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2016年11月25日金曜日

論文紹介 海上優勢とは何か

軍事学、特に海軍の戦略研究で使用される概念に海上優勢(maritime superiority, maritime supremacy, sea control)というものがあります。これはある海域を敵が利用することを妨げつつ、我が方が利用することを可能にする活動を指していますが、どのようにすれば制海が可能となるのでしょうか。

今回は、海軍史、戦略の分野で世界的に有名な研究者ジェフリー・ティル(Geoffrey Till, 1945-)が、この海上優勢という概念について考察した記事を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献紹介
Till, Geoffrey. "Sea Control and Denial," Trevor N. Dupuy, ed. International Military and Defense Encyclopedia, New York: Brassey's, pp. 2374-2378.

制海権・海上優勢とは
現代の海上優勢という概念は、かつて制海権(command of the sea)という用語で呼ばれていました。制海権とは戦争状態において海上交通を支配する能力やそれによって実現する状態をいいました。しかし、非常に小型の艦船の航行を一隻残らず完璧に統制するということは、どれほど大きな海上戦力をもってしても技術的に容易なことではなく、また軍事的な意味もさほどありません。著者も、そのような制海権を考えようとしても、過去の戦史にはそれに該当するような状況が見当たらないことを認めています。
「ほとんどの海軍戦略家は、制海権が絶対的なものではなく、相対的な能力であるということに同意している。どの国の海軍でも、そのような能力を多かれ少なかれ保持している。その海軍が能力を持っているかどうかということは、絶対的なものではない。例えば、制海権は時間の関係で制限される場合がある。いくつかの戦争で、いくつかの国家は持続的に制海権を保持しているが、アメリカの戦略家、アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan 1840-1914)は「英国が最も強大だった時でさえ、かつて海洋が排他的に支配されるということはなかった。海の支配権を巡る戦いは、彼我の優劣の変化によって記録された一連の戦役の様相を呈することがない」と述べている(Mahan 1911: 260-1)」(Till 2374)
また、著者は制海権が時間的な要因だけでなく、地理的な要因によっても制約される場合があることを紹介しています(Ibid.)。制海権はその用語が与える印象とは裏腹に、不完全、曖昧、相対的なものに過ぎません。制海権はその用語が与える印象があまりに強すぎたので、誤解をもたらす恐れもあり、次第に海上優勢が使用されることが一般化してきたと説明しています(Ibid.)。

海上拒否とは

海上優勢という概念との関係で重要なのが、海上拒否という概念です。海上優勢の獲得は、しばしば我が方が敵の妨害を受けずに海上交通路を活用できるほど優勢でなければならないと考えられていますが、必ずしもそうとは限りません。海上優勢ではなく、海上拒否を一つの戦略上の目標と考える場合もあるためです。海上優勢ではなく、海上拒否のために作戦を行う場合、その海域で我が方が自由に活動することは当初から期待されておらず、敵の自由な活動を防止することだけが目指されています。
「海上拒否の目的は海上を利用することではなく、敵がそうするのを防ぐことである。これは1950年代のソ連艦隊にとって限定的な目標であったと言われている。当時はソ連海軍の提督の主たる関心は、ソ連の北部海域をアメリカの対抗勢力に利用させないように防ぐことにあった。つまり、アメリカが同海域を利用し、空母艦載機によりソ連の領土に対して核攻撃を実施することを防止しようとしていたのである」(Ibid.)
海上拒否は我が方の海上交通の利用よりも、敵の海上交通の妨害に主眼があるということになります。例えば重要性の高い海域においては海上優勢を獲得しようとしている某国海軍が、あまり重要ではない海域については海上拒否を狙った作戦を行う、ということも戦略的には十分な合理性があります(Ibid.: 2375)。

ここでポイントとは、制海権よりも海上優勢の方が広い概念ではあるものの、それを獲得することだけが海上作戦の目的だと理解してはならないということです。あえて海上優勢を獲得することはあきらめ、極めて限定的な活動でもって海上拒否を図るということもあり、むしろ海軍の能力が劣後する状況においては、その方が合理的なこともあり得ます。このことを踏まえた上で、海上優勢を獲得する具体的な方法にどのようなものがあるのかについても確認していきたいと思います。

海上戦闘による海上優勢の獲得
海上優勢を獲得する第一の方法として考えられるのが海上戦闘です。しかし、海上戦闘を行うと言っても、その具体的な方法も一通りではありません。著者はこの点については大きく分けて3種類の方法があると論じています。
「現代の戦略家は、戦闘に関する3種類の異なる概念をしばしば区別する。局地的交戦(local engagement)は、例えば海上で物資を輸送し、水陸両用作戦を行うことによって、海上優勢を行使することを重視するものである。もし敵が我が方に対して挑戦しようとする場合に限れば、防御によって局地的交戦を実施する場合もある」(Ibid.: 2375)
「戦闘によって海上優勢を確保するための第二の構想とは、公海で敵対する勢力に対処することを目指す外洋作戦(open ocean operations)である。これは我が方から敵の部隊を見つけ出し、これを撃破する作戦である。世界の海の広さによって、監視と捜索のシステム、特に捜索の効率が高い航空機、人工衛星を重視することになる。時間と忍耐が求められる」(Ibid.)
「戦闘による海上優勢の確保に関する第三の構想は、前方作戦(forward operations)と呼ばれているが、これは新しい考え方ではない(中略)前方作戦に共通する基本的な考え方として、これが主導的立場を維持し、これを活用するための最善の方法であるということである。なぜなら、敵の攻撃に単に対抗する場合よりも、我が方が戦闘の時機、場所、形態を決定することができるためである」(Ibid.)
戦闘によって海上優勢を獲得する場合に考慮すべき方法は以上の3種類ですが、基本的に局地的交戦はより消極的な形態、外洋作戦になるとやや積極的になりますが、最も積極的な形態としては敵の勢力圏に進出する前方作戦と考えることができます。

現存艦隊による海上優勢の獲得

現存艦隊(fleet in being)は戦争状態においても敵に対して我の艦隊を可能な限り温存しようとする戦略上の構想であり、もし出撃させたとしても、海上戦闘となることを極力回避しようとする点に特徴があります。この場合、海上優勢を獲得することは到底期待できないとも思われますが、実際には劣勢な敵を発見次第、速やかに攻撃に転じるという側面もある戦略なので、戦術行動として絶対に戦闘を回避するというわけではありません。

現存艦隊は損害を最小限度にできる範囲で断続的に攻撃を仕掛けるものであり、敵がそのことによって自由に艦船を移動させることが妨げられるのであれば、局地的な海上優勢ならば獲得も不可能とは断定できません。著者は、現代の海上作戦においては、古典的な海上戦闘よりも、むしろ現存艦隊のような形態をとる可能性が高いとも示唆しています。
「いくつかの事例では、我と敵のいずれもが海上戦争において戦闘を避けようとしてきた。これは第二次世界大戦におけるバルト海と黒海でのソ連艦隊とドイツ艦隊の事例に該当する。結果として、相互に相手の破壊を意図する勢力間で、古典的な戦闘が全般的に実施されなかった。将来の戦争では、戦略情勢が認める限り、一カ国または数カ国の交戦国が同じような海上防衛の建設的かつ理性的な活用を選択する可能性もある」(Ibid.: 2376)
現存艦隊の利点は我が方の戦力の消耗が抑制できる点ですが、欠点として決戦が不可能となり、敵に大きな損害を与えることも難しくなる点です。絶対的な海上優勢を確立しようとする際には問題もあるのですが、大規模な海軍を持たない国家にとっては重要な選択肢です。なぜなら、現存艦隊は相対的な戦闘力で劣勢であっても作戦基地の安全が確保されている限り継続して実施することが可能なためです。

海上封鎖による海上優勢の獲得
現存艦隊のような戦略で海上優勢を維持しようとする劣勢な敵に対して優勢な敵が採るべきは封鎖です。海上封鎖は海軍の戦略において重要な要素の一つですが、その利点は敵の艦船の活動を特定の水面に限定し、それ以外の海域での我が方の船舶の活動を最大限自由にできることが挙げられます。その方法については2種類あることを著者は紹介しています。
「現存艦隊として行動する弱小勢力に直面した場合、優勢な勢力は通常であれば、封鎖によって敵を封じ込めるか、無力化しようとする。封鎖の方法としては、近接封鎖(close blockade)と遠隔封鎖(distance blockade)があり、前者は敵の港湾の出入り口の周辺を、後者は我と敵との間に位置する潜在的目標に我が艦隊を配置させるものである。これら2種類の類型の唯一の相違点は、封鎖された当事者にどの程度の広さの海域で活動することが許容されているかという点である。いずれの方法でも、敵の勢力を紛争と無関係にしてしまうことが目標とされているが、封鎖の過程は苦労が多く、また長期化する。そのため、優勢な海洋勢力は封鎖をあまり魅力的な選択肢とは判断せず、より弱い勢力に対して戦闘を強制しようとするものである」(Ibid.: 2376)
海上封鎖が一旦完成すれば、少なくとも戦争状態が終わるまでの間はそれを維持しなければなりません。駆逐艦、巡洋艦、潜水艦、航空機等の手段で敵の動向を監視し続け、敵の艦隊に出撃の兆候があれば、直ちに主力を急行させる等の処置も必要となります。これは大変な労力を要する作業となります。

しかし、敵が持つ艦艇を港湾内部に閉じ込め、行動不能にしておけば、実質的に撃沈していることと同じ状態になり、しかも我が方の損害も抑制できるという利点もあります。別の海域から敵の艦艇が進攻してきてしまうと、我が方の戦力の分断を余儀なくされる欠点もありますが、海上優勢を獲得する方法の一つとして知っておくべきでしょう。

むすびにかえて

これまでにも用語が変化してきた経緯からも分かるように、海上優勢はあまり明確な概念ではなく、使用者によっても意味が変化してきました。また、その定義も必ずしも厳密にできる性質のものでもありません。そうした不都合にもかかわらず、海上優勢が長らく海軍の議論で重視されてきた理由は分かりませんが、我が方の海上交通路の安全を確保するためには、防勢に回るよりも攻勢の立場で積極的に敵の艦隊を撃破すべきだという考え方が根強かったからかもしれません。この考え方は、接触を一度断つと敵の捜索に大変な困難があった20世紀初頭以前の戦史を考えれば、妥当なものとも思われます。

しかし、艦船の位置を広域的に把握する手段が整った現代の観点から見れば、海上優勢についてより多角的な見方を持つことも必要となるでしょう。海上優勢が絶望的な状況であったとしても、海上拒否によって敵にその水面での海上交通を妨害することができれば、それは一つの条件下での作戦として成果を認めることができます。また海上優勢の獲得を目指すとしても、著者が説明したように敵の艦隊を撃破することがすべてだと考える必要も必ずしもなく、現存艦隊や海上封鎖によって、味方の輸送艦や商船を一時的、局地的にでも航行可能にすれば、それは所望の海上優勢を獲得していると判断することもできるでしょう。

KT

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論文紹介 斉射モデル(Salvo Model)による対水上戦闘の分析

参考文献
Mahan, A. T. 1911. Naval Strategy. Boston: Little, Brown.(邦訳、マハン『海軍戦略 陸軍作戦原則との比較対照』尾崎主税訳、原書房、1978年)

2016年11月22日火曜日

ジョミニが考える軍事政策の基本原則

アントワーヌ・アンリ・ジョミニ(1779-1869)、スイス出身
スイス軍、フランス軍を経てロシア皇帝の軍事顧問となった軍事学者、著作に『戦争術概論』
19世紀の軍事学者アントワーヌ・アンリ・ジョミニの研究業績で最も有名なのは、戦略の基本原則に関するものです。例えば、敵の兵站線に脅威を及ぼすように、我が勢力を機動させることは、ジョミニが主張した戦略上の原則としてよく参照されています。しかし、ジョミニの研究は戦略の分野だけでなく、軍事政策の方面にも及んでおり、現代の用語で言うとこれは「防衛行政」または「防衛政策」に該当します。

今回は、ジョミニの軍事政策に関する考察を紹介し、それが戦争の指導においてどのような意義を持つのかを考察したいと思います。

軍事政策の問題とは

そもそも、軍事政策とはどのように定義される政策なのでしょうか。
ジョミニの説によると、軍事政策は対外政策や戦略など軍隊の対外的な使用に直接関係する部分を除外することによって定義することができます。また、その問題には人員の確保、資金の管理、統帥の確立、士気の保持などが挙げられます。これらの事項をよく検討し、それらが作戦に及ぼす影響をよく見極めることが重要となります。
「この分類によれば、国民の情念、軍事制度、現役、予備役、資金、自己の政府と社会制度に対する愛着、執政部の特性、軍隊の司令官の特性、軍事的能力、司令官の作戦行動を決定する首都の内閣会議や戦争指導会議の影響、幕僚が支持する戦争方式、一国の常備軍と軍備、侵攻を企図する国家の軍事地誌、軍事統計、直面することが予想されるあらゆる種類の敵の勢力と障害、そして外交と戦略に含まれない一切がこの軍事政策に含まれている。
 政府はこれらの詳細な知識を入手することに決して怠慢であってはならず、全ての計画の立案においてこれらを考慮に入れることが必須である。これ以外のことで軍事政策について確立された法則というものは存在しない」(Jomini 1862: 38-9)
ここで述べられた通り、軍事政策は軍事的要因だけでなく、政府や社会といった非軍事的要因が相互に影響し合う複雑な問題です。軍隊を一から作り上げるために必要な人的、物的資源を包括的に調達するだけでなく、それらを適切な仕方で管理しなければなりません。軍隊の規模が大きくなるほど、軍事政策で取り組まれるべき問題も拡大することが分かります。

戦争の準備が軍事政策の本質である

ジョミニは完璧な軍隊を維持するためには、少なくとも12個の条件があると考えました。
(1)優れた徴兵組織を持つこと、(2)優れた編制、(3)よく組織された予備役制度、(4)教練と管理業務に関する優れた教令、(5)厳正でありながらも、自尊心を高める規律、(6)よく考慮された褒賞制度、(7)よく指導を受けた工兵および工兵の特技兵科、(8)可能であれば敵に対して防勢または攻勢の両面において優れた武器、(9)理論的、実践的な教育を受けた士官により組織された参謀本部、(10)兵站部、病院、一般行政の優れた制度、(11)戦争の主要な作戦を指揮、指導するための任命制度、(12)人民の軍事精神を高めて、これを保つこと、以上の12点がジョミニの考える軍事政策の検討事項です(Ibid.: 43-44)。

いずれも戦争の遂行に関連する事柄ではありますが、これらの検討事項に共通する特徴は、準備に時間を要するということです。ジョミニは軍隊の要求が戦時、平時を問わず常に完全に満たされていなければならないと主張していたわけではありませんでした。重要なことは、膨大な資源を管理する体制を事前に準備しておくということであり、そのために国家が常時臨戦態勢にあるようなことは現実的ではないと考えていたのです。
「私は国家が常に剣を手にし、常に戦争に備えているべきであるという助言にはまったく同意できない。そのような状況は人類にとって悲惨であり、非現実的な条件を満たさなければどのような国家であっても不可能である。私はただ文明国の政府は短期間で戦争を遂行する準備を常に整えている必要があり、つまり文明国で戦争の準備ができていないということは決してあってはならない、と述べているだけである。政府の先見性と軍事政策の完全性により、その賢明な体制は準備作業の大部分を処理することが可能となるのである」(Ibid.: 46)
軍事政策も国家の政策体系の一部である以上、他の領域の政策課題にも配慮しなければなりません。ジョミニの立場によれば、少なくとも平時における軍事政策の目標は、各種資源や労働力を柔軟に軍事部門に再配置し、国家の動員体制を準備することだと理解されていたのです。

望ましい軍事政策のあり方

ジョミニはさらに優れた軍事政策のモデルとして10個の施策を述べています。それを読めば、ジョミニがどのような軍事政策を目指していたのかを知ることができます。ここではその要点を紹介しておきます。
(1)国家の指導者は政治と軍事の両方について学識が与えられていること
(2)また、彼自身が軍を指揮しない場合、その能力に最も優れた将軍を見出すことができること
(3)常備軍の規模は必要に応じて予備によって倍加できるようにしていること
(4)戦争に必要な装備や物資を武器庫や補給処に十分に確保し、他国の技術開発の成果も積極的に活用すること
(5)軍事学の研究を推奨、表彰し、その分野の研究団体に敬意を払わせることで、優秀な人材を確保すること
(6)平時の幕僚はあらゆる事態に備えて平素から計画を立案し、関係する歴史、統計、地理、理論について研究させておくこと
(7)攻撃または防御を行う相手国の軍事的能力を判断するための研究に、優秀な士官を充てて、成果があればこれを表彰すること
(8)開戦となった際に作戦の全局にわたる計画を準備することは不可能であるが、我が作戦が成功するために不可欠な基地機能や物的準備を事前に整えていること
(9)作戦の構想については彼我の戦争の目的、敵の特性、地域の状況、また作戦で使用し得る戦力、戦争に介入する恐れがある国家の能力などが考慮されること
(10)国家の財政状況を戦争状態に適応させること(Ibid.: 49-51)
興味深いのは、ジョミニが理想とする軍事政策のかなりの部分が軍事学の研究を促進することと関係している点です。軍事学の研究に従事する団体の社会的地位を高めるために政府として褒賞を与えることは、軍事政策の一部でなければならず、こうした取り組みによって優秀な人材を獲得することが目指されています。

また軍事政策を遂行するためには、財政に関する配慮も欠かせないともジョミニは論じています。その議論の一部を紹介すると、次のような記述が見られます。
「歴史は最も豊かな国家が最も強いわけでも、また最も幸せでもないということを実証している。軍事力の規模という点から見れば、鉄は少なくとも金と同じ価値がある。しかし、我々は賢明な軍事制度、愛国心、よく管理された財政、国内の富と公的信用、これらの組み合わせこそが、国家に最も大きな力を与え、また長い戦争を遂行できるようにすることを認めなければならない」(Ibid.: 51)
これらの記述から、ジョミニは軍事政策を厳密な意味での軍事行政に限定していたわけではないことが分かります。学術研究や財政運営といった領域においても戦争指導と関係している要素が見られると考えており、特に平時において敵国の能力を詳細に知るための研究には政策的に大きな関心を寄せていました。

むすびにかえて

軍事政策はある意味において戦略や戦術よりも重要な問題と言えます。国家の軍事政策が適切でなければ、緊急事態の際に軍隊を運用すること自体ができなくなってしまいます。軍事政策の問題として各種資源を速やかに動員し、これを合理的な方法で管理することはやはり重要な問題です。それだけでなく、ジョミニは平素から軍事学の研究を推奨することによって、国内に知的基盤を整えておくことを軍事政策の目標と位置付けていました。これはジョミニの軍事思想に関する研究でもあまり重視されることはない側面ですが、軍事政策の全体像を考える上で人的、物的資源の効率的な動員だけでなく、知識の準備をも考慮に入れるという発想は興味深いと思います。

確かにジョミニの軍事政策に関する議論の一部はすでに時代遅れになっている部分もあるのですが、その基本原則については今でも妥当する部分があり、この方面の研究を発展させるに当たって読まれる価値があると思います。

KT

参考文献
Jomini, A. H. (1862) The Art of War, trans. G. H. Mendell, and W. P. Craighill. West Point: U.S. Military Academy.(邦訳、ジョミニ『戦争概論』佐藤徳太郎訳、中央公論新社、2001年)

2016年11月19日土曜日

アメリカ社会が移民を拒絶する理由―トッドの人類学的考察から

2016年アメリカ大統領選で勝利したドナルド・トランプ(1946-)
選挙戦で国境管理の強化や不法移民の排除を公約に掲げた
2016年のアメリカ大統領選で最も重要な争点の一つとなったのが移民の問題でした。さまざまな議論がありましたが、結局アメリカ社会で移民を排除すべきという見解が大きな支持を得たことは、日本で驚きを持って受け止められました。これは、アメリカは民主的な政治体制を採用しており、自由と平等の観念が広く社会に普及しているのだから、移民に対しても寛容な姿勢で対応するはずである、というイメージによるものだと思います。

今回は、現在のアメリカ政治で大きな問題となっている移民への対応を理解するため、エマヌエル・トッドの著作『移民の運命』(1994年)の分析の一部を紹介し、アメリカの白人社会が人種間の差異をいかに重視しているのかについて考察してみたいと思います。

家族構造の相違がもたらす普遍主義・差異主義
フランスの国立人口研究所の人類学者、政治学者のエマヌエル・トッド(1951-)
人類学者の立場から著者は、家族が人間の意識を形成する上で大きな役割を果たしていると主張しています。つまり、人々が生まれ育った家族の構造によって、社会生活でも大きく異なった行動を選択する傾向があるということです。

家族システムの構造にもさまざまな特徴があるのですが、著者が特に重要だと見ているのは兄弟間の平等性です。もし兄弟間の平等性が高い家族システムの中で育てば、その構成員は普遍主義とも呼ぶべき価値観を当然のものとして受け入れていきます。そのような人々は自分たちと異なる人種の移民と接触しても、次第に彼らの身体的、文化的な差異を受け入れる傾向にあります。

しかし、兄弟間の不平等性が高い家族システムで育った人々は、差異主義と呼ぶべき傾向を持っており、異なる人種の移民と接触することによって、かえって強い憎悪を向ける傾向が見られるのです。善し悪しは別として、著者はこのような人類学的要因によって、その社会の移民に対する態度が大きく異なってくるということを説明しているのです。
「人類の単一性に対する信仰は、ある種の人間集団の特徴をなしているが、意識的イデオロギーの層よりも深い層に根差しているようである。この地中深く埋もれているが安定的な態度の上に、さまざまな意識的な形式化が生まれては死に、次々と現れては消えて行く。この視点からするとフランスのケースは模範的である。何故ならその国土の上には、ローマ的普遍主義、カトリック普遍主義、そして大革命の普遍主義、さらにはある程度、共産主義的普遍主義も―何しろプロレタリア国際主義が二世代にわたってパリ盆地の労働者たちの心をとらえたのだから―、次々に去来したからである。このような普遍主義の強力な噴出は、人類学的な本性を持つ隠れた要因の存在を示唆している。逆にこれとは反対の特徴である差異主義を背負っているように見える人間集団もある。われこそは他の者には模倣できっこない無比の本質を持つと主張し、人間の等価性と諸国民の融合という観念そのものに敵意を示す、そういう人間集団もあるのである」(邦訳、42-3頁)
家族における兄弟間の平等性を判断する上で重要なのが遺産分割制度です。これを調べてみると、二人以上いる兄弟が父親の財産を平等にして相続できる場合と、男系長子制のように長男だけが相続人となることが認められている場合とがあります。前者は古代ローマ、スペイン、ポルトガル、フランス、ロシア、中国、アラブの社会で支配的な家族構造です(同上、51-2頁)。ちなみに、アラブ世界においては相続権が男性に限定されており、女性の子供には親の財産を相続する権利が認められていません(同上、52頁)。これは普遍主義の考え方が適用される範囲がアラブ社会においては男性に限定されているためであり、普遍主義の現れ方にもいくつかの相違があると指摘されています(同上)。

差異主義の意識をもたらすとされる後者の男系長子制についてですが、著者の調査によれば、この分類に該当する社会にはギリシア、イスラエル、ドイツ、日本、バスク地方、シーク教徒のパンジャブ、イングランド、ドラヴィダ・インドが挙げられています(同上、52-6頁)。著者はこのような家族構造が発展した社会では、親の遺産をすべて相続できる長子とそれ以外の地位が明らかに不平等なため、それ以外の子供は他の家族の跡取りと結婚するか、軍人や聖職者などの専門職を目指さなければなりません(同上、52頁)。そのため、このような社会では特定の専門職が過剰に供給されることが一つの指標であるとも述べられています(同上、53頁)。もちろん、子供の間で遺産が分割されたとしても、さまざまな非金銭的特権を長男だけに与えるという場合もあるため、差異主義にもさまざまな形態があることが考慮されなければなりません。

アメリカに根付く差異主義の影響
アメリカ独立戦争の最中、ヴァージニア植民地代表の提案により大陸会議で独立が決議され、ジェファーソンを含めた5名の手によって独立宣言が書かれることになった。
著者の見方によれば、アメリカはイングランド的な家族構造の影響が見られる事例であり、兄弟間の不平等性が大きい点に特徴があります。これは差異主義の観念を人々に根付かせる構造的な要因となり得るものです。

17世紀にアメリカ大陸へ移住したイングランド人は、本国の慣習である長子相続制それ自体は排除していますが、平等な相続を認めたわけではありませんでした。ニュー・イングランドでは、遺産の可分性と長子が二倍の配分を受ける制度が聖書の記述によって正当化されていました(同上、70頁)。ただし、長子は優遇されているものの、末子が家族の不動産を相続する場合もかなり頻繁に見られる点でイングランドの家族システムとの相違も見られ、アメリカの家族システムにおいて「子供は自由だが、平等ではない」と定義されています(同上)。こうしたことから、アメリカの入植者は家族の中で序列があることを当然の制度としていたと考えることができます。

1776年のアメリカ独立宣言は、一見すると人間の普遍的な平等の理念が高らかに掲げられていましたが、著者はその宣言ではインディアンを野蛮人と見なす記述があり、「暗に白人という観念と人間という観念を交換可能なものとみなしている」と指摘しています(同上、79頁)。このように考えれば、アメリカ全体の黒人奴隷の40%を所有していたヴァージニア出身のジェファーソンが平等主義と民主制の意義を主張したことは、論理の矛盾を招くものでは決してありませんでした(同上、79-80頁)。著者は1860年から1890年までに25万人のインディアンが身体的、社会的に抹殺されたことを紹介した上で、次のように述べています。
「人類学的分析を施したところ、導き出された結論というのは、人種的偏執はアメリカ民主主義が完成に達していないために残っている不備なのではなく、アメリカ民主主義が拠って立つ基礎之一つなのだ、ということである。この解釈を以てすれば、アメリカ民主主義のいくつかの独特の特徴、とくにそれが経済的不平等を受容している点を理解することが可能となる」(同上、82頁)
未だに力を失っていない人種的隔離
1950年代後半から1960年代前半にかけて、黒人公民権運動が活発化すると、アメリカ各地で暴力事件が発生する事態に発展し、治安維持上の問題が生じた。写真はミシシッピ大学で連邦保安官の移動を支援している陸軍の車列。
このような差別はその後のアメリカで変化し、弱まっているという見方も一部にはあるでしょう。著者はこうした見方を否定しています。確かに1840年代からイングランド以外のヨーロッパから移民が来ており、さらに第二次世界大戦後のアメリカで黒人、インディアン、アジア系に対するヨーロッパ系の国民の意識は変化しています。このことから人種間の融和が進んでいるかのようにも思われますが、著者は実際の行動を見ると、人種的な隔離がアメリカで根強く残っていることを次のように議論しています。
「黒人が白人の居住地域および学校にやって来ると、世論調査の解答で身体的外見を異にする人間の平等という原則を主張する当の白人が、そこから逃げ出すという事態は相変わらず続いている。大都市の中心にはゲットーが存在し、もしくは再び形成される。今や黒人に門戸を開いた公教育は、白人中流階級の子弟が人種の混交を逃れて私立学校に通うようになったため崩壊する。白人の子供と黒人の子供は、住居においても学校においても接触しようがないのである。実際の生活において親交のない状態が保たれているために、白人と黒人の若者たちは互いに知り合うこともなく、結婚する機会もない。近所付き合い、学校、結婚というものは、本質的に人類学的変数であり、これらのものの組み合わせによって個人の具体的人間関係の場が決定される」(同上、126頁)
人間はその人格の初期形成において、家族システムの影響を強く受けることになります。その影響は世代を超えるほど根強いものがあり、著者としては戦後のアメリカ社会においても一貫して人種の隔離が依然として行われていると判断しています。

近年のアメリカについても、「大学における黒人学生の数はかなり多いが、白人学生と黒人学生の人間関係の水準はかなり低く、アラン・ブルームによれば日常の礼儀の規則の遵守だけに限られ、白人学生と黒人学生の間の友情は例外的現象とみなさなければならない。1990年前後には、アメリカの黒人の80%は中等教育をうけたが、こうした大衆的動向が黒人の結婚および住居に関わる隔離を断ち切ることにはならなかった」ことが紹介されています(同上、130頁)。アメリカ社会における人種間の隔離は強固なものであり続けているのです。

むすびにかえて

著者の研究によれば、アメリカ社会は多文化的な特徴を持つものではありません。アメリカの白人社会では人間が持つ身体的、外見的な差異を極めて重視する傾向にあります。それは異人種を差異に基づいて隔離すべきという信念によって強化されていますが、決して個々人の民主的な意識という個別の要因によるものではなく、建国当初からアメリカの民主政の一部でした。この影響は現在まで続いており、それは社会の基本単位である家族システムの構造が維持されていることからも伺われます。表面的に見ればアメリカは積極的な差別是正の取り組みが進められていますが、白人集団において内心では旧来の人種的観念を捨て去ってはいないということを理解する必要があると示唆されています。

移民を排除しようとする背景として、アメリカ社会を形作る家族システムの特徴があるという議論が妥当であるとすれば、私たちはアメリカの移民の問題が今後も繰り返し政治問題化する可能性が大きいものと予期する必要があります。選挙についてはさまざまな要素が関連するため、人類学的考察だけで全てが説明できるわけではありませんが、アメリカが政治的に団結し、その本来の国力を発揮することを阻害する要因の一つとして考慮することは必要だと思います。

また、家族システムから移民の受け入れ能力を考えることは、日本にとっても参考になる部分があるかもしれません。著者は日本で支配的な家族システムは、普遍主義よりも差異主義にとって有利に作用すると紹介しています。このような場合、異なる人種間の接触が増加していくと、かえって身体的、文化的な差異に対する憎悪が助長される可能性が考えられています。それゆえ、日本社会はもし移民を受け入れるとしても、その数を統制することによって、不要な軋轢を回避することに役立つかもしれません。この論点に関してはさらに検討が必要ですが、いずれにしても移民政策を研究する際には、受入国の社会の特徴を十分に考慮しておくことが重要であると思われます。

関連記事
中間層が減少するほど、政治家は急進化する

参考文献
Emmanuel Todd, 1994. Le destin des immigrés : Assimilation et ségrégation dans les démocraties occidentales, Paris: Seuil.(邦訳、エマニュエル・トッド『移民の運命 同化か隔離か』石崎晴己、東松英雄訳、藤原書店、1999年)

2016年11月18日金曜日

論文紹介 対テロ戦争でアメリカが採るべき戦略とは

2001年9月のアメリカ同時多発テロを受けて始まった対テロ戦争ですが、本格的なアメリカの軍事行動が始まったのは10月に中東のアフガニスタンへ侵攻してからのことです。

しかし2016年末にかけて事態は改善に向かっているとは言えません。これほど長期にわたって海外で戦い続けている事例はアメリカの歴史を振り返ってもなかったことです。

今回は、こうした状況の中で、アメリカがこれまで採用してきた戦略を基礎から見直し、どのような能力を軍事的に重視すべきなのか、改めて検討する必要があると論じた研究を取り上げたいと思います。

文献情報
West, Allen B. "The Future of Warfare against Islamic Jihadist: Engaging and Defeating Nonstate, Nonuniformed, Unlawful Enemy Combatants," Military Review, Vol. 96, No. 1(January-February 2016)pp. 39-44.

対テロ戦争における領域的支配の重要性

著者の情勢判断によれば、現在のアメリカが直面する脅威で最も深刻なのがISISをはじめとするイスラム聖戦主義者(jihadist)の勢力です。

この勢力は非国家主体ではありますが、その地域において政権を奪取することにより、領域的支配を伴う国家主体に発展する場合があります。

著者はアフガニスタンでアメリカが犯した間違いとは、この可能性を軽視したことにあったと指摘しています。
「米国の指導者は、国家を建設することを目的としてISISが領土を支配しようとしていることを、理解する必要がある。不幸なことに、タリバンが権力と領土を確保することを見過ごしたとき、我々がアフガニスタンで犯した大きな間違いが繰り返されている。タリバンの局地的な運動は、アルカイダとオサマ・ビンラディンの世界的な計画と連動していたのである。その結果として、野蛮な7世紀型の国家が確立されただけでなく、テロリストの活動を支援する卑劣なイデオロギーの輸出も実施されてしまった」(West 2016: 40)
このように、テロリスト集団が国家主体に変化する可能性から、著者はアメリカが対テロ戦争を効果的に遂行する上でも、領域的支配を確立するための軍事作戦が重視されなければならないという立場をとっています。

しかし、現在のアメリカの軍事行動には必ずしも一貫性がなく、戦略と戦術という異なるレベルの活動を協同させるべきだというのが著者の基本的な主張です(Ibid.)。

対テロ戦略のための戦略構想

アメリカ軍が採用すべき戦略について提唱されているのは、以下の4つの戦略です。
・敵の聖域の拒否
・敵の連絡線の阻止
・情報戦争の勝利
・敵の勢力圏の削減
著者がアメリカが最初に取り組むべき戦略としているのが、「敵聖域の拒否」ですが、これは決して特定の地域を部隊に占領させ続けるような戦略ではありません。

「我々の最大の利点は戦略的機動力である。国境や境界を尊重しない敵に戦いを挑むには、その機動力を活用しなければならない。我々はイスラム聖戦主義者の拠点に対して攻撃を加えなければならない」と論じられているように、あくまでも攻撃目標となるのは敵の勢力とされています(Ibid.: 41)。

国際テロリスト集団を相手にする作戦では戦域に含まれる地域を広く設定しなければなりません。

国際テロリスト集団を対象とする第二の戦略が敵の作戦線の阻止です。著者はこの論点について「我々は人員、物資、資源の流れを、交通網を発見、遮断することによって途絶させる必要がある。同盟国と協力し、ISISの運営の拠点となるシリアの指定地域など、指定された戦闘地域に入ろうとする聖戦主義者の動きを追跡する優れたシステムを開発する必要がある」と述べています。

あらゆる種類の部隊活動に兵站支援は欠かすことができないものであり、それはテロリスト集団であっても本質的に変化するものではありません。

第三の戦略として提案されているのは、情報戦略です。

著者はISISの情報戦略で最も重要なポイントは、戦場における勝利を記録し、それを宣伝していることだと指摘しています。ISISはこのような宣伝をソーシャル・ネットワークを通じて展開し、人的戦力の獲得に活用しています(Ibid.: 41-2)。

また著者は、先進国のメディア関係者が知らず知らずのうちに、ISISの情報戦略に利用されており、例えばアメリカ軍によって拘束されたISISの元戦闘員を捕虜として報道することも、その一例であると指摘しています。
「聖戦主義者の容疑者を「戦争捕虜」と呼ぶことは止めよう。彼らはそうではない。彼らは不法な敵の戦闘員であって、正当な権利、つまりジュネーブ条約の下で与えられた権利を有するものではない。情報戦争の重要な側面は、我々の優しさと慈悲は原則、価値観としていかなければならないが、これは敵にとって魅力的な弱点であることを示している」(Ibid.: 42)
第四の戦略は、敵の勢力圏を縮小させることであり、これは「敵の領土を縮小しなければならない」ということを意味しています(Ibid.)。

しかし、これは短期間で解決することが難しい問題です。アメリカは、イスラム過激派のイデオロギーの普及と拡散を効果的に阻止できていません。

これは国内においてイスラム教徒が社会的に抑圧されていることと関係しており、過激な思想の蔓延を助長する側面があると著者は率直に認めています(Ibid.)。

こうした問題に取り組むことによって、聖戦主義に関心を抱く人々を減らす努力を重ねれば、敵の勢力圏の拡大を阻止する上でも有効な手段となりえると考えられています。

前方展開部隊から戦力投射部隊への再編成

以上の戦略を遂行するためにアメリカ軍は戦力投射能力(power projection)を重視することが重要となります。

著者は「敵を知る」ことの重要性を説いた孫子の思想に言及し、敵の弱点を突くことができるような態勢をアメリカと同盟国の連係によって整えなければならないと述べています。
「孫子の「敵を知る」という箴言を遵守するには、どうすればよいのか。我々は、もはや国家建設の事業に没頭することはできない。その代わりに、我々は一つの戦場を超えた打撃作戦を同時に実施するように努力するべきである。これは、我々が冷戦時代のような前方展開部隊(forward-deployed force)の構造をとる代わりに、戦力投射部隊(power projection force)の方へ向かわなければならないことを意味する」(Ibid.: 42)
この考え方をとるならば、アメリカ軍は今後、大規模な部隊を海外拠点に駐留させるべきではないということになります(Ibid.: 42-43)。

小規模な部隊を編成しておき、それを世界各地に自在に展開できることがアメリカとして重視されることになります。
「旅団・連隊戦闘任務部隊(brigade/regimental combat task force)の編制を利用し、海兵空陸任務部隊(Marine Air Ground Task Force)は、戦力組成を展開するためのモデルになっている。キャンプ・レジューンの第2海兵遠征軍の士官だった私は、その編成の効力を理解するようになった。アメリカ陸軍は同様の類型の組織に移行する必要がある。既存の編制を見直し、これまでとは違う方法で考える時が来ている」(Ibid.: 43)
ここで言及されている海兵空陸任務部隊は、諸兵科連合に基づく海兵隊の任務部隊です。その編制、装備、訓練、運用は特に機動展開の能力を発揮できるように考慮されているのですが、著者はこの方法をアメリカ軍の全体に広めることで、対テロ戦争に対応することを構想しているのです。

むすびにかえて
著者は対テロ戦争でアメリカ軍が苦境に立たされており、ベトナム戦争の歴史を繰り返すことを懸念しています。

そして、この状況を改善するには、アメリカ軍の戦略投射能力をますます強化し、敵である聖戦主義者の基地を攻撃し、兵站線を遮断し、情報戦略を見直し、さらに勢力圏を削減していくことが重要であるという考え方には納得できる部分もあります。

しかし、この研究が同時に示唆していることは、対テロ戦争に取り組むほど、アメリカ軍はヨーロッパや東アジアなどの地域で通常戦争を遂行する能力を確保しにくくなるということです。

前方展開能力から戦力投射能力への移行に関する著者の議論をそのまま実行に移せば、各地で同盟国の負担を増加させることに繋がる可能性がありますが、この研究ではほとんど考慮されていません。

国際テロリスト集団、特に武力闘争を掲げるイスラム過激派、聖戦主義者の活動がアメリカ国民の生命と財産を脅かしていることは確かです。

しかし、この問題にあまりに多くの政策手段を投入してしまうことになれば、ヨーロッパや東アジアにおける勢力関係に変化が生じ、長期的なアメリカの国益が損なわれる恐れがあることにも注意しなければなりません。

KT

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2016年11月16日水曜日

論文紹介 冷戦期にソ連はどのような戦略を持っていたのか

ソ連の戦略を研究することは、冷戦の経過を理解する上で非常に重要な課題として位置付けることができます。
一般的にソ連は得体のしれない超大国として捉えられることも多く、日本においては漠然とした脅威という印象を持たれがちですが、このような見方はソ連の実際の行動や意図を説明する上でほとんど役に立ちません。より重要なことは、冷戦期におけるソ連がその時々の内外の情勢の変化を踏まえて戦略を選択してきたということであり、その変化を捉えることができれば、冷戦期におけるソ連の理解をさらに深めることができるということです。

今回は、冷戦期においてソ連がどのような戦略を持っていたのかを長期的な観点から把握し、その変化について解説を試みた論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
橋野健二「ソ連の軍事ドクトリンと軍事戦略の変遷」佐藤誠三郎編『東西関係の戦略論的分析』第2章、日本国際問題研究所、1990年、36-74頁

スターリンの戦略思想の特徴
ヨシフ・スターリン、ソ連の第2代最高指導者
戦後のソ連の戦略は、まずヨシフ・スターリン(Joseph Stalin, 1878-1953)の戦略思想に沿って基礎付けられていました。スターリンの戦略思想の特徴としては、(1)銃後の安定、(2)軍の士気、(3)師団の量と質、(4)軍の装備、(5)軍司令官の組織能力、以上の5点を戦争の勝敗を決める「恒常的要因」として重視していたことや、電撃戦の奇襲効果を重視しない傾向があったと著者は紹介しています(同上、38頁)。

しかし、その本質的要素を広い視点で捉えれば、それは当初は防勢作戦を基本としながらも、やがては攻勢に移転し、最終的に敵国を徹底的に殲滅するために逆侵攻を仕掛けるという戦略でした。このような考え方の背景に、マルクス・レーニン主義の思想があったとして次のように説明されています。
「これは平時の対戦準備としては防勢の戦略であるが、いったん敵に攻撃され、戦争状態に入れば、初期の防勢を攻勢に転じ、最終的には昔の領土まで攻め入って、敵をその領土でせん滅するというものであった。この戦略の裏付けとしてスターリンは、資本主義が存在している限り、戦争は不可避であり、社会主義と資本主義との戦争においては必ず資本主義側が敗北、滅亡し、社会主義側が勝利するというマルクスレーニン主義の戦争論を継承していた」(同上)
戦争の長期化を大前提とするスターリンの戦略思想において、核兵器は必ずしも勝利に不可欠な要素というわけではなかったようです。スターリンは核兵器について「原爆は深刻な脅威ではない。それは単に心理的、政治的効果を狙う兵器で、戦争の命運を決する程のものではない」と評価していたことは、そうした見解を裏付けています(同上)。

しかし、スターリンは実際には核開発を初めて推進したソ連の指導者でもあり、この事実は米国に核兵器を独占させることがソ連の国防にとって不利なことであると考えていた可能性を裏付けています。スターリンの戦略思想における核兵器の意義については議論の余地が残るのですが、少なくともソ連の核開発が成果を上げるまでの間、西ヨーロッパ方面に大規模な通常戦力を配備することによって、米国からの敵対行為をソ連として防止する態勢が維持されていました(同上、39頁)。

核兵器に基づく新たな抑止態勢の模索
ニキータ・フルシチョフ、ソ連の第4代の最高指導者
スターリンの死後にはソ連の政策にさまざまな変化が見られましたが、特にニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev,1894–1971)の影響は大きなものがありました。フルシチョフは、それまでソ連で神聖視されていたスターリンに批判を加えたことで知られていますが、戦略の分野においては通常戦力から核戦力に重点を移したことが一つの業績となっています。

このことは1960年1月14日の最高会議におけるフルシチョフの報告演説で表明されており、その内容を要約すると、次の通りになります。
・戦争の不可避性がもはや存在しない
・軍事技術の進歩によってロケット兵器の重要性が高まっている
・現在の戦争の形態が国境侵犯から始まるのではなく、国内の政経中枢に対する短時間のミサイル攻撃で始まる
・ソ連としては戦略兵器であるミサイルを分散展開し、攻撃を受ければ徹底的な報復を加える必要がある
・核戦力を増強する代わりに通常戦力を削減する一環として、ソ連軍の人員を120万名削減し、242万3000名とする(同上、40-41頁)
注目すべきは通常戦力の削減によって、核戦力の比率を高めるという決定です。フルシチョフが示した見解には歴史的な意義があり、それは「敵の奇襲核攻撃に対するソ連報復核戦力の生き残る公算が敵の奇襲を思いとどまらせる、との核抑止の考え方が明確に示されたことである」と著者も述べています(同上、41頁)。
ただし、この決定以降も東ヨーロッパ方面に配備されている通常戦力の規模は依然として西側のそれよりも優越している状態は続いたことに一定の留意をしなければなりません。

再評価された通常戦力と戦域核兵器の増強
レオニード・ブレジネフ、ソ連の第5代最高指導者
核兵器による報復を基礎としていたソ連の戦略ですが、1964年にブレジネフ(Leonid Brezhnev 1907-1982)が政権を掌握してから新たな修正が加えられることになりました。著者の見解によれば、ブレジネフによる最大の修正の一つは、局地戦争が全面的な核戦争に拡大する可能性より、限定的な通常戦争の可能性の方が重視されるようになったという点です。
「1960年代前半の軍事ドクトリンでは、欧州での戦争はソ連本土に対する奇襲攻撃から開始されると想定していた。したがって、これを抑止するためには、米国本土への戦略核による先制攻撃が必至であるとされていた。しかし、60年代後半の軍事ドクトリンの修正によって、将来戦が必然的に前面的に世界戦争となり、ソ連中心部(ソ連欧州部)に対する大量の核攻撃をもたらすというフルシチョフ時代の想定は捨てられ、かわって、世界戦争が必然的に対ソ攻撃に導くとは限らない、戦争は限定されうる、という新しい結論に到達した。それは、すなわち、ソ連がこれまでの大量報復型の戦略から、柔軟反応型の戦略へと転換したことを意味している」(同上、45頁)
ここで二つの問題が出てきました。第一に、ソ連本土に対する核攻撃を回避するために、可能な限り核兵器の使用を制限しなければならなくなりました。第二に、ヨーロッパに配備された西側の核兵器の脅威を通常戦力によって対処しなければなりませんでした。

そこでソ連は「圧倒的な通常戦力での優位を利用して西欧に対し電撃戦を敢行し、西欧に配備された核戦力を通常兵器で破壊し、欧州大陸を占領するという戦略」を採用することになります(同上、46頁)。ただし、ヨーロッパにおける核戦争の可能性それ自体が完全に否定されたというわけではなかったので、米国本土には届きはしないものの、ヨーロッパの政経中枢、作戦基地を攻撃可能な中距離核ミサイルは引き続き重視されていました。ソ連が1977年から配備を始めた移動式の中距離ミサイルSS-20は、ヨーロッパ戦域における対兵力攻撃を可能にする戦域核兵器であり、西ヨーロッパを人質とした米国をはじめとする西側諸国の対ソ攻撃を抑止することが期待されていたと考えられます(同上、47頁)。

米国の軍備増強とソ連の戦略的行き詰まり

次にソ連の戦略が変化するのは1980年代前半のことでした。
この時期から西側諸国においてソ連の軍事的脅威がこれまで以上に強調されるようになります。当時、ソ連の首脳部はブレジネフからアンドロポフ(Yurii Andropov 1914-1984)、チェルネンコ(1911-1985)へと短い期間で変化していましたが(同上、48頁)、ソ連を取り巻く国際情勢は一方で刻々と厳しさを増しつつあり、それに伴ってソ連の戦略も防衛的志向を強めていきました。

1981年に米国で発足したレーガン(Ronald Reagan)の政権は、米国の対ソ政策をより強硬な路線に切り替えています。1983年12月には戦域核兵器を西ヨーロッパに配備することによって、ソ連のSS-20に対抗する動きも示してきました(同上、49頁)。さらにこの年の3月には戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative, SDI)が打ち出されます(同上)。

こうした一連の米国の戦略についてソ連側は「(1)ソ連に対する軍事的優位を目指す方針、(2)核第一撃の戦略、(3)限定核戦争遂行の戦略、(4)米ソ直接対決の戦略、への転換であると理解した」と著者は述べています。特に中距離核戦力をヨーロッパに配備したことは、ソ連本土に対する核攻撃を可能にするものであり、ヨーロッパにおける限定核戦争の準備の一環と判断されるものでした。
「すなわちソ連の地理的環境を考えれば、欧州における東西両陣営の勢力圏の接触点からソ連国境までは地続きで約800キロ、首都モスクワまでは約1,800キロしか離れていない。一方米国の首都ワシントンは、欧州の接触点から大西洋を超えて約6,000キロも彼方に位置している。米国の観点からは、限定的な意味を持たせられているパーシングⅡも、ソ連の観点からは、その中枢部を攻撃可能な戦略兵器と見なされているかもしれないのである。
 このことは欧州戦域での米ソの力関係においてソ連が決定的に不利に陥ったと言うことである。つまり、もしソ連が、優位に立つ通常戦力によって西欧に対し電撃戦を遂行しようとすれば、NATO軍の長射程の精密兵器および進入能力が高い戦闘機を用いた縦深攻撃(FOFA)によって、ソ連の後続第二梯隊部隊も多大の損害を被ることは必須であり、そのために通常戦段階が行き詰まり、核戦争に移行すれば、米国のINFによって欧州ソ連の中枢部の壊滅的な破壊を覚悟しなければならないということである」(同上、50頁)
要するに、レーガン政権が取り組んだ米国の軍備増強によって、ソ連軍がそれまで目指していた電撃的勝利の公算を大いに低下しただけでなく、ヨーロッパ戦域に配備された西側の戦域核兵器によってソ連本土に直接脅威を及び得るという状況になってしまったのです。
もはや、従来のように攻撃的な戦略をソ連としても維持することが困難であり、しかもソ連国内の経済問題も深刻さを増すばかりでした。こうした諸条件が重なったからこそ、この時期からソ連は軍事力だけに頼らずに国家を防衛する方法を模索するようになったと考えられています(同上、50-52頁)。

ゴルバチョフの新思考外交に基づく戦略転換
ミハイル・ゴルバチョフ、ソ連の第8代最高指導者
1985年3月に誕生したゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev, 1931-)の政権では、特に経済の立て直しは喫緊の課題となっており、軍備の増強に慎重になる他ありませんでした。ゴルバチョフは平和共存について新しい考え方を示しており、「社会主義と資本主義の間の階級闘争の特殊な形態」という従来の定義を「軍事力ではなく、善隣と協力が支配し、科学技術や文化財の幅広い交換が行われる国際秩序である」に変更しています(同上、55頁)。このことからも、ソ連が米国との関係を長期的視野で安定させようとしていたことが読み取れます。

こうした政策上の決定によって、ソ連の戦略はより防衛的形態に変わっていったとして著者は次のように論じています。
「すでに1986年2月の第27回党大会で採択された新党綱領には、「党の指導的役割の下で、国の防衛と安全保障政策、特別に防衛的性格を持つソ連の軍事ドクトリンが策定され、実行されている」と規定され、さらにモイセーエフ(Mikhail A. Moiseyev)参謀総長は89年に、「1985年―1986年から、防衛的軍事ドクトリンと段階的な軍備縮小に関連した新たな段階が始まった」と述べている。
 これらのことから、1985年から86年にかけて軍事ドクトリンに変更が加えられ、「戦争の防止」を課題とし、戦争の防止は可能であるという、新しい軍事ドクトリンが成立したものと考えることができる」(55-6頁)
つまり、レーガン政権の対ソ政策の転換の影響は表明から4年から5年でソ連の行動に実質的な影響を及ぼしたということになります。ここで述べられている防衛的性格の内容については著者はソ連で発表されたいくつかの政府の文章や論文を根拠として示しています。

例えば、1987年5月に発表された文章では、ソ連をはじめワルシャワ条約諸国の軍事ドクトリンは、戦争の勃発を許さないことを課題としており、どのような紛争であってもその解決のために軍事的手段を使用することは許されない、自らが武力攻撃の対象とならないかぎりは軍事行動を開始せず、最初に核兵器を使用してはならない、と定められていました(同上、59)。また1987年9月17日に『プラウダ』で発表されたゴルバチョフの論文では、ソ連軍の防衛態勢の十分性について、「起こりうる侵略を撃退するのには十分だが、攻撃行動を実施するには不十分となるような国家の軍事力構造」を想定していることを明らかにしています(同上、64頁)。

むすびにかえて
著者の見解をまとめると、次の通りとなります。

・ソ連は第二次世界大戦が終結してから1980年代に入るまで、一貫して軍備の増強に取り組み、フルシチョフ以降には米国との間で戦略核兵器による均衡状態が達成するように努力してきた。
・1980年代初頭までにソ連は通常戦力の意義を再認識するようになり、特に戦域核兵器を配備することで、いざという時には西ヨーロッパ戦域に電撃的な攻撃を加えることが可能な態勢を目指し、結果として戦略的な均衡状態が生じていた。
・しかし、米国は1980年代からソ連に対する警戒感を強めて軍備の増強に取り組むようになり、西ヨーロッパ防衛のために戦域核兵器を配備していったため、ソ連は次第に劣勢に立たされ、攻撃的な戦略についても内容を見直す必要が出てきた。
・ゴルバチョフは戦争の防止を何よりも重視したため、ソ連の戦略は従来よりも防御的形態に変化するようになり、その結果として武力攻撃を受けないかぎりは軍事行動を開始しないという立場を表明するに至った。

ソ連の戦略を形成していた教義にはさまざまな側面があるので、ここで示した内容はあくまでも一つの説でしかありません。しかし、一貫した解釈を可能にする見方であると思います。ソ連の戦略は米国の戦略と相互に作用しあいながら変化していたことや、冷戦のその時々の軍事情勢の特質が反映されていたという著者の指摘は、いずれも基本的なことではあるのですが、冷戦史の研究で見過ごされる場合があることも事実です。

KT

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2016年11月13日日曜日

論文紹介 冷戦期における日本の陸上防衛力の発展とその課題

戦後の日米関係の歴史にはさまざな側面がありましたが、やや単純化された見方の中には、日本が米国に安全保障で依存していたために、冷戦期の日本の防衛努力は限定的なものに過ぎなかったというものがあります。しかし、戦後においても日本は防衛力の強化を完全に放棄していたわけではなく、通常戦力の分野で絶えず能力向上を続け、米国もその成果に注目していました。

今回は、日本の防衛力でも特に陸上防衛力に注目し、その意義について米軍の立場から考察を加えた論文を取り上げてみたいと思います。

文献情報
Ebel, Wilfred L. 1978. "Japan's Developing Army," Military Review, Vol. LVIII, No. 4(April 1978): 29-33.

戦後日本の国防と陸自の位置付け
1950年8月、警察予備隊での朝礼
戦後において日本は軍備の増強に一貫して抑制的であったとのイメージがあるかもしれません。確かに、日本は憲法の問題から「戦力」の保有を違憲とし、これに自衛隊が当たらないという複雑な解釈に基づいて防衛政策を動かし、自衛隊の大幅な拡張には慎重でした。しかし、一切の能力向上を放棄していたわけではありません。著者は、米国の占領統治を終了させるのと引き換えに米国の同盟国となり、通常戦力の質的向上を図ってきたと論じています。
「日本は過去四半世紀にわたり極めて低い軍事的能力を維持してきた。日本は1950年に事実上の軍隊を編成し始めたが、現在、第二次世界大戦の帝国陸軍よりも、その軍隊がより大規模な火力を運用しているが、日本の軍備増強にはほとんど注意が向けられていない。長年にわたり、第二次世界大戦後、日本の陸軍は、警察予備隊または保安隊として婉曲的に呼ばれていた。 現在においても、日本人は軍隊の所持を認めないことを好んでいる。 日本人の陸軍は、陸上自衛隊(以下、陸自)と正式に呼ばれている」(Ebel 1978: 29)
こうした名称が、日本国憲法の第9条に関する政府解釈によるものですが、日本政府は陸自を蔑ろにしてきたというわけではなく、日本の国防を支える通常戦力として頼りにしてきました。
「日本の米国占領が終了する代償として、日本が米国の軍事上の同盟国になることに合意したとき、アジアのスイスになるという選択肢は排除された。 つまり、世界が戦争に向かう場合には、日本だけが参戦しないということはほとんど不可能となった。日本の安全と福利は、自国の通常戦力を維持することと、米国の核の傘への依存が頼りである」(30)
1955年度の防衛予算と比較すれば、1976年度の防衛予算は10倍以上の規模に拡大しています(Ibid.)。陸自の勢力は12個の歩兵師団、1個の機械化師団の水準にあり、その内訳として7個の歩兵師団に9,000名で編制された4個連隊が、残余の5個歩兵師団には7,000名の編制された3個連隊が置かれています(Ibid.)。戦車の数は890両を数え、そこには74式戦車も含まれており、地対空ミサイルのホーク(MIN-23 Hawk)、155mm自走榴弾砲、75式130mm自走多連装ロケット弾発射機等の配備も進められていると評価されています(Ibid.: 31)。

陸自が直面しているマンパワーの問題
1957年3月、第一回防衛大学校卒業式
しかし、問題点として著者は陸自がマンパワーの問題に直面しており、防衛予算に占める人件費の割合が増大していると論じています。
「いくつかのかなり深刻なマンパワー問題が陸自を悩ませている。 人件費の上昇によって、防衛予算に占める人件費の割合が高まっている。隊員募集は簡単な仕事ではない。 陸士には骨の折れる業務と訓練日程をこなさなければならない。 ほとんどの例外なく、入隊した陸士は隊舎に居住する必要がある。 いくつかの専門的技能に関するものを除けば、陸士の任期はわずか2年間に過ぎない。陸自は1968年に女性に門戸を開放したが、その勢力は全体の1%未満である」(Ibid.: 31)
また、陸自には米軍における予備役士官の教育制度が整備されていません(Ibid.)。幹部になるのはほとんどが防衛大学校の学生であり、一般大学の学生が部分的に採用されているにとどまっています(Ibid.)。医官の不足も問題となっており、1973年に防衛医科大学校が設置されており、80名の学生を毎年受け入れることで対応が進められています(Ibid.: 32)。

しかし、大量に募集しなければならない陸士、陸曹の不足の問題は解決が容易ではなく、多くの専門家が陸自は多くの幹部を抱えすぎていると指摘される要因にもなっています。ただ、著者はこれは陸自の勢力をさらに拡大する余地を残すという点では意味があるとも考えています。
「多くの防衛専門家は、陸自に幹部が多すぎると認識している。23,739名の幹部、74,752名の陸曹に対して、陸士が56,217名しかいないが、これは規模を著しく拡大する上で十分な指揮官がいるということである。
 すべての幹部と陸曹は高度に訓練されており、勢力の急速な拡張が必要になった場合、彼らはより上位の階級で働くことが可能である」(Ibid.: 32)
ただし、日本は緊急事態の際に若年者を徴兵するための制度が整っていないため、こうした取り組みが戦局にどの程度の影響をもたらすのかは必ずしも明確ではありません。著者によれば、防衛計画の大綱において防衛力の量的拡大よりも質的向上を目指す方針が定められており、特に近年では後方支援に対する関心が高まっている点について言及しています(Ibid.: 33)。全体として、マンパワーの不足という防衛力の根本問題を、質的向上によってどこまで補完できるのかが重要な課題であることが示されています。

米国の立場から見た日本の防衛力
1986年10月、日米共同訓練
この研究で興味深いのは、日本が米国を信頼することが難しいと判断すれば、独自の立場で通常戦力の増強にまい進する可能性がある、と指摘されている点です。
そもそも米国にとって東アジアの重要性(少なくとも1970年代において)は、ソ連の脅威が顕著なヨーロッパと中東に次ぐものに過ぎず、東アジアを第一に考えなければならない日本と利害が一致しない部分がないわけではありません。そのため、著者は少なくとも通常戦力に関して日本は米国に対する依存度を軽減しようとすることもあり得るという判断を示しているのです。
「間違いなく、米国はヨーロッパを第一に、中東は第二に、そして日本を最後に注視している。米国は決して日本を守るという約束を撤回することはないが、そのことは問題とはならない。問題は、日本が永遠に米国の後についてくるかどうかである。安全保障のために米国に大きく依存し続けることを嫌う日本は、徐々に自国の軍備を構築していくことが予想される。 これは、必ずしも米国との関係の破綻を前提とするものではない。日米の貿易関係は、そうした不都合な事態を許すにはあまりにも重大である。さらに、日本は、通常戦力がどれほど強いかにかかわらず、米国の核の傘の下に止まることを確かに望んでいる」(Ibid.: 33)
著者の見解によれば、自立に向かおうとする日本の動向は理解できる事象に過ぎません。そのため、論文で著者は「日本は自らの運命の支配者であることを当然望んでいる。 もし、あまりに緊密すぎる米国との同盟が、日本の目的や目標にとって逆効果をもたらすようになれば、日本は対外政策でさらに大きな自立に向けて過度に邪魔されるべきではない」と述べています(Ibid.)。
なぜなら、このことはアジアで共産圏の脅威に対処すべき米国にとって歓迎すべきことであり、国際政治の安定化に寄与する可能性が大きいと考えられているためです。
「日本の周辺諸国が自衛隊の規模や編成に驚く必要はない。 自衛隊は、日本に軍事的挑戦を起こすか、さもなければ東アジアにおける武力紛争を引き起こす積極的な行動を取る可能性がある間違った国家を除けば、脅威とはならない。 むしろ自衛隊は、すべての超大国の重要な戦略的利益が収束する世界の一地域において、国際関係の安定を約束するものである」(Ibid.) 
このような記述の背景として、1975年にベトナムから部隊を撤退させたことにより、米国のアジアにおける影響力を大幅に低下する危険が生じていたことが考えられます。もし西側陣営の一員として日本が東アジア情勢の安定化により主体的に寄与するようになれば、それは米国の防衛負担の軽減に寄与することに繋がるものと捉えられていたのです。

むすびにかえて
歴史的には、この論文が出された時機は1978年4月のことでした。その年の11月に「日米防衛協力のための指針」(通称、「指針」またはガイドライン)が策定されており、本格的な共同作戦の体制が模索されるようになります。そうした節目の時期において、陸自の能力を積極的に評価し、転換期にあった米軍の世界戦略の一部を任せることも視野に入れるべきだという議論があったことには一つの意義がありました。つまり、日本の陸上防衛力が東アジア地域の安定化に積極的な影響を及ぼしえるという可能性が指摘され、ソ連に対する西側陣営が世界規模で展開する戦略において日本が一定程度の役割を果たし得るという認識を広めることに寄与したと考えられます。

KT

関連項目
事例研究 1986年の日米共同統合演習で見えた課題
事例研究 冷戦期における基盤的防衛力の妥当性
論文紹介 核兵器の重要性と日本が核武装する可能性

(冒頭の写真は陸上自衛隊第11旅団HP:http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/index.htmlより)

2016年11月10日木曜日

事例研究 フランス革命戦争とワシントン政権の対外政策

1783年、アメリカは長い戦いの末にイギリスから独立を勝ち取りましたが、戦後にフランスと結んだ防衛同盟が残っていました。この条約は直ちにアメリカの国益を害するものではありませんでしたが、ヨーロッパ大陸の戦争にアメリカが巻き込まれる危険があるとも考えられました。その懸念は1789年のフランス革命戦争によって現実のものとなり、初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington, 1732-1799)がこの問題に対処することになりました。

今回は、フランス革命戦争に参戦すべきと主張する意見を封じ込め、対英宣戦を回避したワシントンの対外政策の事例について考察してみたいと思います。

当時の関係国の勢力関係
フランス革命の発端、バスティーユ襲撃事件
フランス革命戦争(1789-1798)は、もともとはフランス革命で危機的状況にあったルイ十六世の身の安全を確保しようとプロイセン、オーストリアが部隊を送り込んだことによって始まった干渉戦争でです。1793年、国外への逃亡に失敗したルイ十六世が革命政府によって処刑されると、このフランス革命戦争にイギリスも参戦することになり、結局フランスは一度にイギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどを相手に戦わなければならなくなりました。

18世紀末の時点で列強がどの程度の国力を持っていたのかを判断することは容易ではありませんが、軍事力に着目して比較してみると、1789年におけるフランス軍の動員可能な兵力は18万名、イギリス軍は4万名、プロイセン軍は19万名、オーストリア軍は30万名であったという説があります(Corvisier 1979: 113)。
フランス軍については、一連の革命での事件を受けて、士官の地位にあった貴族の多くが亡命していたため、先述した数値からさらに減勢していたと推測されます。ただし、対仏連合軍の勢力の合計は53万名にもなるため、フランス軍の人員が無理やり維持されても、厳しい国際情勢であったと言えるでしょう。

こうしたヨーロッパ情勢であったにもかかわらず、アメリカでフランス革命戦争に参戦すべきという意見が公然と支持されていました。そもそも、アメリカ独立戦争が終結した時点で大陸軍は解散されています。正確な数値を知ることはできませんが、大きく見積もっても当時のアメリカが直ちに動員可能な兵力は1万名程度という状態でした。これだけの兵力でイギリスに宣戦し、英領カナダ方面において攻勢に出るという構想は、単に実行不可能なだけでなく、イギリス海軍の攻撃によって沿岸都市での経済活動や海上貿易に深刻な支障を来す恐れさえありました。

19世紀のフランスの政治思想家であり、アメリカの民主主義に関する研究で知られるトクヴィル(Alexis de Tocqueville, 1805年-1859年)は、当時のアメリカ市民が対英宣戦に熱狂していたことを次のように評しています。「民主主義が政治において分別よりも感情に従い、長期にわたって練られた計画を捨てて一時の情熱の満足を求める傾向は、フランス革命が勃発したときに、アメリカにはっきり現れた」(邦訳、トクヴィル、一巻(下)109頁)。

軍備なき中立の難しさ
18世紀末から19世紀初頭のアメリカの領土の地図。
フロリダ半島、メキシコ湾の沿岸地帯を含む西部地域がスペインの領土となっており、北方にはイギリスの領土となっている点が特徴であり、国境線の一部では領土紛争が生じていることも確認できる。
フランス革命が起きた1789年にちょうど大統領に就任していたワシントンでしたが、当時はまだ大統領という地位は設置されたばかりで、前例や慣習が確立されておらず、不安定な状態にありました。しかも議会は、それぞれ議員が党の立場によって分断されており、国家体制の在り方についても意見の対立が見られていました。

この議会の分裂は1793年にフランス革命戦争にイギリスが参戦したことを契機として、一層拡大することになります。イギリスとの貿易関係を重視する勢力と、アメリカ独立戦争の勝利に貢献した仏米同盟を重視する勢力との間で対立が生じたのです。しかし、アメリカがイギリスとの戦争を決断することになったとしても、現有戦力で確実に勝利を収めることは戦略的に極めて難しかったため、ワシントンとしてはイギリスに接近し、フランスとの関係を切り捨てる方向で対外政策を調整しなければなりません。

そこでワシントンは「中立的」立場を採用することによって、フランス、イギリスのいずれにも味方しないという政策を表明します。ただし、イギリスへの宣戦を主張する国務長官だったジェファーソン(Thomas Jefferson、1743-1826)の意見を考慮し、声明で「中立」と明言することはせず、「交戦諸国に対して友好的かつ公平である」と述べるに止めることにしました。こうした妥協的な立場を取ることによって、ワシントンは親仏派の理解を得ながらも、当面の国家の安全を確保しようとしたのです。

しかし、そもそもアメリカが中立の立場を保持したとしても、イギリス領のカナダからは軍事的圧力を受け続けている状態に変わりがなく、ワシントン政権として完全な中立を保つということは困難な状況にありました。そのため、さらにワシントンは踏み込んだ対外政策の転換を準備するため、イギリスと接触し、同盟締結に向けた準備を進めることにしました。

ワシントンによる苦渋の決断
ジョン・ジェイ、合衆国憲法の解釈を論じた著作『ザ・フェデラリスト』の著者の一人
ワシントンは1794年11月19日にイギリスとの間に条約を締結します。この条約は交渉に当たったアメリカの特別使節ジョン・ジェイ(John Jay, 1745-1829)の名前からジェイ条約(Jay Treaty)と呼ばれていますが、これによってアメリカはイギリスと事実上の同盟関係を形成することになりました。アメリカとしてはフランスと戦うイギリス軍の部隊に後方支援で協力することになったのです。

しかし、その条約は同時にアメリカ独立戦争の前にアメリカ商人がイギリス商人に対して負っていた債務を履行することも定める内容も含まれていたこと、さらにフランスを公然と敵に回すことになることから、ワシントン政権に対する国内の不満は一挙に高まることになりました。英米間で事実上の同盟が成立すると、フランス軍もアメリカ船舶を拿捕し始め、外交官である公使の着任も拒否します。1786年11月、ワシントンはついに大統領を2期で辞退することを決めました。

ワシントン政権は独立して日が浅いアメリカを力強く指導したことは確かですが、各種政策の裏付けとなる国力で限界がありました。その影響は特に対外政策に強く表れており、ワシントン政権として国土防衛のためには遠く離れたフランスよりも、カナダに拠点を構えて隣接するイギリスとの関係を重視せざるを得なかったのです。ワシントンは退任の際に次のような声明を残しています。
「我々の隔絶した位置は、ヨーロッパと異なる道を行くことを示し、可能にしてくれる。なぜこの特殊な位置上の利益を捨てる必要があるのだろうか。なぜ自国の有利な土地を捨てて海外へ乗り出すのか。なぜ我々の運命をヨーロッパの一部分の運命と組み合わせ、我々の平和と繁栄をヨーロッパの野心、抗争、利害、つかの間の気分、気まぐれのような苦労に関わることがあるのだろうか。
 世界のどの国家とも恒久的同盟を結ばないでおくことこそ、我々の真の国家政策である」(Richardson 1897: 224)
ジョン・アダムズ(John Adams, 1735-1826)が次の大統領に就任することになりますが、イギリスとの同盟はフランスとの同盟よりもアメリカの国益にとって有利であったと考えられるようになるまでにはさらに時間を要しました。

むすびにかえて
トクヴィルは当時のワシントン政権の対外政策が残した成果について次のように論じています。
「それにも関わらず、フランスに対する民衆の同情は熱烈に表明されたから、もしワシントンの強固な性格とその絶大な人気がなかったならば、英国に対する宣戦布告を妨げることはできなかったかもしれない。しかもなお、同胞の気高くはあるが思慮にかけた情熱に抗して、己の峻厳な理性に従って行ったこの努力のために、この偉大な人物は、彼が唯一進んで手にした報酬であった国民の敬愛を失ったのである。この時国民の多数はワシントンの政策に反対を表明したが、今日すべての国民はこれに賛成している」(邦訳、トクヴィル、一巻(下)109頁)
結局、ワシントンは自国を含む国際社会の勢力関係を正しく判断する政治家でした。だからこそ、アメリカにとって必要な政策はフランスとの同盟に基づいてイギリスと戦うことではなく、イギリスとの同盟を組むことによって、当面の安全を確保することであると考え、その方針を一貫させることにこだわっていました。このワシントン政権の決定は国内から強い反発を受けるものではありましたが、ワシントンとしては大西洋を越えなければ部隊を派遣できないフランス以上に、カナダから部隊を南進させることができるイギリスの方がはるかに深刻な脅威でした。

これは国際関係論の理論、特に勢力均衡の考え方からすれば、バンドワゴニング(bandwagoning)の一事例として片づけることもできますが、それは決して自然の成り行きによって形成された政策ではありませんでした。ワシントンという政治家の的確な情勢判断とリーダーシップがなければ、アメリカはフランスと共にイギリスとの戦争状態に入り、不十分な軍備から自滅する可能性もあったのです。

KT

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事例研究 リンカーンの憲法違反と戦争権限

参考文献
Corvisier, A. 1979. Armies and Societies in Europe 1494-1789, trans. Abigail T. Siddall, Bloomington: Indiana University Press.
Tocqueville, Alexis de. 1840. De la démocratie en Amérique, Pagnerre.(邦訳、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』全4巻、松本礼二訳、岩波書店、2005年)
Richardson, J. D. 1897. A Compilation of the Messages and Papers of the Presidents, 1789-1897, New York: Bureau of National Literature.

2016年11月5日土曜日

文献紹介 抑止が難しい戦略もある

ジョン・ミアシャイマー(John J. Mearsheimer, 1947-)は、リアリズムの立場で国際政治を研究している米国の政治学者です。その研究業績の多くが安全保障に関するものであり、冷戦期に行ったヨーロッパにおける東西両陣営の勢力関係や軍事戦略に関する分析がよく知られています。

今回は、ミアシャイマーの研究でも抑止論に関するもの、しかも核抑止ではなく通常抑止についての議論を紹介し、抑止は単に戦力の規模や効率だけによって実現されるものではなく、相手方の運用が重要であるということを説明したいと思います。

文献情報
Mearsheimer, John J. 1983. Conventional Deterrence, Ithaca: Cornell University Press.

抑止とは、通常抑止とは
抑止(deterrence)は基本的に潜在的な攻撃者に攻撃を思いとどまらせるものであり、そのためには防御者がその攻撃者が目標の達成を防ぎとめるだけの軍事的手段が必要であると理解されてきました。著者は一般的な意味での抑止を次のように説明しています。
「最も一般的な意味における抑止とは、予期される利益が見積もられる費用やリスクを正当化しないために、特定の活動を開始しないよう敵対者を説得することを意味している。戦う決定は軍事的事項だけでなく、国家の能力が戦場においてその目標を達成できるかによってよっそくされるため、非軍事的要因も抑止に影響する。もし有効な軍事行動によって得られるような広く定義された政治的利益が存在すると我々が想定するならば、意思決定者に対して作用する要因を認識しなければならない。より具体的に述べれば、指導者は非軍事的な性質のリスクと費用を考察しなければならないのである」(Mearsheimer 1983: 14)
国家Aの指導者が国家Bを武力で攻撃しようとする場合、国家Aの指導者が期待できる戦果は国家Bが有する軍備に対する国家Aの軍備の相対的水準によって左右されます。より分かりやすく言えば、国家Aの指導者が国家Bに対して高い勝率が望めると判断すれば、それだけ国家Aの指導者が攻撃を決断する可能性は大きくなるということです。

著者は抑止を実現するための手段を必ずしも軍事的手段だけに限定しておらず、経済的手段、外交的手段などを駆使することによって抑止できる場合があることにも考慮していますが(ちなみに、このような対外政策はソフト・バランシング(soft balancing)という概念で分析されています)、やはり抑止力の基盤は軍事力であるとも考えていました。

一般に抑止論に関する研究で注目されるのは核兵器ですが、核戦力だけが抑止力の強化に繋がるわけではなく、通常兵器によって構成された通常戦力もまた抑止に繋がります。このような抑止の形態を通常抑止と定義することで、著者はこれまでの抑止論で軽視されていた領域を開拓しようとしました。そして、通常抑止を「本研究における定義として、通常抑止(conventional deterrence)とは、侵略者が有する戦場での目標を、通常戦力によって拒否する能力の機能である」と定義し、その条件に関する考察を試みたのです(Ibid.: 15)

抑止の実効性は相手が選ぶ戦略の影響を受ける
著者は通常抑止とは、防御者が持っている戦略の機能である、と考えました。潜在的な攻撃者が計画している作戦に伴う負担を増加させることによって、その攻撃者に自ら作戦の実行を思いとどまらせることが可能となるのです。この点は次のように説明されています。
「通常抑止は軍事戦略と直接関係する。より具体的に言えば、いかに国家が戦場で特定の目標を達成するために軍隊を運用するかという問題と関係している。意思決定者の問題として、まずその戦力を戦場でどのように使用するのかを決め、また攻撃者の戦力が防御者の戦力に見合っている場合に可能な結果が得られるのかを考えなければならない。つまり、意思決定者は戦争の特徴を予測しようとする。攻撃の計画、提案された戦略は合理的な費用で成功を収めるのだろうか。こうした考察は意思決定過程の中心に位置付けられる」(Ibid.: 28-9)
次に抑止機能を確保する上で防御者が注意を払うべき攻撃者の戦略について考えてみます。著者は攻撃者の選択し得る戦略を、消耗戦略(attrition strategy)、電撃戦略(blitzkrieg strategy)、限定目的戦略(limited aims strategy)という3種類に分類しています。
「要するに、攻撃者には3つの選択肢がある。最初の2つである電撃戦略と消耗戦略は敵を決定的に撃滅することが目標である場合に用いられる。反対に、限定目標戦略では攻撃者は敵の領土の一部分を獲得しようとする。それぞれの戦略は抑止に異なる影響を与える。それゆえ、抑止が特定の事例で成功するかどうかは、潜在的な攻撃者が考える戦略によって大きく左右される」(Ibid.: 30)
それぞれの戦略の類型について簡単に述べると、電撃戦略が狙うのは敵の部隊を心理的、精神的に破壊することであり、欺瞞、奇襲、機動などによって、敵の部隊の混乱を助長し、士気崩壊を連鎖的に引き起こさせ、戦闘能力の発揮を不可能にさせる戦略と言えます。消耗戦略は、敵の部隊を形成する人員や武器、装備を物理的に破壊、損傷させることを狙った戦略であり、戦力を最大限に集中していくという戦略です。

限定目的戦略とは、電撃戦略や消耗戦略とは異なり、敵の部隊から戦闘能力を奪うことよりも、敵が支配する領土の一部を獲得することに特化した戦略であり、著者は「限定目的戦略は領域の一部だけを攻略することに特化したものであり、同時に攻撃者は敵の部隊の主力と交戦することを避けようとする」と述べています(Ibid.: 53)。つまり、限定目的戦略はいったんその攻撃目標を奪取すれば、すぐに攻勢から防勢へと移転してしまうという特徴があります。

電撃戦は抑止が極めて困難
これら3種類の戦略で最も抑止しにくいのは、攻撃者が電撃戦略を採用している場合だとされており、反対に消耗戦略は抑止が比較的容易であると論じられています(Ibid.: 58)。ただし、限定目的戦略を採用してくる場合には、抑止できるかどうかの評価が非常に難しいと考えられています(Ibid.)。ただ、この戦略だと敵の主力を残したままになるため、持久戦に持ち込まれてしまうというリスクがあるため、やはり電撃戦略が抑止しにくいことには変わりありません。

しかし、なぜ電撃戦略は抑止が難しいのでしょうか。これは軍事的な理由だけでなく、政治的な理由も関係しています。
著者によれば、そもそも電撃戦という構想には防御者が準備した戦闘態勢を崩壊させるために、単なる奇襲ではなく、心理的な衝撃、精神的な打撃というものを最大限に活用する要素があります。
「心理的混乱は、機甲部隊が防御の均衡を崩している場合、攻撃の第一段階から直接生じてくるものである。攻撃者が敵の後方連絡線を遮断することによって敵の防御態勢を崩し続けていれば、防御者の部隊指揮官の間には助からないのではないかという危機感が広がっていく。彼らは何ら対策を講じることができない攻撃に直面しているということにすぐに気が付く。こうした心理的混乱と士気崩壊が確かなものとなれば、それは防衛の全面的失敗へと繋がるのである」(Ibid.: 38)
攻撃者が電撃戦略を実施した場合、防御者が組織的な抵抗を試みることが極めて難しいだけでなく、政治的観点から見ても電撃戦略には好都合な点があります。それは限られた軍事力によって大きな戦果を上げることができる可能性があるということです。それだけに、電撃戦略は実行が難しい戦略という側面もあり、失敗のリスクが大きい部分もあります。

しかし、政策決定者は、そのリスクを引き受けさえすれば、限られた兵力で大きな戦果を上げるとも考える可能性もあります。こうした状況は、特に政策決定者が追い詰められ、起死回生の賭けに出なければならない状態に置かれた場合に生じてきます。政策決定者は自らの政治的な行き詰まり突破するために、電撃戦略の効果に期待して戦争に乗り出してくるのです。
「そうした事例においては、潜在的な攻撃者が受け入れようとする軍事的なリスクは平和を維持することによる政治的コストによって大きく異なってくるであろう。言い換えれば、大きな政治的圧力は政策決定者に極めてリスクの大きい軍事行動を選択するように強いる可能性があるということである」(Ibid.: 62-3)
政策決定者にとって電撃戦略が最も魅力的に見えるのは、もはや軍事行動以外に選択肢がない時です。敵と味方の勢力は味方にとって絶対不利という状況であり、政策決定者がが追い詰められた状態に陥れば、電撃戦略の実行可能性が低く、失敗するリスクがあるということは大した問題にはならないのです。そのリスクに見合うだけの戦果を上げることが可能であると評価する可能性の方が大きく、そうなれば、どれほど防御者が通常戦力で万全の準備をしていたとしても、攻撃者が攻勢に出てくることになり、通常抑止は機能しなくなるのです。

むすびにかえて
この研究によれば、通常戦力によって相手を抑止しようとしたとしても、攻撃者が電撃戦略を採用し、それを効果的に実行してきた場合には、抑止が失敗に終わる危険が大きいと考えられます。電撃戦略は敵の人員や装備を破壊するのではなく、それを運用する政府組織、通信体系、指揮統制を麻痺させることを狙った戦略であり、第二次世界大戦では近接航空支援や機甲部隊による奇襲などの形態をとりましたが、現代においてはサイバー攻撃や精密誘導爆撃などのような形態も考えられます。

抑止は無意味だとか、重要ではないと主張しているわけではありません。こうした意思決定の中枢部や前線の部隊との連絡の遮断にも防護手段や対抗手段があり、そうした手段を講じることによって被害を軽減し、相手の電撃戦略の実効性を低下させる努力は大事なことです。ただ、完全な抑止が可能であると信じ込むことは危険なことです。軍事行動に極めて抑止しにくい形態が存在し、それを完全に封じ込めようとしても限界があるということを理解しておかなければなりません。

2016年11月1日火曜日

論文紹介 東アジアの地域特性と勢力均衡の安定性

東アジアは世界でもトップクラスの規模の経済力、軍事力を持つ国家がひしめき合う特異な地域です。世界最大の軍事力、経済力を誇る米国を筆頭とし、それに政府統計上は世界第二位のGDPを記録し、陸海空軍の近代化を推進している中国が続き、さらにヨーロッパ情勢でも大きな影響力を持つロシアもいます。この東アジア地域には潜在的な紛争地域が広範に分布している点も特徴であり、朝鮮半島、台湾海峡、尖閣諸島、南シナ海の問題解決は容易なことではありません。

今回は、こうした東アジアの国際情勢を一から理解するために、その地理的要因の影響を検討し、この地域の政治的安定性を考察したロバート・ロスの有名な論文「平和の地理学:21世紀における東アジア」を取り上げ、その内容の一部を紹介してみたいと思います。

文献情報
Ross, Robert S. "The Geography of the Peace: East Asia in the Twenty-First Century," International Security. Vol. 23, No.4(Spring, 1999), 81-118.

東アジアの地域特性を考える意義
著者は1990年代の研究者の多くは東アジアの先行きについて悲観的な見通しを持っていたことを紹介しています。そもそも国際関係論にはリアリズムとリベラリズムの二つの理論的立場があるのですが、リベラリズムの立場に立つ研究者は、平和維持の基盤とされている自由民主主義(liberal democracies)、経済的相互依存(economic interdependence)、さらに多国間制度(multilateral institutions)のいずれもが欠けていることを懸念していました。
またリアリズムの立場に立つ研究者は、中国の台頭によって勢力の移行(power transition)が進み、地域秩序の再編成をめぐる対立が激化するという別の理由から、不安定化に向かう恐れが大きいと見ていたのです(Ross 1999: 81)。

著者は東アジアが不安定化する恐れがあるという判断それ自体には同意できるとしていますが、そもそもこれらの研究には東アジアに特有の地理が考慮されていないことが問題であったと次のように述べています。
「経済発展や技術水準、教育水準といった数多くの要因が大国の地位を支えているが、地理は大国としての地位の前提条件を有するかどうかを決定するものであり、どの国家が大国になれるのか、21世紀において東アジアが二極化に向かうのか、多極化に向かうのかを決定する」(Ibid.: 82) 
また、この論文が発表された1999年の時点では、米国を中心とする一極構造が議論されていた時期でした(Ibid.: 83)。しかし、著者は世界の超大国としての地位を米国が獲得できたからといって、あらゆる地域で際限なく影響力を及ぼすことができるわけではないと批判しています。
著者によれば、世界全体が一極構造であったとしても、地域単位で見れば二極構造や多極構造が形成されることは十分にあり得る状況であり、現に東アジアでは米国と中国の二極構造が形成されてきていることが議論されています(Ibid.)。

大陸勢力と海洋勢力による勢力圏の二極化
東アジアにおける米国と中国の二極構造の特徴は、その勢力圏の分布の仕方にあります。中国は大陸をより大きく支配する勢力圏を構成していますが、米国はこれに対して海洋を支配する勢力圏を構成する傾向が見られます。著者は中国がこれまでにも大陸で地続きになっている諸国に対する影響力の拡大を重視してきたことを次のように説明しています。
「ポスト冷戦の東アジアにおける二極的な地域構造は、大陸を支配する中国と海洋を支配する米国によって特徴付けられている。北東アジアでの北朝鮮の立地は、中国の国境に接しており、また戦略的、経済的に孤立していることから北朝鮮の経済と安全保障は中国の覇権を必要としている。中露国境地帯においては、中国が通常戦力で優位に立っている。ロシア政府は兵士に十分な給与を与えることも、兵器産業に投資することも、また軍事施設を維持することもできておらず、ロシア軍の物的能力と士気は低下している。(中略)中国は東南アジア地域を支配下に置いている。ミャンマーは第二次世界大戦以来、中国の事実上の保護国である。1975年の東南アジアからの米軍の撤退によって中国の地域的な影響力は拡大され、タイは米国との関係強化から中国との関係強化に転換した。中国政府だけがソ連とベトナムの脅威からタイの安全保障を担うだけの信用があった」(Ibid.: 84)
(記述内容については1999年の論文からの引用である点に注意して下さい)
著者は、中国が指導的地位を握る勢力圏は東アジアの大陸部のほぼ全体に及んでいると述べていますが、その例外が韓国だとして言及しています。朝鮮半島の南部を領有する韓国は、米国との軍事同盟を維持してはいますが、地理的に見れば中国の影響を受けやすい場所に位置している国家です。現に台頭する中国との関係に配慮する動向が韓国の政策には見られることも指摘されており、「1990年代中頃から中国政府と韓国政府は戦略的関係を強化している。両国は日本の軍事的能力に対して大きな懸念を共有している」と書き記しています(Ibid.: 85)。これは対日政策という観点で見ると、韓国と中国の地政学的な利害に一致する部分があることを示唆するものです。

このような中国の動向に対し、米国は東アジアの海洋部分を主に支配しようとしてきました。ただし、長期的に見ればその勢力圏は次第に後退しつつあります。1975年にタイから撤退し、1991年にはフィリピンから部隊を撤退させたことはその具体的事例です(Ibid.)。
とはいえ、依然として米国はシンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイで基地施設を利用することを認める合意を取り付けており(Ibid.)、何よりも日本の基地に海上戦力、航空戦力を配備し続けることで、東アジア各地に対する戦力投射能力を確保することに成功しています(Ibid.: 86)。
この広範な戦力投射能力によって米国の東アジアにおける勢力圏を海上において保持することができています。

米国の勢力に対抗する中国のバランシング
こうした著者の議論で特に注目すべき主張としては、東アジアの地理的特徴が政治的安定を強化する方向で作用している、というものがあります。
すなわち、東アジアの勢力均衡として陸上勢力と海上勢力の二極構造のパターンを示していることは、多極構造のパターンを示す場合と比べて政治的に均衡しやすいだけでなく、相互に相手の勢力圏に対して軍事行動を起こすことが難しくなるため、紛争のリスクを軽減すると判断されているるのです。なぜこのような判断が導かれるのでしょうか。

論文で著者は「東アジアが安定化するかどうかは両国が相手の勢力圏に進入していく戦略的能力と野心にかかっている」と書き記しています(Ibid.: 92-3)。しかし、東アジアのように勢力圏の境界が海と陸で区分されている場合、海上を支配する米国の攻撃正面は陸上に向かい、陸上を支配する中国の攻撃正面は海上に向かうことになります。したがって、潜在的な攻撃者は既存の兵力に加えて、攻撃正面の地理的環境に適した装備体系や運用方法を新たに準備しなければならなくなってくるのです。このような地理上の影響が東アジアで現状打破を引き起こすことを難しくしていると著者は考えているのです。

中国はかつてのドイツやソ連と同じように現状打破を試みるだけの潜在的な国力を持っており、海洋権益を獲得しようと、海軍を強化してくる事態も考えられます(Ibid.: 94)。しかし、中国の海上戦力は米国に匹敵するものではありません(Ibid.: 96)。中国が自らの勢力圏を海上に広げようとしても、米国の勢力に対抗できるだけの能力がありません。それだけでなく、航空戦力の運用が海上戦争の勝敗を大きく左右する現代の安全保障環境において、中国は空軍でも米国に劣後しているという問題点を抱えているとも指摘されています。
「東アジアにおいて米国は絶対的観点、相対的観点のいずれから見ても、衰退している勢力ではない。米国は二極構造における大国であり、次の四半世紀にわたってその地位を維持するだろう。米国の海洋国家としての戦略的な縦深と離隔は、中国を含む沿岸諸国の海域と空域を支配し、また海軍と空軍が負うリスクを最小限にしたまま突破することを可能にする。これらの能力によって、米国は国際社会における資源を利用できる状態を確保しつつ、敵対する大国の海上戦力を無力化するだけでなく、さらには沖合における同盟国と資源に対して手出しできないようにさせることもできる。米国は次の四半世紀もそうした資源と能力を保持することになるだろう。米国が中国に疑念を持つのと同じように、中国が米国に疑念を抱くことは必然的なことである。米国は中国の領土的統一に対して挑戦することができる唯一の勢力である」(Ibid.)
つまり、東アジアの状況は二極構造といっても、米国が中国に対して優位に立っている側面があるということになります。勢力均衡の考え方に基づけば、中国は米国の軍事的優位に対応するためにバランシング(balancing)をする必要があり、現に中国は市場経済への転換、技術移転の推進、特に海軍と空軍の技術革新によって国力の底上げを進めています(Ibid.: 97)。
とはいえ、このバランシングは直ちに勢力均衡の安定を損なうものではなく、むしろ地域の安定性を強化すると考えることもできます。東アジアの勢力圏が地理的に分離されている限り、二大勢力は互いに干渉せずにすむためです(Ibid.: 99)。

「平和的・協調的大国秩序」の主張
著者は、このような議論をしていたからといって、21世紀の東アジアの情勢を楽観視していたというわけではありません。弾道ミサイルのような装備の開発が進むと、従来よりも相手の勢力圏に対して打撃を与えることが技術的に容易となるため、攻撃者にとっての地理上の障壁が小さくなることが予測されたためです。

この論文の結論としては、そうした技術環境の変化を踏まえた上で、中国の軍事的拡張主義に対して米国が過剰に反応しないように提言されています。つまり、米中関係が軍拡競争に陥らないように努め、可能な限り友好関係を模索すべきとされており、論文では次のような議論が示されています。
「米国が地域の勢力均衡に対する貢献を維持し続けるであろうという保証も、中国がその野心を限定するであろうという保証も、また米中両政府が台湾の問題を平和的に管理できるという保証も存在しない。地理と二極構造の望ましい効果を別とすれば、戦域ミサイル防衛のような21世紀の武器体系は安全保障のジレンマ(security dilemma)を悪化させ、軍拡競争を引き起こし、二国間もしくは地域の緊張を高める可能性がある。ここから言える最善のことは、構造と地理によって東アジアは相対的に安定しており、平和的な秩序をこの地域において見通す上でより大きな自信と、大国間の協力を最大化するように努力する機会を政策決定者に与えてくれる、ということである」(Ibid.: 117-8)
このように著者は、米中関係の将来像としては「平和的で協調的な大国秩序」を目指すべきと論じています(Ibid.: 118)。この議論から導き出されるのは、中国に責任ある大国として振る舞うように求めるという政策です。しかし、このような著者の提言がどこまで妥当性を持っていたのかは、2016年現在の状況から見れば、議論の余地が残るところでしょう。

むすびにかえて
東アジアの地域情勢が二極構造のパターンをとり、中国と米国の勢力圏がそれぞれ地理上の障壁によって分離されていることは、勢力均衡の安定性を強化する要因となっていることは確かでしょう。これは東アジアの地域情勢を理解する上で重要な点です。しかし、地理上の障壁は絶対的な障害ではありません。また、長期的に見て米国が東アジアで軍事的優位性を維持し続けることができるかは予断を許さない状況があります。

東アジアに領土を有する日本としては、どのような地理的環境の下に国際情勢が展開しているのかを正しく理解することが重要となります。また、米国と中国の勢力圏が朝鮮半島、東シナ海、南シナ海でせめぎ合う中で、中国軍と米軍の勢力関係が今後どのように推移していくのかを見積ることも欠かせません。こうした要因を総合することによって、日本にどのような防衛力が必要なのかを判断することができるようになるためです。

KT