らざるを得なくなっていました。

このように考えていくと、第一次世界大戦はヴィルヘルム二世の政策を裏切る形で始まったと考えることができます。

この戦争に敗北したことで、ドイツ社会民主党が政権を握ることになり、ヴィルヘルム二世が亡命を余儀なくされることになりました。
参考文献
ホルガー・H・ハーウィック「国民国家の戦略的不確定性―プロイセン・ドイツ(1871~1918)」中島浩貴訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、485-546頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)

2017年4月6日木曜日

地域研究 データで分かる北朝鮮の軍事力

北朝鮮の戦勝記念日で車両行進を行う装甲兵員輸送車の車列。
Uri Tours. 2013. Tank in the DPRK Victory Day Parade.
2017年4月時点で、北朝鮮の軍事力がどの程度の水準にあるのかを評価するため、基本的なデータをいくつか紹介してみたいと思います。

さらに、それが相対的にどの程度の水準にあると言えるのかについても簡単な検討を加えておきます。

朝鮮人民軍の動員可能な兵力
平壌市内を車両で移動する朝鮮人民軍の部隊、Roman Harak. 2010. 
まず基礎的なデータとして北朝鮮が動員できる兵員の数から見ていきましょう。

2017年版の『ミリタリー・バランス』を読むと、北朝鮮の総人口は25,115,311人、現役の兵員は1,190,000名、予備役は約600,000名と見積もられています(Ibid.: 303)。

現役と予備役の兵士を合計した数は1,790,000名、総人口に占める比率を見ると7.12%になります。

これは第二次世界大戦のドイツで軍人の数が国民の中に占める比率が最も高くなった1941年の7.83%に匹敵するほど大きな数値であり、実際にこれほどの動員が可能なのか疑問が持たれる数値です。

さらに加えて、準軍隊の189,000名と準軍隊の予備役5,700,000名という人員も北朝鮮は抱えています(Ibid.)、単純計算で最大動員可能総数を見積ると、7,679,000名という数になり、総人口に占める比率を計算すると30.57%となります。

軍事的にはあり得ない想定ですが、もし戦時に全員を動員して戦闘に投入しようとすれば、国内の労働力はたちまち枯渇してしまうでしょう。

こうした動員能力が真価を発揮するのは、対外的な敵国との戦争ではなく、対内的な反乱を鎮圧する場面だと思われます。

軍事組織を通じて国内の不満分子の状況を監視するだけでなく、迅速に動員をかけることで反乱軍に同調する勢力を抑制し、反乱分子を孤立させることもできるでしょう。

運用能力に疑問が残る「核戦力」

北朝鮮が保有する各種弾道ミサイルの射程を視覚化した地図。最も短射程のミサイルは韓国、中国、日本、ロシアの一部領土に対してのみ使用できるが、最も長射程のものは米国のアラスカ、インド、インドネシアに使用される可能性があることが示されている。
Cmglee. 2013. Estimated maximum range of some North Korean missiles based on data

北朝鮮が保有する「核戦力」を考える際に重要なポイントとなるのは、まだ北朝鮮軍として核弾頭(または核爆弾)を実戦に使用できる段階にあると確信できる決定的証拠は一般に確認されてはいないということです。

近年報道されているように、北朝鮮は核開発と弾道ミサイルの開発を継続的に実施していますが、『ミリタリー・バランス』でも北朝鮮軍として核兵器を保有しているものと判断できないという慎重な見方を保っています。
「国際社会の制裁にもかかわらず、北朝鮮はその軍事力と生存自活にとって重要な核兵器と弾道ミサイルの開発を継続している。核弾頭の小型化と統合化の進捗については疑問が残るものの、2016年1月の第4回核実験と9月の第5回核実験は、恒久的な政治体制のレトリックと相まって、野心を持っていることを示している」(IISS 2017: 303)
また核兵器の運搬手段となるミサイルについても慎重な見方が採用されています。長射程ミサイルの保有量に関するデータを取り上げると、
  • 大陸間弾道ミサイル(ICBM):6+基(火星-13(KN-08)運用状態とされる)
  • 中距離弾道ミサイル(MRBM):ε10基(搭載するミサイルとしてはノドン ε90+とムスダン若干数)
  • 短距離弾道ミサイル(SRBM):54+基(24 FROG-3/5/7、若干数 KN-02、30+ Scud-B/Scud-C (搭載するミサイルはε200+))
という数値が示されています(Ibid.: 304)。

また、あまり知られていませんが、ミサイル以外にもH-5爆撃機のような核爆弾を運搬する能力を持つ航空機があることが資料では指摘されています(Ibid.)。

こうしたミサイルについて一部には運用状態にあるという見方があることを紹介しながらも、全体として想定される運用能力に達していないのではないかという評価が与えられています。
「また、前年に実施された関連技術の地上試験と比較して、北朝鮮は弾道ミサイルの試験回数を増やしている。この試験には、問題はあるが長く待たれていたIRBM「火星-10(Musundan)」の発射試験、さらに表面的には新たな固体燃料推進装置を統合したSLBM「北極星-1(KN-11)」の発射試験が含まれる。しかし、米国によって運用能力を持つと評価されたICBM「火星-13(KN-08)」や、試験が未実施のままにされている派生の「火星-14(KN-04)」といった長射程の弾道ミサイル体系は未検証のままである。進行中の試験とそれに伴う失敗は、いくつかの想定される運用能力に達していないことを示唆しているものの、北朝鮮は、より機能的かつ信頼性のある運搬システムの開発に向けて明確な進歩しつつある」(Ibid.: 303)
もちろん、異なる見解を持つ専門家もいるでしょうが、その実態は結局は関係者しか知り得ないことです。

ここでは客観的に評価できる一般公開の情報資料だけでは、北朝鮮の「核戦力」が実際に使用できると判断することは非常に困難とだけ述べておきたいと思います。

それでも、近年では北朝鮮の「核戦力」が質的向上を続けることは確かですので、近い将来において北朝鮮が核戦力を実際に行使する可能性があることは念頭に置いておくべきでしょう。

近代化が必要とされる通常戦力
韓国で行われた朝鮮戦争のリエナクトで当時の韓国軍と朝鮮人民軍の近接戦闘を再現している様子
Pfc. David Muhlbock, U.S. Army. 100904-A-9994M-006.
『ミリタリー・バランス』では通常戦力の分野において、ほとんど近代化の兆候が見られないと述べられており、演習の内容からしても実際の戦闘に対応できるのか疑問視されています。
「それ〔核戦力〕とは対照的に、北朝鮮の通常戦力はますます旧式の装備に依存し続けており、それぞれの軍種において近代化が広がっている証拠はほとんどない。北朝鮮軍の能力は、間違いなく人的戦力と非対称戦争の能力に依拠する。演習は定期的に実施されているが、それらはしばしば実戦的な内容ではないように観察され、必ずしも広範な作戦能力を示すものではない」(Ibid.)
具体的な装備の保有数として、まず地上部隊の車両でも特に重要な主力戦車、歩兵戦闘車、兵員装甲輸送車の区分から見ていきたいと思います。
  • 主力戦車(MBT)3,500+両 T-34/T-54/T-55/T-62/Type-59/Chonma/Pokpoong
  • 歩兵戦闘車(IFV) 32両 BTR-80A
  • 装甲兵員輸送車(APC) 2,500+両 ;APC (T) BTR-50; Type-531 (Type-63); VTT-323、APC (W) 2,500両 BTR-40(Ibid.: 304)
主力戦車の分類区分に該当する車両を北朝鮮陸軍が3,500両以上保有しており、その数値は韓国陸軍の主力戦車の保有数2,434両を数字の上で超えていることは印象的です。

しかし、北朝鮮が持つ戦車の種類を検討すると、第二次世界大戦世代にまでさかのぼるソ連製旧式の戦車が多く含まれているため、現代の戦闘で米陸軍や韓国陸軍の主力戦車に対抗できる性能を発揮することは極めて難しいと思われます。

配備されている戦車の内訳がどうなっているのかは示されたデータでも分かりません。

火砲は全体として21,100門/両が配備されており、資料では大まかな内訳として次のようなデータが示されています。
  • 自走砲・牽引砲 8,500両/門: SP 122mm M-1977/M-1981/M-1985/M-1991; 130mm M-1975/M-1981/M-1991; 152mm M-1974/M-1977; 170mm M-1978/M-1989
  • 牽引砲 122mm D-30/D-74/M-1931/37; 130mm M-46; 152mm M-1937/M-1938/M-1943
  • 火砲/迫撃砲 120mm (報告されている)
  • 多連装ロケット 5,100両: 107mm Type-63; 122mm BM-11/M-1977 (BM-21)/M-1985/M-1992/M-1993; 200mm BMD-20; 240mm BM-24/M-1985/M-1989/M-1991; 300mmの装備も若干数
  • 迫撃砲 7,500門: 82mm M-37; 120mm M-43; 160mm M-43
この火砲の保有状況から火力支援の能力がどの程度なのかを考えるため、北朝鮮軍の現役の兵員1,190,000名に対する比率を計算してみると、56.39名に対して1門の火力支援が確保されています。

ちなみに、韓国軍は火砲の数は11,038門を確保しており、韓国軍の現役の兵員が630,000名であることを考えると、1門当たり57.07名に対して火力支援ができる程度の保有数です(Ibid.: 306-7)。

むすびにかえて

以上の大まかなデータを踏まえると、北朝鮮軍の大まかな軍事的特徴としては次の三点を指摘できます。

・国力の限界をはるかに超えて拡充された軍事力の人的基盤
・実戦で投入可能かどうか疑問視される核戦力の重点的開発
・核開発のペースに比べて近代化が立ち遅れている通常戦力

北朝鮮の軍事力の特徴をどのように解釈するかという点については専門家によって見解が異なるところでしょうが、国外の敵というより国内の敵を想定しているように思われます。

つまり、国力に比して過剰に思えるほど軍の動員能力を確保していることから、朝鮮人民軍の任務は対外的安全保障上の脅威を抑止し、また戦時にはこれに対処するというよりも対内的安全保障のために配備されている側面が強いと思われます。

また対外的安全保障上の脅威として韓国や米国を想定するにしても、朝鮮人民軍の装備はあまりにも旧式化が進んでいるため、攻勢に出ることも、防勢に回ることも軍事的には非常に困難だと指摘できます。

戦略の観点から考えれば、核兵器の開発はこうした対外的安全保障上の弱点を補完する狙いがあるとも思われます。

報道などでは国威発揚のような心理的な狙いが強調されることもありますが、冷戦初期のNATOの核戦略のように通常戦力の劣勢を認識しているがゆえに、確証破壊的な核戦略を採用しようとしていると解釈すれば、北朝鮮の核戦略にもそれなりの論理構成を持っていると考えられます。

KT

参考文献
The Military Balance 2016-2017, London: International Institute of Strategic Studies.

2017年4月3日月曜日

演習問題 状況判断のテクニックとして使えるMETT-TC分析

戦術の研究では、さまざまな状況を総合し、自らの行動をいかにすべきかを判断することを状況判断といいます。

状況判断で大事なことは、自分を取り巻く状況をくまなく考慮することであり、特に任務判断、地形判断、敵情判断が重要な要素となります。

今回は、米陸軍の教範で状況判断を行うための具体的な方法としてMETT-TC分析を紹介したいと思います。

METT-TCとは何か
METT-TCは元来、比較的小規模な部隊が任務を遂行する際に考慮すべき事項の頭文字をとったものであり、具体的には以下の要素のことを指しています。

・任務(Mission)「指揮官は、上官の準備命令および作戦命令を分析し、その任務に部隊がどのように寄与するかを判断する」(FM 6-0: A-2)。

・敵情(Enemy)「再定義した任務を踏まえて、指揮官は敵情の分析に移る。小規模な部隊の作戦では、敵の編成、配備、戦力、最近の活動状況、増援の能力、選択可能な行動方針を知っていなければならない」(Ibid.: A-3)

・地形・気象(Terrain and weather)「指揮官は、OAKOCの頭文字で示される地形の5個の軍事的特徴を分析する。すなわち、視界・射界(observation and fields of fire)、接近経路(avenue of approach)、緊要地形(key terrain)、障害(obstacles)、隠蔽・掩蔽(cover and concealment)である」(Ibid.)「気象には5種類の軍事的特徴があり、それは可視性、風、降水量、雲量、温度、そして湿度である」(Ibid.: A-4)

・部隊(Troops)「恐らく、任務の分析で最も重要な点は、我の部隊の戦闘力を判断することである。指揮官は、兵士の士気、経験や訓練状況、隷下の指揮官の利点と欠点を知らなければならない」(Ibid.)

・時間(Time)「指揮官は、どれだけの時間が利用可能であるかを理解するだけでなく、準備、移動、戦闘、補給に関する時間と空間について理解しているべきである」(Ibid.)

・民事(Civil Consideration)「民事上の考慮とは、軍事作戦を遂行する作戦地域における人工の施設、民間の機関、民間人の指導者、住民、組織の活動が及ぼす影響である」(Ibid.)

METT-TCの分析で何が分かるのか
ここで想定を使って、METT-TC分析の要領とその意義を説明してみましょう。

戦力はほぼ同等の青と赤の両師団がX川を挟んで対峙しており、東から西に向かって渡河点A、渡河点B、渡河点Cがあるとします。

そこで青師団長は本日夜間0300に渡河点Aから渡河攻撃を行い、赤師団の主力を捕捉撃滅すると決心しました。この主攻を成功させるために、先行して第一分遣隊を渡河点B、第二分遣隊を渡河点Cに展開し、敵の主力をそちらに牽制することを構想しています。

あなたは青師団の1個歩兵大隊を第一分遣隊として指揮し、渡河点Bで渡河攻撃を加えて、敵の主力を牽制するよう命令を受けました。

これは非常に単純な状況ですが、METT-TCを適用するとどのような分析が可能でしょうか。

解答者によって着眼点が異なる場合もありますが、原案として次のような分析の一例を示しておきます。

・任務 青師団主力の渡河攻撃を成功させるためには、可能な限り多数の敵を誘致、拘束することが重要となる。そのため大隊としては敵に対して積極的かつ継続的に攻撃を加えることが目標となる。

・敵情 対峙する敵師団は河川に沿って戦闘前哨を配備して警戒に当たり、その後方に主力を拘置して我が方の主力の攻撃に備えている可能性が大きい。1個大隊の戦闘力で敵の部隊を拘束することには限界があると考えられるため、渡河点Cに派遣される第二分遣隊との連携を緊密にし、また夜襲による攪乱効果を最大限に活用する必要がある。

・地形 大隊が前進する渡河点Bは渡河点Aと渡河点Cの中間に位置している。したがって、渡河した大隊が占領する橋頭堡は重要な陣地であり、まず第二分遣隊の橋頭保との連絡線を確保し、さらに青師団主力が占領する橋頭堡とも速やかに連絡線をとができるようにする必要がある。

・部隊 敵師団主力との戦闘が予想されるが、我が方の戦力は必ずしもそれと互角の規模ではない。そのため、可能な限り損害を抑制することが必要であり、渡河した後は橋頭堡において直ちに応急防御の態勢に移らなければならない。また敵の火力に対抗できるように、師団の砲兵部隊に火力支援を要請する場面も予想される。

・時間 渡河攻撃を夜間に実施する場合、夜間に敵前で部隊の誘導をどのように実施するのかを考慮しなければならない。渡河のために使用できる舟艇はどこに配置しておき、どのような順番で乗り込むのか、渡河を開始してからどの方向に向かって進むのかを予め決めて訓練しておかなければ、行方不明になる兵士や敵に発見される部隊が出てくる危険がある。当日の払暁の時刻についても調査しておき、それまでに青師団主力が渡河を完了して戦闘に加入できるように計画することも重要である。

・民事上の考慮 この状況で特に考慮すべき条件はないが、敵に対する奇襲効果を得るために周囲の民間人に発見されることがないよう注意する必要がある。

ここで重要なことは、一見すると単純な状況であってもMETT-TC分析を行うと、検討すべきさまざまな問題や論点が浮かび上がってくるということです。

ここで述べていることをさらに詳細に検討していけば、次第に第一分遣隊としてどのような作戦計画を立案、実施すべきかを明らかにすることができるでしょう。

むすびにかえて
戦術を研究する人にとって、METT-TC分析はよい出発点となります。

それはあらゆる戦術問題に含まれる重要な条件を網羅するための手っ取り早い方法であり、戦術を知らない人に教育する際にも便利なチェックリストなのです。

状況判断を適切に行うことは戦術家にとってとても大事なことです。

どのような優れた戦術を着想できたとしても、大前提となる問題の認識に不備があれば、実行可能性は大きく損なわれてしまいます。

こうした事態を避けるためにも、METT-TCのことについて知っておくことは重要なことだと思われます。

KT

関連記事
敵前で休止するときは前哨を忘れずに
演習問題 小斥候か、部隊斥候か

参考文献
U.S. Department of the Army. 2014. Field Manual 6-0: Commander and Staff Organization and Operations, Washington, DC: Government Printing Office.
特にこの文献のAppendix A, Operational and Mission VariableがMETT-TCを解説している。

2017年4月2日日曜日

論文紹介 アメリカ人の戦略文化とは

戦略は常に軍事的な合理性に従って策定されるわけではありません。

政治的、外交的、経済的、技術的要因が戦略の選択に絡んでいるためです。

しかし、それらの要因をすべて駆使しても説明できないような非合理な戦略が策定されるという場合もあります。

今回は、冷戦期のアメリカの戦略が軍事的に非合理的なものであった原因を戦略文化(strategic culture)の観点から説明したイギリスの研究者コリン・グレイ(Collin S. Gray, 1943-)の研究を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。

文献情報
コリン・S・グレイ著、大槻佑子訳「核時代の戦略―アメリカ(1945~1991)」ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』下巻、中央公論新社、2007年、402-466頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War, Cambridge: Cambridge University Press.)

アメリカ人の戦略は必ずしも合理的ではない
1982年、レバノン内戦に平和維持軍として介入し、現地に上陸した米軍部隊
翌年のベイルート米軍兵舎に対する自爆攻撃を受けて多数の死傷者を出したことで撤退した
第二次世界大戦の結果、アメリカは超大国としての地位を得ることになりました。

その結果として、アメリカは戦後、ソ連を中心とする東側陣営の勢力と政治的、外交的、軍事的に対抗し合う関係になっていきます。

こうして世界規模でソ連の勢力圏に対抗することがアメリカの戦略上の重要目標となったのですが、その目標を達成するために策定された戦略は合理的とは言い難いものが少なからずあったと著者は指摘しています。
「アメリカの社会が好戦的でありながらも、軍事的な観点から見れば効率的ではないことは、国家安全保障に携わる合理主義者をいらだたせる。アメリカは国家の安全を保障する上での最低限の事柄に関しては一定の成果を上げてきたものの、その政策を決定する「過程」は、まったくもって無秩序なものだからである。いったいなぜ西側陣営の唯一かつ卓越した保護者であるアメリカが、優れた分析技術能力を持ちながらも、平和、戦争、そして国家の存続といった問題に関してしばしば無規律かつ実に非戦略的に決断を下し、時にはその決断を翻すのか理解に苦しむところである」(邦訳、グレイ、407頁)
例として、著者は1982年にレーガン政権が海兵隊をレバノンに送ったことや、1983年に戦略防衛構想が開始されたこと、1988年には中距離核戦力廃止条約が発効されたことなどを挙げています(同上、417-8)。

こうした戦略上の不手際がたびたび見られる原因として、著者はアメリカ人に「長期的な動向を予測してその解決のために努力しようとするのではなく、目下の利益に関わる出来事だけに実用主義的に反応するという傾向も確かに見られるのである」ためだと説明しています(同上、417頁)。

戦略文化としての特殊性を考える
1965年、ベトナム戦争に米軍は地上部隊の派遣を決定する
写真はダナンに上陸する米海兵隊員
著者はアメリカ人に特有の戦略文化を考察するために、いくつかの傾向について述べていますが、歴史に対する関心の欠如もそうした傾向の一つです。

論文では「アメリカ人は、歴史に対しても、歴史的経験に対しても、敬意を払ってこなかった。アメリカは歴史的経験に対して単に無関心なだけではない。むしろ意図的に、歴史に反逆しているのである」と述べられています(同上、421頁)。

しかし、より重要な指摘として挙げられるのは、アメリカの戦略文化にナポレオン戦争でフランスの幕僚だった戦略家アントワーヌ・アンリ・ジョミニの思想の影響に関するものです。
「アメリカの国家安全保障に関する考え方を本当の意味で育てたのはジョミニであり、クラウゼヴィッツではない。ジョミニは、戦争はアートであると説いたが、確実性を模索し、複雑かつ不明瞭な事実を一見簡略に見える少数の原則に集約しようとするジョミニの執念は、軍事に関するアメリカ的思想と実践を特徴付けることにもなった」(同上、421頁)
著者の見解によれば、ジョミニが論じた戦争術の原則という考え方は、アメリカの戦略思想の根底にあって、今でもアメリカの戦略思想の特徴の一つであり続けていると著者は考えています。

さらにジョミニの影響として、アメリカの戦略思想は本質的に海洋国家の戦略としてではなく、大陸国家の戦略として発展してきた歴史があるとも論じられています。

アメリカ人の戦略思想において重視されているのは、海上優勢の獲得と、それに続く海上封鎖による勝利ではなく、地上部隊で決戦を挑むことにより迅速に勝利を獲得しようとするアプローチであるとして次のように論じられています。
「国家の規模、歴史における成功の経験、そして国民の忍耐力の欠如などの要因により、アメリカ流の戦争は典型的な大陸型であった。アメリカ人は海洋包囲を通じてしわじわとアプローチするよりも、決定的な戦闘の危険を冒して迅速な勝利を追求することを好んできたのである」(同上、425頁)
これはシーパワーとしてアメリカの戦略思想を理解しようと試みる研究に対する著者の批判として理解することもできるかもしれません。

もちろん、アメリカにも海軍戦略の研究者はたくさんいますし、そうした戦略思想がないわけではありません。

しかし、いざ戦争が始まれば、アメリカ人は戦争を短期間で決着させようとする傾向がアメリカの戦略文化にはあり、海上封鎖で敵国の経済に打撃を与えるという時間がかかる方法よりも、直ちに地上部隊を送り込んで敵の主力を撃破しようと考える傾向があるということです。
「アメリカが戦略に無関心なのは、単にその国家安全保障コミュニティーが物質的に恵まれているためだけではない。アメリカが関与してきた紛争のほとんどに見られるイデオロギー性、海によって周囲から隔てられていることによる戦略的有利さ、地続きの隣国の脆弱さ、イギリスとその海軍がヨーロッパにおいてアメリカの果たすべき役割を一部肩代わりしてくれたこと、そして過去の成功に慢心することで助長された不用心さなどによって、アメリカは戦略に対していっそう無関心になっていったのである」(同上、426頁)
ある意味で単純明快さを持ちつつも、時として向う見ずさが垣間見えるアメリカの戦略文化ですが、そのすべてが間違っているとか、是正すべきだと著者は主張しているわけではありません。

冷戦期においてアメリカの戦略が成果を上げていることは率直に認められています。

冷戦期にアメリカの戦略が導いた成果とその限界
あらゆる戦略はその成果によって評価されなければなりません。

アメリカの戦略文化が持つ軍事的な非合理性を指摘している著者ですが、冷戦期におけるアメリカの戦略を検討すると4つの成果を確認することができると述べています。
「第一に、アメリカは、おおむね健全なかつ西側諸国に有利なかたちでの不均衡を45年間にわたって保ち続けてきた」(同上、449)
「第二に、アメリカは、歴史上もっとも成功した同盟、すなわち驚くほど多様な国家群によって構成された同盟を組織し、率いることに疲れを見せなかった」(同上)
「第三に、近視眼的かつ非戦略的な、そしてなおかつせっかちなアメリカが、戦後の勢力と影響力争いにおいてソ連に打ち勝ったことである」(同上、450)
「第四に、それが戦略的構想の質によるものであろうと、政策を実現するための手腕によるものであろうと、軍事力の量と質によるものであろうと、あるいは単なる幸運によるものであろうと、アメリカの戦略はアメリカ社会が要求した任務のもっとも重要な部分を成し遂げたのである。アメリカの戦略は大戦争(grande guerre)を抑止し、あるいは少なくとも、名誉と地政学的優位を確保しながら、それを回避することに成功したのである」(同上)
つまり、結果的に最も恐れられていた米ソ核戦争という事態は避け、西側陣営の粘り強い抵抗で東側陣営が世界情勢の主導権を握ることを防ぐことができましたが、だからといって冷戦期のアメリカの戦略を全面的に肯定できないということです。

結論において、「神によって任命され、正しい理由に則った軍事力の行使に成功することによって祝福を受けたアメリカの人々は、目的と手段の関係を注意深く管理するようなことはしないのである」と述べられており、著者としてはアメリカ人の戦略文化は本来は長期的な視野に立った戦略の立案を妨げる方向に作用する傾向にあるということを読者に強調しています(同上、453)。

むすびにかえて
その冷戦期の成果は積極的に評価している著者ですが、だからといって冷戦期のアメリカの戦略は軍事的合理性からかけ離れたものであったという判断が帳消しになることはありません。

それは今後のアメリカの戦略に繰り返し起こり得ることだと指摘したことがこの論文の意義と言えるでしょう。

この著者の考察を踏まえるならば、安全保障上の問題についてアメリカ人は短期間で成果を出すことができる短期決戦志向の戦略を好む傾向を持っているだけでなく、そのためにかえって軍事的に非合理な決定を下す場合がしばしば生じていると考えられます。

こうした事例はかつてのベトナム戦争で見られましたし、最近ではイラク戦争の事例も同じように位置付けられるかもしれません。

戦略文化という概念は必ずしも学問的に厳密な概念ではないのですが、過去の教訓にもかかわらず、アメリカが同じような戦略的失敗を犯している理由を考える際には、こうした考察を参照することも重要だと思います。

KT

関連記事
論文紹介 ペロポネソス戦争におけるアテナイの戦略とその敗因
論文紹介 民主主義は持久戦より引き分けを選ぶ
論文紹介 フランスの防衛とヴォーバンの戦略

2017年4月1日土曜日

論文紹介 軍事教義(military doctrine)の意味を考える

各国の軍隊はそれぞれ自らの得意とする兵力運用の方法を持っています。

それは教義(ドクトリン)と呼ばれており、部隊の編制、武器の性能のような有形の戦力要素だけでなく、戦略・作戦・戦術の概念という無形の戦力要素にも影響を及ぼしています。

今回は、こうした教義の概念を改めて理解するために、歴史的アプローチを用いた研究を取り上げて、その内容を紹介したいと思います。

文献情報
Jay Luvaas. "Some vagrant thoughts on doctrine," Military Review, March 1986, LXVI, No. 2, pp. 56-60.

軍事用語としての教義の定義
軍事用語として教義(doctrine)という言葉が使われ始めたのは、20世紀後半以降のことだと言われています。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての米軍の軍事辞典や公式の定義に教義という言葉を見出すことはできません(Luvaas 1986: 56)。

米国の軍事辞典に初めて教義という用語が収められるのは1950年版のことであり、そこでは次のように説明されています。
「(教義とは)ある問題に対して、経験を通じて、もしくは理論により発展してきた原則や方針を集めたものである。採用可能な最善の考え方を表しており、それを実行することを示唆し、また方向付けるが、拘束するものではない。本質的に教義は理性によって定義できる真理、事実、理論を教えるものであり、それは基本的に正しいものとして教えられ、また受け入れられるべきである」(Ibid.)
ここで述べられている通り、教義とは軍隊で教育訓練の大前提とされる知識体系として理解することができます。

つまり、教義というものは現代の経営学の用語で言うところの知識管理の手法の一つであり、知識の標準化の産物だと言うこともできるでしょう。

教義そのものを発明したフリードリヒ二世
Anton Graff(1781)Portrait of Friedrich II
古来から軍隊では蓄積された経験に変換し、それを後の世代に継承する取り組みが行われてきましたが、それは暗黙知のまま継承されることが少なくなく、形式知として客観的に管理されていませんでした。

より近代的な軍事教義が発達したのは、常備軍が成立してからのことだと著者は解釈しています。

17世紀、ヨーロッパ列強で常備軍の導入が進んでいますが、この時代には従来にないほど多数の教範が書かれました(Ibid.: 56-7)。

これは教範という手段を使って知識の標準化と普及を図る教義形成の取り組みの一環だったと著者は解釈しています。

特に先駆的事例とされているのがプロイセン国王フリードリヒ二世の取り組みであり、軍隊の教義を体系化、明確化することを最初に発案した人物だったとして高く評価されます。
「フリードリヒ二世は恐らく、教義をそのようなものとして最初に思いついた一人だっただろう。オーストリア継承戦争の後、彼はプロイセンの歩兵と騎兵のための教令を改訂し、自らの考えを付け加え、歩兵部隊や騎兵部隊の指揮官に学習させるための秘密の教令を書いた。自らの教義を伝えるために事例研究法を好み、検証されたルールや原則をどのように適用することが最適なのかを示すために、さまざまな仮想の状況を作り出した。七年戦争の途中においては、オーストリア軍の戦術の変化と、それに対抗し得る手段について書いた。そして死去する10年前に、戦略の原則と砲兵を運用する新たな方法に関して、それぞれの指揮官に指示を与えるための論文を準備したのである」(Ibid.: 57)
フリードリヒ二世が書き残した教範は19世紀にはすでに列強の軍人にも知られるようになりましたが、軍隊として教義を公式に定義する取り組みが普及するにはまだ時間がかかりました。

戦略の原則や軍事箴言に関する著作が書かれるようになり、そのいくつかは大きな影響を及ぼすものもありましたが(ハレック『戦争学概論(Elements of Military Art and Science)』、『ナポレオンの軍事箴言集』、ジョミニ『戦争術概論』など)、いずれも非公式な形で個人的見解を示すものに過ぎませんでした。

しかし、普仏戦争に敗れたフランスでプロイセン(ドイツ)の軍事学の研究成果を積極的に取り入れる動きが見られるようになり、それからはプロイセン軍が持つ教義を評価する研究が世界的に活発となっていきます。

模倣された教義から独自の展開へ
20世紀に入ってからは、ドイツの教義を取り入れる動きは世界的に広がると同時に、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどは独自の教義を研究し始めるようになります。

著者はこうした動向は第一次世界大戦以降に顕著であったとし、次のように論じています。
「1918年以降、世界中の軍事教義が次第に各国ごとに発展していった。恐らく東部戦線における戦闘経験と、ヴェルサイユ条約によって軍備を小規模に制限されたことを踏まえて、ドイツ軍の首脳部は機動性を重視した。1920年代においては機動と奇襲を強調し、質的要因と攻撃精神を強調することで、兵力を補完しようとした。1920年代のドイツ軍の教義は運動性、機動力、奇襲を重視するものだった。西部戦線で出した多くの犠牲と勝利の条件に取りつかれたフランス人の方は、火力の重要性をますます主張するようになった。どちらの軍隊においても、こうした戦術的傾向が国家安全保障の要請に応じて強化されていた」(Ibid.: 59)
第二次世界大戦が終わる1945年以降になると、各国の軍人は核兵器の運用という新たな問題にどう対処するかを検討するための教義の研究にも取り組むようになり、軍事教義は新たな発展を見せるようになっていきます。

ここで著者が主張したいことは、教義とは絶えず変化する性質があるということであり、論文でも「攻撃、防御、抑止のバランスを適切に保つための解答を模索するにおいて、教義というものは方針ではないとしても、重点の置き方を一定の期間ごとに変えるように思われる」と述べられています(Ibid.: 60)。

むすびにかえて
著者はこの論文の結論において、教義の可変性を強調しながら、この概念の本来の意味、つまり「教える」ことを軽視すべきではないと述べています。
「教義はある問題にさまざまな方法で描き出されてきた。ある問題に客観的に取り組み、検討するための共通の方法、専門的な行動を支配する「論理」、共通の哲学、言語、または目的、「成文化された常識」、そして時には高級士官が示す意見とされたこともある。教義それ自体は目的ではなく、いつも従わなければならない法則を確立しようとするものではない」(Ibid.)
軍事教義は本質的に軍事教育の手段と考えることができるので、教官としても教義を学生に教える際には、健全な批判精神を持たせることが大事だと著者は論じたのです。

この論文が発表された当時、米軍の内部ではヨーロッパにおける対ソ作戦の一構想としてエアランド・バトル(Air-Land Battle)という教義が論争となっていた背景があるのですが、著者としては、こうした公式の教義を軍人がそのまま受け入れることは健全ではなく、それを議論の出発点として研究を進めることがより重要だと考えていたようです。

KT

2017年3月28日火曜日

論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦

1941年、日本は真珠湾攻撃を実施し、太平洋各地で勢力圏の拡張に成功したが、当時の軍首脳部に対米戦に勝利できるとの見通しはなく、米国の反攻が始まってからは苦戦を強いられることになった
The USS Arizona (BB-39) 1941/12/7
なぜ国力で劣る日本は米国に対して開戦したのかという疑問は、これまで数多くの研究を生み出してきました。

政治的、外交的、経済的、文化的、軍事的要因など数多くの要因がこの一事象に関係していますが、今回は当時の日本の政策決定が大きな硬直性を持っていたことを指摘する研究を取り上げて、その一部の内容を紹介したいと思います。

文献情報
森山優「「非決定」の構図―第二次、第三次近衛内閣の対外政策を中心に」軍事史学会編『第二次世界大戦(二)』錦正社、1991年、15-31頁

妥協を積み重ねた政策決定の硬直性
日本では政策と戦略の調整に当たったのは1937年に設置された大本営政府連絡会議だったが、法的根拠を持たなかったが、天皇が出席する会議であったことから大きな権威があった
1943年4月29日朝日新聞『アサヒグラフ増刊 天皇皇后ヨーロッパご訪問の旅』(朝日新聞社、1971年)93頁
政権の座についた近衛文麿は従来より政府が統帥部を統制しやすい体制を作ろうとしており、1940年7月27日に大本営政府連絡会議を復活させたこともその取り組みの一つであると説明されています(森山、18頁)。

しかし、この会議で取り上げる議題は事前に関係部署の意見一致が必要だったこともあり、近衛が主導して政策を立案できるような制度ではありませんでした。

これ以外にも政府と統帥部の政策を調整する制度として、御前会議がありましたが、これは天皇が出席することもあり、議論の場所というよりも、政府と統帥部の意見の一致を天皇に表明することが最優先されました(同上、19頁)。

もし御前会議で政府と統帥部の意見の不一致があった場合、天皇は決断を下すことはせず、間接的に見解の不一致を指摘するに止め、さらに検討を重ねるよう促していたため、近衛政権としてはいかに御前会議の場で政府と統帥部の対立が表面化させないかが主な政治努力の焦点となっていました(同上)。
「「一致」の表現が前提となった結果、対立意見の「併記」や結論の先送りが最も有効な運営方法となったのである。つまり、御前会議を頂点とするこれらの会議は、政治勢力の対立を隠蔽する儀礼的な制度であった。御前会議では天皇が日本の唯一の統合の中心であることが、さまざまな手続きによって強調された。しかし、このような儀礼は、参列者としての臣下としての平等性を強調する側面も持っており、「一致」の強調が対立を激化させる要因を内方していたのである」(同上)
近衛政権における対立意見の両論併記や結論の先送りは、一見すると政策選択の柔軟性を確保できる利点もあるように見えますが、実際には天皇の承認を受けた決定ということもあり、極めて高度な硬直性を持っていました。

さまざまな内部矛盾を抱えたまま硬直した政策決定が積みあがっていくことにより、日本は自らの行動の自由を失っていくことになります。

引き返せなくなった南部仏印進駐
1941年、サイゴン市内の日本軍の部隊、松岡外相を除けば、日本では南部仏印進駐の決定において直ちに英米が軍事的に介入する恐れが大きいと判断されておらず、また各国との外交関係悪化に伴い、ゴム、マンガン、錫等の戦略物資の調達が困難になっていく中で、早急に対応を取ることも求められていた
日米関係が決定的に悪化したきっかけは1941年の南部仏印進駐でした。

南部仏印進駐については作戦実施が決定された直後から外務省によって延期が主張されており、海軍の側にも直前まで中止すべきという意見があるほど、一部から危険視されていました(同上、25頁)。

実際に南部仏印進駐が行われると、米国は一部で懸念された通り日本に対して経済制裁を実施してきます。

これは日本の経済と国防の両面に大きな打撃を加える政策であり、また多くの関係者にとって意外なほど強硬な対応でした。

したがって、日本としては当初の予想と違ったのですから、政策を変更すべき時期だったともいえるのですが、この時点ですでに全面禁輸を受けたならば対米開戦も辞さないことが決定されていたのです。
「海軍の従来の主張からすれば、全面禁輸は対米開戦を意味していた。しかし、禁輸が現実のものとなると、その具体化には躊躇したのである(このことは逆に、如何にそれまで対米戦が現実の政策レベルでは考えられていなかったか、を皮肉な形で示している)。陸軍でも禁輸直後こそ対米開戦論が高まったが、彼我の国力の相違の前には逡巡せざるを得なかった。また対米戦は海軍のテリトリーである以上、海軍に提案させてイニシアチブをとらせる必要があったのである」(同上)
8月に海軍は「帝国国策遂行要領」の原案を決定し、対米戦の準備を進めつつも外交交渉を同時に進めることにして、1941年10月を期限にします。

海軍としては近衛の対米外交に期待するところがあり(同上、26-7頁)、この「遂行要領」の決定も「10月上旬に再び「目途」の有無を判断するという、「決意」を先送りにする決定」であったと指摘し、実質的に対米戦ありきの決定ではなかったと評価しています(同上、27頁)。

というのも、この段階に至っても、対米戦の勝敗は「国家総力ノ如何及世界情勢推移ノ如何」と記述されるにとどまっており(同上、28頁)、その構想に具体性はあまりありませんでした。

対米戦近衛政権の政策過程
1941年10月18日、近衛文麿内閣は総辞職となった。東条英機は後継内閣の首相に就くと、それまでの国策をいったん白紙に戻して政策の再検討を行ったが、最終的に決定は覆ることはなく、12月1日の御前会議で対英米開戦が最終的に決定された。
近衛政権はこうした内外の情勢を受けて、対米外交に力を注ぎました。

日本側としては以前に実施した政策を見直すことが国内政治的にできない以上、米国から何らかの妥協を引き出すことがどうしても必要でした。

この点について著者は「近衛は国内の政治の構造を米との交渉によって打破しようとしたのである」と表現しています(同上)。

しかし、米国の立場からすれば日本のそのような内情は関係ありません。

米国は中国から日本軍を撤兵させるように強く要求してきましたが、陸軍としては対ソ戦略の観点から重要な兵力は駐屯させる必要があること、また撤退の時期に関しても今の支那事変の解決後でなければ受け入れられないという姿勢を堅持し続けます(同上、29頁)。

以前からの陸軍の方針を変えさせることが近衛政権にはできず、日米交渉は行き詰まっていきました。

近衛政権はついに対米戦の判断を求められるようになります。ここに来て海軍は何とか対米戦を回避しようと努力しましたが、いずれもうまくいきませんでした。
「しかし、あくまで原則に固執する米側の回答が到来するに及び、近衛内閣は交渉妥結の「目途」についての判断を迫られた。対米開戦を避けたい海軍は、事務レベルで英米不可分論や南方作戦の場合の船舶被害量の計算を蒸し返して、戦争という選択肢の基盤を崩そうとした。しかし、これは御前会議での決定があやふやな基礎のもとで行われたこととなり、臣節上の問題を惹起しかねないため失敗に終わった。また豊田外相は海軍に「北進」論を持ちかけ、南方から目をそらせようとしたが、海軍の理解を得られず、これも失敗した」(同上、29頁)
以前の政策決定の硬直性がここでも発揮されていました。

それでも、海軍がここで対米戦は不可能であると主張すれば、まだ政策決定が抜本的に覆される可能性が残されていたことも指摘されています。

近衛政権の下で「陸軍は海軍に対して、海軍が対米戦に自信がないことを公式に認めるならば、外交交渉を継続してもよい、という姿勢を見せた」という経緯があったことが紹介されています(同上)。

しかし、この陸軍の提案も海軍に拒否されてしまい、政策転換の可能性はここに潰えてしまいました(同上)。

むすびにかえて
勝利が期待できず、また従来の政策決定も修正できず、しかも外交による状況の打破も難しくなったため、近衛は大きな課題を残して政権の座を去ることにしました。
「結局、近衛は勝利の見通しがつかない対米開戦と、陸軍が譲歩しない限り妥結の可能性がない外交交渉の両輪どちらをも選択できず、総辞職によって「非決定」を貫徹させたのである」(同上、30頁)
著者は近衛内閣の決断力、政治力の不足を強調するあまり、日米関係や日中関係の影響など対外的要因については必ずしも十分に論じきれていませんが、政策それ自体よりも政策決定の手続きに重大な問題点があったことを指摘するという意味で、重要な研究成果であると思われます。

戦前の日本の統帥権の独立や陸海軍の並列といった問題は現代の日本にもはや存在しませんが、当時の政策決定の進め方については今でも重要な問題点として認識する価値があるのではないでしょうか。

KT

関連記事
論文紹介 第二次世界大戦における日本軍の水陸両用作戦
事例研究 作戦線から見た太平洋における米軍の対日作戦

2017年3月25日土曜日

敵前で休止するときは前哨を忘れずに

前哨(outpost)とは、休止する部隊がその敵方に向けて出す小規模な警戒部隊のことです。その状況の危険度に応じた兵力で主力を敵の監視や襲来から掩護することが前哨の役目です。

今回は、米軍の教範に沿って、最も危険度が大きい状況に用いられる戦闘前哨(combat outpost)の要領について紹介し、どのような戦術的考察がなされているのかを紹介したいと思います。

戦闘前哨の任務とは何か
戦闘前哨の配置例を示した状況図
前哨本隊の警戒方向に対して視界が良好な2カ所の地点に哨所を配置している
(FM 3-90-2: 3-24)
戦場といっても毎日間断なく銃弾が飛び交っているわけではありません。

特に動きがない時期もあり、にらみ合いが続くことになります。

しかし、ただにらみ合っているわけでもなく、実際には敵と味方が相手の戦力や配備を探ろうと斥候を密かに送り込むことが一般的です。

前哨はこうした敵の斥候を発見し、また可能であれば射殺、捕獲することによって、主力の安全を確保しているのです。

戦闘前哨はこうした前哨の機能に加えて、ある程度の規模の敵襲を受けても、主力が態勢を整えるまで、持ち堪えて時間をかせぐことが求められます。

それだけに、通常よりも強力な武器や装備を戦闘前哨は保有していなければなりません。

とはいえ、戦闘前哨の任務は自ら進んで敵と戦うことではありません。

あくまでも戦闘前哨は敵襲の可能性が高い地域で主力が敵から監視されることを防ぎ、また安全を確保することにあります。
「戦闘前哨は限定的な戦闘行動を遂行できる強化された前哨である。戦闘前哨を用いることは、その地域を監視することを妨げるほど険しい地形で警戒部隊を運用する技術である。戦闘前哨はより小規模な前哨では警戒区域に敵部隊が進出し、突破する危険に晒される恐れがある場合にも使用される。指揮官は戦闘前哨を用いることで、警戒区域の縦深を拡げることや、敵の主力を監視できるまで前方に我の前哨を保持し、または敵の部隊によって囲まれる可能性がある前哨の安全を確保できる」(FM 3-90-2: 2-24)
上図は戦闘前哨の配備の一例を示したものですが、中央の前哨本隊が敵方の警戒方向に向かって監視所を設けていることが分かります。

この場合、河川の対岸から通報を受けた前哨本隊が直ちに戦闘準備を整え、すぐ前方を流れる河川を前哨抵抗線する企図があることが分かります。

このようにすれば、戦闘前哨は敵の奇襲を未然に防いで主力に警報を発し、態勢が整うまでの間、必要な時間を稼げるでしょう。

戦闘前哨の規模と位置に関する考え方
ここまでの説明で戦闘前哨が警戒任務において重要であることは理解できたと思います。

それでは、どの程度の兵力を割り当てるべきなのか、どのような位置に配備すべきなのでしょうか。

原則として、戦闘前哨の兵力は小隊程度であり、その位置は敵の斥候が我の主力を捜索できないほど前方に離れていなければなりません。

小隊は後方支援の面から言って長期間主力から離れて行動ができる部隊ではないので、戦闘前哨の小隊は24時間ごとに交代させます。

戦闘前哨の任務に限定的な戦闘行動を遂行することがあることを考えれば、せめて中隊規模の兵力を配備してもよいのではないかという見方もあるでしょう。

この点については状況の危険度、そして主力の規模によって答えが変わる場合もあります。
「METT-TCで示された任務の要素は、部隊が設定する戦闘前哨の規模、位置、個数を決めるが、通常、戦闘前哨を占領するのは増強された小隊である。戦闘前哨は、指定された任務を達成するために十分な戦力を持っていなければならないが、主力の戦力を大幅に低下させるほどのものであってはならない。通常、戦闘前哨の配置は敵偵察隊が主力の行動を監視できなくなるほど前方となる」(Ibid.)
教範でも述べられている通り、戦闘前哨は「指定された任務を達成するために十分な戦力を持っていなければならない」と同時に、「主力の戦力を大幅に低下させるほどのものであってはならない」ので、指揮官は可能な限り用いる兵力を抑制する着意が大事です。

長期間にわたって敵の警戒監視のために主力の兵力の大部分を使い続けるとなると、部隊を無暗に疲労させ、いざという時に戦闘力を発揮することができなくなってしまいます。

優勢な敵の襲撃を受けた場合の戦闘前哨の運用
前哨は前哨抵抗線で戦闘するよりも速やかに退却して主力に収容される必要がある。これは戦闘前哨の場合でも同じことが言える。
Marine Corps photo by Cpl. Timothy Valero
次の問題は戦闘前哨の運用ですが、基本的に戦闘前哨は優勢な敵の部隊から攻撃を受けたなら、速やかに退却を図らなければなりません。

勝負事の始まりを意味する「前哨戦」という言葉はここで取り扱っている前哨に由来しますが、前哨は本来であれば戦闘を早期に切り上げなければなりません。
「指揮官は、優勢な敵部隊に持ち堪えるための全方向に対して防御できるように戦闘前哨を組織する。敵が多数の機甲部隊がある場合、指揮官は戦闘前哨に標準より多くの対戦車武器を与えることができる。戦闘前哨に配属された部隊は積極的に斥候を送り、敵の偵察隊と交戦、撃破し、合わせて敵の主力が行動を起こす前に接触する。指揮官は、敵が戦闘前哨を突破する前に、戦闘前哨から部隊を退却させるように計画する」(Ibid.: 2-25)
全方向に対して防御ができるように準備するというのは、我の戦闘前哨それ自体が側面や背後から急襲を受けて全滅する事態を避けるためです。

1個小隊はせいぜい防御正面を500m確保できる程度の兵力しか持たないので、視界を広く確保できる地点にうまく哨所を配置しなければなりません。

また、ここで戦闘前哨が想定する敵の規模はあくまでも分隊規模の斥候ですので、それ以上の脅威が迫っているとなれば、全滅を避けるために後退行動をとらなければなりません。

少し戦術の心得がある人からすると、せっかく前哨抵抗線を保持しているのだから、前哨部隊はその線を保持し、後方から応援を送ってもらう方がよいと思えるかもしれません。

しかし、そもそも前哨は休止中の部隊の前方に派遣されるものですので、主力は戦闘の準備を整えていないことを大前提に考えなければなりません。

状況にもよりますが、後方から応援が到着するまでにかなりの時間を要する可能性があると想定すると、教範で示されている通り、指揮官は原則として気長に応援を待つよりも速やかに退却することを優先すべきでしょう。

むすびにかえて
戦闘前哨は普通の前哨とは異なり、小規模な戦闘を遂行することを前提としているので、退却時機の見極めが非常に難しいことが問題としてあります。

あまりにも早期に退却を始めるのは戦闘前哨としてあまり望ましくはありません。

しかし、退却が遅れると戦闘前哨は最前線で真っ先に全滅する恐れもあるのです。

もし前哨を指揮することになった場合、こうした問題に直面することを予想して、前哨陣地を徹底的に強化しておくことが重要です。

少ない人員で武器や弾薬が限られていたとしても、地形地物を利用し、築城工事を入念に行っておけば、それだけ前哨抵抗線上で敵の戦闘力を低下させることができます。

こうした事前の準備を怠れば、敵の攻撃を食い止めて時間を稼ぐことも、また部隊を連れて安全な地域まで退却することもできず、不名誉な結果に終わるでしょう。

KT

関連記事
演習問題 小斥候か、部隊斥候か
接近経路で分類できる防御陣地
戦争で味方に休養を取らせるための戦術

参考文献
U.S. Department of the Army. 2013. Field Manual 3-90-2, Reconnaissance, Security, and Tactical Enabling Tasks, Volume 2, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2017年3月23日木曜日

事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争

1905年からイギリスはドイツを公式に脅威として判断し、戦略の研究に着手した
ある戦略上の目標を達成するために陸軍と海軍を連携させようとすると、どうしても統合作戦の準備を整えておく必要が生じてきます。

ただし、それは制度の整備だけではなく、運用といった面での準備ということも意味しています。

今回は、1905年から対ドイツ戦略の一環としてイギリス陸海軍で研究されていた統合戦略の構想が行き詰まり、結局は陸海軍の間で明確な合意に達することができなくなった経緯について考察したいと思います。

20世紀初頭の世界情勢
1902年に帝国防衛委員会を設立した首相アーサー・バルフォア
イギリスで戦略問題を議論する帝国防衛委員会が設置された1904年は、東アジアで日露戦争が勃発した年に当たります。

この戦争に先立ってイギリスは近代化を推進していた日本と同盟を結ぶことにより、東アジア地域におけるロシアの南下に対して有効なバランシングを行うことができました(グーチ、563頁)。

こうしてアジアにおけるロシアの脅威が後退したため、イギリスは1905年からヨーロッパにおけるドイツの脅威に対する戦略を本格的に検討し始めます(同上、556頁)。

厳密にいえば、ドイツを仮想敵国であると判断した時期はイギリス海軍が1900年、イギリス陸軍は1902年のことでした(同上、563頁)。

両者はドイツの脅威についてある程度の共通認識を持っていましたが、具体的な戦略の策定段階において合意に達することができるような議論がなかなかできず、調整は難航します。

実はイギリス陸海軍は19世紀からそれぞれ関係を持たず、戦略思想の統一も皆無に近い状態が続いていました。

イギリス陸軍のチャールズ・キャルウェル少佐はそうした伝統的思想に挑戦し、日清戦争、米西戦争、日露戦争の研究成果に基づいて、海上作戦と陸上作戦を一つの戦略の下に指導することが重要だと主張しています(同上、564頁)。

このキャルウェルの統合作戦の思想は、1905年にイギリスがドイツの脅威を公式に認めるようになって以降注目されることになり、その後の帝国防衛委員会でも陸海軍の共通の構想を模索する機運が高まるきっかけとなりました。

研究段階で行き詰まった統合作戦の構想
20世紀初頭当時のシュレスヴィヒ=ホルシュタインはユトランド半島の根本に位置するドイツ帝国の領土であり、バルト海から北海に通じるキール運河がすでに開通していたことから(1895年)、戦略的に重要な地域であった。
帝国防衛委員会の小委員会では海軍側がキャルウェルの統合作戦の考え方に対して興味を示し、またキャルウェル自身も陸軍省作戦部においてその研究を積極的に推進しました(同上)

その成果として、イギリスとしてはフランスと同盟を結び、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の東岸から着上陸作戦を実施し、ドイツ軍の兵力40万名をフランス国境から引き離すという構想が出されるに至ります(同上)。

しかし、この案について詳細な検討が重ねられていくと、着上陸してからドイツ軍の防衛線を突破するために必要な兵力が確保できないことが分かり、次第に非現実的であると考えられるようになります(同上)。

そして、1905年10月3日に陸軍省はこの計画を撤回し、いったんは統合作戦の構想は潰えてしまいます。

しかし、その3年後の1908年に陸軍省作戦部長スペンサー・ユーアートと海軍省情報部長エドモンド・スレイドの議論で再び統合作戦の案が取り上げられることになりました(同上)。

ユーアートとスレイドは陸海軍の統合作戦を駆使した対ドイツ戦略を策定するという大まかな方針で点で一致していましたが、やはり依然として立場の違いもありました。

当時、ドイツがデンマークのジーランド諸島を占領して、艦艇の待避所として利用する可能性が海軍側で懸念されており、スレイドはドイツの海上交通路を完全に遮断するために、バルト海の海上優勢を獲得することが重要だと主張しています(同上、565頁)。

しかし、陸上作戦の観点から考えたユーアート側はバルト海での作戦について難色を示し、フランス、ベルギーに対する直接的介入の案を積極的に支持しました(同上)。

結局、陸海軍の双方が納得できる合意に達せず、1909年になると帝国防衛委員会としても統合戦略に対する関心を失っていってしまいました(同上)。

海軍が考える対ドイツ戦略
戦艦ドレッドノート、1905年に建造が始まり、当時のイギリス海軍で主流だった艦隊決戦の戦術思想に合わせた大口径の砲を搭載する大型艦艇として設計された。
結局、イギリスの戦略研究は海軍と陸軍とで別々に続けることになりました。

対ドイツ戦におけるイギリスの戦略に関する論争ではさまざまな意見が出され、明確な合意に達することがますます難しくなる傾向にありました。

例えば、海軍の一部には海軍戦略の研究者ジュリアン・コーベットの学説に影響を受けた勢力がおり、彼らは海軍が陸軍に火力支援を提供するという構想を擁護していました(同上)。

この説はすでにスレイドがユーアートと議論した戦略構想にも通じるところがあったのですが、支持者はごく一部に過ぎませんでした。

なぜなら、イギリスとフランスが短期間のうちに正面からドイツを打倒してしまえば、そもそも統合作戦の戦果が戦局に影響する前に戦争自体が終わるはずだという見方が少なくなかったためです(同上)。

イギリス海軍では統合作戦に代わるもう一つの案として、海上封鎖の可能性が検討されていたのですが、この構想にも反発はありました。

海上封鎖の案は1908年までに海軍士官の一部によって主張されていたもので、要点としてはドイツの海上交通路を遮断し、経済戦を仕掛けることによって、武器や弾薬を使わずに
ドイツ国内の飢餓と廃墟を拡大させることを目指すという内容でした(同上、566頁)。

しかし、当時はまだイギリス国内ではドイツとの戦争でオランダ、ベルギーが局外中立を宣言する危険が認識されていました(同上、566-567頁)。

もしオランダ、ベルギーが中立の立場を取るなら、こうした海上封鎖の効果も大きく低下する恐れがあり、また長期戦の想定も倦厭され、1911年に帝国防衛委員会で海上封鎖の意見が公式に取り上げられていますが、一般に受け入れられることはありませんでした(同上、567頁)。

陸軍が考える対ドイツ戦略
第一次世界大戦当時のベルギー軍の部隊、イギリス陸軍の対ドイツ戦略ではベルギー軍の脆弱性が問題とされ、ベルギーをどのように支援すべきかが議論された。
イギリス陸軍はドイツを脅威と認識した1902年の段階ですでにヨーロッパへの介入の可能性について検討を始めていました(同上、568頁)。

こうした内部研究は1905年から1906年のモロッコ危機でのドイツとの緊張状態の高まりもあって促進されていきます(同上)。

そうした研究の一環として図上演習も実施されており、1905年の図上演習では万が一ドイツがベルギーの中立を侵犯した場合、ベルギー軍にはドイツ軍の攻撃を食い止めることができるだけの能力がないという問題があることが明らかになりました(同上、568-9頁)。

1906年4月に陸軍省が策定した計画では、ベルギーを含めた低地諸国に対して地上部隊を送り込むという行動方針が採用されていますが、同年に実施された現地視察の成果によってベルギーの戦争準備が不十分であるとの報告が出されています(同上、569頁)。

ベルギーの問題は1911年8月23日の帝国防衛委員会の議題となりましたが、この席上でチャーチルとロイド=ジョージはフランス軍が開戦初期の段階で撤退する可能性を指摘し、その際にイギリス軍がベルギー上陸を行えば、ドイツ軍に対して牽制の効果が期待されるという好意的な意見を表しました(同上)。

ただし、ヨーロッパ大陸派遣軍の兵力はおよそ6個師団に過ぎなかったので(同上)、この程度の兵力でドイツ軍の攻勢に対して果たして戦果が得られるのかは疑問が持たれるところでした(同上、570頁)。

陸軍参謀総長のウィリアム・ニコルソンはそもそもイギリス陸軍の規模はフランスの防衛やベルギーの支援という任務を遂行するにはあまりにも小規模であるとして、ベルギーとの同盟に反対の立場を取ります(同上)。

ユーアートの後を引き継いで陸軍作戦部長に就任したヘンリー・ウィルソンは、インドの防衛に当たる兵力を抽出し、それをヨーロッパの西部戦線に転用するという案を出して、ベルギー支援を何とか実現させようとしましたが、これはインド総督の強い抵抗を受けて頓挫しました(同上)。

むすびにかえて
結局、イギリス軍ではドイツの脅威に直面していながら、陸海軍の統合戦略を策定できず、また陸海軍ごとの対ドイツ戦略の研究でも明確な結論には達することができませんでした。

この問題についてグーチは「帝国防衛委員会の設立によっても、陸海軍の間で統一した戦略的見解を持てないことも特徴的であった。戦争中は陸軍の戦略有線主義と海軍の作戦能力の限界が明白となり、双方とも戦略的な欠陥を抱えていることを露呈した」と書き記しています(同上、584頁)。

この事例は、戦略を立案する作業が、必ずしも戦略の論理それ自体で完結するものではないことを示しています。

国家の安全保障にとって限りある資源を合理的に運用するためには、明確に定義された目標と実行可能な方法が確立されていることが重要です。

しかし、陸軍と海軍のように立場や関心が異なる部署の間で統合戦略を検討するということは、極めて難しい作業になることを考慮しなければなりません。

著者も指摘した通り、こうしたイギリス軍の戦略の限界は、第一次世界大戦ではっきりと露呈することになったのです。

関連記事
論文紹介 第一次世界大戦の原因は「シュリーフェン・プラン」だけではない
論文紹介 19世紀のイギリス陸軍と築城学の発達
論文紹介 冷戦期の「海洋戦略(Maritime Strategy)」に対する批判

参考文献
ジョン・グーチ「疲弊した老大国―大英帝国の戦略と政策(1890~1918年)」小谷賢訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、547-594頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)

2017年3月16日木曜日

論文紹介 民主主義は持久戦より引き分けを選ぶ

19世紀、イギリス議会ウェストミンスターの様子
戦争の勝敗を決めるのは武力だけではありません。人口、地理、経済などさまざまな要因が戦争の結果を左右すると考えられており、政治体制もまたそうした一因と考えられています。
今回は、民主主義という政治体制が戦争の遂行において有利に働くのか、不利に働くのかを実証的に研究した論文を取り上げ、その成果の一部を紹介したいと思います。

文献情報
Bennett, D. S., and Stam, A. C. 1998. "The Declining Advantages of Democracy: A Combined Model of War Outcomes and Duration," Journal of Conflict Resolution, 42(3): 344-366.

民主主義で戦争指導ができるのか
リンカーン大統領の就任演説時の写真
民主主義国家では権力掌握と政策決定のために多数派の支持基盤を獲得することが政治家に求められます。
平時においては、常に多数派の利害を考慮させることで、政治家の行動を統制しやすくなるため、国民全体にとって民主主義は望ましい統治制度だと考えることができます。

しかし、戦争状態という国家的非常事態において民主主義が望ましいと言えるのかどうかは議論が分かれるところです。なぜなら、政治家の戦争指導が選挙や世論に絶えず左右されていては、その政権の政策や戦略に一貫性と整合性を保つことが難しくなる場合が出てくるためです。
こうした戦時の民主主義が持つ政治的不安定性は過去の研究においても指摘してきたことだと著者も述べています(Bennett and Stam 1998: 346)。
つまり、民主主義国家の政治指導者は選挙という懲罰のメカニズムに敏感に反応しなければならないので、そうした意味では権威主義的、独裁的な政治体制の国家の方が戦争指導の一貫性という意味では優位に立てる可能性があると考えられるでしょう(Ibid.)。

しかし、この議論はこれだけでは終わりません。
というのも、戦争の歴史を振り返ると、独裁的な国家は確かに民主主義国家よりも戦争を容易に開戦する傾向が強いのですが、勝利を収める確率を見ると、それは民主主義国家よりも低くなる傾向が見られるのです(Ibid.)。
つまり、民主主義国家は戦争を遂行する能力という点で見ると、独裁的な政治体制よりも優れている傾向が認められるのです。
これは先ほど述べた民主主義体制における戦争指導の難しさと相反するのではないでしょうか。これがこの論文で著者らが取り組んでいる問題です。

時間経過が民主的戦争指導に与える影響
第一次世界大戦におけるドイツ革命によりドイツ帝政は崩壊
民主主義国家では政権運営に大きな支持基盤を必要とするため、戦争指導に不安定性が生じざるを得ない傾向があり、同時にいったん開戦すれば非民主主義の国家よりも戦争を効率的に遂行する傾向があります。
このような二面性を説明するために、著者らは民主主義国家が世論の反発が高まる前に短期決戦で戦争を終結に導こうとする傾向があるのではないかと考えました(Ibid.)。
つまり、民主主義国家はその有権者をより効率的に戦争努力のために組織化することができますが、政策決定者はそのような戦争努力が決して長続きしないことを自覚しているので、戦争が長期化して世論の反発が強まる前に、戦争目的を達成しようとすると説明しているのです。

著者らはこの主張を裏付けるために、一組の交戦国(戦争を開始する攻撃者と戦争を仕掛けられる防御者)を分析単位とし、1年単位で戦争が継続するのか、引き分けるのか、攻撃者と防御者どちらかの勝利に終わったのか、それがどのような要因と関連していたのかを統計的に調査しています。
方法論やデータの詳細については論文を直接参照して頂くとして、解析の結果から導き出される考察だけ紹介すると、民主主義国家の戦争努力が継続する確率は2年がピークであり、それ以降は急激に減少していくと指摘がなされています。
「解析の結果は一般的に時間経過とともに民主主義国家の攻撃者が戦争を継続する可能性がより低く、勝利を収める可能性も低くなり、そして引き分けを受け入れる可能性が高くなるということを示している。民主主義の攻撃者は戦争の最初の一年後も戦い続ける確率は32%である。戦争が二年目に入った後、この確率は46%に若干増加する。しかし、この時点から、民主的な攻撃者が戦争を継続する確率は、4年目に29%、5年目に22%と大幅に低下していく。そして民主主義国家が戦争に勝つ可能性も、最初の一年では49%だったのが5年間戦争が続いた場合には6%にまで大幅に低下する。興味深いことだが、民主主義の可能性も同様に時間経過とともに低下していく」(Ibid.: 361)
著者らは戦争の継続または勝利が困難になるほど、引き分けに持ち込む確率が上昇するとも指摘しており、「戦争の最初の1年間で約2%である。しかし、この確率は2年目では15%であり、4年目に達する前には50%を超える。5年目まで戦っている民主主義の攻撃者なら、戦争終結の確率は70%に達する」と述べています(Ibid.: 362)。

この解析結果で興味深いのは、民主主義国家と非民主主義国家の勝率が時間経過でどのように変化していくのかを比較している部分です。
簡単に重要な数値をいくつか紹介すると、戦争の1年目で民主主義国家の勝率が49%であるのに対して非民主主義国家の勝率が32%と当初は民主主義国家が優勢なのですが、それを過ぎてしまうと民主主義国家は19%、10%、7%、6%と勝率が低下し続けるのに対して、非民主主義国家は27%、26%、26%、25%と、時間経過によって勝率がほとんど変化しておらず、一定の勝率を維持することです(Ibid.: 363)。

このことから、民主主義国家は非民主主義国家よりも戦争を効率的に遂行できる能力を一般的に持っていますが、その戦争努力を長期間にわたって維持することが難しい政治体制でもあると考えられるのです。

民主主義国家の戦争努力は長続きしにくい
ベトナム戦争における反戦運動の集会
政策決定者は戦時の政策決定において我が方の政治体制がどれほど民主的なのかによって、戦争努力を維持できる時間的制約が大きく異なってくるということを知っておくべきでしょう。

当初は積極的に戦争努力に協力していたとしても、過去の傾向から見ると有権者は2年を過ぎると戦争の継続に反対する傾向を強めてきます。これは非民主主義国家にはない制約であるため、もし非民主主義国家を相手に民主主義国家が持久戦を遂行しようとすると、どれほど軍事力で優位に立っていたとしても、国内政治において不利な状況に立たされてしまう恐れがあります(Ibid.)。
「民主主義者は、勝つことができる戦争だけでなく、すぐに勝つことができる戦争を始めることを選ぶ。(中略)民主主義国家は一般的に戦争に巻き込まれても、すぐに勝利を収めることができる。しかし、民主主義国家は、すぐに勝利できなければ、引き分けになってしまう可能性が非常に高くなるという大きなリスクに直面する。これらの結果は、戦争を仕掛けた民主主義国家と戦争を仕掛けられた民主主義国家の両方に対して確認することができた」(Ibid.)
政治体制によって有利な戦争の様相がそれぞれ異なることを理解しておけば、戦時の政策と戦略上の優先順位をより明確にすることができるでしょう。
独裁制の下で戦争を指導する権力者であれば、戦争の長期化はさほど問題ではありませんが、民主制の政治家であれば、それは何よりも避けるべき事態なのです。
戦争が長期化しそうであるなら、可能な限り早い段階で引き分けを受け入れる方が政治的には賢明な判断である場合が多いと言えるでしょう。

むすびにかえて
もちろん、民主主義国家でありながら長期間の戦争を遂行した例外的な事例もあるので、この研究の成果が個別の状況にすべて一律に適用できるというわけではありません。
第二次世界大戦におけるローズヴェルトやチャーチルの政権がやって見せたように、民主主義体制を維持しながら期限付き、条件付きの独裁を導入する場合もあるためです。これはまた個別に検討すべきケースでしょう。
あくまでもこの研究は統計的に見て民主主義国家が戦争指導の問題でどのような傾向を持つのかを解明しようとしたものだと理解すべきだと思います。

KT

関連記事
論文紹介 ペロポネソス戦争におけるアテナイの戦略とその敗因
モーゲンソーが考える国力の九要素
事例研究 戦間期にイギリスが軍事的脅威を見逃した理由

2017年3月12日日曜日

演習問題 小斥候か、部隊斥候か

斥候(patrol)は戦闘、偵察、警戒などの任務のために本隊から派遣される部隊です。
通常、斥候に当たる部隊は1個分隊程度ですので、下士官が斥候長となる場合が多いのですが、状況によっては1個小隊規模の斥候が派遣される場合もあるため、そうなると士官が斥候長になるという場合もあります。

今回は、中隊レベルの観点から斥候に関する簡単な戦術的問題を示し、それについて考察してみたいと思います。

そもそも斥候とは何か
斥候(patrol)とは厳密には部隊のことであって、任務のことではありません。例えば米陸軍では次のように斥候について説明しています。
「斥候とは、特定の戦闘、偵察、または警戒の任務を遂行するために、より大きな部隊によって派遣される。斥候の編成は直近の任務に一時的かつ具体的に対処する。斥候は任務ではなく、組織のことをいうため、ある部隊に「斥候」の任務を与えると語ることは正しくない」(FM 3-21.8: 9.1)
つまり、斥候は主力から離れてさまざまな任務を遂行する分遣隊であり、任務によってその内容が規定されるものではありません。捜索や偵察のために斥候が送られることもあれば、戦闘のために送られる場合もあります。次に示す定義もそうした斥候の役割の幅の広さが述べられています。
「敵情、地形その他諸種の状況を偵察・捜索させるため、部隊から派遣する少数の兵士をいう」
「情報資料の収集又は戦闘行動の実施のために、部隊主力から派遣された分遣隊をいう」(『防衛用語辞典』231頁)
ただし、斥候は分隊や小隊と異なっているのは、敵地で主力から離れて行動する分遣隊であるということです。つまり斥候長には指揮官として程度の戦術能力が必要だということです。中隊や大隊の一部として動くのではなく、状況の変化に応じた指揮をとれる人物が求められます。

適切な斥候の規模を考える
ここでは次のような状況を想定しておきたいと思います。
我が方のA国は隣接するB国と戦争状態にありますが、まだ両国の国境地帯ではまだ本格的な戦闘が発生していません。A国の主力である青師団は国境から離れた地点で動員を行っており、直ちに行動に出ることができない状態にあります。

しかし、情報によると本日未明にB国の騎兵がすでに国境付近に進出したとのことです。越境したのかどうかははっきりしません。敵情を把握するため、師団長は師団主力とは別に、先遣隊として1個大隊を国境地帯に向かわせることを決めます。大隊長は国境地帯に進出した敵を発見するため、払暁と同時に現地に向かう一本道を前進すると決心し、行進縦隊の隊形をとらせて、その前衛には歩兵中隊1個を配置します。

このようにして戦争の最前線に送り込まれることになった前衛の歩兵中隊ですが、この中隊には3個の小隊があり、各小隊の勢力はそれぞれ3個分隊だと想定します。
すると、中隊長は中隊が前進する際に、その前方にどのような斥候を出すのかを考察しなければなりません。もし中隊長の立場であれば、その斥候の勢力はどの程度の規模であるべきだと考えるでしょうか。

(1)軽快に敵に接近できる二名から三名の小斥候
(2)小規模な敵と遭遇しても交戦できる分隊規模の部隊斥候
(3)本格的な交戦も可能な小隊規模の部隊斥候

適当な斥候の勢力は状況によって異なる
この問題を考える上でポイントとなるのは、この状況でどのような危険が考えられるのかということです。
現時点の情報だけでは、その騎兵がどの程度の部隊の規模なのかを正確に判断できません。ただし、越境が事実だと仮定した場合、敵の騎兵隊もこれから進む道路を前進していると考えられるため、主力が不意に遭遇することがないように、斥候を出して敵情を探る必要があります。

そうなると(1)の小斥候の案は選択肢から排除されます。というのも、敵部隊が接近している場合、我だけでなく敵も斥候を出してくるはずだからです。しかも、それが騎兵斥候であるとすれば、いくら軽快な小斥候といっても機動力が違いすぎます。我が方の小斥候は騎兵突撃に抵抗することも、また追撃から逃れることもできずに撃破されてしまうでしょう。

そこで部隊斥候を出すべきという判断になります。部隊斥候であれば敵の騎兵部隊が小斥候を出してきたとしても、一定時間ならば抵抗する術もありますし、その間に誰かを主力に送って敵情を報告させることもできます。
ただし、部隊斥候のためにどの程度の規模の部隊を使うべきかという問題を考えなければなりません。

斥候は本隊から離れて行動する分遣隊ですので、中隊長は行進の途中で斥候の様子を直接うかがうことはできませんし、当然のことながら命令を出すことも困難です。
中隊の戦力の3分の1にも当たる1個小隊を部隊斥候にすると、中隊の戦力は分断され、戦術の原則である戦力の集中は実現困難となってしまうでしょう。
斥候の基本的な役割はあくまでも地形を偵察し、敵を捜索し、情報をもたらすことにあります。もし(3)のように本格的な交戦を予期した部隊を出すとすれば、それは斥候というよりも前衛(advanced guard)と呼ぶべきでしょう。以上の考察から、(2)の1個分隊を斥候とすることが原案となります。

むすびにかえて
斥候はさまざまな運用の仕方があるため、ここで述べた斥候はそのほんの一例にすぎません。米陸軍の教範でもその運用の幅が非常に広いことが指摘されています。
「斥候任務は、本隊付近の警戒の斥候から、敵地深層への襲撃までさまざまである。斥候を成功させるためには、詳細な緊急時計画と十分に訓練された小規模部隊の戦術が必要である。計画された活動によって斥候の種類が決まる」(FM 3-21.8: 9.2)
だからこそ、斥候を理解することは戦術的に大事なことです。斥候を状況に応じて適切に使いこなす方法を知っておけば、敵情をより効率的に察知することができるようになりますし、また敵の小斥候を我の部隊斥候で駆逐できれば、敵は我が方について知り得ることがますます少なくなっていきます。

KT

関連記事
偵察だけが斥候ではない
正しい射撃号令の出し方

参考文献
真邉正行『防衛用語辞典』国書刊行会、2000年
U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.8: The Infantry Rifle Platoon and Squad, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.