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2016年12月23日金曜日

明治日本の国防論―福沢諭吉の論考から―

1868年、明治維新によって近代化の道を歩み出した日本でしたが、世界の情勢は急展開しており、その軍備は他の大国と比べて劣勢でした。
当時、この問題の深刻さを認識していた人物に福沢諭吉(1835-1901)がいました。福沢は1882年に朝鮮で発生した日本公使館襲撃事件と、清国の朝鮮に対する政治的、軍事的介入を受けて、一刻も早く日本政府として軍備の拡張に取り組むべきだと論じた著作『兵論』を出しています。

今回は、その著作の内容の一部を参照しつつ、福沢が日本の国防についてどのような考え方を持っていたのかを紹介したいと思います。

国家の存立は軍備の優劣にかかっている
国際社会で国家がその独立を維持するためには軍備を欠かしてはならない、と福沢は考えていました。武力によらなければ国家に脅威が及んだ際に、これを防衛することは到底できません。
「国家を守るためには、人を殺すための機械がなければならない。昔から武器は凶器であるとか、戦争は不吉であると言われてきた。しかし、そのような思想で武器を廃止し、戦争を放棄できるわけではない。この言葉は単に武力を軽々しく行使してはならない、という警告に過ぎない」(現代語訳、福沢『兵論』)
こうした見解に対しては、国際法のような外交的手段を巧みに用いることにより、国家を防衛することもできるという考え方もあります。福沢はこのような見解の妥当性を考慮していますが、結局のところ国際社会においては口先の道理と実際の行動には大きな乖離があるので、軍備がなければ戦時に敵の侵攻を防ぎとめることができないという事実は変わらないと論じています。
「国際法はその言葉だけを見れば公平である。それは道理によくかなったものだと人々は言う。しかし、口先で唱えられているものが、実際に行われるわけではない。今の世界の実情を評するなら、人々の言論は道理公平の世界であるが、実際には武力侵略の舞台であると言える」(同上)
福沢は国内政治においては世論の力で武力の発動や使用が妨げられる場合があることを認めていますが、国際政治は国内政治と本質的に異なる性質のものであり、同じような考え方を持ち込むわけにはいかないとも述べています。こうした思想が福沢の軍事力の意義に対する認識を形作っていました。

日本の軍備は戦うのには小さすぎる
福沢の研究の意義は軍備の意義を一般的に主張するだけでなく、どの程度の軍備が必要なのかを定量的に検討したことにあります。

福沢の分析によれば、19世紀後半におけるヨーロッパ諸国と比べた場合の日本の人口は決して著しく小さいわけではありませんでした。例えばフランスの人口は3690万、ドイツの人口は4272万、イギリスの人口は3162万、ロシアの人口は8568万、オランダの人口は357万でしたが、日本の人口は3576万でした。つまり、人的資源においてロシア、ドイツ、フランスに対しては劣勢でしたが、イギリス、オランダに対しては数的に優勢であったということです。

しかし、日本陸軍の規模は7万4000名に過ぎず、ドイツ陸軍の41万名、フランス陸軍の50万名、ロシア陸軍の76万名から大きく引き離されており、同じ島嶼国家であるイギリス陸軍の13万名の水準にさえ達していませんでした。もし大国を相手に戦争が起これば、日本はたちまち不利な立場に置かれる危険があったことを意味します。

軍事力の不備は当時の日本の経済力が発展の途上であったためだという可能性も考えられますが、この可能性について福沢は江戸時代の日本の動員可能な兵力の規模を参照しながら反論しています。
「20年前の封建の時代において、日本では40万名の士族が養われていた。これは40万名の軍人を養っていたことを意味する。(中略)また当時はこの40万名の軍人を養い、彼らに武器を蓄えさせていただけではなかった。当時の軍人は現代の徴兵のようなものではなかったためである。それぞれが家庭を持ち、妻子と家族を保護するという方法であった。一世帯を五人と想定し、合計で200万人の衣食をまかなうための費用、つまり軍事費を求めてみると、これは大きな金額になる。それでも、日本人は毎年この巨額の軍事費を拠出し、耐えてきたのである。
 現在、この軍人40万名の兵役を解除し、それに代わる7万4000名の陸軍と、29隻の軍艦からなる海軍を整備しており、その費用は陸海軍を合計してわずか1100万円余りに過ぎない。以前には万人を養う経済力を持っていた日本が、今ではこれを失ってしまい、再び新たな一歩を踏み出すことができないということだろうか。そのような事実は立証できない」(同上)
当時の日本の経済力であれば、少なくとも40万名規模の軍備を整えることは可能であるため、問題の本質は国防にどの程度の資源を配分するかを政府が政策として決定することにあると福沢は考えました。しかし、なぜ福沢は軍備の拡張をそれほど急ぐ必要があったのでしょうか。

東洋に大国が出現するリスクに備える
福沢が特に重視していたのは中国の脅威でした。当時、中国大陸を支配する清国の陸海軍は旧式の装備や編制によっていましたが、すでに清国は軍備の近代化に取り組み始めていました。福沢はこのまま事態が推移することを恐れていたのです。
「国力の発展は草木の成長と同じようなものである。今では弱小とされる国家でも、その国民が変わり、政治の方針を改めた時には、旧体制を脱却して強大な勢力になる。これは、あたかも時が来れば草木が栄養を得て、わずかな地域に長く生い茂るようなものである。(中略)今の世界において列強は西洋諸国ばかりだが、今後の数十年先には東洋から大国が出現するという可能性もある。私の考えでは、中国がこれに当たる」(同上)
福沢の調査によれば、当時の清国の兵力は八旗兵31万、緑旗兵61万、勇兵5万、蒙古兵10万を含めて合計108万程度でした。さらに、清国は天津、上海、杭州、広州、福州、江寧に近代的な軍需工場を建設して、装備の開発と製造に取り組んでおり、例えば上海の工場ではイギリス人の技術指導を受けて40ポンドのアームストロング砲を製造している実態について福沢は紹介しています。

当時、日清関係においては朝鮮の所属をめぐる問題がありましたが、必ずしも戦争が不可避になるほど悪化していたわけではありませんでした。しかし、だからといって清国の脅威を見過ごし、日本として軍備の拡張に真剣に取り組まなければ、平和を維持し、外交で事を決着することさえも難しくなると懸念していたのです。
「すでに述べたように、外国との外交は双方の敵意を隠し、表面的な友情によって行われるに過ぎない。交渉の背後には武力が必要であるということは、有識者にとって明らかなことであり、武力は単に戦争のためだけの手段ではない。武力は平和な時にも必要である。このことは、封建の時代に武士が友人と談笑する時も、親戚との懇親会の時も、座っている時も、寝ている時も、進む時も、下がる時も、片時として刀を身から離さないようなものである」
つまり、福沢が軍備の拡張を急いだのは、戦争の準備だけが理由ではありませんでした。平時における外交交渉においても軍備を持つことは重要な意味を持っていると考えられていたのです。

むすびにかえて
明治は日本にとって二つの意味で試練の時代でした。対外的には日本は厳しさを増す国際情勢において、速やかに国力を増進し、特に軍備の増強を推進しなければなりませんでした。
対内的には、軍備の増強のための予算を調達し、人的、物的資源を動員することが必要でしたが、依然として国内の政府組織は未整備の部分も多く、また納税者の立場である国民は世界の情勢に無関心で、軍備増強の必要性を理解していませんでした。

福沢が1882年に『兵論』のような著作を発表した理由はさまざまありますが、その一つにこうした国民の国防に対する関心を高め、軍事予算の拡充について国民から理解を得ようとしたことが挙げられます。
福沢は近代の国防は政府だけで遂行できるものではなく、究極的には国民が一致団結することが必要だと考えていました。国民の理解が得られなければ、税金を徴収することにも支障を来し、結果として周辺諸国との勢力関係はますます不利になっていくことを恐れたのです。

福沢は19世紀の思想家ですが、国際政治において軍事力が果たしている役割や、適切な軍備の水準や中国の脅威に関する各種データを用いた考察等は、21世紀の現代の視点から見ても学ぶべき点が少なくありません。もし福沢のような思想家が今の日本を取り巻く状況を見れば、何を思ったでしょうか。

KT

参考文献
福沢諭吉編『福澤全集』時事新報社、1898年
福沢諭吉『兵論』時事新報社、1882年(現代語訳『兵論:明治日本の国防論』Kindle版、国家政策研究会、2017年1月配信予定)

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