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2016年8月2日火曜日

論文紹介 沖縄戦で日本軍が用いた戦術とその限界

第二次世界大戦の戦史でも特に沖縄戦は日本でも関心を集めることが多いテーマです。これまでの議論でも繰り返し論点となっているのが、当時の日本軍が使用した戦術がどのようなものだったのか、それは米軍との戦闘でどれほど有効に活用されたのか、という問題です。

今回は、戦術学の立場から沖縄戦での日本軍の戦術の特徴や、その効果について考察している研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
Huber, Thomas M. 1990. Japan's Battle of Okinawa, April-June 1945, Leavenworth Papers, No. 18, Fort Leavenworth: Combat Studies Institute, U.S. Army Command and General Staff College.

日本軍の戦力規模と戦闘の経緯
1945年1月から3月の第32軍の配置。首里に軍司令部が配置されている。
全体として北部に部隊を配置させることは避け、本島南部に戦闘力を集中させる意図が読み取れる。
(Ibid.: 10)
沖縄戦は1945年の4月1日から6月22日の間に、沖縄を攻め取ろうとする米軍と、それを拒否しようとする日本軍との間で戦われた第二次世界大戦の戦闘の一つです。時系列としては、3月に硫黄島の日本軍が全滅した後、広島、長崎に原爆が投下される前の出来事でした。

日本軍が沖縄を防衛するために配備した兵力はおよそ100,000名(内訳、日本陸軍67,000名、日本海軍9,000名、現地住民24,000名)であり、特に第32軍司令部(1,070名)とその司令部直轄の部隊(6,005名)、第24師団(14,360名)、第62師団(11,623名)、独立混成第44旅団(4,485名)が中心となって防御陣地の構築が進められました(Huber 1990: 18)。

沖縄戦の経緯について簡単に要約すると、次のようにまとめることができます。
4月1日 米軍は沖縄本島への着上陸、部隊の攻撃前進を開始
4月12日 陣地で防御を固めていた日本軍が夜襲による反撃を実施
4月29日 軍司令部の会議で作戦方針を防勢のまま維持すべきか否か再検討され、攻勢移転が決定
5月4日 攻勢に出たことによって日本軍の損害が急増し、急速に戦闘力が低下
5月29日 本島南部の陣地へと兵力を移動させるため、日本軍は後退行動を開始
6月25日 大本営が沖縄本島における日本軍の組織的な戦闘行動が終了を発表
なお、当時の第32軍の司令となった人物は牛島満中将(1887-1945)であり、彼を補佐したのは参謀長の長勇中将(1895-1945)と高級参謀の八原博通大佐(1902-1981)でした。
著者は指揮官が主体となって決心を下す米軍と大きく異なる点として、日本軍では参謀が主体的に意思決定に関与し、指揮官の決心が参謀の見解に影響される傾向があるとしており、沖縄戦においても参謀長の長と高級参謀の八原との間の協議と調整が、第32軍の作戦方針、つまり攻勢と防勢の選択に非常に重要な影響を及ぼしたことに言及しています(Ibid.: 24)。

巨大な地下壕と行動の秘匿
沖縄戦で日本軍は米軍に対して人員においても、武器においても数的に劣勢に立たされていました。それにもかかわらず、日本軍の周到に防御陣地を準備することによって、米軍の攻撃前進を阻んできました。
当時の日本軍の戦果について著者は次のように評価しています。
「沖縄で日本が成し遂げたことは驚異的であった。人員においては2:1、地上に配備された火力だけでも10:1と数的に劣勢であったにもかかわらず、日本は10週間にわたる周到な防御戦闘を準備し、戦略的にその地域を獲得しようとした敵を拒否し、味方の損害とほとんど同じ程度の損害をあらゆる分野において与えたのである」(Ibid.: 120)
限られた戦力で大きな戦果を上げることができた理由として、著者は日本軍の巨大な地下壕の役割が大きかったと評価しています。
第32軍は防御陣地の構築に当たって自己完結型の地下壕を準備することを重視しており、例えば指揮統制の中枢である司令部の地下壕は次のような構成となっていました。
首里城に配置された第32軍司令部の地下壕の構成。(上図は側面から、下図は上方から見た図)
指揮所や警衛等の配置だけでなく、応急処置、炊事の場所も確保されており、長期にわたり地下で生活することを想定していることが伺える。(Ibid.: 42-43)
第32軍司令部の地下壕の他にも各地で地下壕は構築され、その全長で60マイル(96.54キロメートル)であったと報告されています(Ibid.: 47)。長期にわたって持久戦を繰り広げることができるように、多くの弾薬や物資がそこに集積されていました。

部隊が生存性を高めるための地下壕に加え、第一線の中隊や大隊では地上に露出した戦闘陣地も構築されていましたが、それらの多くは巧妙に偽装されていました。塹壕の偽装自体は野戦築城としては一般的なものですが、戦術上の観点から見て興味深いのは、いくつかの地下壕が米軍の背後を襲撃する際に使用されている点です(Ibid.: 60)。これは米軍が偽装された塹壕の出入り口に気が付かせないように通過させ、後で背後から小部隊を送り込むという戦法でした。

こうした日本軍の戦法は米軍の航空偵察に対する対抗手段として有効であったと著者は指摘しています(Ibid.: 63)。
単に米軍の火力から味方の人員や装備を防護するだけであれば、地上に露出した塹壕でもその用途を果たすことができたかもしれません。しかし、それではどこに部隊が展開しているのかすぐに米軍に把握されてしまい、奇襲を仕掛けることが難しくなってしまいます。
つまり、日本軍の地下壕はいわば航空優勢を奪われた後で部隊の行動を秘匿するという意味でも活用されており、米軍としては前方だけでなく、側面や背後からの奇襲にも警戒が必要となっていました。

日本軍の弱点となった対戦車戦闘
日本陸軍の一式機動四十七粍砲。
1941年に開発が始められた対戦車砲であり、沖縄戦の対戦車戦闘においても使用されている。
こうした巨大な地下壕は米軍の前進を食い止め、また情報の保全という観点からも極めて有効でしたが、日本軍は対戦車火力の不足という致命的な弱点を抱えていました。
著者は日本軍の防御態勢を全般的に評価した上で、対戦車戦術については体系化されていたものの、十分に有効ではなかったと評価しています。
「四七粍砲であれば800ヤードまでの射距離でM4A6戦車の装甲に穴を開けることができたが、いかなる場合でも日本軍の教義において敵の戦車部隊がすぐ近くにまで接近するまで射撃が引き留められていた。これは日本軍の陣地が発見されるのを引き延ばし、照準している四七粍砲がより正確に射撃できるようにした。もし対戦車砲が使用できなければ、敵の戦車は対戦車歩兵の近くにまで引き付けられた」(Ibid.: 69)
著者の研究によれば、日本軍の対戦車戦術は三段階に区分されます。まず、敵を可能な限り引き付けながら、対戦車砲の射撃で速やかに敵の戦車を撃破します。次に随伴する歩兵を小火器によって一掃し、この段階で戦車から出てくる兵士も射殺します。最後に戦場に残された戦車を敵が回収することを見越し、破壊措置を徹底しておくだけでなく、その戦車の周囲に地雷を敷設してから退却します(Ibid.: 69-70)。

このような対戦車戦闘の要領はよく研究されたものではありましたが、最大の問題はやはり火力の不足とその火力を効率的に発揮する射撃統制に必要な通信手段が欠如していたことでした。
「日本はすでにドイツから対戦車技術を供与されていたが、それは兵器化されていなかった。また重火砲を対戦車戦闘に利用することもほとんど行われていなかった。日本陸軍は火砲を持っていたが、第一線に配置された部隊とその後方に配置された砲兵との間の無線通信を行っていなかった。無反動砲と無線機の欠如、(そして四七粍砲の部分的な不足)は極めて深刻であった。これらの装備がわずかにでも配備されていれば、米軍の戦車の前進速度は著しく低下させ、また沖縄戦を膠着状態に持ち込むことが可能であっただろう」(Ibid.: 70)
もし対戦車戦闘の能力が強化されていたならば、沖縄戦が日米双方の手詰まりに終わっていた可能性がある、という議論は当時の日本の戦略と併せて考えてみても興味深いところです。
後知恵で戦史を見れば、圧倒的に優勢な米軍に対して日本軍が抵抗することは不可能であったという印象が持たれやすいところですが、もし日本陸軍が対戦車戦闘の研究開発をより早期から着手し、沖縄戦の結果が大きく変わっていれば、その後の戦争の展開にも影響が及んだかもしれません。

むすびにかえて
沖縄戦の結果、第32軍の部隊はほとんどが全滅しました。当初、100,000名の兵力を持っていた日本軍は8週間に及ぶ戦闘で70,000名の損害を出しました(Ibid.: 118)。ただし、この戦闘では7,400名の兵士が降伏しています。これだけ多くの兵士が降伏したことは、太平洋での数々の戦闘の中でも初めてのことでした(Ibid.: 116)。それ以外の兵士については行方不明とされています。

こうした日本軍の損害と比べれば、米軍の戦死者およそ6,000名強というのは軽微な数字のように見えてしまいます。
しかし、戦死者以外の損害として負傷者や行方不明者が出ています。これらの条件を踏まえ、戦死者以外の損害を総合すると、米軍は沖縄戦に67,790名の兵士を費やした、と著者は見積っています(Ibid.: 120)。
その後、61,471名の兵士が前線に復帰することになりましたが、この沖縄戦で米軍が受けた短期的な人的損失は深刻な規模でした(Ibid.)。

これは沖縄戦における日本軍が周到な準備によって不利な戦闘状況の下でも米軍に多大な損害を与えることができたことを示していますが、著者は次のようにも述べています。
「数的に優勢であり、陸上、航空、海上の戦力をもって同時に圧倒してくる敵に直面した時に、機知に富み、決意を固めた兵士に何ができるのか。日本の沖縄での経験はそのことを示している。知性と勤勉は最先端の技術的優位性とさえ渡り合うことができる。しかし、それは一時的なものである。最終的には、勇敢な兵士と圧倒的な火力が、火力を持たない勇敢な兵士を打ち負かすことになるのである」(Ibid.: 122)
確かに沖縄戦で日本軍が成し遂げた戦果は非常に大きく、地下壕を始めとして、現地の部隊として任務遂行のために可能な努力はやり尽くしたと言えるでしょう。しかし、著者が述べた通り、そのような日本軍の努力には、やはり根本的な限界があったと言わなければなりません。

KT

関連項目
論文紹介 陣地攻撃の損害を減らすために
論文紹介 沖縄に基地を置く軍事的理由

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