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2016年9月23日金曜日

事例研究 ヒトラーの対外政策に見られる論理とその限界

アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦に敗北し、ドイツに東西分断をもたらしましたが、だからといってヒトラーが政治的に無能だったと一概には断定できません。
1933年にドイツでヒトラーが権力を掌握してから、1939年に戦争が始まるまでの6年間に限定すると、ヒトラーは周辺各国の利害の相違を巧みに利用してドイツの領土を拡張し、その国力を強化することに成功しています。戦争勃発からちょうど6年後にはそれらの成果を全て失ったとはいえ、その対外政策の巧みさに評価すべき要素が含まれています。

今回は、リアリストの立場で研究を行っている政治学者のシュウェラー(Randall L. Schweller)の研究でヒトラーの政策に関する分析を一部紹介しながら、その論理と限界を検討してみたいと思います。

当初から対米戦争を予見したヒトラー
1944年、ノルマンディーに着上陸する連合軍。ドイツが大国としての地位を固めるためには、ヨーロッパでの勢力圏を確固としたものにするだけでなく、対米戦争で持久戦を遂行できるだけの国力がドイツに必要と考えられた。
ヒトラーが採用した対外政策の最大の特徴は、武力を背景とした威嚇や攻撃を駆使し、ドイツの領土、勢力圏を短期間の内に拡張していった点にあります。ただし、ヒトラーは最初から国家政策の全てをやみくもに武力に頼り切っていたわけではありません。

著者の見解によれば、ヒトラーはいくつかの段階を踏んでドイツの勢力を拡大しようと図ってきたとされています。つまり、ドイツの再軍備とイギリス、イタリアとの外交関係を強化する段階、少なくともイギリスの中立的立場、可能であれば協力的立場を得ながら、その軍備によって周辺諸国に短期決戦を挑み、各国の軍事的、経済的資源を獲得していく段階、地理的に最も近接する大国であるソ連と戦い、短期間で決着をつけることで米国が介入してくる事態を回避する段階、そしてヨーロッパにおけるドイツの大国としての地位を確固としたものするために、米国の勢力に対して抵抗する段階、という方針が考えられていたのです(Schweller 1998: 93)。
「1925年に『我が闘争』で打ち出された「段階的計画(Stufenplan)」というヒトラーの構想の起源は、ビスマルクとヴィルヘルムの時代にまでさかのぼることができる。19世紀後半まで、ドイツ人の地政学研究者はドイツが世界で大国としての地位を得るために二段階の計画を提案してきた。それは、第一に大陸で拠点を構築し、第二に海を渡って植民地を拡張する、というものである。この二段階に加えて、ヒトラーは第三の段階を付け加えた。それはヨーロッパ大陸と北米大陸との覇権戦争であり、これがドイツの世界支配を終わらせることになったのである」(Ibid.: 94)
著者が指摘しているように、ヒトラーの政策はヒトラーの独創であったわけではなく、近代ドイツの歴史において繰り返されて来た行動を基本にしたものではありました。しかし、従来のものと決定的に異なっていた部分もあり、それが対米戦争の構想でした。

著者はヒトラーは1939年1月の時点で「米国と戦うことになれば、我々ができる最善のことは、最後の瞬間まで抵抗し続けることである」と述べていたことを紹介し、一連の政策は対米作戦で持久戦を成功させることを念頭に置いたものであったという考え方を示しています(Ibid.: 96)。しかし、対米戦争に準備するとなれば、ドイツが確保すべき勢力は極めて大規模となるため、他国の資源を奪ってくる以外に方法はありえません。だからこそ、ヒトラーは積極的、攻撃的な政策を採用したのではないかと考えられるのです。

同盟によって分断し、電撃戦で征服する
ヒトラーの対外政策では同盟が重要な役割を果たしていたが、それは潜在的な敵国を外交的に孤立させる目的で使用されていた。対ドイツの仏ソ同盟が構築されていたのに対して、ドイツは日本とイタリアとの間で同盟関係を形成し、対ソ封じ込めに利用した。これはドイツの西方進出にソ連が介入することを防止する上で重要な措置だった。
さらにヒトラーが採用した対外政策の特徴を分析すると、武力を背景とした段階的現状打破を成功させるために、第三国の介入を防ぐことを外交的に重視していたことが分かります。
先ほど述べたような段階を踏んでドイツの勢力を拡大しようとしても、現状維持の立場に立つ国々が一致団結してしまえば、ドイツはそれだけ苦しい戦いを強いられることになります。したがって、可能な限り多くの現状維持の国々を外交的に孤立させ、我が方の行動の自由を拡張し続けることが重要です。

そのためヒトラーはドイツと同じく現状打破を狙う国々との同盟を強化しなければなりませんでした。実際、ヒトラーにとって幸いなことに、ドイツはハンガリー、ブルガリア、イタリア、そして何よりも重要なソ連との間で外交関係を強化することに成功しています(1939年の独ソ不可侵条約)。
著者はこれらの国々の政策がジャッカル型(つまり、優勢な勢力に追従しながら自国にとって有利な形で現状打破を狙う政策)のバンドワゴニングだと判断しており、ドイツとの衝突を避けながら自国の国益を増進する現状打破が可能でした(Ibid.: 103)。
著者は攻撃的な目的を持った同盟がヒトラーの政策において重要であったことを次のように説明しています。
「修正主義の国家Aが国家B、C、D、Eと別々に取引をすると想定しよう。それら取引によってAは5単位の利得を獲得し、Aと友好関係を持つ国々はそれぞれ7単位の利得を得るとする。個々の協力関係において、Aは相手に対して自国が2単位だけ少ない利得を得ることになる。しかし、全体として見れば、Aは絶対的な利得を20単位も増進させることになる。もしAが他国同士が取引してAを疎外することを防ぐことができれば、Aは他のそれぞれの友好国に関しては13単位の相対的な利得を得ることになり、さらに協力関係をまだ持っていない他の国々(F、G、Hなど)との取引によって20単位の利得を得ることにもなる。これは分割と征服(divide-and-conquer)という古典的な戦略である」(Ibid.: 103-104)
他国を自らの陣営に取り込み、また各国同士が協力して自国に反抗する事態を未然に防止するためには、個別に同盟関係を構築する方策が有効です。ドイツはこの種の攻撃的同盟を貿易によって構築しており、特に東ヨーロッパ諸国に対するドイツ系資本の進出はドイツの対外的影響力の拡大に寄与しました(Ibid.: 104)。
こうした政策を採用するドイツにとって独ソ不可侵条約は最良の一手であり、ドイツ東方の安全を確保できれば、あとはその勢力を西方に指向し、電撃戦によって個々の戦争を短期間に決着させることに集中するだけでよくなります。

むすびにかえて
ここで示した著者の見解が妥当ならば、ヒトラーの対外政策は単に軍事力で相手を圧倒するだけのものではありません。攻勢に出る前に相手を外交的に孤立させておくことの重要性をヒトラーなりに認識していたと考える必要があるでしょう。そして、条件が整ったならば、対外戦争によって敵を一つずつ排除し、その間に第三国が軍事的に介入するリスクを最小限に抑制する必要にも気が付いていました。この論理の道義的評価は保留しておくとして、政治的、外交的観点から考えるのであれば、一定の合理性が認められます。

とはいえ、歴史はヒトラーの政策には限界があったことも私たちに示しています。
ドイツが単独で対米戦争を遂行できるほど強大になるためには、少なくとも二つの条件を満たさなければなりませんでした。一つは西ヨーロッパ地域をドイツの勢力圏として組み入れること、第二にソ連を早期に打倒することです。
しかし、1949年8月に本格化したブリテンの戦いではイギリス軍の抵抗を受けて上陸作戦を断念することを余儀なくされました。さらに決定的だったのは1941年に開始した独ソ戦での攻勢の頓挫であり、ドイツ軍の攻勢はモスクワを目前としながらもソ連軍の抵抗により失敗しました。さらに日本の対米開戦を受けて米国が戦争に加わったことにより、もはやヒトラーの政策目標は達成不可能となったのです。

後知恵になりますが、ヒトラーの対外政策の問題点を改めて見直すと、それは各段階における成功が電撃戦の完遂に依存しすぎていたことだと私は考えます。戦争は始めることが容易でも、終わらせることが非常に難しい政策手段です。戦争が一旦長期化すると、際限なく国力は戦闘に費やされていき、国家の成長機会は失われ、しかも第三国の介入リスクは増大してしまうのです。

KT

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参考文献
Schweller, Randall L. 1998. Deadly Imbalances: Tripolarity and Hitler's Strategy of World Conquest, New York: Columbia University Press.

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