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2016年8月30日火曜日

論文紹介 現代の戦場に格闘は必要なのか

現代の戦場で一般にイメージされるのは、小銃、機関銃、携帯無反動砲などを使った戦闘でしょう。それにもかかわらず、現代においても多くの軍隊で格闘の研究や訓練が続けられています。これは果たして軍事的に合理的なことだと言えるのでしょうか。
この疑問に答えるためには、戦場で兵士が格闘技術をどれだけ使用しているのかを調査する必要があります。

今回は、2004年から2008年にかけて米軍で実施された格闘技術の使用実態に関する研究成果を紹介してみたいと思います。

文献情報
Peter R. Jensen. 2014. Hand-to-Hand Combat and the Use of Combatives Skills: An Analysis of United States Army Post-Combat Surveys from 2004-2008, West Point: Center for Enhanced Performance, U.S. Military Academy.

戦場での徒手格闘の特徴
格闘という言葉からテレビで見る柔道や総合格闘技のようなスポーツをイメージするかもしれませんが、軍隊で訓練される格闘技術は徒手格闘の技術だけでなく、武器格闘の技術も含まれており、すべて戦闘状況が想定されているため、根本的に別のものです。

まず、徒手技術を構成する技術には、当身技、投げ技、関節技、絞め技があり、武器技術とは小銃、銃剣などを使用した打撃または刺突が含まれています。
もちろん、武器格闘で使用が想定される武器は小銃や銃剣だけでなく、えんぴや棍棒なども含まれています。軍隊の格闘はスポーツではないため、特別な制約が課されているわけではありません。

研究の背景について述べておくと、米陸軍では1990年代以降になって格闘の研究が重視されるようになっていった経緯があります。現在米陸軍で採用されている格闘技術は1995年に第2レンジャー大隊が中心となって策定した現代陸軍格闘計画(Modern Army Combatives Program)の成果を踏まえたものが中心となっており、これは実戦で起こりうる格闘にも対応できるように配慮されたものでした(Jensen 2014: 1)。
その後、米陸軍格闘学校(U.S. Army Combatives School)が設置されており、2002年には格闘に関する教範の改訂も実施されています(Ibid.: 2)。
その後も実用性の検証が続けられているのですが、単に格闘技術を訓練するだけでなく、周辺の状況を活用することが重要だということも明らかになっています。2014年に実戦で格闘を経験した兵士から聞き取りを行った結果、格闘技術の重要な一部として周囲の環境を利用することを多くの兵士が指摘したことが報告されました(Ibid.)。

実戦で格闘を経験する兵士は少なくない
このような研究成果を踏まえ、著者は2004年から2008年にかけて戦闘任務に参加した兵士の格闘技術の使用実態を調査することにしました。派遣された地域はイラク、アフガニスタンのいずれかであり、兵科ごとの内訳では歩兵が1231名、機甲が315名、砲兵が113名、工兵が93名、特殊作戦部隊が51名でした。階級も兵卒から下士官、士官までが含まれています。
調査対象となった軍人に関する属性データ、兵科で分類すると歩兵が最も多く、活動した地域で見ればイラクにいた兵士が最も多い。階級で見ると最も多いのは兵卒であり、やや下士官の数は少ない。ごく一部ではあるが、現地で部隊を指揮する下級士官も調査対象となっている。
(Ibid.: 5)
調査の結果、調査対象者の1,226名の内で216名の兵士が格闘技術を少なくとも1回は使用していたことが分かりました(Ibid.: 6)。著者自身が認めている通り、標本が非常に小さいため、この結果を直ちに一般化することはできませんが、調査対象者の19%、およそ5人に1人の割合になります。
該当者の216名のうち73名については実戦で格闘技術を複数回にわたって使用していることも判明しており、これは全体の6.5%に当たります(Ibid.)。
これらの数値から判断すると、現代の戦場において格闘技術が必要となる場面は決して珍しいこととも言えないと分かります。

さらに調査対象者がどのような状況で格闘を経験したのかを調べるため、(1)近接戦闘(close combat)、(2)群衆管理(crowd control)、(3)捕虜確保状況(prisoner handling situations)、(4)警衛勤務(security checkpoints)に状況を分類した上で解答が集計されました。解答で最も多かったのは(3)捕虜確保状況であり30.7%、次に多かったのが(1)近接戦闘であり、数字は14.2%にも上ります。その次が警衛勤務(6.1%)、そして暴動管理(5.7%)と続きます(Ibid.: 7)。

こうした戦闘の様相を踏まえると、特に使用の頻度が高い格闘技術が関節技と絞め技であることも理解しやすくなるでしょう。
格闘技術を組み付き(grappling)、当身技(striking)、そして武器格闘に分類し(米軍で組み付きの内容としては関節技と絞め技を指しています)、どの技術を使用したのかを調査してみると、72.6%と組み付きが最も多く、その次に使用例が多かったのは小銃を持って実施する武器格闘(21.9%)、突き、打ち、蹴りといった当身技の使用例が全体に占める割合は5.5%に止まりました(Ibid.: 8)。ちなみに、小銃を使用した武器技術は銃口や着剣した銃剣で刺突したり、小銃のさまざまな部分を利用して打撃する技をまとめたものを言います。
これは不意に発生した格闘に即応する際に、兵士が手にしている小銃を活用できる格闘技術を選ぶ傾向にあることを示唆しています。

むすびにかえて
この研究は格闘技術が現代の戦場でも重要性を失っていないことを示唆しています。最後に残された問題は訓練方法ですが、著者は現場で役立つ格闘技術を習得できるようにするためには、さらに研究が必要だとして次のように論じています。
「本研究の結果は、戦闘部隊の訓練において格闘が正規の要素であり続けるべきことを示している。さらに、戦闘部隊の訓練に当たる指揮官は、戦闘訓練において格闘技術を活用せざるを得なくなるよう演習を計画すべきである。それだけでなく、演習では節度をもった実力を行使すべき状況でも、それに対処できるよう兵士に求めるシナリオを用いるべきである。最後に、本研究で説明した近接戦闘、警衛勤務などの4種類の戦術状況に関する訓練では、統合された格闘訓練を組み合わせなければ、不完全なものとなる」(Ibid.: 11)
著者が認めている通り、どれほど技術が発達しても、格闘技術は引き続き軍隊にとって大きな検討課題であり続けるでしょう。

KT

2016年8月27日土曜日

論文紹介 作戦レベルにおける機動を考える

軍事学の文献では戦力をいかに運用するのかという問題を考えるために、戦略、作戦、戦術という3種類の分析レベルを設定することがあります。
こうすることで、個々の中隊や艦艇といった小規模な戦力の運用に関する問題と、師団や艦隊といった大規模な戦力の運用に関する問題を、うまく区別して取り扱うことができるのです。

今回は、1980年代において戦略と戦術の中間に位置付けられる作戦という分析レベルが注目された際に発表された機動に関する研究を取り上げ、その内容を紹介したいと思います。

文献情報
Franz, Wallace P. 1983. "Maneuver: The Dynamic Element of Combat," Military Review, Vol. LXIII, No. 5, pp. 2-12.

作戦レベルにおける機動の重要性
1983年、パレードに参加するソ連軍の戦車T-72。
当時、ソ連軍はNATOの防衛線を縦深突破するために高い機動力を重視する傾向があったため、西側ではそのような教義に対抗可能な防衛態勢がどのようなものであるべきか議論されていた。
1982年8月20日、米陸軍では5年ぶりに「野戦教範100-5(Field Manual 100-5)」が改訂され、その内容に大きな注目を集めていました。
当時の政治情勢として、ロナルド・レーガン大統領の下で米国の対ソ政策が見直されていた時期であり、ヨーロッパにおけるNATOの通常戦力がWPのそれを規模で下回っていることが戦略上の課題となっていました。こうした情勢の中で米陸軍が教範の見直しを通じて教義に再検討を加えることには、大きな意義があったのです。

著者がこの論文の冒頭で最初に注目しているのも、新たに定められた野戦教範の内容なのですが、特に注目したのは従来の教範で明示的に定義されてこなかった「作戦」という概念を戦略と戦術の中間にはっきりと位置付けたことでした(Franz 1982: 3)。
この改訂を著者は支持していますが、その理由として戦略と戦術を結び付けるために、作戦が理論的にも、実践的にも重要な役割を担っていると考えているためです。

その重要性は、戦争で部隊に機動を行わせる際に顕著になります。大規模な部隊による戦略機動から、小規模な部隊による戦術機動を連続的に展開することの軍事的な有効性は、すでにナポレオンによって証明されていると著者は述べています。
「かつて戦略は戦争の作戦レベルを示唆するためにしばしば用いられてきたが、近年においては、戦略は意思決定で最も高度な領域に適用されるようになっている。戦争の作戦レベル(の運用)は、ナポレオン戦争において最も著しく発展を遂げた。ナポレオンによる戦争術への最大の貢献は、このレベルにある。ナポレオンは行進、機動、交戦、そして追跡を一つの連続的な過程にまとめ上げた。これは戦略から戦術への移行に他ならない」(Ibid.: 3)
さらに著者は、ソ連軍がナポレオンが編み出した機動のモデルを理論的にも、実際的にもよく取り入れていることを指摘しています(Ibid.: 4)。米軍としても作戦レベルの機動に関する研究を早急に進めるために、著者は改めて作戦レベルにおける機動とはどのようなものであるのかを理論的に考え直すことが必要だと考えたのです。

機動を動態的なものとして考える
新たな教範では、火力、防護と並んで機動が戦闘力を構成する重要な要素であるとされており、そこでは機動が「戦闘の動態的要素であり、小規模な戦力であっても大規模な戦力を撃破することを可能にする奇襲、心理的衝撃、陣地、または戦機の利点を獲得し、また活用するために、決定的地域に戦力を集中させる手段」と定義されています(Ibid.: 6)。

これは機動の効果を要約した記述として評価できますが、教範で示された機動の形態が「正面攻撃」、「浸透」、「包囲」の3種類を挙げるに止まっており、それらの機動の組み合わせや敵と味方の相互作用について議論されていません(Ibid.)。

利用可能な資料から著者が判断したところによると、ソ連軍では攻勢作戦のために2種類の機動を定義しています。一つは側面攻撃であり、もう一つは包囲です(Ibid.)。
興味深いのは、いずれの機動の場合でも必ず正面攻撃の要素が含まれている点です。これは、敵に側面攻撃や包囲を仕掛ける際には、必ず正面攻撃によって敵の部隊を拘束し、また間隙を形成させる必要があることを踏まえた記述となっています。
ソ連軍の攻勢作戦で使用される機動の類型。上の図が側面攻撃の概念図であり、下の図が包囲の概念図。いずれの場合も敵に正面攻撃を実施しており、側面攻撃と包囲の選択はどこまで敵の後方に進出するかで区分されている。(Ibid.: 7)
ソ連軍の教範における機動の解説には優れた点があります。それは機動の問題を単なる形式の問題に単純化していない点であり、より動態的な性質のものとして把握されています。
著者はこうした機動の理解をさらに発展させるために、1944年のノルマンディー上陸作戦の事例も参照しています。
この事例では、ドイツ軍に対して連合軍が作戦レベルでの包囲を成し遂げた経緯が見て取れます。
「第3軍の作戦地区でアヴァランシュ、フージェール、ラヴァル、ル・マンからアランソンまでは、ドイツ軍の組織的抵抗をほとんど受けなかった。そのため、ウェード・H・ハイスリップ少将の第15軍団は南進してから東進し、8月13日までにファレーズの間隙のすぐ近くまで北進することができた。この4日間で、第15軍団はサンティレールからル・マンまでの75マイルを駆け抜けた。この前進によってセーヌ川の西岸にいたドイツの複数の軍がほぼ包囲された」(Ibid.: 8)
1944年8月7日から11日にかけてのノルマンディー戦線の状況図。
第15軍団は迅速な機動によってル・モン(地図右下の市街)を通過して北進し、ドイツ軍を包囲している。ドイツ軍の後方地域に進出したことで、別の地区で戦闘中だった味方の部隊の行動を助けている。
(Ibid.: 9)
こうした事例の検討から、著者は機動の本質は主導的地位を獲得することであり、戦いを主導することによって味方の行動の自由を拡大することが可能になると論じています。
敵がうまく対処できない場所、時期、方法を選択することが機動にとって最も重要なことであり、それに成功することによって敵は側面攻撃や包囲によって行動の自由を奪われ、その分だけ見方は行動の自由を得ると考えられるのです。

さまざまな機動の分類とそれらの関係
著者はソ連軍の機動に対する考え方に影響を受けていますが、さらに独自の見解も発展させています。
それが以下に示す6種類の機動のパターンであり、新教範の形式的な機動の分類方法をある程度尊重しながらも、敵と味方が相互にせめぎ合う状況を想定した機動のパターンについても踏み込んで考察しているのが特徴です。
正面攻撃:敵の戦力を正面から攻撃する機動の方式(Ibid.: 10)
包囲または側面攻撃:味方の予備で敵の弱点を攻撃する機動の方式(Ibid.)

浸透:正面から敵の後方地域に進出して、後方連絡線を狙う機動の方式(Ibid.)
これらは新教範の機動の分類をそのまま受け入れたものと言えますが、著者はさらにこれらの機動を組み合わせて行うことも可能であり、具体的には次のような機動の方式があると著者は考えています。
正面攻撃と浸透:敵に正面攻撃を加えるが、味方の予備で浸透を行う機動も行う。この場合に敵は予備を用いて浸透に対処することが予測される。(Ibid.)
正面攻撃と包囲・側面攻撃:味方の予備で敵の弱点を狙うが、正面攻撃で敵の主力を拘束する機動、敵は予備をもって包囲に対処することが可能。(Ibid.: 11)
浸透と包囲・側面攻撃:浸透と包囲を組み合わせた機動であり、正面攻撃は実施しない。敵は側面に予備を使用するのか、浸透に対処するのかを判断する必要が生じる。当初配備した部隊から戦闘に参加していない部隊を抽出し、味方に包囲を仕掛けることも考慮される。(Ibid.)
機動の形態の間の関係を示した概念図。
正面攻撃で敵を拘束し、包囲で側面に敵を引き付け、浸透で敵の防御態勢を崩す、という機動の組み合わせ方が一般的に示されている。戦いを主導し、敵の行動の自由を奪うことが機動の本質という著者の説が反映されている。(Ibid.)
これらの機動のパターンを考えると、正面攻撃、包囲、浸透という3種類の機動を知るだけでは不十分であり、その組み合わせ方について習熟する必要が生じてきます。

この点について著者は「これら機動の3形態を動態的に運用することが、敵の平衡を動揺させ、勝利をもたらすのである。火力の集中とその使用は真の終わりを意味するに過ぎない。それは敵に抵抗を続ける意思を心理的に破壊するということである」と述べています(Ibid.: 11)。
これは、作戦レベルの運用において、火力を指向するためには、機動が適切でなければならないという意味であり、それだけに作戦指導において各部隊をどのように機動させるべきかを知ることが重要となるのです。

むすびにかえて
今回の論文は1980年代のソ連軍の脅威を念頭に置き、米軍としてソ連軍の機動に対処できるだけの能力を構築することを目指す内容であったと言えます。
この論文の著者が示した見解に対しては、読者によって異論があるかもしれません。機動の方式をどのように分類するのかという論点に関しては、さまざまな考え方があり得るので、ここで示された以外の機動方式を分析に加えるべきだという意見もありうるためです。
しかし、1982年の当時にあっては、ソ連軍の機動戦に関する研究が米軍のそれよりも全般として優れていたということについては多くの人が同意すると思います。

敵の全縦深にわたって打撃を加えるという作戦の基本思想は1930年代にソ連軍で確立され、第二次世界大戦でドイツ軍との熾烈な戦いからその妥当性が実証されました。
冷戦に入っても1980年代に至るまで長い時間をかけて作戦レベルの機動に関する研究が継承されており、それはソ連軍の教義において中心的要素と位置付けられてきました。

こうした研究の蓄積がほとんどなかったことが、1980年代に米軍において問題として認識されるようになり、そうした問題に取り組む初期の論文として今回の研究が登場してきました。
その後、米軍ではNATOの有事の対ソ作戦として、ソ連軍の後続部隊が第一線に到達する前に航空優勢を獲得し、航空阻止によって敵を撃破するというエアランド・バトル(Air-Land Battle)を構想するようになったのです。

KT

関連項目
陸軍の戦術で用いられる攻撃機動の五類型
論文紹介 参謀総長モルトケの戦争と作戦術の原点

2016年8月23日火曜日

論文紹介 WEI/WUVとは何か、いかに応用すべきか

軍事的バランスの評価方法は、安全保障をめぐる政策論争で最も重要なテーマの一つであり、これまでにもさまざまな定量的アプローチが模索されてきました。
WEI/WUVはそうした研究成果の一つであり、これは兵器効率指数(Weapons Effectiveness Indicator, WEI)、加重単位価値(Weighted Unit Value, WUV)という指数によって軍事的能力を定量化し、それを比較することによって軍事行動の結果、つまり勝敗を説明しようとする方法論でした。1970年代からヨーロッパ情勢での軍事分析にも使用されてきた方法論です。

今回は、第二次世界大戦でドイツがフランスに侵攻した1940年の西方電撃戦の分析に、このアプローチを用いることで、その意義と限界を明らかにした研究を取り上げ、その内容について一部紹介したいと思います。

文献情報
Karber, Phillip A., Grant Whitley, Mark Herman and Douglas Komer. 1979. Assessing the Correlation of Forces: France 1940, BDM/W-79-560-TR, McLean: BDM Corporation.

WEI/WUVとは何か
冷戦期にヨーロッパでソ連軍の脅威が強く認識されるようになると、東西両陣営の地上部隊の勢力を体系的に分析し、軍事的にどちらが優勢なのかを評価する手法を編み出すことが求められるようになった。WEI/WUVはその成果の一環であったが、人員や武器の規模、効率といった要因が重視される傾向があるとの批判もあった。
WEI/WUVとは、1974年に米陸軍概念分析局(Concept Analysis Agency, CAA)が開発した指数であり、特に地上兵力を主体とした図上演習での利用が想定されたものです。

名称から難解な印象を持たれるかもしれませんが、それほど理解しにくいものではありません。
戦域に展開された敵と味方の陸上戦力のバランスを比較するために、それぞれの武器体系の保有数だけでなく、その効率性を考慮に入れるものであり、それを重みづけ手法を使って戦闘力を評価するという指数です。
従来の軍事分析では、人的戦力や指向可能な師団を比較に止まり、武器や装備の性能という要因が評価に反映しにくい事情があったのですが、WEI/WUVを導入すれば、こうした側面も分析結果に反映させることが可能となります。

具体的な数値を使って、基本的な考え方を説明します。
まず普通科の装甲兵員輸送車(APC)30両、機甲科の戦車20両、野戦特化の榴弾砲6門が配備された部隊の能力を考えてみます。また、それぞれの職種によって研究開発の進展にばらつきがあり、APCは平均的な性能が見込めますが(APCのWEI=1.00)、戦車はやや技術的に遅れており(戦車のWEI=0.90)、榴弾砲はかなりの遅れが見られると想定しましょう(榴弾砲のWEI=0.80)。
ただし、戦場において発揮される戦闘力、特に火力を考慮すると、APCはそれほど大きな威力は持っておらず(APCの重みづけとして×1)、戦車の方がより優れており(戦車の重みづけとして×6)、また榴弾砲はさらに大きな威力を発揮できると想定します(榴弾砲の重みづけとして×8)。

このように想定した上で部隊としてのWUVを計算すると、
30(APCの保有数)×1.00(WEI)×1(重みづけ)+20(戦車の保有数)×0.90(WEI)×6(重みづけ)+6(榴弾砲の保有数)×0.80(WEI)×8(重みづけ)=30+108+38.4=176.4
という結果が得られます。これを敵と味方それぞれに行えば、どちらが軍事的に優勢であるのかを定量的に判断できることになります。

実際の分析においては、武器体系の分類をより詳細にした上で、M1戦車や155ミリ榴弾砲等のように個別にWEIを適用して計算を行います。またWEI/WUVでは評価項目である武器の分類ごとの重要性をより厳密に重みづけしなければなりません。
この方法論は米陸軍として打ち出した最初の体系的な陸上戦力評価手法でしたが、根本的な問題がありました。それは軍事的能力を構成する物質的側面があまりに重視されているということです。つまり、訓練や統率、もっと言えば、戦略、作戦、戦術といった戦力運用の巧拙という要因が戦力分析から厳密に切り離されているため、軍事行動の結果を予測する際には問題が出てくるのです。

WEI/WUVから得られる知見とその限界
1940年にドイツ軍が連合軍に勝利した西方電撃戦の経過を示した地図。
ドイツ軍が中央部から連合軍の防衛線を突破し、北部に配備した連合軍の部隊が孤立させられている。
(Karber et al. 1979: 3-3)
前置きが長くなりましたが、この論文の狙いの一つは、このWEI/WUVという方法論の意義と限界を見極めることにありました。
この方法論がヨーロッパでNATOとWPの相対的な勢力関係を分析するために使用されていたことは既に述べましたが、その妥当性について考えるためには、過去の事例の説明に応用できるかどうかという検証作業が不可欠でした。

そこで選ばれた事例が1940年にドイツ軍の圧勝で終わった西方電撃戦の事例であり、これは歴史的な重要性もさることながら、1970年代に西側諸国が危惧していたWPの侵攻シナリオとも類似する特徴を持っていたため、研究の意義が大きいと考えられたのです。
しかし、結論から述べると、WEI/WUVの方法論を機械的に当てはめるだけでは、ドイツ軍に対してフランス軍を中心とする連合軍の方が優勢であるという分析結果になり、ドイツ軍の電撃戦を説明することができないことが明らかになりました。

WEI/WUVを用いた分析の結果を要約すると、次のようになります。
(1)連合軍(フランス、イギリス、ベルギー、オランダ)はドイツ軍に対して部隊規模(マンパワー)において1.22(=3,368,000/2,758,000)の優勢があった。武器ごとに比較しても戦車、火砲、装甲輸送車、小銃の保有数で勝っており、ドイツ軍が優勢なのは対戦車砲、迫撃砲、機関銃、航空機、高射砲のカテゴリーであった。
(2)機甲・対機甲戦、火力支援(砲兵火力)、航空・防空能力という3つの主要な領域における能力を加味して比較しても、ドイツ軍が連合軍に対して優勢であったという証拠は得られない。
(3)以上の理由から、戦域レベルにおいて彼我のWUVを比較するだけでは、ドイツ軍の電撃戦の戦果を説明することはできない。
もっと単純に言えば、1940年の時点でWEI/WUVのような定量化のテクニックを使って、戦域レベルにおけるドイツ軍と連合軍の戦力を比較できたとしても、ドイツが決定的勝利を収めることを事前に予測することはできなかったということが示唆されたのです。
したがって、1970年代にこの方法論を用いてNATOとWPの戦力を比較し、どちらが優勢であるかを評価したとしても、将来に戦争が勃発した際に勝敗がどうなるかを判断できるわけではないということになります。

しかし、著者らはこの問題を回避する方法があることについても論じています。つまり、彼我の戦力全体を一度に比較するのではなく、戦域でそれぞれ行動する部隊ごとに戦力を比較すれば、より正確に戦闘結果を説明できると著者らは考えたのです。

そもそも、西方電撃戦では連合軍が構成した防衛線に対してドイツ軍が総攻撃を加えたわけではなく、北部、中央部、南部の3地域に作戦地域を区分した上で、中央部に当たるアルデンヌ地方を迅速に攻撃し、これが北部と南部の連合軍の部隊を分断しました。この経緯を踏まえてWEI/WUVを適用する場合、ドイツ軍と連合軍のWUVを全体的に比較するのではなく、それぞれの作戦地域ごとに比較する方が的確と考えられます。
WEI/WUVに基づく連合軍(白色)とドイツ軍(斜線)の作戦地域別の勢力比。
 北部と南部では連合軍が1に対してドイツ軍の勢力が0.6の比率しかないが、中央部ではドイツ軍が4倍以上の勢力を使用しており、ドイツ軍の作戦行動の重心が中央部にあったことが確認できる。(Ibid.: 4-4)
WEI/WUVの方法論を用いて、連合軍に対する作戦に使用されたドイツ軍の部隊がそれぞれ連合軍に対してどの程度の勢力比だったのかを分析すると、北部正面を担当したB軍集団は0.6、南部正面を担当したC軍集団は0.59だったのに対して、中央部正面を担当したA軍集団は4.20の勢力比でした。
この分析結果は西方電撃戦でドイツ軍が大きな戦果を上げたことを裏付けるものでした。
著者らはWEI/WUVを戦役全体の勢力比の分析に使用するよりも、戦域にどのように部隊が配置されているのか、それが攻撃または防御の際にどのように配分されているのかを分析するために使用する方が重要であると指摘し、、歴史上の状況であれ、仮想上の状況であれ、WEI/WUVを適用するのであれば、個々の部隊の配備に着目すべきであると述べています(Ibid.: 4-9)。

むすびにかえて
この研究の成果は、まだ発展途上の方法論だったWEI/WUVの利点と欠点の両面に対する専門家の理解を深めることに役立ち、その後の図上演習でも広く使用される分析手法として確立されていきました。

軍事史に精通している専門家であれば、1940年の電撃戦の事例を理解するためには、連合軍とドイツ軍の戦力を全般的に比較するだけでは不十分であり、戦域のどこに、どれだけの部隊が配備されており、それがどのように行動するかが重要である、ということは当然だと思われるかもしれません。
しかし、この研究が重要な理由は、ドイツ軍の作戦が連合軍の弱点を突くものであったことを定量的手法で示したことだけではありません。
どのような条件であれば、連合軍がドイツ軍に勝利することができたのか、という仮想的状況についても具体的な数値さえ使うことができれば、定量的に考察できるようになったということが重要です。これは従来の歴史学的アプローチではできなかったことです。

KT

関連記事
ランチェスター方程式で考える戦力集中の原則

2016年8月20日土曜日

リデル・ハートの軍事教育論

「諸君に考える任務はない」というのは軍隊の決まり文句の一つであり、あらゆる物事を斉一化、標準化することで合理化しようとする軍隊ならでは考え方を表してもいます。
これは戦略の研究で知られるリデル・ハートが批判した考え方でもありました。リデル・ハートは戦争を理解するためには、一般大学に相当する学識が必要であり、軍事教育を改革することを主張したのです。

今回は、リデル・ハートが取り上げた軍事教育の問題、特に士官に対する教育の問題について紹介してみたいと思います。

軍人として具備すべき適応性
ベイジル・ヘンリー・リデル・ハート(1895-1970)
英国の軍事学者、現代の戦略研究の古典とされる『戦略論』の著者
軍事思想史を研究する中でリデル・ハートがテーマとしていたのは、適応性(adaptability)の問題でした。
つまり、戦略の本質は、敵を壊滅に追い込むといった抽象的、観念的な原則を適用することではなく、現実的な目標を達成するために適当な手段を柔軟に選択し、必要があれば目標そのものを見直すという柔軟な発想こそが重要であると考えたのです。
「戦争というものは、凡庸の戦略屋がいとも簡単に割り切れるほど無邪気なものではない。戦略家は、特に意味深長な混乱によって生ずる敵の弱点に対する集中を意識して集中の原則を一層深刻に勉強することを要する。また戦略家は代案計画、すなわち他目標へ随時転換できるということにも新たな理解をもつことが必要である。これは戦争の本質上当然備えておるべきものであるにもかかわらず、これまでの教科書の中には認められなかった原則である」(174-175頁)
これは軍人、特に士官として職務を立派に成し遂げるためには、広い知識と深い思索が必要であることを示唆しています。
リデル・ハートは、サックス、フリードリヒ二世、ギベール、ナポレオン、ジョミニ、クラウゼヴィッツ等の軍事思想の展開を検討する中で、肯定的な意味でも否定的な意味でも、戦争様相の変化に素早く適応できるよう、軍事学について研究していることが望ましいと考えていました。

軍事教育のあり方を改善すべき
しかし、リデル・ハートはこの教訓を活用する上で障害があることにも気が付いていました。軍人はさまざまな理由から、軍事学の研究に取り組むことができないという問題です。
「ここで我々は、新たな問題を発見する。聡明な軍人たちをその職に止まらせることは、彼らの知識を向上させることよりも容易である。平時の軍務では、絶えず興味を持つ付ける事は稀で、むしろ興味を失うことの方が多い。将校達は下級の階級の間、あまりにも連続的に恒常勤務につくため勉学と思索の暇がない。特に伝統的に、スポーツや諸競技に向ける時間を考慮するとなおさらである。その勤務は時には興味があり時には退屈であるが、何れの場合でも、戦争の学問的研究に使用し得る時間はほとんどない。そして軍人の勤務の大部分は地方または植民地の駐屯地で過ごす傾向があり、そこは前述のような知的探求に便利な場所でもなく、知的な刺激を与えるような環境の所でもない。おそらくこれを矯正する最善の方法は、前途有望な将校たちをある期間、員外・聴講・委託学生として大学派遣勤務につかせることであろう。つまり、総合大学の特別研究員制度の考え方を軍事面で応用する制度をつくることであろう」(同上、184-185頁)
リデル・ハートがこのように論じた背景には、19世紀から20世紀にかけて戦争の形態が総力戦になっていたことも関係していました。
軍事学の研究対象が政治、外交、貿易、経済、社会、科学技術等の国家的諸課題にまで広がり、内容的にも高度化していたのです。

リデル・ハートも述べていることですが、軍人の職務経験の大部分は演習に依存しており、それは「外科医の訓練が蛙や貧者の死体の解剖に限られているようなもの」なのです(同上、185頁)。
だからこそ、軍人は演習の限界を補うために、理論的な研究を重視する必要があり、これは高度な学問的訓練を必要とするのです。

独りよがりな研究が不完全な教育の原因
リデル・ハートは軍事教育において歴史を学ぶことの重要性を強調していますが、自身が英軍の士官だった経験も踏まえて、当時の陸軍の戦史研究がいかに低水準のものであったことを率直に認めています。
「あいにく職業軍人は、ごく一部の例外者を別として、軍職の分野に属するけれども特殊な知識を要するものについては素人なのである。彼らの戦史研究は、後半にわたる視野の広いものでもなく、徹底的に突っ込んで研究したものでもない。すべての戦役についての何らの背景も知らず、広い知識を身に付けもせず、若干の会戦について一心不乱に勉強するという方法を習慣的に行っているだけである。まして、こうした数少ない会戦の研究は、それに関する何冊かの既刊書の記事や論評中の事実の吸収とその推論以外の何物でもない。このような他人の研究に依存して事実を知ることは、たとえそれらの本が真の研究の成果であっても、知識を得るためには余りにも他力本願なやり方である。だが、如何に多くの二次的な資料を批判的態度を忘れて収集しても、それでは事実に関するまた聞きの知識よりさらに信頼できないものしか得られない」(同上、186頁)
またリデル・ハートは研究経験が浅いと、系統的に文献を調査することができず、知らず知らずのうちに歴史的事実よりもフィクションを楽しんでしまう傾向があるとも指摘しています(同上、186頁)。
このような学問的に低水準な研究は陸軍で横行しており、リデル・ハートに言わせれば、「陸軍における戦史研究は、陸軍大学校に置いてさえ、上出来なものでも我々の目から見れば、史学部以外の在学学生の作業水準と同程度」と評されています(同上)。

リデル・ハートは第一次世界大戦で露呈した軍事的手詰まりの最大の原因は、学術的研究による検証作業を軽視し、独りよがりな軍事理論を構築したことにあったのだとも指摘しています(同上、187頁)。

むすびにかえて
第一次世界大戦の記憶がまだ生々しく人々に思い出された時期に、リデル・ハートがこうした革新的とも言える軍事教育のモデルを提唱したことは重要な意味を持っていました。
第一次世界大戦はそれまでの軍事的常識や戦闘の様相を一変させた戦争でした。古い慣習にしがみついた戦術や戦略はもはや有効ではなくなっていましたが、それが抜本的に見直されるまでには長い時間がかかりました。前線にいたリデル・ハートは無知の代償がいかに多くの兵士の命で償われたのかを知っていたのです。

軍人は考える必要がある仕事であり、それに相応しい学識を備える必要があるのだから、学術的に高い水準の軍事教育制度を整備すべき、というのがリデル・ハートの考え方でした。
ただし、それが見せかけの改革であってはならないともリデル・ハートは付言しています。
真の学問的態度、思想の自由と研究の公正さが伴っていなければならず、何よりも新たな考え方に対してオープンに議論できる環境が必要だと信じていました(同上、189頁)。
だからこそ、リデル・ハートはこうした議論を通じて、「諸君には考える任務がある」と呼びかけたのでしょう

KT

参考文献
Liddell Hart, B. H. 1934. The Ghost of Napoleon, New Haven: Yale University Press.(邦訳、リデル・ハート『ナポレオンの亡霊―戦略の誤用が歴史に与えた影響―』石塚栄、山田積昭訳、原書房、1980年)

2016年8月18日木曜日

学説紹介 海上で強制外交を成功させるには

国家は自らの政策を遂行する手段として軍隊を保有していますが、それを積極的に使用する事態は可能な限り避けなければなりません。

しかし、相手国が軍事力を背景とした現状変更の動きを示すとなれば、我が国としても軍事力をもって現状維持のために抵抗する用意があることを相手国に知らしめなければなりません。

国際関係、外交の研究では、我が国の武力をもって相手国の脅迫を制止するためには、どのような外交方策が必要であるかが研究されてきました。

今回は、特に海上において強制外交を成功させるために、どのような条件があるのかを考えてみたいと思います。

強制外交とは何か
強制外交(coercive diplomacy)とは、本格的な武力紛争を回避しつつ、相手国の望ましくない行動を撤回させるために、我が国に武力行使の準備があることを誇示して行う外交の一形態です。

強制という用語が持つ語感から、現状打破を試みる外交と勘違いされることもありますが、あくまでも強制外交は現状維持のための外交であり、いわゆる武力を背景にした脅迫に対抗する外交として位置付けられます。

例えば、政治学者のジョージは、強制外交の趣旨について、「相手が納得するのに十分な信頼性があると思わせるような、不服従のための報復の脅威を伴って、相手に要求を撤回させること」を追求するものだと説明しています(George 1991: 4)。

これは現状維持という目的から強制外交を定義したものと理解できます。
つまり、強制外交は本質的に攻撃的な特徴を持つ脅迫(blackmail)とは区別すべきものであり、防御的な方策として理解しておかなければなりません。

政治学の文献では、強制外交の重要性を示す事例として、しばしばキューバ危機を取り上げています。

1962年、ソ連はキューバに対して核ミサイルの提供を含む軍事支援を実施しました。
それに対して米国は本土を射程に収めるミサイルを深刻な脅威と判断し、ソ連の動きを止めるために、海上封鎖を行いながらソ連と交渉を重ねます。

最終的に、米国はトルコに配備していたミサイルを撤去することを条件として、キューバからのミサイルの撤去にソ連を同意させ、核戦争勃発を回避することができました。

この事例からも分かるように、強制外交は硬軟織り交ぜた外交技術であり、一方で平和を保ちながら交渉を重ねつつ、他方では戦争の準備として部隊の動員や展開を進めていかなければならないのです。

強制外交と相性がよい海軍
強制外交で常に重要な問題となるのは、使用する兵力の規模とその形態です。
強制外交と相性がよい兵力の形態は海上戦力であると一般に考えられており、その理由として運用上の柔軟性がしばしば挙げられています。

陸上戦力は領土とその住民を継続的に支配し続ける際には便利ですが、機動性が乏しく、一度その地域に展開すると、撤退させることも容易ではありません。

航空戦力は機動性に優れており、地理的制約を受けずに迅速かつ柔軟に展開することができますが、航空機の特性上、長時間にわたって同一の地域に展開し続けることができません。

海上戦力は、陸上戦力や航空戦力に比べれば、作戦運用において大きな柔軟性を持っています。航空戦力ほどの機動力はありませんが、それでも海上であれば世界中に迅速かつ機動的に展開し、洋上補給を受けることができれば、長期間にわたって海上に留まることも不可能ではありません。

また海面に展開する兵力の規模についても状況や作戦の方針によって必要な変更を加えやすく、陸上戦力ほど撤退に時間を要しません。

敵対関係にある国家に対する強制外交だけでなく、友好関係にある国家との防衛交流を展開することもできることから、海軍を用いた外交全般を海軍外交(naval diplomacy)と総称する研究者がいることも、海軍の外交的意義を裏付けるものです(Booth 1977: 27)。

戦力の規模が一つのメッセージになる
強制外交を成功させるためには、軍事力が必要となりますが、それは陸上戦力や航空戦力ではなく、海上戦力の展開が原則として望ましいと言えます。

艦艇を派遣し、現地の状況に応じた任務を与え、相手の対応によって展開する戦力を拡大または縮小させれば、そのことが相手国の政府に伝わり、引いては外交交渉での姿勢を変化させることにも繋がります。

しかし、強制外交の問題はこれだけでは終わりません。結局、自国が戦力を展開したとしても、相手がそれについて考慮するに値しない規模だと判断すれば、強制外交は成り立たなくなるためです。

これは相手国の動向に応じた戦力を自国としても展開しなければならないことを意味します。

1996年の台湾海峡危機では、中国軍が台湾海峡で演習を繰り返し実施し、その規模を拡大し、頻度も増加させるという方法で、軍事的に威嚇してきました。

具体的な活動の内容としては、台湾の港湾都市を海上封鎖し、着上陸作戦を実施し、台湾の海岸から20浬の地点にミサイルの発射実験を行い、また10万名以上の地上部隊を海峡に終結させ、公然と演習の目的が台湾の独立を阻止することであると表明したのです(Ross 2000: 15)。

この時の米国は空母を派遣して中国を牽制したとよく言われていますが、単に空母を派遣したのではなく、2個の空母戦闘群に相当する大規模な海上部隊を展開していました。

戦闘で空母を運用する場合、空母戦闘群(Carrier Battle Group, CVBG)が編成されますが、これは1隻の航空母艦または原子力航空母艦、6隻の巡洋艦、駆逐艦、フリゲート(内最低でも3隻はイージス・システム搭載)、2隻の潜水艦で構成されるもので、後方支援のために1隻の高速戦闘支援艦(Fast Combat Support Ship)も行動を共にします。

これだけでも大変な規模の戦力と言えますが、空母1隻だけでは艦隊の防空のために相当の艦載機を使用しなければならないため、実際に敵に指向できる打撃力が限定されてしまいます。

したがって、空母として最大限の打撃力を発揮するためには、空母戦闘部隊(Carrier Battle Force, CVBF)を編成する必要があります。

これは複数のCVBGの兵力を組み合わせた海上部隊であり、CVBGが8隻で編成されますが、CVBFの勢力は16隻を超える場合もあります。

少し細かい説明になってしまいましたが、要するに当時の台湾海峡危機で米国が送り込んだ戦力は、中国軍が動員した部隊の規模に見合うだけのものであり、米国として台湾を防衛するという姿勢を確固として示すものでした。

中国は軍事的な不利を認めたからこそ、それ以上の行動を差し控えたと考えられるのです。

むすびにかえて

近年の中国の海洋進出にどのように対応するかは、日本にとって真剣な安全保障上の問題になっています。

これは自衛隊を出動させればよい、という単純な問題ではありません。中国は戦争に至らない範囲で緊張状態を作り出すことで、有利に外交交渉を主導しようとしています。

このような相手に軍事力で問題解決を図れば、我が方にも軍事的損害が発生しますし、外交的な事態収拾が図れなくなる危険もあります。

このような状況で重要なことは、緊張事態を不必要にエスカレートさせず、かつ日本として相手の現状変更の企図を断念させることであり、そのためには強制外交を確実に実施できるように備えるべきです。

しかし、強制外交を日本の海上自衛隊だけで実施することには自ずと限界があります。相手の出方によっては非常に大規模な戦力を現場に展開しなければならないことは、台湾海峡危機の事例で述べた通りです。

一つの考え方として、有事に至らない危機的状況であっても、在日米海軍の部隊が現地に迅速に展開できるように日本として可能な限り支援することが重要でしょう。

海自の即応体制を平素から強化しておくことも、強制外交の成功に寄与する取り組みだと思います。

今後、日本が中国と渡り合うために、こうした取り組みを通じて強制外交で有利な立場に立てるように努力すべきではないでしょうか。

KT

関連記事
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時事評論 尖閣諸島、新たな段階に入る

参考文献
Booth, Ken. Navies and Foreign Policy, London: Croom Hlem Ltd., 1997.
George, Alenxder. Forceful Persuasion, Washington, D.C.: U.S. Institute of Peace, 1991.
Ross, Robert S.  "The 1995-1996 Taiwan Strait Confrontation: Coercion, Credibility, and Use of Force,"International Security, Vol. 25, No. 2, (Fall 2000) pp. 87-123.

2016年8月14日日曜日

論文紹介 NATO加盟国は対テロ作戦で団結せよ

2015年11月にパリで起きたテロ事件、2015年と2016年にトルコで相次いだテロ事件を受けて、近年のヨーロッパ諸国ではテロリズムに対する脅威が強く認識されるようになっています。
大西洋条約機構(NATO)は対テロリズム作戦の態勢を強化し、これまで以上に域内の対内的安全保障に取り組み始めています。

今回は、このような取り組みにおいて多国間での特殊作戦部隊の連携を重視すべきと主張する研究を紹介したいと思います。

文献情報
Miller, Matthew E. "NATO Special Operations Forces, Counterterrorism and the Resurgence in Europe," Military Review, July-August 2016, pp. 55-60.

NATOは専門の対テロ部隊を必要としている
一般にNATOはヨーロッパの防衛の基盤として知られていますが、それは対外的な脅威を想定した組織であり、対内的な脅威は十分に考慮されてきませんでした。そのため、これまでのNATOで特殊作戦部隊は対テロ作戦を主な任務とされていません。著者はこのような現状では大規模なテロリズムの脅威に対処することは困難であるとして、次のように論じています。
「国際テロリストの脅威がNATO全体に及んでいることが明々白々であるにもかかわらず、政策の間違いか、現実からの逃避のいずれかかによって、対テロ作戦(counterterrorism)は未だにNATOの特殊作戦部隊の主要任務となっていない。その結果、公式に定められた対テロ任務を除けば、NATOの特殊作戦部隊は、いざ大規模なテロの危機が起きた際には、協調の問題に取り組むにはあまり効率的ではないやり方であるものの、公式もしくは非公式に加盟国の特殊作戦部隊の対テロ部隊に取って代わられることになるであろう。したがって、ISの急速な拡大とヨーロッパにおけるテロリズムの脅威の拡散という観点から、今こそNATOに対テロ任務を専門とする部隊を創設すべきである」(Miller 2016: 56)
歴史的に見れば、ヨーロッパ諸国では大規模なテロリズムが発生するごとに対テロ作戦の能力を強化してきました。しかし、それは各国が独自の取り組みに止まり、多国間の協調に基づくものではありませんでした。
1972年のミュンヘン五輪でパレスチナの武装勢力が起こした人質事件は最初の重要な契機として位置付けられています(Ibid.: 57)。この時の人質救出作戦の教訓を受けて、ドイツでは最初の対テロ部隊であるGSG-9が創設され(Ibid.: 57-58)、フランスでも国家憲兵隊治安介入部隊(GIGN)が設置されました(Ibid.: 58)。

しかし、ここに問題が生じてきました。ドイツの対テロ部隊は法執行機関の下に置かれたにもかかわらず、フランスの対テロ部隊は軍隊の下に置かれたのです。このことで、国内で軍隊が警察に代わって法執行に当たることを禁じている一部のNATO加盟国と、そうでない加盟国との間の連携を困難にしただけでなく、結果としてNATO全体の対テロ作戦の構想を発展させることが阻害されてしまいました(Ibid.)。
NATOで指導的立場にある米国も、NATOの戦力として対テロ部隊を充実させることはしておらず、これまで独自に軍隊と警察の両方で対テロ部隊を設置するという政策を採用しています。著者はこうした政策を全面的に見直すべきであり、NATOとして対テロ作戦で団結することを主張しています。

対テロ作戦を遂行できないNATOの教義
次に著者が論じているのは、NATOの特殊作戦部隊が対テロ作戦を効率的に遂行するために、対処のための要領について協調を図ることが重要である、ということです。
すでにNATOは特殊作戦部隊の教義として『特殊作戦のための連合統合教義(AJP 3.5: Allied Joint Doctrine for Special Operations)』を策定しており、そこでは軍事援助(military assistance)、特殊偵察(special reconnaissance)、直接行動(direct action)という3つの主要任務が定義されています(Ibid.: 59)。しかし、その文書では対テロ作戦に関する記述が非常に限られており、具体的な取り組みとして十分なものではありませんでした(Ibid.)。

その後、「対テロ作戦に関するNATOの政策方針(NATO's Policy Guideline on Counter-Terrorism)」も策定されていますが、加盟国同士が協力して事件に対応するという方針は退けられています(Ibid.)。やはりここでも対テロ作戦を遂行するための国家を超えた取り組みの必要性が軽視されたのです。NATOは特殊作戦の基本的な考え方として、高いリスクがあり、また特殊作戦の必要があり、隠密に行動すべき状況があれば、特殊作戦部隊を使用すべきであると定めています。
それにもかかわらず、対テロ作戦という個別の問題に対してNATOの特殊部隊の兵力を使用できないという現状は矛盾しており、是正すべきではないかとして、著者は次のように述べています。
「NATOの加盟国は圧倒的なテロの危機に帳面した際に支援となる単一の中央組織を必要としており、NATOの特殊作戦部隊こそがその組織になるべきである。また、NATOの特殊作戦部隊は自らの対テロ作戦能力を友好国の要望に合致するように適切に強化されなければならない」(Ibid.)
ヨーロッパという一つの地域で対テロ作戦を遂行するためには、結局のところ各国ごとの警察力、軍事力を組み合わせるだけでは不十分です。NATOの下にある特殊作戦部隊の体制を強化し、対テロ部隊としての機能を発展させれば、少なくとも安全保障の観点から見て、それが最も効率的なテロ対策となるのではないかと著者は考えています。

むすびにかえて
ヨーロッパ諸国が今後も単一の経済圏であり続けるためには、対外的安全保障だけでなく、対内的安全保障の体制を統一していくことはやむを得ないことであると思われます。人や物の移動が自由になるということは、それを利用した凶悪犯罪も可能となるのですから、これは安全保障の観点から見れば当然のことです。

しかし、そのためには、各国国内でそれぞれ異なる司法や法執行機関の制度や権限といった複雑な問題にまで踏み込んで国際協力を進めるという政策決定が下される必要があります。長い歴史と大きな多様性を持つヨーロッパ諸国がこうした決定を政治的に受け入れることはほとんど不可能に近いと言えるでしょう。これは国家の主権的権利と密接に結びついた問題であるためです。恐らくは、このNATOにおける対テロ作戦の問題は未解決のまま次の世代にも引き継がれるでしょうし、このNATOの安全保障体制の弱点は今後も狙われ続ける可能性が大きいと言わざるを得ないでしょう。

KT

2016年8月10日水曜日

文献紹介 ハートランドの支配ではなく、リムランドの支配を重視せよ

国際関係、特に安全保障を研究する人間にとって、地理は常に重要な研究対象とされてきました。その国家が世界においてどのような地理的位置に存在するのか、どのような形状、形態の国土を持っているのかによって、その国家が選択すべき政策は大きく変わってくるためです。
さまざまな研究者がこの問題に取り組んできましたが、特に米国の政治学者ニコラス・スパイクマン(Nicholas J. Spykman)は、地理が国際政治に与える影響を体系的に分析した功績で知られています。

今回は、彼の著作『平和の地政学』を取り上げ、どのような内容だったのかを一部紹介したいと思います。

文献情報
Spykman, Nicholas J. 1944. The Geography of the Peace, New York: Harcourt, Brace.(邦訳、ニコラス・スパイクマン『平和の地政学 アメリカ世界戦略の原点』奥山真司訳、芙蓉書房出版、2008年)

ランドパワーとシーパワーの対立
マッキンダーの地政学の理論で示された地域区分では、世界が3個の地域に区分されている。
ユーラシア大陸の中心にある枢軸地域(pivot area)またはハートランド、その周辺にある内側三日月地域(inner crescent)、さらにその外方にある外側三日月地域(outer crescent)とそれぞれ名付けられているが、スパイクマンはいくつかの名称を修正しながら使用している。
この研究では、国際情勢を分析する目的で、最大の大陸であるユーラシア大陸に着目した上で、世界を3個の地域に区分できると想定しています。
第一の地域はハートランド(heartland)であり、これは外洋の海上交通から地理的に隔絶されたユーラシア大陸の内陸部をいいます。第二の地域はリムランド(rimland)であり、これはハートランドに隣接して位置するユーラシア大陸の沿岸地域をいいます。第三の地域はオフショア(off-shore)であり、これはユーラシア大陸と海で切り離された島嶼や沖合の大陸のことをいいます。
こうした区分の仕方は著者の独創ではなく、マッキンダーの過去の研究成果を踏まえたものとなっています。

興味深い点は、マッキンダーが国際政治で優位に立つために重要なのは、ハートランドの支配に他ならないと主張したのに対して、著者はそうではないと批判したことです。著者はマッキンダーの学説を次のように紹介しています。
「マッキンダーは、「ユーラシア大陸における政治面でのおおまかな動きは、ハートランドから外に向かおうとする遊牧民がリムランドに対してかける圧力によって説明できる」と主張している。ロシア帝国は海へのアクセスを求めたが、19世紀にはユーラシア大陸周辺の沿岸に勢力をくまなく拡大していたイギリスのシーパワーにその進路を妨害されている。イギリスの帝国的なポジションは、ユーラシア大陸を海洋側から周辺の海の公道に沿って圧倒的な海軍力を維持して維持することによって成り立っていたのだ。このポジションを脅かす唯一の脅威はユーラシア大陸の沿岸部に競争相手となる新たなシーパワーが登場することや、ロシアのランドパワーが沿岸部に到達することであった」(邦訳、スパイクマン『平和の地政学』100頁)
マッキンダーは19世紀にハートランドを支配し、ランドパワーとして勢力圏を拡大していたロシアが、シーパワーのイギリスの抵抗を受けた事例を示し、これがランドパワーとシーパワーの対立という歴史的パターンに従っていると考えていました。
確かに、19世紀の歴史を振り返ると、ロシアは中東、中央アジア、東アジアにわたって広範囲に勢力圏を南下させる政策を採用しており、それが1853年に勃発したクリミア戦争の遠因にもなっていました。

マッキンダーの間違い
マッキンダーはランドパワーとシーパワーの対立を一つのモデルとして考えたが、スパイクマンはそのような対立は純粋な形で起きたことがなく、リムランド国家の行動がより重要であると指摘した。第一次世界大戦でイギリスがフランス、ロシアと同盟を結び、ドイツ、オーストリアと戦ったことは、ランドパワーとシーパワーの対立という単純な構図で説明できないと指摘されている。
しかし、著者はマッキンダーがランドパワーとシーパワーの対立というパターンにこだわった結果、いくつかの事実を無視しているのではないかと指摘しています。
「マッキンダーは自分の理論を強く確信しており、すべてのヨーロッパの本質は1919年に主張した「ランドパワー対シーパワーの戦い」というパターンに従うはずで、しかもロシアが最終的に打ち倒されるまでこの戦いの本当の姿は見えてこない、と主張している。つまり、当時のイギリスのシーパワーはハートランドを支配するランドパワーに対して戦っている、と考えていたのだ。しかしこの解釈に従うと、フランスがランドパワーとして果たした役割を説明できないし、ロシアが東部戦線で3年間も耐えたという事実を無視しているようで無理がある」(同上、100-101頁)
マッキンダーの研究が最初に発表されたのは、英露協商が締結される前の1907年のことであり、その研究は当時の時代背景が影響している部分が少なくありませんでした。
著者はマッキンダーの分析の枠組みを参照しながらも、より多くの歴史的事例を取り入れた定式化をやり直す必要があると考え、純粋な意味でのランドパワーとシーパワーの対立という地政学的モデルから離れるべきだと主張しています。
「要するに、今までの歴史の中では、純粋な「ランドパワーとシーパワーの対立」は発生していない。戦いの組み合わせを歴史的に見れば、「リムランドの数カ国とイギリスの同盟国」が、「リムランドの数カ国とロシアの同盟国」に対抗したり、イギリスとロシアが支配的なリムランド国家に対抗するという構図があった。したがって、マッキンダーの格言である「東欧を支配するものはハートランドを制し、ハートランド支配するものは世界島を制し、世界島を支配するものは世界を制す」というのは間違いである。もし級世界のパワー・ポリティクスのスローガンがあるとすれば、それは「リムランドを支配するものがユーラシアを制し、ユーラシアを支配するものが世界の運命を制す」でなければならない」(101頁)
これはマッキンダーの研究に対する重要な批判でした。ハートランドに位置するランドパワーと、オフショアに位置するシーパワーの中間に位置しながら、どちらの勢力にも従属せず、独特な振る舞い方をする可能性があることが示されているためです。

そもそも、リムランドに位置する国家は大国として勢力を拡大するために必要な人的、物的資源に恵まれている場合が少なくありません。
もしリムランドに現状打破を意図する国家が出現すれば、それはハートランド、オフショアのいずれの方向に対しても自在に勢力圏を広げることが可能であるため、ランドパワーとシーパワーと随時同盟関係を切り替えておけば、さまざまな正面に勢力を指向することが政策的に可能となるのです。

日米関係の焦点は極東のリムランドだった
1922年、ワシントン会議は史上初の軍縮会議として知られており、米国の主催の下で日英仏伊等9か国が参加した。
この会議の結果、日本は主力艦の保有量については対米7割の水準を受け入れることになり、海上兵力の整備で外交的制約を受けることになった。
ランドパワーとシーパワーの対立というマッキンダーの分析を批判し、リムランドの重要性を認識することによって、著者は第一次世界大戦以降の日本の政策とそれに対する米国の政策をより適切に理解できるようになると考えました。
著者は第一次世界大戦後の米国と日本の対立について次のように説明しています。
「日本は1915年に中国に対して二十一カ条の要求を突き付けることによって、その動きを開始した。その後の1918年には、同盟国と共にシベリア出兵を行っており、自国の利益を強く主張している。もしこの時に反発する勢力がなければ、日本はこの紛争でアジアのリムランドを完全支配していたかもしれない。
 1921年から22年にかけて行われたワシントン会議では、日本の極端な二十一カ条の要求が部分的にしりぞけられ、同時にシベリアと山東半島からの撤退も実現した。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約よりもワシントン会議での諸条約に注目してみると、我々はこの会議の権力闘争で勝利を収めることができたおかげで、敵を比較的に狭い地域に押し込めることができたのだ。しかしそれでも彼らがリムランドの支配と広大な潜在力を求める拡大政策を再開させるまで長くはかからなかった。第二次世界大戦はこの政策が継続していたことを証明しており、日本は1931年、そしてドイツは1936年から、積極的にその活動を再開しているのだ」(同上、102頁)
ここで述べられている二十一カ条の要求とは、第一次世界大戦でヨーロッパ諸国が中国問題に介入できる国力がないことを利用し、日本が中国の袁世凱政府に承認させた要求のことです。
山東省にあったドイツ権益を日本が継承することや、南満州、東部内蒙古の日本の利権を強化すること等がその具体的内容として含まれていました。

その後、日本は獲得した中国の権益を他の列強に事後的に承認させるため、ロシアや英国、米国との外交交渉をまとめています。第一次世界大戦の最中にロシア革命が起こると、日本は社会主義を敵視する米国等の列強とも連携してシベリアに軍隊を派遣しました(シベリア出兵)。

著者はこうした日本の行動と米国の対抗措置は、朝鮮半島をはじめとするリムランドの支配を政治的に重要視したものであり、1921年に行われたワシントン会議は海軍軍縮と極東問題を審議するための交渉であったというよりも、本質的にリムランドに対する日本の勢力を抑制することを狙ったものだったと説明しています。
その成果によって米国は(少なくとも1931年の満州事変までは)日本の勢力圏の拡大を抑え込むことが可能となったのです。

むすびにかえて
地図上で国際政治を研究する人にとって、地政学は何か特殊な学問体系というよりも、日常的に参照する分析ツールのようなものと言えます。原理は単純なのですが、さまざまな事例や状況に当てはめることで、その概念が持つ意味をより深く理解することができるようになるのです。
スパイクマンの研究はハートランド、リムランド、オフショアという三つの地域に世界を区分することによって、世界情勢の動向をより体系的に説明することが可能になることを示唆しており、特にリムランド国家の動向が国際政治を研究する上で大きな意味を持つという洞察を示しています。

KT

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論文紹介 世界史におけるランドパワーとシーパワー

2016年8月8日月曜日

時事評論 尖閣諸島、新たな段階に入る

現在、尖閣諸島をめぐる情勢が大きく動いており、非常に危険な事態になっています。
8月5日、尖閣諸島の周辺領海に中国の漁船と海警船舶が侵入したことが確認され、日本の外務省は中国の外交部に抗議を行いました。しかし、翌6日にも中国の漁船230隻(その後も増加)と海警船舶6隻は海域を航行しており、さらに海警船舶1隻が接続水域に侵入してきています。
その後も日本は中国に対して正式な抗議を行っていますが、8日現在の時点で状況が改善される見通しは立っていません。

このような情勢を踏まえ、(1)なぜ中国はこのような行動を取るのか、(2)日本はどのような戦略を取ることが可能なのか、以上の二点について安全保障学の視座から考えてみます。

なぜ中国はこのような行動とをとるのか
尖閣諸島は日本本土よりも中国本土に位置関係としては近いため、日本として防衛しにくい領土となる。
また尖閣諸島は中国の接近阻止・領域拒否(A2/AD)戦略上も重要な陣地であり、攻略する価値が大きい。
いくつかの説明の仕方がありますが、ここでは戦略、特に抑止論の観点から説明したいと思います。
抑止とは、その行動を起こしたとしても予測される費用が予測される利益を上回ってしまうと相手に認識させる努力を自国が行うことによって、潜在的な攻撃を未然に防ぐことをいいます。
この概念を今回のケースに当てはめて考えると、中国が漁船、海警船舶を尖閣諸島に進入させた理由としては、その行動によって期待される費用を利益が上回ると中国が判断したためであり、言い換えれば日本の抑止力が中国に通用しなかったためと考えられます。

確かに日本には、25万名の戦力規模を持つ自衛隊(実勢力22万5000名)と、日米安全保障条約に基づいて駐留する在日米軍の部隊が存在しています。しかし、日本に確固とした防衛力があるからといって、それが自動的に対中抑止に繋がるわけではありません。
抑止が成り立つためには、「日本は中国に対して抵抗する能力だけでなく、抵抗する意思も兼ね備えている」と、中国側が判断していなければならないのです。
日本の防衛力がいくら優れていても、それを政府が実際に駆使して抵抗することは考えにくい、と中国が判断してしまえば、中国が行動を思いとどまる理由は消滅してしまいます。

日本はどのような戦略を取ることが可能なのか
2016年8月1日に撮影された東シナ海で訓練を行う東海艦隊の艦艇の様子。
8月8日現在の状況は不明だが、尖閣諸島の状況が変化した場合、これらの艦艇は現地に展開可能と推測される。
(Window on Chinese Armed Forces: http://english.chinamil.com.cn/)
現時点までの日本の対応を見ると、少なくとも表面的には、外交的圧力によって、尖閣諸島周辺の中国漁船や海警船舶を退去させようとしているようです。
自衛隊の部隊等を現地に派遣すれば、中国側としては行動をエスカレートさせる口実を与えることになりかねず、事態がより深刻化する危険があります。したがって、現在の日本の対応には二つの側面があります。

第一に、日本として中国との緊張状態をこれ以上悪化させることを阻止することが可能という側面があり、これは短期的観点から武力衝突を回避しようとする場合には望ましいことです。
第二に、日本は自国領土の防衛のためであれば、武力を用いてでも中国に抵抗する意思があることを理解させることが難しいという側面があり、これは長期的観点から日本の抑止力の実効性を確保しようとする場合には望ましいことではありません。

ここで生じて来るのが危機管理の問題です。もし中国が「日本の防衛力と安全保障体制が見かけだけのものであり、緊急事態が発生したとしても政府として強硬に抵抗するとは考えにくい」と考えて今回の行動に至ったのだとすれば、その認識は日本として是正させる必要があります。
しかし、外交的手段だけで中国が認識を改めないのであれば、どこかの段階で軍事的手段を用いた政府の対応が必要となり、それは中国軍の出動、そして地域紛争の勃発に繋がる恐れもあるのです。

結びにかえて
これからも予断を許さない状況がしばらく続くでしょう。日本は先ほど述べたようなジレンマに直面し、中国に対して決定的となるような対応を直ちに取ることは政治的に困難な状態です。
今回の事件で指摘すべき重要な事柄は少なくとも二つあります。第一に、中国は日本の防衛には限界があり、能力はともかく、それを実際に行使するという政治レベルの意思は十分強固ではないと判断している可能性があるということです。

第二に、今後の中国の行動によって、日本の尖閣諸島は海上封鎖されたということです。海上封鎖とは本来、海上兵力によって特定の海上交通を遮断するための戦略行動を言います。
これまで尖閣諸島関係のシナリオでは、フォークランド紛争の発端のように、民間人、そして軍人の上陸という状況が想定されていました。
今回の中国の行動で巧妙なのは、フォークランド紛争での部隊の上陸ほど強硬なものではないにもかかわらず、尖閣諸島を実効的に支配しているのは中国であると主張するための状況を作り上げた点です。

とはいえ、まだ中国がこの成果を確定できたわけではありません。日本の対応もこのままで終わるとは限りません。尖閣諸島の問題は中国の行動によって新たな段階に入りつつあります。したがって、日本としても新しい対応について検討することが必要となっています。

KT

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論文紹介 沖縄に基地を置く軍事的理由

2016年8月5日金曜日

学説紹介 大国に見捨てられるリスク

1949年に署名された北大西洋条約は、米国を中心とする西ヨーロッパ防衛態勢の構築に大きく寄与することになった。その一方で、防衛負担の配分や戦時における作戦行動をめぐって各国の利害が対立する部分もあった。
国力に乏しい中小国が国際社会で自国の安全を確保するためには、大国と同盟を結ぶことが必要となります。大国と同盟を結べば、中小国は自国の兵力よりも大きな兵力をもって攻撃してくる国家に対し、大国に援軍を要請することで、対処することが可能となります。
しかし、中小国の思い通りに大国が常に行動するとは限りません。なぜなら、中小国を支援しようとすることで、大国自身が全面戦争に巻き込まれる恐れがあるためです。

今回は大国が同盟関係にある中小国を見捨てる条件について考えるために、米国の政治学者ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)の研究を取り上げ、冷戦初期のヨーロッパを防衛するために米国がどれだけの負担を負うべきかを考察した箇所を紹介したいと思います。

米国が同盟国を防衛するにも限界がある
ヨーロッパ地域は米国を中心とする北大西洋条約機構と、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構で二分される政治情勢にあり、特に東西ドイツ国境地帯が東西両陣営の勢力圏の重要な境界線となっていた。
冷戦期の西ヨーロッパでは、北大西洋条約機構(NATO)の枠組みの下で、イギリスがドイツに4個師団を、米国は5個師団を駐留させており、その他の同盟国も軍事力を強化していました。しかし、キッシンジャーはこのような中途半端な戦力規模では、ソ連軍の侵略を確実に防ぐ態勢とは言えないと考えていました。

このような戦力の配備が採用された理由として、キッシンジャーは米国で検討されていた戦略理論が局地的な侵略を受けた際に、それを地域紛争として処理するのか、それとも全面戦争として対応するのか不明確であったためだと述べています。
「全面戦争に依存しながら、政治的には地域防衛を公約するという矛盾は、わが連合政策のガンだった。わが戦略理論は、脅威をうけた地域をいかにして護るか、つまりそういう地域を局地的に護るべきか、あるいはそういう地域に対する攻撃を戦争の「原因」として扱うべきか、を決めかねてきた。前者の戦略でゆけば、侵略のおこったところ、つまり少なくともソ連に渡したくない地域で、侵略に抵抗せねばならない。第二の戦略は、侵略を戦争の原因として扱うが、われわれが闘いを交えようとする地域については、予めどこだ、というようなことはいわない―つまり要するに「われわれが自ら選ぶ場所において」行う大量報復理論である。こういう侵略では、われわれとソ連ブロックとの間の全般的な戦略バランスによって、ともかくソ連の侵略に対する安全保障ができる。しかし、大量報復はそのような抑制効果は大きくても、連合国が軍事的努力をしようとする意欲を減殺する結果となる」(邦訳、キッシンジャー『核兵器と外交政策』296頁)
ここには、ソ連の侵略に対処できる十分な兵力を米国として西ヨーロッパに配置すべきかどうかというジレンマがあります。
ソ連の侵略を抑止しようとすれば、米国はその侵略が行われた地域で戦う準備を整えなければなりません。しかし、それは米国にとって大きな負担となりますし、また核の応酬にエスカレートする恐れもあります。

この負担と危険を米国が回避するためには、同盟国の防衛協力を最大限まで引き出すことが望ましいということになります。
しかし、同盟国は財政負担を避けるために軍事力を増強を回避しようとし、また全面戦争が勃発すれば自国の軍事力など大した意味を持たないと考えるため、結局のところ米国が防衛予算を支払うことになるのです。

なぜ米軍をヨーロッパに駐留させるべきか
1957年に西ドイツに配置されていた第7軍の主要部隊の配置。
次にキッシンジャーはヨーロッパに駐留する米軍部隊の存在意義を正当化する見解を検討しています。
一つはソ連が攻撃の準備を進めている時に、警告を発して外交的な圧力をかける手段という意味があるとの見解であり、もう一つはソ連軍にあえて撃破されるための兵力であり、核兵器による全面的な報復を開始するための仕掛け線の意味があるとの見解です。
「いろいろな説明を加えようという試みがなされてきたが、現在の兵力展開を全面戦略にむすびつけることは難しい。たとえば、西欧同盟の戦略予備のうち、ほぼ半分に近いものを、ソ連の国力の根源にあれほど接近して駐留させておく理由の一つは、二十五ないし三十個師団といわれるソ連の東独駐屯部隊による攻撃をくいとめるにあるといわれている。この主張によると、ソ連が西ヨーロッパのわが部隊に対して攻撃を加えるには、相当の増強が必要である。このため、逆にわれわれは紛争を回避するための外交手段をとり、あるいは、ソ連邦に対してもっとも厳粛な、はっきりした警報をだすことができるようになるだろうというのである。しかしわれわれが何度もくりかえしてきた威嚇を、しかもソ連が攻撃を強化しつつある以上、恐らく役に立つはずもない威嚇を、くりかえすために支払う代価としては、この九個師団はちょっと多すぎるように思えるのである」(同上、297頁)
これはソ連に戦争の準備を思いとどまらせる手段としてヨーロッパに米軍が必要である、という議論です。
筋が通った議論ではありますが、25個師団から30個師団のソ連軍の通常戦力を阻止するだけならば、西ドイツ軍の兵量とは別に米軍として9個師団も配置することが合理的なのか、キッシンジャーは疑問を投げかけています。
「別の意見によれば、西ヨーロッパにいる部隊は、それ自体で別に戦略的意義を持っているのではないという。その機能は、わが抑制力のしるしとしての役目を果たす、つまり仕掛線(trip-wire)または、壊せば全面的熱核報復を一挙に発動するようになる窓ガラス(plate-window)としての役目を果たすことであるという。いろいろな点で、これはもっとも注目に値する議論である。もっともこれに対する挑戦はあまりみられなかった。というのは、この論旨は、われわれは全面戦争によって西ヨーロッパを防衛するぞ、という主張を何度くりかしてみても、主張するだけでは信用して貰えるはずがなく、もっとも厳粛にくりかえしてきたこういう宣言の他に、われわれの決意をあらわす別の証拠を示さねばならない、ことをいっているにすぎないからである」(同上、298頁)
もしこの考え方に基づいてヨーロッパに駐留する米軍の戦略的な役割を理解すれば、ヨーロッパの防衛線に配置すべき部隊の全部、少なくとも大部分は核報復能力を持つ米軍またはイギリス軍の部隊である必要があります。
同盟国からすれば、防衛負担のほとんどを米軍に頼ることになりますが、米国には大きな防衛負担がのしかかり、しかもソ連軍が一度動き出せば、米国はソ連との核の応酬に巻き込まれる結果となるのです。

米国が同盟国を見捨てる可能性
ソ連は1949年に最初の原爆実験を成功させ、核保有国となった。これ以降、米国はソ連の核攻撃能力を考慮した上で戦略を立案する必要が生じてきた。
大量報復と局地防衛のどちらかを選択することは、ソ連軍が核兵器を保有するまでの間は可能でした。
しかし、ソ連が米国に対して核攻撃を加える能力を持つようになると、ヨーロッパのために平時には米国の国力を枯渇させ、戦時には米国国土を敵の核攻撃に晒すことを正当化することは難しくなりました。
「ヨーロッパが主要な戦略上の獲物であることは事実であろう。しかし、だからといって、われわれがその防衛のために、わが国力を枯渇させること間違いなし、というような戦略を採用しなければならないということにはならない。近代兵器の破壊力についての自覚がますますひろまるにつれて、米国はいうまでもなく、英国すらも、たとえいかに重要であろうとも、敵にヨーロッパという地域を渡さないために、自殺をする決意がある、と考えることは理屈に合わない。ましてや、ソ連が例によって巧みに、曖昧な挑戦ぶりを示せば、なおさらのことである。もし赤軍が、特に西独の武装解除のためにヨーロッパを攻撃し、しかも米英に対しては、戦略爆撃をやらないこと、限定目的達成後オーデル河まで撤退することを申し出たら、一体どうなるか。そういうことになっても、フランスは闘う、とはっきりいえるだろうか。あるいは、英国は、どういう形で終わろうとも、英国文化の終焉を意味する全面戦争を自らはじめるであろうか。またアメリカ大統領は、西ヨーロッパとアメリカの都市五十を引換えにするだろうか」(同上、300頁)
ヨーロッパの同盟国と結ばれた条約によって、米国には西ヨーロッパを防衛する責任があります。しかし、実際に米国がソ連に断固とした対処行動を取ることができるのか、誰にも確実なことは言えません。
そもそも、こうした事態が生じる最大の要因が何かといえば、それはソ連軍の米本土攻撃能力です。これがなければ、米国の本格的な軍事的介入を未然に防ぐことはできず、ヨーロッパでの局地侵攻も成功する可能性はなくなるでしょう。
しかし、米国本土の都市を攻撃することができるならば、脅迫を行って米国から譲歩を引き出せる可能性が出てきます。米国としては国益の観点から同盟国の防衛を断念するという厳しい判断を下さざるを得ない場合も考えられるのです。

むすびにかえて
中小国は巧みな外交によって、自国の防衛に協力してくれる外国と手を結ぶことができます。しかし、その同盟が思い通りの結果になるとは限らないものと理解しなければなりません。戦争が勃発した際に、同盟国が実際に援軍を送ってくるのか、援軍を送ったとしても、思い通りの作戦を行ってくれるのか、途中で戦線を離脱してしまわないか予断を許しません。
条約があるからといって、大国がそれに無条件に従うはずだと想定し、リスク管理を蔑ろにしていると、裏切られてしまった際に政策を立て直すことが不可能となってしまいます。

昨今の情勢から判断するかぎり、米国が日本を見捨てる可能性が大きいとは私には思えません。だからといって、そのような可能性を完全に無視して検討を進めることは賢明なことではないでしょう。同盟に大きく依存している国家の国民であれば、それはなおさらのことです。

KT

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事例研究 準備なき宣戦―1939年の「まやかし戦争」

参考文献
Kissinger, Henry A. 1957. Nuclear Weapons and Foreign Policy, New York: Harper and Brothers.(邦訳、キッシンジャー『核兵器と外交政策』 田中武克、桃井真訳、日本外政学会、1958年)

2016年8月2日火曜日

論文紹介 沖縄戦で日本軍が用いた戦術とその限界

第二次世界大戦の戦史でも特に沖縄戦は日本でも関心を集めることが多いテーマです。これまでの議論でも繰り返し論点となっているのが、当時の日本軍が使用した戦術がどのようなものだったのか、それは米軍との戦闘でどれほど有効に活用されたのか、という問題です。

今回は、戦術学の立場から沖縄戦での日本軍の戦術の特徴や、その効果について考察している研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
Huber, Thomas M. 1990. Japan's Battle of Okinawa, April-June 1945, Leavenworth Papers, No. 18, Fort Leavenworth: Combat Studies Institute, U.S. Army Command and General Staff College.

日本軍の戦力規模と戦闘の経緯
1945年1月から3月の第32軍の配置。首里に軍司令部が配置されている。
全体として北部に部隊を配置させることは避け、本島南部に戦闘力を集中させる意図が読み取れる。
(Ibid.: 10)
沖縄戦は1945年の4月1日から6月22日の間に、沖縄を攻め取ろうとする米軍と、それを拒否しようとする日本軍との間で戦われた第二次世界大戦の戦闘の一つです。時系列としては、3月に硫黄島の日本軍が全滅した後、広島、長崎に原爆が投下される前の出来事でした。

日本軍が沖縄を防衛するために配備した兵力はおよそ100,000名(内訳、日本陸軍67,000名、日本海軍9,000名、現地住民24,000名)であり、特に第32軍司令部(1,070名)とその司令部直轄の部隊(6,005名)、第24師団(14,360名)、第62師団(11,623名)、独立混成第44旅団(4,485名)が中心となって防御陣地の構築が進められました(Huber 1990: 18)。

沖縄戦の経緯について簡単に要約すると、次のようにまとめることができます。
4月1日 米軍は沖縄本島への着上陸、部隊の攻撃前進を開始
4月12日 陣地で防御を固めていた日本軍が夜襲による反撃を実施
4月29日 軍司令部の会議で作戦方針を防勢のまま維持すべきか否か再検討され、攻勢移転が決定
5月4日 攻勢に出たことによって日本軍の損害が急増し、急速に戦闘力が低下
5月29日 本島南部の陣地へと兵力を移動させるため、日本軍は後退行動を開始
6月25日 大本営が沖縄本島における日本軍の組織的な戦闘行動が終了を発表
なお、当時の第32軍の司令となった人物は牛島満中将(1887-1945)であり、彼を補佐したのは参謀長の長勇中将(1895-1945)と高級参謀の八原博通大佐(1902-1981)でした。
著者は指揮官が主体となって決心を下す米軍と大きく異なる点として、日本軍では参謀が主体的に意思決定に関与し、指揮官の決心が参謀の見解に影響される傾向があるとしており、沖縄戦においても参謀長の長と高級参謀の八原との間の協議と調整が、第32軍の作戦方針、つまり攻勢と防勢の選択に非常に重要な影響を及ぼしたことに言及しています(Ibid.: 24)。

巨大な地下壕と行動の秘匿
沖縄戦で日本軍は米軍に対して人員においても、武器においても数的に劣勢に立たされていました。それにもかかわらず、日本軍の周到に防御陣地を準備することによって、米軍の攻撃前進を阻んできました。
当時の日本軍の戦果について著者は次のように評価しています。
「沖縄で日本が成し遂げたことは驚異的であった。人員においては2:1、地上に配備された火力だけでも10:1と数的に劣勢であったにもかかわらず、日本は10週間にわたる周到な防御戦闘を準備し、戦略的にその地域を獲得しようとした敵を拒否し、味方の損害とほとんど同じ程度の損害をあらゆる分野において与えたのである」(Ibid.: 120)
限られた戦力で大きな戦果を上げることができた理由として、著者は日本軍の巨大な地下壕の役割が大きかったと評価しています。
第32軍は防御陣地の構築に当たって自己完結型の地下壕を準備することを重視しており、例えば指揮統制の中枢である司令部の地下壕は次のような構成となっていました。
首里城に配置された第32軍司令部の地下壕の構成。(上図は側面から、下図は上方から見た図)
指揮所や警衛等の配置だけでなく、応急処置、炊事の場所も確保されており、長期にわたり地下で生活することを想定していることが伺える。(Ibid.: 42-43)
第32軍司令部の地下壕の他にも各地で地下壕は構築され、その全長で60マイル(96.54キロメートル)であったと報告されています(Ibid.: 47)。長期にわたって持久戦を繰り広げることができるように、多くの弾薬や物資がそこに集積されていました。

部隊が生存性を高めるための地下壕に加え、第一線の中隊や大隊では地上に露出した戦闘陣地も構築されていましたが、それらの多くは巧妙に偽装されていました。塹壕の偽装自体は野戦築城としては一般的なものですが、戦術上の観点から見て興味深いのは、いくつかの地下壕が米軍の背後を襲撃する際に使用されている点です(Ibid.: 60)。これは米軍が偽装された塹壕の出入り口に気が付かせないように通過させ、後で背後から小部隊を送り込むという戦法でした。

こうした日本軍の戦法は米軍の航空偵察に対する対抗手段として有効であったと著者は指摘しています(Ibid.: 63)。
単に米軍の火力から味方の人員や装備を防護するだけであれば、地上に露出した塹壕でもその用途を果たすことができたかもしれません。しかし、それではどこに部隊が展開しているのかすぐに米軍に把握されてしまい、奇襲を仕掛けることが難しくなってしまいます。
つまり、日本軍の地下壕はいわば航空優勢を奪われた後で部隊の行動を秘匿するという意味でも活用されており、米軍としては前方だけでなく、側面や背後からの奇襲にも警戒が必要となっていました。

日本軍の弱点となった対戦車戦闘
日本陸軍の一式機動四十七粍砲。
1941年に開発が始められた対戦車砲であり、沖縄戦の対戦車戦闘においても使用されている。
こうした巨大な地下壕は米軍の前進を食い止め、また情報の保全という観点からも極めて有効でしたが、日本軍は対戦車火力の不足という致命的な弱点を抱えていました。
著者は日本軍の防御態勢を全般的に評価した上で、対戦車戦術については体系化されていたものの、十分に有効ではなかったと評価しています。
「四七粍砲であれば800ヤードまでの射距離でM4A6戦車の装甲に穴を開けることができたが、いかなる場合でも日本軍の教義において敵の戦車部隊がすぐ近くにまで接近するまで射撃が引き留められていた。これは日本軍の陣地が発見されるのを引き延ばし、照準している四七粍砲がより正確に射撃できるようにした。もし対戦車砲が使用できなければ、敵の戦車は対戦車歩兵の近くにまで引き付けられた」(Ibid.: 69)
著者の研究によれば、日本軍の対戦車戦術は三段階に区分されます。まず、敵を可能な限り引き付けながら、対戦車砲の射撃で速やかに敵の戦車を撃破します。次に随伴する歩兵を小火器によって一掃し、この段階で戦車から出てくる兵士も射殺します。最後に戦場に残された戦車を敵が回収することを見越し、破壊措置を徹底しておくだけでなく、その戦車の周囲に地雷を敷設してから退却します(Ibid.: 69-70)。

このような対戦車戦闘の要領はよく研究されたものではありましたが、最大の問題はやはり火力の不足とその火力を効率的に発揮する射撃統制に必要な通信手段が欠如していたことでした。
「日本はすでにドイツから対戦車技術を供与されていたが、それは兵器化されていなかった。また重火砲を対戦車戦闘に利用することもほとんど行われていなかった。日本陸軍は火砲を持っていたが、第一線に配置された部隊とその後方に配置された砲兵との間の無線通信を行っていなかった。無反動砲と無線機の欠如、(そして四七粍砲の部分的な不足)は極めて深刻であった。これらの装備がわずかにでも配備されていれば、米軍の戦車の前進速度は著しく低下させ、また沖縄戦を膠着状態に持ち込むことが可能であっただろう」(Ibid.: 70)
もし対戦車戦闘の能力が強化されていたならば、沖縄戦が日米双方の手詰まりに終わっていた可能性がある、という議論は当時の日本の戦略と併せて考えてみても興味深いところです。
後知恵で戦史を見れば、圧倒的に優勢な米軍に対して日本軍が抵抗することは不可能であったという印象が持たれやすいところですが、もし日本陸軍が対戦車戦闘の研究開発をより早期から着手し、沖縄戦の結果が大きく変わっていれば、その後の戦争の展開にも影響が及んだかもしれません。

むすびにかえて
沖縄戦の結果、第32軍の部隊はほとんどが全滅しました。当初、100,000名の兵力を持っていた日本軍は8週間に及ぶ戦闘で70,000名の損害を出しました(Ibid.: 118)。ただし、この戦闘では7,400名の兵士が降伏しています。これだけ多くの兵士が降伏したことは、太平洋での数々の戦闘の中でも初めてのことでした(Ibid.: 116)。それ以外の兵士については行方不明とされています。

こうした日本軍の損害と比べれば、米軍の戦死者およそ6,000名強というのは軽微な数字のように見えてしまいます。
しかし、戦死者以外の損害として負傷者や行方不明者が出ています。これらの条件を踏まえ、戦死者以外の損害を総合すると、米軍は沖縄戦に67,790名の兵士を費やした、と著者は見積っています(Ibid.: 120)。
その後、61,471名の兵士が前線に復帰することになりましたが、この沖縄戦で米軍が受けた短期的な人的損失は深刻な規模でした(Ibid.)。

これは沖縄戦における日本軍が周到な準備によって不利な戦闘状況の下でも米軍に多大な損害を与えることができたことを示していますが、著者は次のようにも述べています。
「数的に優勢であり、陸上、航空、海上の戦力をもって同時に圧倒してくる敵に直面した時に、機知に富み、決意を固めた兵士に何ができるのか。日本の沖縄での経験はそのことを示している。知性と勤勉は最先端の技術的優位性とさえ渡り合うことができる。しかし、それは一時的なものである。最終的には、勇敢な兵士と圧倒的な火力が、火力を持たない勇敢な兵士を打ち負かすことになるのである」(Ibid.: 122)
確かに沖縄戦で日本軍が成し遂げた戦果は非常に大きく、地下壕を始めとして、現地の部隊として任務遂行のために可能な努力はやり尽くしたと言えるでしょう。しかし、著者が述べた通り、そのような日本軍の努力には、やはり根本的な限界があったと言わなければなりません。

KT

関連項目
論文紹介 陣地攻撃の損害を減らすために
論文紹介 沖縄に基地を置く軍事的理由