最近人気の記事

2016年10月22日土曜日

論文紹介 第二次世界大戦における日本軍の水陸両用作戦

現在、自衛隊では水陸機動団の創設や、有事における民間の輸送船の活用などの取り組みが進められています。これら取り組みを通じて自衛隊が目指しているのは、島嶼防衛に必要な水陸両用作戦(amphibious operation)能力を構築することなのですが、戦前においても日本で水陸両用作戦の研究が活発だった時期がありました。

今回は、第二次世界大戦以前に日本軍が水陸両用作戦の能力をどのように発展させてきたのかを検討した研究論文を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。

文献情報
二宮充史「日本軍の渡洋上陸作戦―水陸両用戦争の視点からの再評価」『海幹校戦略研究』2016年7月(6・1)、97-125頁

イギリス軍の強襲上陸の問題点
第一次世界大戦のガリポリの戦い(1915年)は、イギリス軍が採用する強襲上陸の方法に限界があることを示す事例であり、日本軍でも従来の水陸両用作戦の考え方を見直す契機となった。
そもそも日本軍の水陸両用作戦といっても、大陸方面で戦うことが多かった日本軍に果たして水陸両用作戦の概念が存在したのかという疑問が出てくるでしょう。
この疑問に対して著者は、日本軍が水陸両用作戦という用語を用いることはなかったものの、実際にはその重要性を認識しており、明治から昭和までの戦闘経験を通じて独自の発展を遂げてきたことを明らかにしています(二宮、99頁)。

著者によれば、日本軍が水陸両用作戦の研究に着手したのは、日清戦争、日露戦争で日本軍が先遣部隊を船舶輸送で朝鮮へ派遣してからのことでした。ただ、当時の船舶輸送は日本海軍ではなく日本陸軍の責任で実施されていたため、陸上戦力と海上戦力が統合運用されていたというわけではありませんでした(同上、100頁)。

これは明治期の日本軍がイギリス軍の教義の影響を受けていたためであると著者は論じています。
当時、イギリス軍の着上陸要領としては、第一段階では地上部隊は海上部隊によって護衛された徴用商船によって輸送され、第二段階では上陸地点において軍艦の支援を受けながら海軍の海兵隊がまず強襲上陸し、第三段階では橋頭保が確保されると地上部隊の人員や装備が揚陸され、最後に戦闘の準備を整えた後に展開していく、というものでした(同上)。
「日本軍の日清・日露戦争の上陸要領は、この英国式に類似し、英国海軍を手本とした日本海軍と陸軍が連携して構築したと思われる。明治43年の第一改正海戦要務令によると、この時期の上陸作戦は、海軍の護衛艦隊を、間接護衛と直接護衛に区分し、直接護衛に先導された陸軍輸送船団が泊地に進入、当初艦隊の陸戦隊が短艇により上陸して上陸掩護陣地を占領、その掩護下に陸軍部隊が汽船に曳航された木舟で上陸する要領で実施された」(同上、100-101頁)
したがって、イギリス軍の教義が日本軍が水陸両用作戦の教義を発展させる出発点であったと言えます。ただ、第一次世界大戦でイギリス軍がガリポリ上陸に失敗したことを受けて、日本軍は教義の見直しを進め始めました(同上、103頁)。興味深い点としては、ガリポリの戦いについて日本陸軍と日本海軍では異なる教訓を導き出したと指摘されている部分です。

論文では、日本陸軍はガリポリの事例から「企図の秘匿と奇襲、陽動、上陸即戦闘の敵前強行上陸部署、多数の揚陸資材による上陸部隊の増大、夜間上陸の追求、早期の砲兵揚陸、複数部隊の同時上陸に必要な船舶数確保等」という教訓を得たと述べられています(同上、103頁)。
しかし、日本海軍は「艦艇部隊は陸上砲台と戦闘してはならない」と判断し、着上陸作戦に主体的に関与しない傾向を強めることになっていました(同上、104頁)。つまり、日本陸軍と日本海軍はこの時点で水陸両用作戦について異なる関心、理解を持つようになっていたと考えられます。
実際、海軍においては艦隊決戦を上陸作戦に優先させる思想が出てきたこともあって、水陸両用作戦の研究はますます陸軍主体で実施されるようになっていきました。

装備開発の進展と二段上陸方式の確立
日本陸軍の「神州丸」(1937年撮影)
上陸用舟艇の「大発」を29隻搭載できる強襲揚陸艦
昭和5年頃に完成した世界初の実用的上陸用舟艇である「大発」は、日本陸軍において開発されました(同上、105頁)。大発は耐弾性を持つ鋼製の船体と揚塔用の開閉式歩板を持っていただけでなく、W型船底を採用したことで達着時に必要な安定性を確保し、さらに3メートルの耐波性があったとされています(同上、106頁)。
さらに、舟艇母船として陸軍特殊船の「神州丸」も建造されており、これは船尾から舟艇を泛水できる先進的な強襲揚陸艦に位置付けられます(同上、106頁)。1941年12月の対米戦争で投入された「あきつ丸」はこの「神州丸」の発展型に位置付けられる艦艇でした(同上)。

さらに、日本陸軍は装備だけでなく、水陸両用作戦に適した部隊編成、教育訓練の改善にも取り組んでいました。
大正5年に陸軍運輸部が拡大されて以降、陸軍大演習、陸海軍協同演習で敵前上陸が毎年実施されており、昭和4年に和歌山県の沿岸地帯で実施された演習では1個師団規模の着上陸に成功を収めています(同上、107頁)。
著者は、これらの訓練、演習の成果を通じて日本陸軍が二段上陸方式という着上陸要領を確立していたことを次のように論じています。
「これらの訓練を通じ、二段上陸(夜間、輸送船団の泊地進入以前に、陸岸から約 10 浬に漂白状態で舟艇を砭水し、第 1 回上陸部隊が上陸を開始するとともに、船団は泊地を陸岸に接近させ、帰還する舟艇の収容と第 2 回上陸部隊の上陸時間を短縮し、奇襲効果と衝撃力を増大させる)方式が編み出された」(同上)
二段階の具体的な要領については次のような図表でも説明されています。
揚陸艦から上陸用舟艇を二段階で着上陸させる二段上陸の概念図。
海岸から第一泊地は10nm、第二泊地は1,000mの距離に位置付けられている。
(同上、124頁)
この二段上陸は第一波と第二波が可能な限り同時に戦闘展開し、内陸部へ向けて迅速に攻撃前進することを優先するものといえます。
注目すべきは第一波の戦術行動に関する指示であり、護衛部隊は奇襲効果を高める目的で上陸前の艦砲射撃を実施しないこと、上陸に成功した地上部隊は敵の態勢が整う前に可能な限り奥地へ前進することなどが定められていました(同上、125頁)。

より慎重な立場で考えるならば、まずは艦砲射撃で敵の抵抗を一掃し、橋頭堡を歩兵部隊で確保し、そこで砲兵や段列を受け入れ、部隊としての戦闘態勢を十分に整えた後で、はじめて奥地へ向けて前進していくことも考えられます。こうすれば、敵が反撃を仕掛けてくるまでに時間を稼げるだけでなく、橋頭堡を敵に奪われるリスクも抑制できますが、その反面として奇襲効果が期待できません。
したがって、この二段上陸は速度を何よりも重視した大胆な上陸攻撃要領であり、その成否は奇襲の成功によるところが大きいとも考えることができるでしょう。

「海洋電撃戦」の成功と限界
1942年、ガダルカナル島に上陸する米海兵隊員
この戦闘以降、米軍の太平洋方面における反攻が本格化することになる
著者はこうした二段上陸を含む水陸両用作戦の研究蓄積が、第二次世界大戦の序盤における日本軍の勝利に大きく寄与していたと述べています。
その説明によれば、日本陸軍は中国大陸の杭州湾に11万名規模の部隊を海軍と協同しながら上陸させることに成功しており、当時の米海軍情報部はその艦船から海岸への攻撃要領を完全に確立した最初の大国であると高く評価したほどでした(同上、112)。

ただし、この作戦が成功した要因には、制空権の獲得が比較的容易な敵であったということも関係しており、1941年以降の太平洋における上陸作戦においては同様の戦果が得られるのか予断を許さない状況もありました。
「この様な困難な戦略環境を克服するため、日本軍は、航空撃滅戦に引き続く上陸作戦と航空基地推進を繰り返し制海空権を拡大する進撃要領で、空挺作戦も含む「広域多正面同時連続敵前上陸」を敢行した。この方式により日本軍は、連合軍に対応の暇を与えず、5カ月の予定を3カ月で蘭印を攻略し、短期間で南方資源地帯占領に成功した。正に、陸海空の立体戦で海上を進撃する「海洋電撃戦」であった。日本軍は、支那事変で経験した大部隊運用の技術と整備した編成装備を遺憾なく発揮し、作戦の主導権を握って殆どすべての上陸作戦を成功させたのである」(同上、113頁)
ここで著者が用いている「海洋電撃戦」という表現は、米軍の戦況分析に見られるものであり、当時の米軍は、日本軍の海空陸の協同を「aero-amphibious(航空―水陸両用)」作戦と定義した上で、「これらの地域で勝利を取り戻す問題に直面して以来、この日本軍の maritime blitzkrieg(海洋電撃戦)に使用された方法と装備が、我々の研究主題」と判断していたのです(同上、113頁)。

こうして日本軍は短期間で広範な地域を支配下に置くことができたのですが、やはり限界もありました。著者は陸海軍の協同という部分で日本軍の水陸両用作戦には課題も残されており、それがガダルカナルの戦いで露呈したことを指摘しています。
この戦闘は米軍による本格的な反攻によって始まり、結果として日本軍は敗北を喫し、ガダルカナルを手放さざるをえませんでしたが、敗因について著者は、
(1)先制主導・奇襲を基本とする日本軍の戦術を用いることができる状況でなく、受動に回った態勢で島の奪回を試みたこと
(2)米軍の航空優勢の下で艦隊決戦を重視する日本海軍が船団護衛を十分にできなかったこと
(3)近海や大陸への介入を主体とする上陸作戦に比べて、島嶼部での上陸作戦では制空権の重要性がはるかに大きかったこと
(4)状況の特性を十分に考慮せず、教範に示された原則をそのまま適用しようとしたこと
(5)根本的な問題として、日本陸軍と日本海軍で上陸作戦に対する関心や理解に大きな乖離が存在したこと(同上、116-119頁)
以上5点を挙げています。全般として著者は日本軍の水陸両用作戦には徹底した奇襲の重視などの現代でも参考にすべき要素があるとしながらも、全般としては広大な太平洋で強力な海上・航空戦力を持つ英米に通用しなかった部分もあり、また陸海軍の作戦思想が不統一であったことを反省すべきと指摘しています。

むすびにかえて

現在の自衛隊は水陸両用作戦の経験を欠いており、さらに研究を重ねる必要があるという状況にあります。
「何れにしても、海を越える作戦は、陸海軍の思想の統一、船舶・舟艇を含む編成・装備・訓練等の長期かつ多大の準備が必要であり、一朝一夕には実行できないことを肝に銘ずることが大切である」と論文の結論でも述べられている通り、水陸両用作戦の研究は検討を要する課題が多く、教義を完成させるために時間を要することが予測されます(同上、123頁)。

研究に必要な時間を短縮させる上において、軍事史の研究には大きな価値があると思われます。確かにこの手の教訓の抽出には慎重さを要するものですが、現代の新しい安全保障環境で日本が直面する課題を、歴史に照らし合わせて研究することができれば、過去の失敗を将来の成功に繋げることができるのではないでしょうか。

KT

関連記事
事例研究 作戦線から見た太平洋での米軍の戦略

0 件のコメント:

コメントを投稿