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2016年9月13日火曜日

事例研究 デタントの裏側で進んでいたソ連の軍備増強

国家と国家との関係は多かれ少なかれ利害対立の上に成り立っているものです。国際政治の舞台では、表向きでは友好的な態度を取っている間でも、その背後ではあらゆる手段を最大限に駆使して自国の国益を少しでも増進させようと、互いにしのぎを削っているものと考えなければなりません。
このことを理解する上で参考になる事例が1970年代に米ソ間で活発に行われた軍備管理の事例です。

今回は、1970年代に米ソ両国の首脳が軍備管理のために払った外交努力がどのようなものであったのかを振り返り、その一方で米ソ間の勢力関係がどのように推移していたのかを考えてみたいと思います。

緊張緩和における軍備管理の進展
1973年の米ソ首脳会談の様子、左がブレジネフ、右がニクソン
冷戦の歴史において1970年代は緊張緩和(デタント)の時代と位置付けられています。確かに、この時期に米ソ関係の様相は大きく変わりました。米ソ首脳会談を毎年のように実施することを通じて、信頼関係を構築し、外交交渉によって偶発的な武力衝突の危険性を除去し、また相互に保有する軍備を制限し合う動きが見られました。

一例として、1973年7月22日に署名された「核戦争防止協定(Agreement on the Prevention of Nuclear War)」は米ソ両国の軍事行動が核戦争にエスカレートする危機的状況を回避することを目指したものであり、デタントの時期にまとめられた重要な外交的成果の一つと言えます。
また核兵器の保有量に関する規制に関しても戦略兵器制限交渉(Strategic Arms Limitation Talks, SALT)で成果が見られました(宮坂 「軍備管理・軍縮」137頁)。
1972年から5年間有効とされたSALT-1暫定協定において、戦略兵器と区分された大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、長距離爆撃機(BBR)に搭載する核爆弾という3種類の兵器体系については、米ソ双方が数的な規制を受けることになりました。詳細としては、ICBMは米国が1054基、ソ連が1618基、SLBMは米国が710、ソ連が950、BBRは規制なし、検証技術手段(偵察衛星による相互監視)も容認されています(同上、138頁)。

このSALT-1暫定協定と同時に対弾道ミサイル(Anti-Ballistic Missile)システム制限条約(ABM条約)が締結されたことで、米ソ両国は首都圏と1基のICBM基地を例外として原則的にABMの配備を禁止します。こうしておけば、米ソ双方ともに相手の核攻撃で確実に被害が生じることが予測されるため、抑止が機能することが期待されていました(同上、138頁)。

このような一連の外交努力によって、核戦争の危険性を除去し、戦略核兵器を規制することができたことは、米国の政策が変わっただけでなく、当時のソ連の外交姿勢が協力的だったことも関係していました。1964年に成立したブレジネフ(Leonid Brezhnev, 1907-1982)政権は、1971年の第24回党大会で「共産主義建設のために平和が前提である」との情勢判断に基づき「平和共存」を主張しています。これはベトナム戦争に勢力を集中させなければならなかった1975年までの米国にとっても好都合だと考えられましたが、ブレジネフは緊張緩和の裏側で次の一手を見据えた政策を遂行することを忘れていませんでした。

緊張緩和における核戦力の増強
1969年に初めて配備されたヤンキー級原子力潜水艦(水中排水量10,100トン)、ソ連は1970年代にSLBMを戦略核戦力の要として重点的に整備するようになった。
1970年代初頭、ソ連の戦略核戦力の態勢はSLBMで米国に大きく後れていたため、ブレジネフ政権としてこの不利を挽回する必要がありました。
緊張緩和に入る前の1960年代に、米国はSLBMのUGM-27「ポラリス」をすでに配備しており、1967年までには計画通り41隻656基体制を完成させていました。しかし、ソ連がSLBMを搭載したヤンキー級原子力潜水艦を配備するのは1969年以降であり、それまでは通常動力のゴルフ級、ホテル級潜水艦を就役させていたに過ぎませんでした。通常動力の潜水艦は原子力の潜水艦と比べて、長期間の潜航ができないという欠点があります。

1970年代においてソ連はこのSLBMの領域における不利を挽回するために努力を重ね、ヤンキー級原子力潜水艦を増勢しただけでなく、1972年には水中排水量10,000トンを超えるデルタ級原子力潜水艦を就役させています。このようにソ連は米国に対する劣位を解消するため、核戦力態勢を質で追い上げようとしましたが、量の拡張も手抜かりはありませんでした。
1970年代において米ソ間の戦略核戦力の均衡がどのように変化したのかを示したのが次のグラフです。
1970年版から1980年版のMilitary Balanceのデータを参照し、筆者作成
米ソで戦略核戦力に該当する兵器体系の保有量がどのように推移したのかを見ると、米国はICBM(大陸間弾道ミサイル)、SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)、BBR(長距離爆撃機)の保有量で大きな変化は見られません。1970年代の米国はベトナム戦争の戦局を好転させるために手一杯の状況であり、通常戦力の増強の方が重視されやすい傾向にありました。
ソ連はICBMをやや減勢していますが、BBRの保有量を維持している傾向が分かります。また注目すべきがSLBMであり、これは一貫して増強していることが読み取れます。1973年以降には米軍の保有量を超えており、1978年には米軍のICBMに匹敵する保有量を実現しています。

また、上記のグラフで取り上げていませんが、ソ連は1974年から1980年にかけて、戦域核兵器の増強にも尽力しています。1974年に配備した中距離爆撃機バックファイア、1977年に配備したSS-20は1980年代の軍事情勢にも大きな影響を及ぼした兵器体系ですが、これらもこの時期に開発、配備されたものです。これら新たな脅威に対抗するため、西側諸国でもパーシングⅡ型やトマホークの開発がすすめられましたが、それは1970年代の末のことであり、ソ連に開発競争で後れを取ることになりました。
こうした流れの中で1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻があり、米ソ間の緊張緩和は終わり、新冷戦と呼ばれる時代に突入していったのです。

むすびにかえて
1970年代の米ソ関係の特徴として、二面性を指摘することができます。一方では共に手を取り合って平和な世界で共存する道を模索し、軍備管理を通じて核兵器を相互に規制する姿勢を示していました。もう一方ではソ連はSLBMの劣位を挽回するためにあらゆる手段を講じており、1980年代になるまでには態勢を立て直し、さらに一部の技術領域においては米国よりも先行することさえ実現していたと言えます。この時期に配備した戦域核兵器は1980年代の新冷戦におけるソ連の戦略にとって極めて重要な意味を持つ装備でした。

これは一見すると矛盾した政策であるかのようにも思われますが、そもそもソ連が米国と「平和共存」を模索し、軍備管理を積極的に推進していた実際の動機は、ソ連軍の戦力態勢を立て直す時間的猶予を確保するためであったのではないかと考えれば、一概に矛盾した政策と断定することはできません。むしろ、これは軍事上の不利を外交上の方策によって挽回した優れた政策とさえ評価できるかもしれません。とはいえ、ブレジネフの国内政策での行き詰まりを総合して考慮すると、諸説ある論点なので、政策の評価については留保しておきましょう。

さしあたって私たちはこの事例から次のことを学ぶことができるかもしれません。外交の舞台で示される友好的発言や協力的意図だけで、国家と国家の真の関係を判断することは不確実であり、場合によっては危険でさえあります。見せかけの平和共存に振り回されないためには、その国家がどのような能力を持っているかに注意すべきという原則に立ち返ることが求められます。

KT

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参考文献
宮坂直史「軍備管理・軍縮」防衛大学校安全保障学研究会編著『新訂第四版 安全保障学入門』亜紀書房、2011年、133-160頁
The Military Balance, London: International Institute for Strategic Studies.

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