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2016年10月13日木曜日

事例研究 1986年の日米共同統合演習で見えた課題

1980年代は日本がこれまで以上に米国と防衛において連携するようになった時期に当たります。
当初、日米共同訓練は陸海空ごとに別々に行われていたのですが、1986年2月24日から28日にかけて陸海空そろって参加する初の日米共同統合演習(指揮所演習)が実施されました。しかし、この時の演習で見えてきたのは、自衛隊と米軍の作戦に齟齬だったことは、あまり知られていません。

今回は、演習が実施された当時の統合幕僚会議議長だった航空自衛官の森繁弘(1927-)の証言を踏まえながら、当時の状況について紹介し、若干の考察を付け加えたいと思います。

在日米軍と第七艦隊の関係
日本が東アジア正面で想定されていたシナリオの一つが北海道に来襲するソ連軍の対処であり、自衛隊の能力で攻撃を支え切れない場合には来援する米軍と協力して撃破することが考えられていた。しかし、オホーツク海を中心にソ連軍の潜水艦が北海道の周辺に展開していれば、米空母機動部隊は速やかに来援することは難しくなる恐れがあった。
当時の日米共同統合演習に関する森の証言で興味深いのは、第七艦隊の行動に関する部分です。
この演習の準備段階において、有事に極東正面でソ連軍に対処する状況が想定されることになると、在日米軍では自衛隊とだけでなく、第七艦隊の参加が必要であるという意向を示してきました。一般に第七艦隊と聞けば在日米軍の一部のようにイメージされるかもしれませんが、正しくは在日米軍ではなく、太平洋海軍の指揮下にある部隊であるため、森は海幕を通じて太平洋軍と直接調整することになったと述べています。
「決定的に違っていたのは、私が統幕議長になってからだいぶ後の話だけど、北部で統合共同演習をやったわけです。これは実動もやったんだけど、実動の前にCPX(共同指揮所演習)というものをやりました。その時に、米軍は「第七艦隊が参加しなければ統合演習にならない」と言ったので、第七艦隊も参加してほしいということを、海上幕僚監部を通じて第七艦隊に打診して、やっと参加してもらいました。そうすると、第七艦隊は在日米軍司令官の指揮下にないのよ。第七艦隊は太平洋軍の直接指揮下にあるから、在日米軍司令官や空軍司令官の命令はまったく関係なし。だから、こちらが共同統合演習をやるといっても、ハワイまでお伺いを立てないと演習にならない」(防衛研究所戦史研究センター『オーラル・ヒストリー 冷戦期の防衛力整備と同盟政策2』151頁)
ここで言及されている「空軍司令官」とは第五空軍司令官のことであり、第五空軍司令官は在日米軍司令官を兼ねることが慣例となっています。これは異なる部隊を同一人物が指揮することによって、指揮統一という戦いの原則が反映させるためのものです。
いずれにせよ指揮系統として在日米軍司令官の立場では第七艦隊を動かすことができないため、極東正面でのソ連軍の対処という内容の演習の円滑な準備に支障があったことを述べています。また準備だけでなく、演習が始まってからも、在日米軍とは別の考えで行動していた第七艦隊について森は次のような回想をしています。
「それを何度もすり合わせをして演習参加ということになって、まず最初はCPXをやろうといって始まったわけです。始まって「米第七艦隊の空母機動部隊、二個機動部隊、太平洋側三陸沖を北上中」という情報が入ってきた。こちらは、北海道の各飛行場に航空自衛隊の部隊を展開して、防空戦闘開始状況が進んでいるという状況までいって、いよいよ敵襲開始で敵襲が始まる状況にしたわけです。そして防空作戦をやっている時に、第七艦隊は三沢の沖に停まって動かないのね。「なんで動かないのか」と聞いたら、おそらく海軍の動き方まで知らなかったわけです。「現在、対潜警戒実施中」というわけだ。向こうの幕僚に、「対潜警戒は、どうやってやるの?」と聞いたら、なんと「攻撃型原子力潜水艦を二百海里前方に前進させて、相手の原子力潜水艦の攻撃を捜索させる。相手の潜水艦を探すなら、こちらの潜水艦がいちばん発見率が高い。だから、二百海里先にこちらの米攻撃潜水艦を配置して掃海中だ」と」(同上)
森が指摘している通り、在日米軍司令官は第七艦隊の動き方について理解していたわけではありませんでした。結局、敵が来襲する状況になっても、米空母機動部隊は直ちに戦闘に参加できる位置にまで前進することは避けたのです。これは開戦当初は敵の潜水艦がどこから空母を狙っているか予断を許さないため、空母機動部隊としては安全を最優先に確保する必要があったためです。

ちなみに200nm前方に潜水艦を空母機動部隊に先行させることになれば、おおむね370kmに相当するため、三沢の沖合からだと釧路付近までの距離になります。森としては一刻も早く空母機動部隊が戦闘力を発揮できるように希望するところでした。

第七艦隊から出された航空自衛隊への要求
1986年当時の第七艦隊で空母機動部隊の中核を担っていたのがCVのキティホークであり、有事には極東正面でソ連軍に戦略的打撃を加える役割が期待されていたが、演習では艦隊防空にも艦載機が必要となるため、敵基地攻撃で航空自衛隊に支援を要請する場面があった。
ソ連の潜水艦の脅威を警戒する米空母機動部隊が、ようやく北海道の襟裳沖合にまで進出してくると、森は第七艦隊から航空自衛隊に思いがけない支援の要求がきたことに驚かされることになりました。
「掃海が終わったといったら、やっとこさ空母機動部隊が襟裳の南まで来て、襟裳の南沖でまた動かない。「あの空母は何が任務か」と言ったら、なんと国後・択捉攻撃が空母部隊の任務なのよ。向こうのシナリオを見ると。それで、「向こうの対艦ミサイル部隊を攻撃して、まず防空作戦用戦闘機を離陸させるから、襟裳の沖から動けない」というんだ。まあ、動かんのはしようがないけど、そこの部隊から我が方の千歳は攻撃を受けているんだから、「こちらのほうは要撃戦闘をやるよ」と言って要撃戦闘をやっているんだけれども、第七艦隊からこちらに来た要求を見て、びっくりしました。「航空自衛隊全力を挙げて、国後・択捉島のソ連空軍基地を叩いてくれ」というんだ。これはもう、びっくりしました」(同上)
襟裳岬の南沖に到達したことで、米空母機動部隊は三沢から200kmほど北東に航行したこととなりますが、ここで艦載機を発進させたとなれば、そこから国後、択捉両島までの300kmから400kmを飛行するという計算になります。

具体的なソ連軍の兵力は明らかにされていないので、第七艦隊が攻撃の直前になってから空自に対して応援を要求した理由については不明ですが、少なくともこの演習で与えられた状況としては、第七艦隊がソ連軍に対して攻撃を加えるためには、自衛隊の戦力をもって敵の基地機能を低下させる必要があるというう問題が露呈したのです。
「私も第三室長に尋ねたら、第三室長は、「そんなことできませんと言って断りました」と言うけど、あたりまえだ。それは憲法上、敵の基地を攻撃しようとなると総理大臣も加えると。統幕議長主催の演習をやるのに、総理大臣のポストまで仮につくってオーケーを出すと言ってやっていたんじゃ手前味噌になり過ぎるから、「日本は憲法の制約があって、北方四島の攻撃はできない」と言って断ったんだ。そうしたら向こうは、「何で断るんだ?」と言うわけだ。「憲法がある」と言ったら、「日本の憲法なんて、糞食らえ」と言ってくる(笑)。関係ないというんだ。「戦争が始まったら、憲法も何にも関係ない。いまは戦術的に、北方四島を航空自衛隊の対地戦闘攻撃が攻撃するのは、絶好のチャンスである。攻撃してくれ」と。私は、向こうの第七艦隊司令官とは直接電話でやりとりしないけど、こちらの第三室長と向こうの作戦部長がギャンギャン、ギャンギャン、喧嘩のやり取りよ」(同上、151-2頁)
結局、演習は24時間にわたって状況が中止される事態になりました(同上、152)。その後、どのような状況で再開されたのかについて森は詳細を述べていませんが、極東有事の対処については米軍と自衛隊の考え方で大きな相違があり、さらなる協議と研究を重ねる必要が明らかになったといえます。
このことは、1986年の時点になっても、日米同盟は有事において十分な実効性を確保するには至っていなかったという判断を裏付けるものです。

むすびにかえて
1986年に最初に実施されて以来、演習は指揮所演習と実動演習の方式を入れ替えながら継続されており、今日にまで至っています。当時と比較すると、日米同盟の実効性は着実に向上しており、ガイドラインの改訂などを経て自衛隊と米軍の関係はより緊密なものとなってきました。それゆえ、当時の演習と同じ状況が現実に起きるということは考えにくくなったかもしれません。

しかし、当時の演習で浮き彫りとなった、空母機動部隊の運用に関する問題は、依然として重要です。なぜなら、新たに近代化を進める中国軍は、まさに米空母機動部隊の接近を防ぐための態勢を重視し、この問題の解決をますます難しくしようとしているためです。
森は当時の演習を思い返しながら、2010年代に中国軍のミサイル攻撃の脅威が第七艦隊の来援を阻害する可能性があることを次のように語っています。
「その時、空母というのは極めて弱虫だということがよくわかったよ。対艦攻撃で、船ぐらいミサイルが当てやすい目標はないのよ。対艦ミサイルの射程は、いまや二千海里の対艦ミサイルを中国が開発中でしょう。それが実現するかどうかは知らないけど、二百海里や三百海里の対艦ミサイルは、いま中国空軍は持っているのよね。空母や、怖くて陸地に近寄れないよ。あれはレーダーでも船ははっきり映るし、赤外線ホーミングのミサイルを撃てば、百発百中で行くんだろうね。昔の特攻隊と違って百発百中に近いから、空母はいまや陸地に近寄るのが本当に怖い時代になったと思います」(同上、152頁)
冷戦期から冷戦後にかけて、脅威が及んでくる場所が北海道から沖縄に変わったとしても、日本が直面する戦略上の問題の全てが一新されたというわけではありません。現在の日本の防衛計画は有事において米軍部隊が確実に来援するという大前提の下に組み立てられており、特に第七艦隊がその攻撃的能力を発揮することが期待されています。

しかし、だからといって第七艦隊が敵に対して自在に攻撃的能力を発揮できるかのように見なすことは賢明なことではありません。状況の推移によっては、第七艦隊の接近が阻止されるという事態はやはり検討しておくことが重要ではないでしょうか。

KT

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参考文献
防衛省防衛研究所戦史研究センター編『オーラル・ヒストリー 冷戦期の防衛力整備と同盟政策2 防衛計画の大綱と日米防衛協力のための指針(上)』防衛省防衛研究所、2013年
(冒頭の写真は陸上自衛隊第11旅団HP:http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/index.htmlより)

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