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2016年7月12日火曜日

論文紹介 参謀総長モルトケの戦争術と作戦術の原点

1870年9月1日、普仏戦争のセダンの戦いの様子を捉えた写真。
この戦闘で敗北したフランス軍は降伏を余儀なくされただけでなく、フランス皇帝ナポレオン三世を捕虜に取られた。
1870年に戦われた普仏戦争のセダンの戦いでプロイセンがフランスに勝利したことは、ドイツ帝国の成立を可能にし、ヨーロッパの国際情勢に大きな影響を及ぼしました。この戦闘でプロイセン軍は巧みな作戦の指導を重視していたことが知られています。

そもそも作戦(operation)とは戦争の目的を達成するために軍隊が取る部隊行動であり、戦略と戦術の中間に位置付けられる概念です。また、戦争の目的を達成するために国家の国力をいかに運用するのかという戦略の内容を踏まえた上で、個々の作戦における我の戦闘力を指向、保持する技術は作戦術(operational art)と呼ばれています。

しかし、作戦術という考え方が登場したのは軍事学の歴史を見ても19世紀以降とかなり新しいものです。今回は、19世紀のプロイセン陸軍軍人ヘルムート・フォン・モルトケを取り上げ、当時携わった戦争の特徴か作戦の意義をモルトケが認識する上でどのような意義を持っていたのかを検討した論文を紹介したいと思います。

文献情報
Michael D. Krause. 1990. "Moltke and the Origins of Operational Art," Military Review, Vol. LXX, No. 9, September, pp. 28-44.

戦略・作戦・戦術を区別する意義
ヘルムート・フォン・モルトケ(1800-1891)
デンマーク出身のプロイセンの軍人。近代ドイツ陸軍の発展に大きく寄与した功績で知られる。
モルトケはプロイセン陸軍でトルコ軍の顧問、第八軍の参謀、ヴィルヘルム親王の侍従武官等を経て、1857年に参謀総長に任命された人物であり(Krause 1990: 30)、プロイセンがデンマーク、オーストリア、フランスと戦った際には優れた作戦指導でその力量を発揮したとされる軍人です。
現代に残るモルトケの功績の一つは、まだ戦略と戦術という二分法が一般的であった時機に両者の中間に作戦という独自の戦力運用の領域が存在すると考え、具体的には師団から軍団規模の部隊を運用するには、単に戦略や戦術の原則を当てはめるだけでは不適切であると論じたことです。

著者はこのようなモルトケの考え方は1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の時点で、ある程度は確認できるとしており、次のように説明しています。
「モルトケが戦争大臣とその側近に宛てて記した書簡で示した戦役のための作戦概念は、政治的目標(戦争目的)を作戦目標に結びつけるものであった。プロイセンはデンマークを可能な限り素早く打倒しなければならなかったが、モルトケはデンマーク軍が単に沖合の島嶼に後退し、攻撃を避けることができる限りは、戦争で決定的結果をもたらすことは困難であろうと考えた。そのため、モルトケの計画は敵の後退を妨げる上で重要なアイダー川からシュレースヴィヒ川より前方にデンマーク軍を迂回するように構想されていた」(Ibid.: 31)
戦略状況として短期決戦を実現すべき状況だからといって、敵を直ちに撃滅するような攻撃を実施すべきとは限りません。
モルトケの見解によれば、戦略に対する作戦の位置付けは一定の独自性があり、戦略で指定された政治的目標が、作戦で設定すべき軍事的目標を直接規定するような関係として理解されていません。
戦略は本質的に政治的な狙いを持っているものですが、作戦はその戦略を遂行するための方法を軍事的観点から検討すべきであり、だからこそモルトケは戦略上の要求を踏まえながらも、デンマーク軍に対して素早い攻撃を加えることは避けようとしたのです。

ケーニヒグレーツの戦いとその勝利
1866年にオーストリアとの戦争でモルトケが作成した前進計画。
プロイセン軍の攻勢作戦は複数の軸線から成る攻撃として構想されていることが分かる。
(Krause 1990: 32)
デンマークとの戦争が終結した後、モルトケは1866年に勃発した普墺戦争で自らの手腕を発揮することになりました。
当初の分析においてモルトケはオーストリアにプロイセン軍が北方から侵攻する間、イタリア軍を利用してオーストリア軍を南方から牽制させるべきと考えていました(Ibid.: 32)。こうすれば、プロイセン軍に対するオーストリア軍の指向可能な兵力を制限できると期待されます。

しかし、当時のプロイセン国王のヴィルヘルム一世はモルトケの案に難色を示しました。ヴィルヘルム一世は不必要にオーストリアとの戦争に他国を巻き込むべきではないと考えていたため、モルトケは計画において達成すべき政治的、軍事的な目標を再検討し、部隊の動員から行動の開始までの時間を短期間にすることで決定的戦果を収める方針に計画を修正しています(Ibid.: 32)。
こうした処置からもモルトケの戦略と作戦の関係に対する考え方を見ることができるでしょう。

1866年に普墺戦争が勃発すると、モルトケは動員の早期決断を要望しましたが、その理由として、オーストリア軍の主力である27万名と、それとは別の12万名の部隊に対して数的に優越するためには、プロイセン軍の6万7000名では戦力不足だったためです(Ibid.)。
モルトケは27万8000名の部隊を動員し、この主力でオーストリア軍に脅威を与えつつ、西部から4万8000名の部隊をオーストリアの西部方面に向かわせ、反プロイセンの立場に立つハノーファーとヘッセンを2週間で屈服させました(Ibid.: 32-33)。

モルトケは対オーストリアの作戦でも短期決戦の姿勢を取り、ボヘミアに向けて前進するプロイセン軍の部隊をエルベ軍、第一軍、第二軍の3個部隊に区分し、同一の方向に対して各部隊それぞれに異なる前進経路を指示する外線作戦を指導します(Ibid.: 33)。
図上研究であれば、このように広域に部隊を展開させつつ異なる経路を前進する部隊がきちんと隣接する部隊と連携できるのか、各個撃破されるリスクはないのか、という問題が指摘されるところですが、モルトケは部隊の配備を完成させてから間もなく6月15日にオーストリア軍に関する詳細な情報を入手していました(Ibid.)。
敵情を検討したモルトケは、オーストリア軍が部隊を所望の地点に終結させるための所要日数は13日であり、プロイセン軍としてそれよりも早く戦力の集中を行うことは可能であるとの結論に達します(Ibid.)。

実際、プロイセン軍が前進を開始してからオーストリア軍はケーニヒグレーツで防御するために部隊の移動を開始させましたが、プロイセン軍の行動に先んじることはできませんでした。
7月3日に同地で戦闘が始まると、プロイセンの第一軍は正面から、第二軍は側面からオーストリア軍を攻撃させ、エルベ軍をその背後に進出させることで退却を許しませんでした(Ibid.)。
戦闘はオーストリア軍の大敗に終わり、勝利の立役者となったモルトケの名前は広く知られるようになりました。

教訓の研究と普仏戦争における活用
1870年の普仏戦争でモルトケは作戦方向の考え方をより明確に自身の計画に取り入れた。
プロイセン軍はフランス軍の後方連絡線を遮断するように移動し、メッツの部隊を孤立させることに成功した。
普墺戦争で勝利を得たにもかかわらず、モルトケは当時のプロイセン軍の部隊行動については批判的な見方を持っていました。
戦後の1868年7月に国王に対して覚書を提出し、当時のいくつかの師団または軍団の行動に問題があったと指摘し、教範の改訂でもその考え方が反映されています(Ibid.: 35)。

問題の本質は作戦指導において軍や軍団といった大規模な部隊の行動が適切ではないことにありました。
モルトケは「作戦指揮官に要求されることは、自身の活力を全般状況の明確な把握に費やすことであって、細かいことに没頭しすぎることではない」、「指揮官は命令を最小限にしなければならず、作戦の全体を想像すべきである。(中略)指揮官の地位が上がるほど、その命令はより端的かつ単純でなければならない」等と論じています(Ibid.: 35)。

教範の内容を調査した著者は、普墺戦争の検討がモルトケが戦略と戦術の間に位置付けられる作戦という分析レベルの重要性を認識する契機になったとして以下のように論じています。
「彼は指揮官の目標と技術は大規模な部隊を運用する場合と、小規模な部隊を運用する場合とで異なると認識した。つまり、一方の場合で正しいとされていることが、常に他方の場合でも正しいとは限らないのである。モルトケは主導と気勢を保持することを強調し続ける方がよいと考え、新たな教範では銃声に向かって行進せよという原則を再確認した。この教範では、戦役を遂行するに当たって、より上位の方向と呼ばれる戦争の階層構造を区別し始め、また勝利した戦役から教訓をえようと積極的になっていることが分かる。これは『勝者の悲劇』に陥る傾向を克服する上で重要だった」(Ibid.: 36)
こうした検討を踏まえ、モルトケは作戦レベルにおける部隊行動を詳細に研究するようになり、1870年の普仏戦争でその成果を活用しました。当時、攻撃者の立場にあったフランス軍に対してプロイセン軍は反攻に出る準備を整えつつありましたが、モルトケはフランス軍がドイツ軍を正面から攻める事態を避けるため、メス付近に大部分の戦力が集中し、セダン付近に若干の戦力が配置されることを踏まえ(Ibid.: 36)、作戦部隊を機動的に展開して敵地後方に進出することを構想します。

そこでモルトケは戦力を第一軍(6万)、第二軍(13万1000)、第三軍(10万)と区分し、その他にもオーストリアが介入した場合の予備として10万の兵力を残していました(Ibid.: 36-37)。
フランス軍が攻撃から防御の態勢に移り始めた8月、ドイツ軍の各軍は素早く前進、攻撃し始め、メスの南方を西進させてフランスに進入した第三軍をセダンに向けて前進させ、そこのフランス軍の部隊がメスの救出に駆けつけることを阻止することに成功しました(Ibid.: 37-38)。

広大な地域で自在に大規模な部隊を複数運用しているにもかかわらず、指揮統制の困難を感じさせない優れた戦機捕捉でした。これもモルトケが重視した作戦レベルにおける師団、軍団の部隊行動が適切に行われたことによるものであったと著者は考えています。

むすびにかえて
普仏戦争が終結し、その戦果をもってドイツ帝国の成立が宣言された1871年、モルトケは戦略に関する論文を書き、そこで戦略と作戦の関係について以下のように述べています。
「政治はその目的を達成するために戦争を利用する。(中略)戦争には不確実性があるが、政策の目的は存在し続けるであろう」(Ibid.: 38)
「戦略がなすべきは作戦の遂行において軍事力を活用することである」(Ibid.)
「いかなる軍事理論の知識も、指揮官になることを準備するものではなく、自身の性質に含まれるものだけが指揮官になることを準備する」(Ibid.)
特に作戦術に関する考察として興味深いのは、モルトケは「いかなる作戦計画も敵と最初に交戦する前までは確実なものではない」と書き残していることです(Ibid.: )。これは作戦が戦略と明確に異なる部分を端的に表したものと言えるでしょう。
確かに戦略の問題は作戦の問題と厳密に分離できるものではありませんが、作戦は極めて短時間の内に広大な地域の部隊行動について指導するものであるため、優れた作戦のためには平素からの教育と訓練が欠かせないのです。

著者はモルトケの功績を総合的に評価し、次のように述べています。
「決戦、短期戦、機動、戦役の計画と実施、将校団の教育はモルトケが軍事思想に残した功績である。戦争の戦略的レベル、作戦的レベル、戦術的レベルの関係に関する手の込んだ理論的体系を形成しなかったが、モルトケは暗黙裡に戦略は政治的な内容を持ち、作戦は軍事的基礎を持つという事実を認識していたのである」(Ibid.: 44)
確かに、モルトケの研究成果は理論的な体系性という点で見れば、論理的構成がそれほど明確ではないという側面はあります。しかし、彼が残した作戦に関する考察はプロイセン陸軍の参謀総長としての経験に根差したものであり、現代の研究水準から見ても多くの示唆を得ることができます。

KT

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