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2016年9月30日金曜日

論文紹介 米ソ決戦における米海軍のASW戦略

現代の世界において潜水艦が果たしている戦略上の役割は極めて大きなものであると言わなければなりません。
潜水艦発射弾道ミサイルが開発されて以降、特に原子力で推進する潜水艦については、敵の政経中枢を核攻撃する主要な手段として位置付けられるようになりました。弾道ミサイルを搭載していない潜水艦についても、潜航可能な距離が延伸されており、こうした特性を活用することは戦略上重要な意味を持っています。

今回は、ソ連の潜水艦部隊が著しく増強され、米国の脅威となっていた1980年代の軍事情勢を踏まえ、戦略の観点から米海軍の潜水艦隊を有事においてどのように運用すべきかを研究した論文を紹介したいと思います。

文献情報
Stavridis, James. G. 1987. "Creating ASW Killing Zones," Proceedings, 112: 38-42.

ソ連の潜水艦の脅威と米国側の戦略構想
この論文が出されたのは、1986年に米国が戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative, SDI)を発表し、ソ連を軍事的に封じ込める姿勢を明確に打ち出した直後のことでした。当時の米海軍は海洋戦略(Maritime Strategy)の構想に従って、攻勢的な海上戦力の態勢を充実させることに努力しており、ソ連に対する海上での圧力を強めようとしていました。しかし、ソ連海軍は1970年代から増強を重ねてきた潜水艦部隊をもって、こうした圧力に対抗していました。

著者はこうした状況を理解し、米海軍で対潜戦闘(Antisubmarine Warfare, ASW)が今後の海上作戦で最も重要な要素であると考えていました。論文でも「ソ連の潜水艦戦略は原子力攻撃潜水艦(SSN)、原子力巡航ミサイル潜水艦(SSGN)に対する障壁作戦と原子力弾道ミサイル潜水艦(SSBN)に対する高度に攻勢的なASWの活動を組み合わせることが求められる」と述べています。

ここでの障壁作戦とは、広く解釈すれば海上封鎖に近い意味を持つ構想であり、言い換えれば交通上の重要な海面において、各種センサーと兵器体系を展開し、ソ連の潜水艦の位置をいち早く察知し、これを確実に撃破するという構想です。このような阻止線を構成できれば、確かにソ連海軍の潜水艦を一部の海域に閉じ込めておくことは可能になると考えられます。
しかし、このような戦略を実行に移す場合には、世界各地の海域のどこを重視するのか、言い換えれば、どこでソ連海軍の進出を食い止めるのかという点が問題でした。

ソ連の可能行動の分析と作戦地域の区分
北極圏は北極海が中心であるが、ベーリング海やノルウェー海も含まれており、冷戦構造の下では米ソの勢力圏が最も近接している海域として戦略的に重要であった。著者もここをレッド・ゾーンとして区分し、有事には敵のSSBNを撃破する攻勢作戦を実施することを構想している。
そもそもソ連海軍が戦時に入ったならば、どのような行動を取ると考えられるのでしょうか。非常事態における潜水艦の運用は高度な軍事機密に属する事柄ではありますが、著者は次のような可能行動が考えられると述べています。
「ソ連は護衛のための1隻か2隻のSSNもしくはSSGNを伴わせて、SSBNを外海に派遣する。このことはSSNを刻々と捕捉されないようにするだけでなく、同盟国の軍艦や商船を自在に攻撃することを可能にする。ソ連は60隻以上のSSBNを保有し、おおよそ120隻のSSNとSSGNを持っている。これだけの戦力があれば、このような戦略を容易く実行することは十分に可能である。前方に配置されたSSNとSSGNの柔軟性を確保するために、ソ連はこれらの潜水艦を用いれば、空母戦闘群(CVBG)や同盟国の海上連絡線(SLOC)に対する攻勢に出ることも可能であり、またSSBNを護衛するような防勢も可能である」
著者は、さらにディエゴ・ガルシア、スービック湾、ロタ、ホーリー・ロッホといった米軍の主要な基地に対して攻撃を加えるために、ソ連がSSGNを使用する可能性についても指摘しています。潜水艦についてはさまざまな運用が可能ですが、著者はソ連の可能行動に対処するためにはASW戦隊の運用が重要であると考えましたが、それを全般的に配備するような考え方ではなく、特定の地域に重点を置く態勢が望ましいと考えました。

著者の見解によると、最も重視すべき海域は北極海、北海、バレンツ海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海、オホーツク海とされており、これらの海域はソ連が核攻撃能力を確保するために、SSBNを展開する公算が大きいと判断されています。その戦略的な重要性からレッド・ゾーン(red zone)に区分されています。
次に重視すべきとされている海域は日本海、ベーリング海、グリーランド・イギリス間の海面、そしてボーフォート海です。ここではソ連がレッド・ゾーンに進出を図る米国のCVBGを撃破するため、ソ連のSSNなどが活発に活動すると見られています。著者はこれらをオレンジ・ゾーン(orange zone)と呼んでいます。
最後に重視すべき海域が米国と同盟国のSLOCを構成する海域であり、具体的には北太平洋、北大西洋、インド洋、南シナ海が含まれます。ソ連のSSNなどが商船に対して攻撃を仕掛けることや、基地に対する直接的な攻撃もこうした海域で実施されるものとされており、著者はイエロー・ゾーン(yellow zone)と呼んでいます。

作戦地域の特性に応じたASW戦力の運用
長時間の飛行が可能であり、かつ旋回性能に優れた対潜哨戒機は現在のASWの基本的手段である。潜水艦を捜索し、発見すれば魚雷や爆雷によって攻撃する能力を備えており、著者はイエロー・ゾーンで運用すべきと主張している。
このように作戦地域を区分することによって、著者はそれぞれの地域の特性に応じた戦力の運用が促進されると考えました。
例えば、米海軍が平時にレッド・ゾーンに艦艇を派遣する場合にはSSBNを使用し、オレンジ・ゾーンでは長距離哨戒機、そしてCVBGとASW戦隊はイエロー・ゾーンにおいて使用します。ただし、同盟国のASW部隊はそれぞれのゾーンに特定の割合で配備するものとします。有事には米国のSSNでイエロー・ゾーンとオレンジ・ゾーンの敵の脅威を一掃し、レッド・ゾーンに我の部隊を進出できるようにしておくのです。

しかし、具体的な作戦行動はどのようなものになるのでしょうか。
著者は米ソ開戦に至った場合に考えられるシナリオとして、著者は第一段階として戦争への移行、第二段階として主導権の獲得、第三段階として敵との戦闘の遂行を考えています。

第一段階では米国のSSNがイエロー・ゾーンとオレンジ・ゾーンの敵を捜索し、オレンジ・ゾーンで敵と接触した場合には長距離哨戒機に引き継ぎ、また同地に配備するASW戦隊(タイコンデロガ級1隻とスプルーアンス級2隻、オリバー・ハザード・ペリー級2隻で編成)で警戒に当たります。もし使用が可能であればCVBGもイエロー・ゾーンに展開しておき、ソ連のSSNとSSBNの基地に攻撃を加える準備を整えます。

第二段階に移ると、ソ連のSSNとSSBNの作戦計画について評価した上で、国家政策レベルでの決定を下し、レッド・ゾーンで対潜戦闘を開始します。同時にオレンジ・ゾーンで捕捉しておいたソ連のSSN全てをASW戦隊で攻撃し、CVBGについては敵のSSBNの基地であるウラジオストクなどを破壊し、その活動水準を低下させます。こうした一連の初動で敵の潜水艦部隊の主力をどこまで撃破できるかによって、第三段階の展開も大きく変化してきます。

第三段階においてはレッド・ゾーンでの戦闘を継続するか、部隊をオレンジ・ゾーンにまで退却させるかを判断します。この判断はソ連の計画どのように再評価できるのか、レッド・ゾーンでの戦闘がどのように進むのかによって異なります。オレンジ・ゾーンで活動するASW戦隊については長距離哨戒機と連携し、地域ごとに対潜障壁を形成する作戦に移ります。ここからは、まだ捕捉できていないソ連のSSNを捜索する作戦を継続することが主眼となります。

むすびにかえて
日本の防衛という観点からこの論文で興味深いのは、日本の周辺に位置する海域が、米海軍の戦略において重要な意味を持つことが言及されている点です。

レッド・ゾーンに区分されるオホーツク海は北海道の北東方向に位置しており、有事にはここで米国はソ連のSSBNを撃破するための対潜戦闘を実施することも検討していました。オレンジ・ゾーンに区分される日本海、そしてイエロー・ゾーンに区分される北太平洋に至っては、日本列島を取り巻く海域全体が米ソ決戦における重要な作戦地域となることも論じられています。戦略的に重要な位置にある日本が、強力なASW能力を持つことの意義は高く評価されるべきでしょうし、日本がカバーすべきオレンジ・ゾーンの防衛線が脆弱になれば、それだけレッド・ゾーンにおける米海軍の攻勢にも影響が出てくると認識することが重要です。

KT

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2016年9月25日日曜日

論文紹介 裏切られた短期決戦の想定

私たちは自分にとって都合が悪い未来を想定しようとしませんし、それを可能な限り回避しようとする心理が働くものです。これは将来の戦争について考える場合に特にあてはまる事象であり、歴史的には1914年、つまり第一次世界大戦が勃発する前のヨーロッパで広く見られた事象でもあります。というのも、多くの識者や軍人は、第一次世界大戦が短期間で決着するものだと信じていたのです。

今回は、第一次世界大戦が短期決戦で終わるという見通しがどのように形成されていたのかという問題に取り組んだ論文を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。その上で、現代の安全保障環境においても戦争が長期化するというリスクを無視すべきではないことを考えたいと思います。

文献情報
Hambridge, Robert W. "World War I and the Short War Assumption," Military Review, Vol. LXIX, No. 5, (May 1989) pp. 36-47.

普仏戦争とモルトケの影響
古くから軍隊は過去の戦争を戦おうとする、と言われていますが、第一次世界大戦はまさにその一例でした(Hambridge 1989: 39)。つまり、欧米の軍隊では将来戦争が短期決戦になるということが広く予見されるようになり、戦争計画でもそれが当然の想定として受け入れられていったということです。しかし、どうして将来の戦争が短期決戦になると予見されていたのでしょうか。
プロイセン陸軍参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケは普仏戦争で巧みに作戦を指導し、そのことが国内外で高く評価されただけでなく、ヨーロッパ各国でプロイセン軍を一つのモデルとした軍制改革を進める契機をもたらしたことで知られている。
その経緯を理解するためには、19世紀プロイセン陸軍の参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケ(Helmuth von Moltke)が普仏戦争で見せた卓越した作戦指導について知ることが重要です。
「1870年から1871年にかけての勝利によって、19世紀後半の軍事思想におけるヘルムート・フォン・モルトケの遺産は際立っていた。普仏戦争において「動員のためのプロイセンの命令から7週間以内、そして本格的な戦闘開始から5週間以内、攻撃を受けていた東部の要塞に配備された守備隊を例外とすれば、フランスの正規軍は壊滅していた」しかし、モルトケの個人的名声と彼の勝利の偉大さは、後の世代の軍事思想を啓蒙するのではなく、破壊する傾向があった。それは将来の大戦でより重要となるであろうアメリカ南北戦争の教訓を軍事思想家が見過ごす事態をもたらした」(Ibid.)
19世紀の軍人の眼から見れば、プロイセン軍は最も先進的な軍隊の一つであり、モルトケはその思想的権威として捉えられていました。実際、ドイツ国内においても、モルトケの後任者としてドイツ軍の作戦計画の立案に当たったアルフレート・フォン・シュリーフェン(Alfred von Schlieffen)にも、モルトケの影響が見て取れます(Ibid.)。さらに、普仏戦争の敗戦国であるフランスもモルトケの作戦を熱心に研究するようになっていました。
「当然のことながら、普仏戦争の結果はまた、第一次世界大戦前のフランス軍の思想に影響を与えた。フランス人は次の戦争が戦場で敵を撃滅するという一回の戦闘を目標とした国家全体が参加する全面戦争になるだろうと信じていた。何人かのフランス人の研究者は、模範としてドイツ軍を観察し、一般徴兵法の支持者になった。普仏戦争の結果として学んだ教訓は、ナポレオンの戦いの原則と結びつき、第一次世界大戦の勃発前の年月を通じてフランス人の戦術的、戦略的思考に組み込まれた」(Hambridge 1989: 37)
しかし、モルトケが各国の軍人に影響を与えたとしても、それは将来の戦争が長期化しないと見積もった直接的な要因ではなく、あくまでも間接的要因であったと著者は考えています。モルトケの戦争指導をモデルとして見なすことは一つのきっかけであり、より直接的な判断の誤りは別の要因に求めなければなりません。それが戦時財政の問題と攻勢主義の問題でした。

長期戦は不可能であるという固定観念
1900年のパリ万国博覧会、19世紀最後に行われた万博として盛大に実施された。当時の科学と技術の発達、文化と経済の進展は戦争に伴う人的、物的費用を増大させ、戦果から得られる利得を相対的に小さくするものであったため、長期戦争は不可能であり、言論としてもそのような見解が有力であった。
普仏戦争の研究を通じてモルトケの作戦を将来の戦争に再現しようとする軍人にとって、戦争の長期化は想定外の事態というよりも、非現実的な事態として認識されるようになっていきました。そのような認識を強化していたのが戦時財政についての次のような判断でした。
「第一次世界大戦より前のヨーロッパでは、長期戦争が財政的に不可能であるという一般観念が存在していた。大規模な陸軍の動員は参戦国の財政的、経済的な活力を崩壊させると見られていたため、それが紛争の長期化を不可能にすると考えられていた。イギリスでは陸軍元帥のロバーツ卿は日露戦争を終結に導いたポーツマス交渉に日本を向かわせた要因の一つが財政的問題であったと見ていた。エドガー・クラモンド(Edgar Crammond)は『タイムズ』の記事で欧州列強の6カ国が将来の戦争で負担する費用の一日当たりの平均は880万ポンドであり、これは平時の一日当たりの支出の9倍以上であると見積もった。それゆえ、彼は列強の戦争方針は短期の戦争と見積もらなければならない、と結論付けたのである」(Ibid.: 40)
つまり、戦時財政は短期間で破綻する恐れが生じるため、近代国家によって遂行される戦争は必然的に短期にならざるをえないということです。
長期戦争を第一次世界大戦を経験していない人々にとってみれば、こうした経済的要因に基づく説明には説得力がありました。戦争が勃発すれば、人員だけでなく物資や輸送手段などが国家の管理下に置かれることになり、国民生活に広範な影響が生じることは避けられません。
常識的に考えるのであれば、国家が経済を破綻させる危険を冒してまで大規模な対外戦争を推進するとは考えにくく、ましてやそれが何年にも及ぶほど長期化するなど非現実的なことだと思われました。

もう一つの問題は攻勢を極端に重視する軍事思想が台頭していたことです。
著者がここで取り上げているのは、ドイツ軍のシュリーフェンではなく、フランス陸軍元帥のジョゼフ・ジョフル(Joseph Joffre)の事例です。ジョフルは従来のフランス陸軍が受動的、消極的な防勢作戦を重視しすぎていることを疑問視し、攻勢の意義を強調すると同時に、その思想をフランス陸軍の教義として普及させていきました。
「新しく攻勢的な戦闘計画を導入し、フランス軍の首脳部を再編することで、フランス陸軍には新たな自信がもたらされることになった。フランスでは、数的に優勢な敵、たとえドイツ軍であったとしても、活力みなぎる攻撃精神が旺盛なフランス陸軍にかかれば撃破することが可能であると語られた。一部陸軍が関与した集中的な宣伝キャンペーンによって、フランス軍の兵士は部隊の規模にかかわらず、敵に対して優位に立っていると確信するようになった」(Ibid.: 42)
このようなフランスの攻撃精神を重視する考え方は、イギリスの防衛論争にも影響を与えていました。著者は当時イギリスの新聞や雑誌といった媒体では、フランス軍がドイツ軍と戦争になれば、普仏戦争の時のような短期決戦によってフランス軍が勝利を収めるであろうという意見が広められていたことを紹介しています(Ibid.: 43)。

一方のドイツでは東西二正面で作戦を有利に遂行するためには、防勢ではなく攻勢を選択すべきであるという考え方が主流となっていました(Ibid.: 43)。ドイツの状況で特異であったのは、短期決戦に持ち込まないと勝利が望めないという消極的な理由が大きかったということですが、結果としてはフランス軍と同様に攻勢を基本的方針とすべきという意見が有力でした。

各国の状況を一概に単純化することはできませんが、第一次世界大戦を知る前の人々が抱いていた将来戦争の観念はこうしたものでした。今だからこそ楽観的にすぎるとも思われますが、19世紀初頭のナポレオン戦争が1815年に終結してから、ヨーロッパはしばらく平和な時代が続いており、注目に値する武力衝突といえば普仏戦争ぐらいのものだったことを、思い起こさなければなりません。第一次世界大戦が勃発した際にも短期間で決着がつくはずであり、それが長期化するようなことは経済的にも、軍事的にも起こりにくいシナリオだったのです。

むすびにかえて
第一次世界大戦のような戦争はもはや核兵器という絶大な威力を発揮できる兵器体系が登場したことによって、不可能になったという考え方があります。この考え方を支持する人々は、冷戦期において将来の戦争が短期間で決着するはずであると予見していましたが、著者はこうした状況が第一次世界大戦の勃発する前の状況と類似点があると指摘しています。

そもそも核兵器が存在するからといって、戦争それ自体が不可能になったわけではありません。核兵器の使用にエスカレートしない範囲で、通常兵器を用いた限定戦争が長期にわたって継続するという可能性があることを見過ごすべきではありません。
「かつてヨーロッパで戦われた長期にわたる戦争と、将来のヨーロッパで戦われるであろう戦いとの間にある最も顕著な相違とは、核兵器が使用される可能性がある、ということである。将来の戦争がどれほど続くかは核兵器が使用されるかどうかによって判断されるだろう。この結論で設定した明示的想定は、核兵器は使用されないであろうというものである。この想定は必ずしも無効ではない。核兵器はソ連の浸透を阻止するための最後の手段としてのみ使用されるべきである。しかし、そうすることによって、 NATOは、自らが防衛し、また保護すると約束した領土を破壊することになる。またワルシャワ条約機構による核先制使用も、獲得しようとする土地を破壊してしまう。しかも、戦術核戦争よりも大規模かつ破壊的な戦争へとエスカレートするという可能性恐るべき現実となる。したがって、彼我の勢力は、ヨーロッパの戦場においてはいかなる規模であれ、核兵器を使用することに非常に慎重になるであろう」(Hambridge 1989: 46)
将来の戦争の様相を考えることは戦略研究の基礎と位置付けられます。しかし、それは自分にとって都合がよいように空想をめぐらせることであってはなりません。考えられるシナリオをさまざま用意し、それに対して現状の態勢でどこまで対応できるのかを丁寧に検証していくことが重要です。
現代の発達した兵器を使用すれば、たちまち多くの犠牲者が出ますし、そのような戦争は経済的に非合理的な事象なので、そもそも起こるはずもないという議論は、確かにもっともかもしれません。しかし、そうした議論に多くの人々が欺かれた歴史があることを知っておくべきではないでしょうか。

KT

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2016年9月23日金曜日

事例研究 第二次世界大戦におけるヒトラーの外交と戦略

結果的にアドルフ・ヒトラーはドイツを敗北に導きましたが、その政治的手腕を一概に否定することはできません。

戦間期におけるオーストリアの併合やチェコスロヴァキア危機の処理においてヒトラー政権はイギリスやフランスから譲歩を引き出し、国益を増進することができたためです。

今回は、米国の政治学者シュウェラー(Randall L. Schweller)の研究に基づき、第二次世界大戦のヒトラーの政策について考察したいと思います。

対米戦を見据えたヒトラー
1944年、ノルマンディーに着上陸する連合軍。ドイツが大国としての地位を固めるためには、ヨーロッパでの勢力圏を確固としたものにするだけでなく、対米戦争で持久戦を遂行できるだけの国力がドイツに必要と考えられた。
ヒトラーの対外政策の特徴としては、武力を背景とした威嚇や攻撃を駆使し、ドイツの領土、勢力圏を短期間の内に拡張したことが挙げられます。

シュウェラーの見解によれば、ヒトラーはいくつかの段階を踏んでドイツの勢力を拡大しようと図っていました。

第一にドイツの再軍備とイギリス、イタリアとの外交関係を強化する段階があり、そこで少なくともイギリスの中立的立場、可能であれば協力的立場を得ます。

第二に軍備によって周辺諸国に短期決戦を挑み、各国の軍事的、経済的資源を獲得していく段階があります。

これは地理的に最も近接する大国であるソ連と戦い、短期間で決着をつけることで米国が介入してくる事態を回避する段階の準備でもあり、最後にヨーロッパにおけるドイツの大国としての地位を確固としたものするために、予想される米国のヨーロッパ進攻に抵抗する段階がきます(Schweller 1998: 93)。
「1925年に『我が闘争』で打ち出された「段階的計画(Stufenplan)」というヒトラーの構想の起源は、ビスマルクとヴィルヘルムの時代にまでさかのぼることができる。19世紀後半まで、ドイツ人の地政学研究者はドイツが世界で大国としての地位を得るために二段階の計画を提案してきた。それは、第一に大陸で拠点を構築し、第二に海を渡って植民地を拡張する、というものである。この二段階に加えて、ヒトラーは第三の段階を付け加えた。それはヨーロッパ大陸と北米大陸との覇権戦争であり、これがドイツの世界支配を終わらせることになったのである」(Ibid.: 94)
さらにシュウェラーはヒトラーが1939年1月の時点で「米国と戦うことになれば、我々ができる最善のことは、最後の瞬間まで抵抗し続けることである」と述べており、これら一連の政策がすべて対米戦で持久戦を成功させるためだったと考察しています(Ibid.: 96)。

しかし、ドイツに準備するとなれば、ドイツが確保すべき勢力は極めて大規模となるため、他国の資源を奪ってくる以外に方法はありえません。

それゆえ、ヒトラーは当初から攻撃的な政策を採用したとも考えられています。

同盟によって分断し、電撃戦で征服する
ヒトラーの対外政策では同盟が重要な役割を果たしていたが、それは潜在的な敵国を外交的に孤立させる目的で使用されていた。対ドイツの仏ソ同盟が構築されていたのに対して、ドイツは日本とイタリアとの間で同盟関係を形成し、対ソ封じ込めに利用した。これはドイツの西方進出にソ連が介入することを防止する上で重要な措置だった。
さらにヒトラーが採用した対外政策の特徴を分析すると、現状打破を成功させるために、第三国の介入を防ぐことを外交的に重視していたことが分かります。

先ほど述べたような段階を踏んでドイツの勢力を拡大しようとしても、現状維持の立場に立つ国々が一致団結してしまえば、ドイツはそれだけ苦しい戦いを強いられることになります。

したがって、可能な限り多くの現状維持の国々を外交的に孤立させ、我が方の行動の自由を拡張し続けることが重要となってきます。

そのためヒトラーとしてはハンガリー、ブルガリア、イタリア、そして何よりも重要なソ連との間で外交関係を強化することを重視していました(1939年の独ソ不可侵条約)。

シュウェラーはこれらの国々の政策がジャッカル型(つまり、優勢な勢力に追従しながら自国にとって有利な形で現状打破を狙う政策)のバンドワゴニングだったと判断しており、これらの国々の力がなければヒトラーの政策は行き詰まっていたとされています(Ibid.: 103)。

つまり、この同盟はヒトラーの「分断と征服」の戦略を表しており、現状打破の古典的な戦略をヒトラーが採用していたことを示唆しています。
「修正主義の国家Aが国家B、C、D、Eと別々に取引をすると想定しよう。それら取引によってAは5単位の利得を獲得し、Aと友好関係を持つ国々はそれぞれ7単位の利得を得るとする。個々の協力関係において、Aは相手に対して自国が2単位だけ少ない利得を得ることになる。しかし、全体として見れば、Aは絶対的な利得を20単位も増進させることになる。もしAが他国同士が取引してAを疎外することを防ぐことができれば、Aは他のそれぞれの友好国に関しては13単位の相対的な利得を得ることになり、さらに協力関係をまだ持っていない他の国々(F、G、Hなど)との取引によって20単位の利得を得ることにもなる。これは分断と征服(divide-and-conquer)という古典的な戦略である」(Ibid.: 103-104)
また著者はドイツはこの種の攻撃的同盟を貿易によって構築していたことも述べており、特に東ヨーロッパ諸国に対するドイツ系資本の進出はドイツの対外的影響力の拡大に寄与していました(Ibid.: 104)。

むすびにかえて
ここで示した著者の見解が妥当ならば、ヒトラーの対外政策は単に軍事力で相手を圧倒するだけのものではありませんでした。

攻勢に出る前に相手を外交的に孤立させておくことの重要性をヒトラーなりに認識していたと思われるためです。

対外戦争によって敵を一つずつ排除する慎重さと、第三国が軍事的介入を行うリスクを最小限に抑制する用心深さがありました。

少なくとも第二次世界大戦におけるヒトラーの政策は政治的、外交的観点で見れば一定の合理性があったと認められます。

しかし、ドイツが当初から予見していた対米戦を遂行するには、西ヨーロッパ地域をドイツの勢力圏に完全に組み入れ、かつソ連を早期に打倒することが必要でした。
1941年の独ソ戦の行き詰まりによって、この条件が満たせなくなった時点で、ヒトラーの計画は破綻していたといえます。

KT

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参考文献
Schweller, Randall L. 1998. Deadly Imbalances: Tripolarity and Hitler's Strategy of World Conquest, New York: Columbia University Press.

2016年9月19日月曜日

論文紹介 即応展開部隊(RDF)とウォルツの中東戦略

湾岸戦争で退却するイラク軍の部隊が破壊したクウェートの油田。湾岸地域は特に産油国が集中している地域であり、原油の取引を通じて世界経済に与える影響も大きく、米軍の戦略でも重要な地域と見なされてきた。
冷戦期に米軍が中東地域の重要性を認識するきっかけとなったのは、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻でした。
当時、米軍は中東地域に十分な規模の部隊を配備しておらず、事態の急変に対応できないことが懸念されていました。1979年9月1日に米上院外交委員会では中東地域におけるソ連軍の脅威に対応するため、即応展開部隊(Rapid Deployment Force, RDF)の創設が提案されており、この提案が受け入れられて1980年3月1日にRDFの設置に至ります。

RDFは中東における米軍のプレゼンスを強化する重要な一歩でしたが、十分な議論が尽くされないまま設置された側面もあり、政治学者のケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)はRDFの戦略が不明確、曖昧なまま残されていることを懸念していたのです。
今回は、こうした状況でウォルツがRDFの戦略について、主に軍事的観点から検討した論文を紹介したいと思います。

論文情報
Waltz, Kenneth N. 1981. "A Strategy for the Rapid Deployment Force" International Security, Vol. 5, No. 4, pp. 49-73.

中東でRDFが必要となる理由を考える
ケネス・ウォルツ(1924-2013)は米国の政治学者
国際政治の理論、ネオ・リアリズムを確立した研究者として世界的に知られている。
この論文でウォルツが最初に指摘していることは、米国がRDFを必要とすることは明らかであるものの、具体的にRDFにどのような任務を、いかに遂行させるのかという戦略が不明確なままになっている、ということでした。

当時の計画によれば、RDFに配属される兵力は、陸軍3個師団、海兵隊3個師団、レンジャー2個大隊、特殊部隊を主力としつつ、空母3個任務群(太平洋と大西洋に6隻ずつ展開している空母任務群から抽出)、数個飛行隊(戦闘機飛行隊40個を本土、30個を西欧、10個を北東アジア)をふくめることが予定されており、緊急展開の兵站支援を目的とする海上事前集積船14隻の整備も含めて、1980年代半ばまでに態勢を完成させることになっていました。

しかし、著者はこの戦力を使用することで米国が達成したい目標は何か、それを達成するための具体的な戦略がどのようなものかについては十分に議論されていないことを懸念していました。
「米国がベトナムで得た教訓とは、米国が海外において軍事的に干渉すべきだということでも、すべきでないということでもない。そうではなく、三つの条件が満たされる場合に限って我々は軍事的な介入を行うべきである、ということである。すなわち、核心的利益が危険に晒されていること、非軍事的手段が核心的利益を保全できないこと、そして武力の使用により我々の目的が達成できると期待できることである」(Waltz 1981: 49)
著者はソ連の活動が無条件に米国の国益を侵害するものと決めつけてかかることは危険なことであるとも述べており、もしソ連が中東で政治的、軍事的活動を活発化させるからといっても、それが直ちに米国の死活的利益を脅かすものと見なすべきではないと述べています(Ibid.: 50-51)。実際、米国経済は中東の原油に必ずしも依存しているわけではなく、ソ連が中東で支配権を拡大したとしても、それだけで米国が経済的に行き詰まるとはまでは著者は断定していません(Ibid.: 51)。

しかし、視野を米国だけではなく、世界全体に広げると、事情は変わってきます。中東の特に湾岸諸国は全世界の35%に当たる原油を供給しており、この数字は非共産圏に限定すると45%にまで跳ね上がるという統計もありました(Ibid.: 52)。中東地域でソ連の軍事行動を抑止できず、中東諸国の原油供給が滞る事態に至れば、米国と同盟、友好関係を持つ多くの西側諸国が経済的危機に直面する可能性があったのです(Ibid.: 53)。
「他国でも果たせる役割はさておき、米国は以下の3種類の脅威に対処する準備を整えているべきである。すなわち、原油の供給と輸出に大きな影響をもたらすOPEC諸国に対する禁輸、地域的混乱に起因する原油の供給と輸出への攪乱、軍事的攻撃・破壊工作、以上の3点である」(Ibid.)
ここで重要なポイントとは、RDFの任務はソ連軍に対して勝利を収めることではない、ということです。中東諸国が以前と同様に原油を世界各地に供給し続けていれば、RDFの目的は達成されていると言えるのです。このように著者はRDFの任務を分析した上で、次にどのような戦略を採用することが最良なのかをを検討しています。

RDFは「トリップワイヤー」として考えるべき
アフガニスタンの首都カブールで警戒に当たっているソ連軍の部隊、歩兵戦闘車BMD-1に乗車している。中東地域におけるソ連軍は機甲師団、機械化歩兵師団を陸路だけで戦略機動させることが可能であるため、海路、空路に頼らざるを得ない米軍は有事の際には極めて不利な状況に置かれることが予測されていた。
著者の見解によれば、RDFの任務は中東地域においてソ連軍を打ち負かすことであってはなりません。とはいえ、中東地域でソ連軍が発揮しうる軍事力の水準に見合った兵力を保持することは重要です。そこで著者は中東地域におけるソ連の軍事的優位を次のように考察しています。
「ソ連の主たる優位は以下の通りである。
距離:ペルシア湾は米国から7,100マイル離れているが、ソ連からは1,100マイル程度しか離れていない。
指向可能な兵力:米国は97,700名の陸軍と海兵隊の部隊をRDFに配属させており、そこには空挺師団1個を支援できる後方支援部隊と、3個海兵旅団を支援できる航空機、後方支援部隊が含まれている。ソ連はイランの北部国境地帯に80,000名から90,000名の9個師団、さらにコーカサス、トランスコーカサス、トルクメニスタンの軍管区には、合計で約200,000名から成る23個の機械化歩兵師団が航空支援を受けられる態勢で配備されている。米国は空挺師団1個、空中機動師団1個、合計で33,200名の部隊を保有しているが、ソ連は49,000名から成る空挺師団7個を保有している。
時間:ウォルフォウィッツの報告書によれば、米国は30日でイランに20,000名の部隊を展開できるが、ソ連は同じ時間で同地に100,000名以上の部隊を展開できると推計されている」(Ibid.: 59)
中東地域における米ソ間の勢力を比較してみると、空間的、勢力的、時間的観点のいずれにおいても米国はソ連に対して不利である、と著者は見ていました。当時のソ連はアフガニスタンを軍事的に占領していたものの、湾岸諸国にまで部隊を前進させることができていませんでした。アフガニスタンから湾岸地域まではおよそ700マイル以上の距離があり(Ibid.: 60)、また山地などの自然障害も少なくありません。
1980年代の国際情勢を示した世界地図。米ソ間の勢力圏が直接的に接触しているのは欧州、極東であるが、1970年代末から中東の情勢が変化し、またソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことで、米国と同盟、友好関係にあるパキスタン、サウジなどの諸国の防衛が米軍の世界戦略で問題となった。
こうした戦域の地理的特徴を活用しながらソ連軍に対して遅滞戦闘を行うべきとする意見もあったのですが(Ibid.: 64)、消極的、受動的な作戦だけで軍事的に優勢な敵の侵攻を阻止することは困難です。より現実的なRDFの戦略として、著者は抑止戦略、具体的には対ソ報復のトリップワイヤ―として考える方が望ましいと述べています。
「抑止者は報復の理由を必要とし、米国にはその理由が十分にある。要旨者はまた報復のための攻撃目標を必要とする。もしソ連がペルシア湾における油田を封鎖した際には、報復こそが抑止の信頼性を確保する。しかし、工作員が原油の供給を止めれば、我々は誰を攻撃するのだろうか。この問題への解答は、トリップワイヤーとして機能するために必要な部隊の範囲を定義することを助けてくれる。トリップワイヤ―としての部隊に防衛を依存することは、人々を不安にさせることである。より大規模な部隊があれば、我々はより安全であるという気分になるかもしれない。しかし、それは強調したい論点とは、そのワイヤーが不正規な方法でしか突破できないように十分な戦力規模を持っていなければならない、ということである。そして、これが米国に報復のための攻撃目標を付与し、抑止力が機能するための条件を確立するのである」(Ibid.: 67)
中東のRDFだけではソ連軍の侵攻を食い止めることはできませんが、ソ連軍が米軍と戦闘状態に入ったという事実があれば、米国はソ連軍に対する報復として、さらにレベルの高い軍事行動に移ることが可能となります。

ただし、原油供給の途絶が危機的状況に瀕しない限り、安易にRDFを動かすべきではありません。なぜなら、RDFとは「原油部隊(oil force)」であって(Ibid.: 71)、その任務はあくまでも米国にとって死活的利益である原油がソ連の支配下に落ちることを防ぐことにあるためです。それ以外の目的で運用し、兵力を増強するようなことは戦略的に必要なこととは必ずしも言えず、また望ましいことでもないと著者は考えていました。

むすびにかえて
著者の見解は、冷戦初期に欧州正面で北大西洋条約機構の兵力が不完全であった頃に交わされた「トリップワイヤ―」の議論を、ほとんどそのまま1980年代の中東情勢の戦略に応用したものだと言えるでしょう。
いざ戦争になればたちまち撃破されてしまうほど小規模な兵力であったとしても、それが無意味というわけではありません。それを引金としてさらにレベルの高い軍事行動を取り、敵に報復する攻撃的能力があれば、潜在的な侵略者に対して抑止効果が期待できる、と戦略的には考えることができます。

この種の戦略論は、当時の米国において中東地域におけるプレゼンスをめぐりどのような議論があったのかを理解する上でも参考になりますし、また核兵器を持たない中小国が小規模でも通常戦力を保持していることに一定の戦略的な意味があることを理解する上でも参考になると思います。
また、政治学の世界で権威として知られるウォルツが、このような軍事問題に関心を持っていたという点も興味深いことであり、彼の政治理論を理解する上での参考にもなるのではないかと思います。

KT

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2016年9月16日金曜日

国土防衛を考えるための軍事地理学

国家は領域(territory)、人民(people)、主権(sovereignty)の3つの要素から構成されると言われています。地理はその国家の特徴を規定する最も重要な要因の一つと述べても過言ではありません。しかし、具体的にどのような視点から国土の地理的特徴を考えればよいのでしょうか。

今回は、軍事地理学の観点から、国家の政策に与える影響を理解する上で、立地、面積、形態という三つの視点が重要であることを紹介したいと思います。

その国家はどこに立地しているか
ロシアは世界最長の海岸線を持っているものの、その大部分が北極海に面している。海上交通を拡張する際に、さまざまな制約がある立地であり、領土や勢力圏を拡張しやすい正面は、陸続きとなっている東ヨーロッパ、南コーカサス、中央アジア、東アジアが挙げられる。
国家の発展にとって立地は極めて重要な問題であり、特に海上交通を発展させる余地がどれほどあるかによって、その経済力、軍事力の拡張可能性にも大きな差が生じてきます。
海洋は陸地を分割する天然の障害であり、陸上交通を制約しますが、同時に海上交通を促進するという二面性があります。つまり、沿岸部を起点にすることで、さまざまな地域に海上交通を展開することが可能となるのです。
この問題について研究者のコリンは次のように述べています。
「いかなる海洋にも接近できない国家は、全世界に対して軍事力を投射することはできなかった。1848年から大西洋と太平洋、そして全ての大陸に向かって開放され、また保護されていた不凍港を持つ米国は、一地域から別の地域に素早く軍事力を展開することが可能であった。世界の列強でこれだけの行動の自由を享受した勢力は存在しない。大西洋、太平洋、北極海に面するロシアは、世界最長の沿岸を持っているが、その艦隊は外洋に進出するのに不便であり、毎年の冬季には港湾が雪で閉ざされるため、艦隊がそこに閉じ込められてしまう。例外は黒海にある基地と、メキシコ湾流が極寒の海水を温めるノルウェー北端付近の基地だけである」(Collins 1998: 11)
これとは別に政治地理学の研究者である国松(1957)は、海洋的位置と内陸的位置で国家の領域を区別できると論じており、さらに詳細な海洋的位置の分類として周縁国(海岸国)、半島国、島嶼国、内陸国に区分しています(国松 1957: 140-60)。やや形式的すぎるとも思われる分類方法ですが、これはいわゆる「海洋国家」と「大陸国家」という考え方を裏付けるものです。

どれだけの面積を支配しているのか
アメリカは962万平方キロメートルを領有する国家であり、これは全世界で比較するとロシア、カナダに次いで三番目の国土面積であり、中国の領土とほとんど匹敵する広大さである。ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴなどの大規模都市を国内に複数保持している。
国土面積から国家を大国家、中国家、小国家に分類する学説もありますが(国松 1957: 238-40)、国土面積が直接的にその国家の政治的地位を決定するわけではありません。オランダやイギリスのように、小国家であっても全世界に勢力圏を広げた事例もあります。とはいえ、軍事地理学の視点から考えると、国土面積が特定の軍事作戦の成否に影響するということは十分ありえることです。
「陸上、海上において防御者は縦横に機動が可能なだけの空間をより好むものである。必要があれば、再編成、増援、再展開を行うための時間的猶予を獲得するために空間を敵に差し出すこともある。これは補給路が伸びきった敵の侵攻が限界に達した際に、攻勢に出るためのものである。小さなルクセンブルクはひどいイタチごっこを演じてきたが、帝政ロシアはナポレオンの侵攻を弱体化させるために縦深防御を活用した。モスクワは1812年に占領され、焼き払われたが、冬の訪れると取り戻された」(Collins 1998: 17)
また、政治学者のモーゲンソーは核兵器が登場したことで、国土面積の優位がますます重要な意味を持つようになっていることを次のように指摘しています。
「国力のひとつの源泉としての領土の規模の重要性は核戦争の可能性によって高められている。核保有国は、敵国に対する核の脅威を確実なものにするために、その核施設ばかりでなく工業中心地や人口集中値を分散するに十分な広がりを持つことのできる領土を必要としている。各破壊力が広大な範囲に及ぶのに、自国が比較的小規模の領土しか持っていないということによって、イギリスやフランスのような伝統的な国民国家は、核の脅威を信憑性あるものにする能力において、極めて不利な条件を持つことになる。アメリカ、ソ連、中国のような国家が主要な核大国の役割を果たすことができるのは、まさに準大陸的規模の領土を持っているからである」(邦訳、モーゲンソー『国際政治』122頁) 
国土が狭ければ、それだけ兵力を集中しやすいと言えますが、その反面で後退行動により時間的猶予を獲得することもできませんし、核攻撃に対する脆弱性も増してしまう場合があるということです。こうした特徴を理解しておけば、大国家、小国家のいずれにもそれぞれ利害があるということが分かります。

細長く、不連続な国土は軍事的に不利である
日本の領土は南北に伸長しているだけでなく、複数の陸地によって領土が分裂しているため、少なくとも形態的には最も防衛が難しい形態であると言える。南北に兵力を移動させることが難しいだけでなく、鉄道、港湾、空港を攻撃するメリットが敵にとって大きいため、それらを保護することが防衛上重要となる。
国土の形態はさまざまな方法で分類することができますが、円形の国土が理想的であるという考え方が軍事地理学にはあります。その理由とは、国土の中心に部隊を配置しさえすれば、そこから理論上どの国境線上に対しても最小限の時間で部隊を展開できることにあります(Collins 1998: 18)。
例えば、研究者の服部は領土の形態を団塊形態と伸長形態に区分した上で、「団塊形態を領土の幾何学的中心からいずれの国境線へもおおむね等距離にあるようなものであるから、いずれの方向へも同一時間で国境への兵力移動を行うことができる」(服部『防衛学概論』220頁)と論じています。これはまさに円形に広がった国土が軍事上の利点を持つことを示唆する議論です。

しかし、それは理論上の議論であって、現実の国家の領域にそのような形態は見られません。現実的な国家の領域の形態を考えるためには、伸長形態(elongated shapes)、不連続形態(discontinuous shapes)、分裂形態(fragmented shapes)という3種類の特徴に注目すべきとコリンは論じています。

・伸長形態 イタリアやチリなどのように、領土が特定の方向に向かって細長く広がっている国土形態です。敵が侵攻する方向によっては大きく縦深を確保できるのですが、側面を取られて国土が容易に分断される恐れも大きく、さらに国土面積が小さくても、中央に配備した兵力を国境にまで移動させる際に時間を取られやすいという特徴があります。

・不連続形態 一つの陸地に領土があるものの、国土と国土の間に他国の国土があるため、飛地になる箇所がある国土の形態です。アラスカ州を領有するアメリカや、カリーニングラード州を領有するロシアのような国がこれに該当します。その国家が攻勢作戦を実施する場合、飛地を利用して兵力を二正面から前進させることもできますが、防衛の場合には飛地が孤立しやすいため、やはり防衛上不利な形態と言えます。

・分裂形態 日本やフィリピンなどのように、複数の陸地によって領土が構成されている形態のことです。著者はこの特徴として「分裂形態は主に日本やフィリピンのような島嶼国家に主に見られ、各個撃破されやすい。最も注目に値するのがインドネシアの事例であり、これは数千の島々によって構成されており、多数の無人島がそこに含まれている。それは東南アジアの沿岸およそ3000マイル(4825キロメートル)を構成しており、これは米国の大西洋岸と太平洋岸の距離に匹敵する。広く分割された土地においては協調された攻勢または防勢作戦を実施することが困難であり、ティモールのようないくつかの事例では、分離独立運動を助長した」と説明しています(Collins 1998: 24)。

むすびにかえて
これらの要素を総合的に検討すれば、理論上どのような国家の領土であっても、その軍事的な利点と欠点の両方を判断することが可能となります。また、そのような地理的特徴をどのような政策、戦略によってカバーしているのかを検討することもできます。

普段何気なく眺めている地図も、このような視点に基づいて詳細に読むことを心掛けると、さまざまな特徴を見出すことができるようになります。
例えば、日本の国土の立地、面積、形態を改めて考えてみると、東アジア地域の海上交通の要域に立地しており、また九州や北海道から前進してくる敵に対して縦深を確保することはできますが、太平洋の海上優勢を握られてしまうと、直ちに首都圏が危険に晒されるほどの国土面積しかありません。さらに南北に細長く伸長しており、また島国という特性上、領土における兵力の移動は海路や空路に依存せざるを得ず、全体として各個撃破されやすい形態である、ということが分かります。

ここで述べたことは、軍事地理学の初歩ではありますが、さまざまな時代、地域に成立した国家の地理的特徴を軍事的観点から研究する際の出発点となるものです。見慣れた地図でも、読む人の視点が変われば、新しい発見があるはずです。

参考文献
Collins, John M. 1998. Military Geography for Professionals and the Public, Washington, D.C.: National Defense University Press.
国松久弥『政治地理学概論』風間書房、1957年
Morgenthau, H. J. 2005(1948). Politics among Nations: the Struggle for Power and Peace, 7th edition. New York: McGraw-Hill Humanities.(邦訳、モーゲンソー『国際政治 権力と平和』現代平和研究会、福村出版、2008年)
服部実『防衛学概論』原書房、1980年

2016年9月13日火曜日

事例研究 デタントの裏側で進んでいたソ連の軍備増強

国家と国家との関係は多かれ少なかれ利害対立の上に成り立っているものです。国際政治の舞台では、表向きでは友好的な態度を取っている間でも、その背後ではあらゆる手段を最大限に駆使して自国の国益を少しでも増進させようと、互いにしのぎを削っているものと考えなければなりません。
このことを理解する上で参考になる事例が1970年代に米ソ間で活発に行われた軍備管理の事例です。

今回は、1970年代に米ソ両国の首脳が軍備管理のために払った外交努力がどのようなものであったのかを振り返り、その一方で米ソ間の勢力関係がどのように推移していたのかを考えてみたいと思います。

緊張緩和における軍備管理の進展
1973年の米ソ首脳会談の様子、左がブレジネフ、右がニクソン
冷戦の歴史において1970年代は緊張緩和(デタント)の時代と位置付けられています。確かに、この時期に米ソ関係の様相は大きく変わりました。米ソ首脳会談を毎年のように実施することを通じて、信頼関係を構築し、外交交渉によって偶発的な武力衝突の危険性を除去し、また相互に保有する軍備を制限し合う動きが見られました。

一例として、1973年7月22日に署名された「核戦争防止協定(Agreement on the Prevention of Nuclear War)」は米ソ両国の軍事行動が核戦争にエスカレートする危機的状況を回避することを目指したものであり、デタントの時期にまとめられた重要な外交的成果の一つと言えます。
また核兵器の保有量に関する規制に関しても戦略兵器制限交渉(Strategic Arms Limitation Talks, SALT)で成果が見られました(宮坂 「軍備管理・軍縮」137頁)。
1972年から5年間有効とされたSALT-1暫定協定において、戦略兵器と区分された大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、長距離爆撃機(BBR)に搭載する核爆弾という3種類の兵器体系については、米ソ双方が数的な規制を受けることになりました。詳細としては、ICBMは米国が1054基、ソ連が1618基、SLBMは米国が710、ソ連が950、BBRは規制なし、検証技術手段(偵察衛星による相互監視)も容認されています(同上、138頁)。

このSALT-1暫定協定と同時に対弾道ミサイル(Anti-Ballistic Missile)システム制限条約(ABM条約)が締結されたことで、米ソ両国は首都圏と1基のICBM基地を例外として原則的にABMの配備を禁止します。こうしておけば、米ソ双方ともに相手の核攻撃で確実に被害が生じることが予測されるため、抑止が機能することが期待されていました(同上、138頁)。

このような一連の外交努力によって、核戦争の危険性を除去し、戦略核兵器を規制することができたことは、米国の政策が変わっただけでなく、当時のソ連の外交姿勢が協力的だったことも関係していました。1964年に成立したブレジネフ(Leonid Brezhnev, 1907-1982)政権は、1971年の第24回党大会で「共産主義建設のために平和が前提である」との情勢判断に基づき「平和共存」を主張しています。これはベトナム戦争に勢力を集中させなければならなかった1975年までの米国にとっても好都合だと考えられましたが、ブレジネフは緊張緩和の裏側で次の一手を見据えた政策を遂行することを忘れていませんでした。

緊張緩和における核戦力の増強
1969年に初めて配備されたヤンキー級原子力潜水艦(水中排水量10,100トン)、ソ連は1970年代にSLBMを戦略核戦力の要として重点的に整備するようになった。
1970年代初頭、ソ連の戦略核戦力の態勢はSLBMで米国に大きく後れていたため、ブレジネフ政権としてこの不利を挽回する必要がありました。
緊張緩和に入る前の1960年代に、米国はSLBMのUGM-27「ポラリス」をすでに配備しており、1967年までには計画通り41隻656基体制を完成させていました。しかし、ソ連がSLBMを搭載したヤンキー級原子力潜水艦を配備するのは1969年以降であり、それまでは通常動力のゴルフ級、ホテル級潜水艦を就役させていたに過ぎませんでした。通常動力の潜水艦は原子力の潜水艦と比べて、長期間の潜航ができないという欠点があります。

1970年代においてソ連はこのSLBMの領域における不利を挽回するために努力を重ね、ヤンキー級原子力潜水艦を増勢しただけでなく、1972年には水中排水量10,000トンを超えるデルタ級原子力潜水艦を就役させています。このようにソ連は米国に対する劣位を解消するため、核戦力態勢を質で追い上げようとしましたが、量の拡張も手抜かりはありませんでした。
1970年代において米ソ間の戦略核戦力の均衡がどのように変化したのかを示したのが次のグラフです。
1970年版から1980年版のMilitary Balanceのデータを参照し、筆者作成
米ソで戦略核戦力に該当する兵器体系の保有量がどのように推移したのかを見ると、米国はICBM(大陸間弾道ミサイル)、SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)、BBR(長距離爆撃機)の保有量で大きな変化は見られません。1970年代の米国はベトナム戦争の戦局を好転させるために手一杯の状況であり、通常戦力の増強の方が重視されやすい傾向にありました。
ソ連はICBMをやや減勢していますが、BBRの保有量を維持している傾向が分かります。また注目すべきがSLBMであり、これは一貫して増強していることが読み取れます。1973年以降には米軍の保有量を超えており、1978年には米軍のICBMに匹敵する保有量を実現しています。

また、上記のグラフで取り上げていませんが、ソ連は1974年から1980年にかけて、戦域核兵器の増強にも尽力しています。1974年に配備した中距離爆撃機バックファイア、1977年に配備したSS-20は1980年代の軍事情勢にも大きな影響を及ぼした兵器体系ですが、これらもこの時期に開発、配備されたものです。これら新たな脅威に対抗するため、西側諸国でもパーシングⅡ型やトマホークの開発がすすめられましたが、それは1970年代の末のことであり、ソ連に開発競争で後れを取ることになりました。
こうした流れの中で1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻があり、米ソ間の緊張緩和は終わり、新冷戦と呼ばれる時代に突入していったのです。

むすびにかえて
1970年代の米ソ関係の特徴として、二面性を指摘することができます。一方では共に手を取り合って平和な世界で共存する道を模索し、軍備管理を通じて核兵器を相互に規制する姿勢を示していました。もう一方ではソ連はSLBMの劣位を挽回するためにあらゆる手段を講じており、1980年代になるまでには態勢を立て直し、さらに一部の技術領域においては米国よりも先行することさえ実現していたと言えます。この時期に配備した戦域核兵器は1980年代の新冷戦におけるソ連の戦略にとって極めて重要な意味を持つ装備でした。

これは一見すると矛盾した政策であるかのようにも思われますが、そもそもソ連が米国と「平和共存」を模索し、軍備管理を積極的に推進していた実際の動機は、ソ連軍の戦力態勢を立て直す時間的猶予を確保するためであったのではないかと考えれば、一概に矛盾した政策と断定することはできません。むしろ、これは軍事上の不利を外交上の方策によって挽回した優れた政策とさえ評価できるかもしれません。とはいえ、ブレジネフの国内政策での行き詰まりを総合して考慮すると、諸説ある論点なので、政策の評価については留保しておきましょう。

さしあたって私たちはこの事例から次のことを学ぶことができるかもしれません。外交の舞台で示される友好的発言や協力的意図だけで、国家と国家の真の関係を判断することは不確実であり、場合によっては危険でさえあります。見せかけの平和共存に振り回されないためには、その国家がどのような能力を持っているかに注意すべきという原則に立ち返ることが求められます。

KT

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参考文献
宮坂直史「軍備管理・軍縮」防衛大学校安全保障学研究会編著『新訂第四版 安全保障学入門』亜紀書房、2011年、133-160頁
The Military Balance, London: International Institute for Strategic Studies.

2016年9月10日土曜日

ナポレオンが軍団を設置した理由

現代の陸軍の組織では、軍(army)、軍団(corps)、師団(division)、旅団(brigade)、連隊(regiment)、大隊(battalion)、中隊(company)、小隊(platoon)、分隊(squadron)という編制がおおむね当然のものになっていますが、このような編制に到達するまでには長い歴史的経緯がありました。
軍団が設置されたのは19世紀と比較的最近のことなのですが、これを最初に実施したのはフランスのナポレオン・ボナパルトでした。

なぜナポレオンは従来の陸軍の組織構造を見直したのでしょうか。この点について理解するため、今回は軍事学者のジョミニによるナポレオンが採用した軍団編制に関する考察をいくつか紹介したいと思います。ジョミニの議論を踏まえながら、18世紀までの陸軍のあり方とナポレオンの陸軍の組織構造にどのような変化が起きていたのかを説明していきます。

フランス革命までの陸軍の戦列
18世紀後半までヨーロッパ列強の軍隊は戦列(line of battle)という一種の陣形を維持することによって、戦闘における部隊の行動を統制していました。軍隊はこの戦列を展開することができるように組織されていたのです。その特徴についてジョミニは次のように解説しています。
「フランス革命が起きるまで、全ての歩兵は連隊または旅団に編制されており、これらの部隊はそれぞれ一つの戦闘集団として集められ、左右両翼に広がって部隊を2列に展開した。騎兵は通常であれば、各歩兵部隊の両翼に位置しており、さらに当時は非常に扱いにくかった砲兵についても、それぞれの歩兵部隊が構成する中央正面に沿って配置されていた。軍は集まって宿営し、横陣もしくは縦陣で行進した。例えば、4個の縦隊で構成される縦陣により行進するなら、歩兵部隊と騎兵部隊はそれぞれ2個の縦隊に区分される。また(側面への機動に特に適した)横陣によって行進する際には2個の縦隊に区分された。それ以外にも地形が特異であるため、騎兵部隊もしくは歩兵部隊の一部を第3列で宿営させることもあったが、これは非常に珍しいことであった」(Jomini 2007: 222)
戦列の大きさのイメージが持てないという方のために、いくつか基本的な数値について補足しておくと、18世紀の列強の戦争では3kmから5kmにも及ぶ戦列を組んで戦うこともありました。
七年戦争(1756-1763)のクレーフェルトの戦い(1758年6月23日)のように、戦闘正面が10kmにまで達する事例もありますが、これは極端な事例であり、一般的に見れば大規模な戦闘でも4km前後、小規模な戦闘だと2kmから1kmの戦闘正面で戦うことが一般的でした。

4000mの戦闘正面を想定し、2万名の部隊でジョミニが紹介したような二段構えの戦列を組むとすると、前の部隊と後の部隊にそれぞれ1万名の兵士を配分する必要があります。また兵士一人あたりの戦闘正面を1mと想定すると、10000/4000=2.5なので、部隊はやや不完全な3列横隊に展開すればよいと分かります。したがって、軍司令官は旅団、連隊に3列横隊に展開させれば戦闘正面に対して戦列を形成できるという判断になります。
(ただし、状況の特質から、または戦術の選択から前方の部隊にもう少し戦力を配分し、後方の部隊の規模を縮小するようなことも考えられます。また、本来はジョミニが記述しているように騎兵や砲兵も戦列の重要な構成要素となるため、実際に指揮官が直面する問題はもう少し複雑です)

このような方法は一見すると形式的であまり実践的ではないようにも思われますが、実際のところこれは非常に実践的なやり方でした。というのも、このように軍隊の配置を定めておけば、部隊の行動に必要な命令を簡略化することができるためです。
「この手法によって幕僚業務は大いに簡略化された。なぜなら、次のような命令を出すだけで事足りるためである。「これより軍は某所へ向けて前進する。横陣、縦陣、右翼、左翼」単調ではあったが、簡潔でもあったこれらの陣形から逸脱することは、ほとんどの場合なかった。戦争が遂行されていた時も、これ以上に優れた方法を考案することはできなかった」(Ibid.)
しかし、問題もありました。このような固定的な陣形を維持すると、軍司令官が一回の戦闘で使用できる戦力規模に上限が生じてきます。より大きな味方の戦力をもってより小さな敵と戦うことは戦術の基本ですが、軍司令官の立場からすれば、大きすぎる戦列は戦場で運用しずらかったのです。前進を開始しようとしても、その号令が適切に軍全体に達しなければ、軍司令官が思った通りに動かすことができません。こうした問題が当時の軍隊の運用を妨げていました。

フランス革命戦争以降の師団・軍団の発展
市民階級が引き起こしたフランス革命の影響で、フランスから貴族階級の士官がいなくなると、革命軍は一から陸軍の組織化を進めなければならなくなりました。さらにヨーロッパ列強はフランス革命に干渉する動きを強め、実際に軍事行動を起こしたために、フランス革命軍は早急にこれに対抗できるだけの軍事力を整えなければならなくなりました。こうした要因が重なったことで、革命軍では従来の戦列にとらわれない新たな戦術を模索するようになり、それが師団の設置に繋がりました。
「フランス革命では旧来の過剰に密集した陣形が見直され、あらゆる地形でも独立した機動が可能な野戦部隊として、師団という編制が導入された。この変更はローマのレギオンという陣形にほぼ戻すという極端なものではあったが、意味のある改善であった。これらの師団は通常は歩兵、砲兵、騎兵から編成され、別々に機動し、交戦した。師団は、一方で軍需倉庫に頼らずとも活動を継続できるように、他方では敵の側面に回り込むために延翼するという馬鹿げた期待のために著しく拡張された。軍隷下の7個または8個の師団はそれと同数の道路を行進したが、それぞれは10マイルから12マイルは離れて行動していた。軍の司令部はそれらの中央に位置し、300名から400名の小規模な騎兵連隊5個か6個以外の支援はなかった。そのため、敵がその戦力を集中して我の師団の一つを打破してしまえば、それによって軍の横陣は分断されてしまい、しかも司令官には歩兵部隊の予備が何もなく、ばらばらになった各師団を集結させるために退却させる命令を下達する以外にできることは何もなかった」(Ibid.: 223)
戦列はいわば軍隊を一個の固定的形式に当てはめることで、その指揮統制の効率化を図るものでしたが、この時にフランス軍が試みたのは戦列を一度個々の戦闘単位に分解することでした。ジョミニも述べたように、これはローマ軍のレギオンの基本理念をそのまま持ち込んだような考え方でした。第一線で戦う師団を指揮する指揮官の権限は従来よりも極めて大きなものになったと言えます。しかし、ジョミニは当時のフランス軍の師団編制は敵の出方によっては各個撃破されやすいという弱点があったことも指摘しています。

この問題に独創的な方法で取り組んだのがナポレオンであり、ジョミニは1800年に軍と師団の中間に軍団という部隊を設置することで、師団の独立性を残しつつも、隣接する師団との連携を図りやすくしたことを指摘しています
「ナポレオンは第一次イタリア戦役でこの問題を解決するため、軍の行進と機動の迅速さを活用し、また決定的打撃を加えようと企図する地点に多くの戦力を集中させた。政府の首班に就任し、軍隊の規模と計画の領域が徐々に拡大しつつあるものと認めると、ナポレオンはより強力な編制が必要であるとすぐに認識した。師団編制の利点を維持しながらも、ナポレオンは古い編制と新しい編制のいずれの極端にも走らないようにした。1800年の戦役の初めに、ナポレオンは2個から3個の師団で軍団を編成し、これを中将の指揮下に置き、これら軍団をもって軍の両翼、中央、予備を構成することにした」(Ibid.)
ナポレオンの手によって師団は軍団の下位に位置付けられることになりましたが、これは戦局全般の判断と現場の判断を調整する上で重要な調整弁となりました。軍司令官の立場から見れば、煩雑な師団の指揮統制から解放されただけでなく、戦場で一度に同時に運用できる戦力の規模も飛躍的に増大しました。また現場で指揮をとる師団長から見ても、状況の変化に応じて自在に手持ちの兵力を展開することができたため、全体としてのフランス軍の戦闘力は向上したと言えます。
「結局、この軍団の編成はブローニュ駐屯地で完全に発展させられた。ナポレオンはそこで恒久的な元帥の指揮下に軍団を設置し、そこに歩兵師団3個、軽騎兵師団1個、36から40門の火砲、そしていくらかの工兵隊を配属させた。つまり、それぞれの軍団は小さな軍であって、必要があれば軍のように独立した行動が可能であった。重騎兵は1個の強力な予備として集められることになり、そこには胸甲騎兵師団2個、竜騎兵師団4個、軽騎兵師団1個が配属されていた。擲弾兵と近衛兵は精鋭の歩兵の予備となった。1812年以降になると、騎兵は各軍団において3個師団に整理されており、これは次第に増員された騎兵の行動をさらに統一化することに寄与した。この編制は可能な限りにおいて完璧なものであった。そして、あのような大きな成果をもたらした大陸軍は、全てのヨーロッパの陸軍がすぐに参考にするモデルであった」(Ibid.)
参考までに、ナポレオンがフランス皇帝に即位した翌年の1805年に定められた軍団の編制を見ると、ナポレオン自身が指揮する近衛軍団は7,000名と小規模ですが、第一軍団は17,000名(軍団主力2個師団)、第二軍団は20,000名(3個師団)、第三軍団は26,000名(3個師団)、第四軍団は40,000名(4個師団)、第五軍団は18,000名(2個師団)、第六軍団は24,000名(3個師団)、第七軍団は14,000名(2個師団)、その他予備の軍団となっていました(Chandler 2009. Appendices D)。1個師団の戦力規模はおおむね10,000名弱で、1個軍団の戦力規模は少し幅が広いものの2万名前後と言えます。

ジョミニが説明している通り、それぞれの軍団には歩兵、騎兵、砲兵がバランスよく配属されているため、もし敵と戦闘になったとしても、必要な装備は一通り使用することが可能となったと言えます。これは固定的な戦列に沿って軍隊を動かしていた時代から比べると、極めて大きな変化でした。

むすびにかえて
どのような優れた戦略、戦術を考え出したとしても、それを実行するための部隊の組織が十分に整っていなければ、それは机上の空論です。そのため、部隊の編制は極めて重要な問題だったのですが、フランス革命が勃発するまで従来の慣習は撤廃されることがありませんでした。
師団が設置されたことが一つのきっかけとなって、軍隊の組織は全面的に見直されるようになりました。ナポレオンが軍団を置いたことによって、師団長の権限が強化されただけでなく、各師団の連携も図れるようになり、従来の軍隊では考えられなかった戦域または戦場レベルでの戦力の機動展開が可能となりました。

歴史上においてナポレオンは軍事的天才と呼ぶに値するだけの戦果を残したことは事実ですが、全てをナポレオンの才能に帰することは妥当ではありません。
ナポレオンは全ての部隊行動を統制することを避け、軍団、師団の各級指揮官に大きな権限を与え、彼らを信頼していました。ナポレオン戦争におけるナポレオンの強さはの根源は、下からフランス軍を支えていた多くの部下であったことをナポレオン自身も認めています。
「軍隊の基盤として国に奉仕する士官、下士官がいなければ、国家が軍を新設することは非常に困難なことである」(ナポレオン『軍事箴言集』第57箴言)
ナポレオンが設置した軍団は、自分の思い描く迅速かつ柔軟な戦力の機動展開を具体化するためのものでした。そして、それは彼が信頼できる多くのフランス軍人がいたからこそできたことでもあったと言えます。

KT

参考文献
Chandler, David. 2009(1973). The Campaigns of Napoleon, 3 Vols. Rev. London: Simon & Schuster.
Jomini, Baron Antoine Henri de. 2007(1862). The Art of War: Restored Edition, Mendell, G. H. and Craighill, W. P. Kingston: Legacy Books Press.
ナポレオン・ボナパルト『ナポレオンの軍事箴言集』武内和人訳、国家政策研究会、2016年(Kindle版のみ)

2016年9月6日火曜日

事例研究 冷戦期における基盤的防衛力の妥当性

国民から戦略が不明確との批判を受けがちな日本ですが、防衛力の整備を基礎づける基本方針の検討がこれまでに皆無だったわけではありません。
最近の防衛計画の関連文書でも統合機動防衛力、動的防衛力といった用語が登場しているように、日本はどのような防衛体制を構築すべきかという問題に対して、統一的、包括的な姿勢を打ち出す努力はこれまでにも行われてきました。

しかし、問題の本質は、そのような構想が実効性を伴っているのかという点です。今回は、1970年代に登場した基盤的防衛力という防衛計画の構想を取り上げ、それについて当時の自衛官がどのように考えていたのかを考察したいと思います。

基盤的防衛力とは何か
1977年版の防衛白書を参照すると、基盤的防衛力とは「脅威の量だけを考えて防衛力の量を算定するのではなく、例えば組織上も配備場も隙がなく、かつ、均衡のとれた態勢を保有し、平時において十分な警戒態勢をとりうるものという観点から防衛力の量を追求した」と定義されています(防衛庁『日本の防衛』1977年、54頁)。
言い換えれば、これは日本として整備すべき防衛力の規模が、脅威となる国家の勢力規模に必ずしも見合う必要はないとする防衛構想です。

例えば、国家Aが30個師団の軍備を持つ国家Bを脅威と判断し、また我が方として10個師団の兵力を整備し、防御陣地を構築しておけば、戦闘状態になっても十分に対抗できるという状況見積が得られたとします。
この場合、10個師団を整備するのが普通の所要防衛力構想の考え方なのですが、基盤的防衛力は5個師団や6個師団など、見積よりも規模を小さくした兵力を整備することで、防衛負担を軽減しておくのです。所要防衛力は有事または危機的状況が確認された後で勢力を拡充すれば十分間に合うと考えます。
このようにすれば、財政上の支出を防衛部門に配分する割合を減らし、それだけ経済成長を促進することができるという側面もあります。

基盤的防衛力の擁護と批判
これまで国内で行われた戦略の研究には、基盤的防衛力が「戦後の日本において唯一の包括的かつ洗練された防衛戦略構想であった」と評価するものもあります(道下「戦略思想としての「基盤的防衛力構想」」2005年、218頁)。
その根拠の一つとされているのが、安全保障のジレンマへの配慮です(同上、236-238頁)。これは一カ国が安全を確保する目的で兵力を増強することが、周辺諸国にとって脅威と見なされてしまい、結果と指摘軍拡競争を誘発するという問題です。基盤的防衛力では起こりうる事態を「限定的かつ小規模な侵略」に限定し、日本として防衛力の増強を可能な限り先延ばしにすることが合理化されています。
こうした理由から「基盤的防衛力構想は脅威認識について単に軍事力にのみ着目するのではなく、国際的な戦略環境をも要素として取り入れたという点で洗練された考え方であったといえる」という判断が導かれています(同上、238頁)。

しかし、自衛官の意見を調べてみると、基盤的防衛力が優れた構想と評価されていたわけではありませんでした。このことは、西部方面総監だった堀江正夫(陸将)の次の発言からも読み取ることができます。
「堀江 まず基盤的防衛力の主張の基本的な姿勢を、明らかにしておかなければいけない。その姿勢で誤解があってはならない。そこで基本的姿勢を要約すると(1)日米安保体制が有効に機能している限りにおいて、大きないくさは起こらないだろうとの認識ですが、それは逆にいうと、日米安保体制を有効に機能させる努力を、十分に行わなければならないことを意味している。(2)日米安保体制を有効に機能させる努力を十分やった上で、もしいくさが起こるとすれば、そういう力を持つ国はソ連である。もしソ連が、アメリカ軍と衝突することがない、きわめて短時間である種の目的を達成するような意図を持ったとすれば、それに対して、独力で即時に対応できる即応力を、持たなければいけない。(3)さらに進んで、戦闘状態が大きく発展するかもしれないので、それに対して防衛力を拡大しうる十分な基礎をもっていなければならない。この三つが柱になる。その理解を曲げて議論すると、危険なものになると思う」(オリエント書房編集部『日本の防衛戦略』1977年、350頁)
この見解は防衛白書で解説されている基盤的防衛力が前提しないはずの脅威への対抗を基礎に置いています。つまり、そもそも米軍が本格的に対処する前に決着をつけるという狙いを持って、ソ連軍が電撃的に攻撃を加える可能性があることが明示的に想定されているのです。そして、この想定が自衛隊としては米軍の来援が得られるまでの間、これに独力で対応できる能力を整備すべきだという主張の根拠にもなっています。
いわば、これは基盤的防衛力というよりも即応的防衛力とでも呼ぶべき構想でしょう。現在の統合機動防衛力の基本構想にも通じる考え方と言えます。

また堀江だけでなく、統合幕僚会議事務局長だった村木杉太郎(陸将)も次のように述べています。
「村木 核を背景にした抑止戦力をとる限りにおいては、またわが国の立場として専守防衛戦略をとる限りにおいては、保持する防衛力が、有事の際には短時間に大きくなるから平時体制でよろしいのだ、とはどうしても思えない。保持する防衛力が即応力でなければ、抑止戦略の中の一つのファクターとしての意味はないと思う」(同上、357頁)
これは基盤的防衛力に対する明確な批判として位置付けられるものであり、基盤的防衛力が核の時代における非核保有国の戦略として根本的に欠陥があることを指摘するものです。

冷戦期の安全保障環境の特性として、相手に核兵器の使用を思いとどまらせつつ我が方の侵略を成功させるためにはいくつかの条件がありました。すなわち、作戦を開始した当初から短期決戦に目指し、最初の一撃で既成事実としての戦果を確保し、相手が本格的な反撃を準備する前に事態収拾を図る、ということが外交的にも軍事的にも非常に重要だったのです。
だからこそ、村木は極東方面で西側陣営の防衛線を構成する日本の戦略としては、ソ連軍の戦略的奇襲にいかに素早く対応できるかが抑止戦略上の重要事項だと考えていたと解することができます。ここでも脅威を念頭に置いた従来の戦略の考え方を読み取れるのです。

むすびにかえて
このことは、防衛白書で示された基盤的防衛力という構想は、必ずしも自衛隊の高級幹部に受け入れられていなかった、という可能性を示唆しています。
その要因はいくつか考えられます。統合幕僚会議の力が弱く、陸海空各幕僚監部の思想を十分に統一できなかったことや、また防衛庁・自衛隊における背広組が制服組に対してより強い発言権を持っていたこと、国民や議会が防衛力の強化に慎重だったことなどが複合し、こうした状況をもたらしたのかもしれません。

いずれにせよ、基盤的防衛力が、1970年代の日本の防衛計画を方向付ける構想として打ち出されたことは、一つの反省点ではないかと私は考えています。
平時から有事に移行するまでの時間的猶予がどれだけあるのか予断を許さない状況において、このような構想は妥当性を持たない恐れが指摘されていました。それにもかかわらず、これが1976年以降の防衛白書に登場するようになり、一時的に用いられない時期もありましたが、1990年代に再度使用された経緯を考えると、この戦略構想にどのような問題点があったのか十分に認識できていない部分があるのではないかと思います。

冷戦期において日本はソ連から侵攻を受けることはありませんでした。しかし、そのことを理由に冷戦期に日本が採用した政策や戦略の全てが正しかったと評価することはできません。基盤的防衛力についても、改めてその構想にどこまで妥当性があったのかを再検討することも必要でしょう。

KT

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論文紹介 日本の対ソ戦略で海峡封鎖が重視された理由

参考文献
オリエント書房編集部編『日本の防衛戦略―自衛隊の有事対策』オリエント書房、1977年
防衛庁『日本の防衛』大蔵省印刷局、1977年
道下徳成「戦略思想としての「基盤的防衛力構想」」第8章、石津朋之、ウィリアムソン・マーレー編『日米戦略思想史―日米関係の新しい視点』彩流社、2005年、217-245頁
※写真は陸自第11旅団HP(http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/index.html)より

2016年9月1日木曜日

事例研究 なぜオーストリアは併合されたのか

1938年、ウィーンのホーフブルク宮殿でオーストリア併合を宣言するヒトラー
1938年、オーストリアはドイツに併合されました。歴史的に見れば、この事件はドイツにとってヴェルサイユ体制を打破する一歩となり、チェコスロヴァキア危機に繋がる出来事でした。
しかし、当初オーストリアはヴェルサイユ体制で禁止されていた独墺合邦は回避しようと努力していました。それにもかかわらず、なぜドイツに併合されることになったのでしょうか。

今回は、オーストリア併合の事例に着目し、なぜオーストリアは独立を維持できなくなったのかを政治学の視座から説明してみたいと思います。

イタリアとの友好関係に賭けたオーストリア
エンゲルベルト・ドルフス(1892年 - 1934年)
第一次世界大戦で敗戦国となったオーストリアは、多くの領土を失い、小国の地位に転落しました。そのため、戦間期にオーストリアが第一に重視しなければならなかったのは、国力の不足を補ってくれる同盟相手を見出すことでした。
国内にはドイツとの関係を重視し、独墺合邦(アンシュルス)を目指すべきとする勢力もいましたが、これは戦勝国であるイギリスやフランスから禁じられていました。外交的配慮を重視すれば、北のドイツよりも、南のイタリアとの関係を強化する方がオーストリアの対外政策として望ましいと考えられたのです。

こうして1930年2月、オーストリアはイタリアと友好条約を締結しました。しかし、イタリアとの友好関係を確立するに当たって問題となったのは、ムッソリーニ(Benito Mussolini)がオーストリアにファシスト国家になるように求めてきたことでした。これは当時のイタリアで周辺国をファシスト国家に移行させることを一つの対外政策の目標としていたためです。
イタリアにとって幸いなことに、オーストリアはその後、ファシズムの路線に近づいていきます。
1931年に国内最大のクレディット・アンシャルタルト銀行が倒産し、オーストリアで大規模な金融恐慌が起こると、有権者は現政府に対する不満を募らせることになりました。これはファシズムを支持する有権者の拡大に寄与する要因でした。
ただし、イタリアではなくドイツとの関係を重視するオーストリア・ナチ党も同時に支持を伸ばしつつあったため、オーストリア国内では深刻な対立がもたらされることになりました。

1932年5月に首相に就任したエンゲルベルト・ドルフス(Engelbert Dollfuss, 1892 - 1934)は、イタリアとの関係をあくまでも重視する姿勢を打ち出し、ナチ党と対立する社会民主党を支持基盤として確保していました。さらにドルフスは1933年6月19日にオーストリア・ナチ党を非合法化し、オーストリア国内で親ドイツ派の立場を取る勢力が拡大しないように弾圧を加えます。
しかし、ドルフスの狙いはナチ党の排除というよりも、独裁体制を確立することにありました。
ドルフス政権は次の弾圧の対象を社会民主党として1934年2月11日に実力行使に動きました。部隊を動員し、ウィーン市内の政党の拠点に砲撃を加えたのです。
こうしてドルフスは政権に脅威を及ぼし得る有力な政党を軍事的に排除し、自らの手に権力を集中させることで、イタリアのようなファシスト国家が実現しました。

しかし、社会民主党が排除されている間も、非合法化されたオーストリア・ナチ党はドルフス政権に一撃を加える準備が進められていました。1933年に成立したヒトラー(Adolf Hitler)政権は、この非合法政党を支援することで、オーストリアにイタリア寄りの政権ではなく、ドイツ寄りの政権を打ち立てることを期待していました。
1934年7月25日、オーストリア・ナチ党はついに蜂起し、武力によって首相官邸を占領しました。ドルフースは銃弾に倒れ、出血多量で死亡します。

この蜂起はドイツにとってオーストリアに対する影響力を強化する絶好の機会となりましたが、ここでムッソリーニは迅速にイタリア軍を動員して国境に展開し、オーストリア・ナチ党の権力掌握に断固抵抗する姿勢を明確にしてきました。オーストリアと隣接するユーゴスラヴィアもこの動きに呼応して戦時体制に移行します。
ヒトラーはムッソリーニの圧力を受けて、これ以上のオーストリアへの干渉は危険だと判断し、オーストリア・ナチ党に政権を掌握させることは断念しました。
そのため、オーストリアではキリスト教社会党のシュシュニク(Kurt von Schuschunigg , 1897-1977)が新たに首相に就任することになり、イタリアとの友好関係は引き続き維持されることになりました。
少なくともこの時は、イタリアの支援があったからこそ、オーストリアが独立を維持できたと言えます。

イタリアに見放された後の手詰まり
クルト・シュシュニク(1897-1977)
しかし、その後でオーストリアを待ち受けていたのは厳しい現実でした。
イタリアは次第にオーストリアに対して、ドイツと敵対する姿勢を避け、妥協するように促してきたのです。1936年、シュシュニクは政権を他の政党組織から守るため、祖国戦線民兵を設置して国内での武力闘争のための兵力を整えます。ただし、ドイツとイタリアに対抗しうる勢力としてフランスに支援を求めましたが、これは具体的な成果に結びつきませんでした。

1937年、オーストリア・イタリア首脳会談で、ムッソリーニは以前のような政変がオーストリアで発生しても、今度はイタリア軍として介入しないことをシュシュニクに知らせてきました。
この政策変更は、イタリアがドイツと友好関係の強化に乗り出す必要が増大したことが背景としてありました。
スペインではファシスト勢力が人民戦線政府に対して反乱を起こしていたのですが、イタリアがこれを支援する目的で軍隊を派遣したところ、1937年3月にグアダラハラの戦い、ベリウエガの戦いで大敗を喫しました。これらの軍事的敗北を受けてイタリアの財政は急速に悪化しつつあり、また着実に経済再建と軍備増強を進めているヒトラーに対して、ムッソリーニとしてもこれ以上敵対することは危険だと判断されたのです。

こうして、イタリアはドイツとの関係強化を引き換えにして、オーストリアを見放す決定を下し、ムッソリーニはシュシュニクにドイツとの妥協を模索するよう勧めてきたのです。
ここでオーストリアの対外政策は破綻しました。オーストリアの主権を守ろうとする国はもはやありませんでした。

1938年2月、ヒトラーとの首脳会談においてシュシュニクは正式に完全併合を要求されます。
シュシュニクは帰国後に社会民主党の残存勢力との協議を試みましたが、合意を取りまとめることができませんでした。国民投票の実施によってシュシュニクは状況を打開しようと図りましたが、この方策はヒトラーが許可しませんでした。国民投票で独墺合邦が否決される事態を恐れたためです。
こうして行き詰まったシュシュニク政権を見たオーストリア・ナチ党は、再び武装蜂起に踏み切り、オーストリア国内は混乱状態に陥りました。これを見たヒトラーはドイツ軍に出動を命令します。1938年3月12日、ドイツ軍はオーストリアの国境を越えて進軍しました。

このドイツ軍の進軍はうまくいきました。ミクラス大統領は辞任、シュシュニクは投獄され、オーストリア・ナチ党のザイス・インクヴァルト(Arthur Seyss-Inquart, 1892-1946)が新首相に就任しました。ムッソリーニはドイツがオーストリアを獲得することを認めたために、オーストリアに打つ手はありませんでした。4月10日の国民投票においては併合に賛成する有権者が圧倒的多数を占め、オーストリアはドイツに併合されることが決定されました。この併合によって、ドイツの人口は600万人増加することになりました。

むすびにかえて
オーストリアの対外政策を検討すると、それはバックパッシング(buck-passing)と呼ぶべき特徴を持っていたことが分かります。
バックパッシングを行えば、自国が軍備増強を行う必要はそれほどありません。自国よりも大きな勢力を持つ他国と友好関係、同盟関係を築くことによって、自国に及ぶ脅威をその友好国、同盟国に対応させることが期待されるためです。
しかし、後ろ盾となる国家に裏切られ、見放されると、もはや自国だけではどうしようもなくなる事態になる恐れが常にあります。

結局、バックパッシングは自国に対する防衛負担が小さい分、それだけ見放された時に生じる損害が大きくなる傾向があるのです。オーストリアはまさにこのリスクによって国際社会から消滅しました。
だからといってイタリアが悪いとか、無責任ということを私は言いたいのではありません。イタリア政府がオーストリアを見放すことによってイタリアの国益を増進できると判断すれば、それはイタリア国民から見て支持できる政策であり、また当然の決定なのです。

KT
参考文献
Held, J., ed. 1992. The Columbia History of Eastern Europe in the Twentieth Century, New York: Columbia University Press.
南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(新編世界各国史、第19巻)山川出版社、1999年