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2016年12月25日日曜日

軍事学を学びたい人のための文献案内(1)

表題の件について、読者の方々から何度か当方にご照会がありましたので、これから軍事学を学ぼうとする方々のための文献案内を作成いたしました。
ただし、本記事が想定する読者の範囲としては、大学生(学部生)から大学院生(修士課程)とし、古典の部類を除いては可能な限り洋書を避けている点をご了承下さい。

今回は第一弾ということで、まだ軍事学の知識がほとんどない人に向けた文献案内となっています。

軍事学の定義
軍事学(military science)には広範多岐に渡る研究領域が存在し、明確な定義を与えることは容易ではありません。さしあたりこの記事ではJordanの定義を紹介しておきたいと思います。
「軍事学とは、武力紛争における軍隊や武器の理論、応用、運用について体系化された知識として定義され、以下の領域が関係している。すなわち、統率(military leadership)軍事組織(military organization)、軍事教育・訓練(military education and training)、軍事史(military history)、軍事倫理(military ethics)、軍事教義(military doctrine)、戦略・作戦・戦術(strategy, operations, tactics)、軍事地理学(military geography)、軍事技術(military technology and equipment)である」(Jordan, 2013: 881)
ただし、この定義で紹介されている分野も軍事学の全体から見れば、ごく一部に過ぎません。
世界で最も普及している図書館分類法の一つ、デューイ十進分類法を見てみると、軍事学は「社会科学」の下位分類「行政」の区分が与えられていますが、軍事学に含まれる研究領域は全部で355項目に細分化されています(Ibid.)。
したがって、軍事学を学ぼうとする場合、どのような分野に関心があるかによって読むべき文献が異なってくるという点にご注意下さい。

この記事では軍事学の研究領域で特に中心的な位置を占めている戦略・作戦・戦術、つまり軍隊の運用に関する研究を中心としながら、学習に役立つ文献を紹介していきたいと思います。

軍事学の基礎知識を準備する一般向け書籍

日本では依然として軍事学の研究がそれほど活発であるとは言えません。しかし、元自衛官や軍事評論家、研究者の一部はこの問題を解決するために努力を積み重ねてきており、読者の関心や知識の程度に応じた啓蒙書が書かれています。
ただし、内容が時事評論的なものである等、軍事学を学び始めるための書籍としては問題がある場合も少なくありません。

ここでは内容が評論的ではなく、価格帯が手ごろで、軍事学を研究するための基礎知識を準備することに役立つと思われる書籍を紹介します。

黒野耐『「戦争学」概論』講談社、2005年
分野:軍事史、戦略、地政学
利点:近現代のさまざまな戦争史と関連する戦略思想について知ることができる
欠点:議論の構成がさほど体系的ではなく、近世以前の戦争史に関する記述が乏しい

松村劭『戦争学』文藝春秋、1997年
松村劭『新・戦争学』文藝春秋、2000年
分野:軍事史、戦略、戦術
利点:軍事学の基本概念を踏まえつつ、戦争史を概観し、各時代の戦略・戦術の特徴を理解できる
欠点:学問的な慎重さと公平さをやや欠いた断定的議論が散見される

鍛冶俊樹『戦争の常識』文藝春秋、2005年
分野:軍事行政、戦略、戦術
利点:軍事用語に馴染みがない人向けに、陸・海・空ごとの用語が簡単に解説されている
欠点:用語解説が趣旨であるため、軍事学上の学説や論点に関する記述はほとんどない

石津朋之編『名著で学ぶ戦争論』日本経済新聞出版社、2009年
分野:戦争論、戦略
利点:古代から現代にかけて軍事学に重要な貢献を果たした古典50冊の概要について学べる
欠点:軍事史、戦略思想の研究に偏っており、エアパワー、核戦略に関する古典の紹介が少ない

栗栖弘臣『安全保障概論』ブックビジネスアソシエイツ社、1997年
分野:戦争論、国際関係論、戦略
利点:取り扱っている学説、論点が戦争論、地政学、抑止論等の広範囲にまで及んでおり、代表的な軍事学者の学説(マキアヴェリ、クラウゼヴィッツ、ジョミニ等)も紹介されている
欠点:参考文献一覧だけでなく、本文の脚注もなく、文章の配列が体系的ではない(学術書籍としての扱いはできないため、啓蒙書として紹介)

むすびにかえて
今回紹介した文献はそれぞれに利点と欠点がありますが、それぞれの弱点を補強し合うような文献案内を心がけたつもりです。学習で特に重要な辞典類については次回の記事で説明する予定ですが、こうした入門書を読み進める段階で辞典を手に入れておくこともよいと思います。

これは軍事学の入門者に対する助言として一般的に言えることですが、軍事史の知識は持っていればいるほど研究で役立つので、最初は優先的に学習しておくことを強く推奨します(ここでの軍事史というのは、古代から現在までの戦争の歴史のことを指しています)。
現在の軍事学ではランチェスターやリチャードソンの軍事理論が極めて重要な研究領域を形成していますが、こうした理論的な分野の研究に挑戦するためにも、事前に軍事史の知識を十分に蓄えておくことが非常に重要となってきます。

次回の記事では、学術書籍として入門書に属する日本語文献を紹介したいと思います。

関連記事
軍事学を学びたい人のための文献案内(2)教科書

参考文献
Jordan, Kelly C., 2013. "Military Science," in G. Kurt Piehler, ed. Encyclopedia of Military Science, Los Angels: SAGE Reference, Volume, 2, pp. 880-885.

2016年12月23日金曜日

明治日本の国防論―福沢諭吉の論考から―

1868年、明治維新によって近代化の道を歩み出した日本でしたが、世界の情勢は急展開しており、その軍備は他の大国と比べて劣勢でした。
当時、この問題の深刻さを認識していた人物に福沢諭吉(1835-1901)がいました。福沢は1882年に朝鮮で発生した日本公使館襲撃事件と、清国の朝鮮に対する政治的、軍事的介入を受けて、一刻も早く日本政府として軍備の拡張に取り組むべきだと論じた著作『兵論』を出しています。

今回は、その著作の内容の一部を参照しつつ、福沢が日本の国防についてどのような考え方を持っていたのかを紹介したいと思います。

国家の存立は軍備の優劣にかかっている
国際社会で国家がその独立を維持するためには軍備を欠かしてはならない、と福沢は考えていました。武力によらなければ国家に脅威が及んだ際に、これを防衛することは到底できません。
「国家を守るためには、人を殺すための機械がなければならない。昔から武器は凶器であるとか、戦争は不吉であると言われてきた。しかし、そのような思想で武器を廃止し、戦争を放棄できるわけではない。この言葉は単に武力を軽々しく行使してはならない、という警告に過ぎない」(現代語訳、福沢『兵論』)
こうした見解に対しては、国際法のような外交的手段を巧みに用いることにより、国家を防衛することもできるという考え方もあります。福沢はこのような見解の妥当性を考慮していますが、結局のところ国際社会においては口先の道理と実際の行動には大きな乖離があるので、軍備がなければ戦時に敵の侵攻を防ぎとめることができないという事実は変わらないと論じています。
「国際法はその言葉だけを見れば公平である。それは道理によくかなったものだと人々は言う。しかし、口先で唱えられているものが、実際に行われるわけではない。今の世界の実情を評するなら、人々の言論は道理公平の世界であるが、実際には武力侵略の舞台であると言える」(同上)
福沢は国内政治においては世論の力で武力の発動や使用が妨げられる場合があることを認めていますが、国際政治は国内政治と本質的に異なる性質のものであり、同じような考え方を持ち込むわけにはいかないとも述べています。こうした思想が福沢の軍事力の意義に対する認識を形作っていました。

日本の軍備は戦うのには小さすぎる
福沢の研究の意義は軍備の意義を一般的に主張するだけでなく、どの程度の軍備が必要なのかを定量的に検討したことにあります。

福沢の分析によれば、19世紀後半におけるヨーロッパ諸国と比べた場合の日本の人口は決して著しく小さいわけではありませんでした。例えばフランスの人口は3690万、ドイツの人口は4272万、イギリスの人口は3162万、ロシアの人口は8568万、オランダの人口は357万でしたが、日本の人口は3576万でした。つまり、人的資源においてロシア、ドイツ、フランスに対しては劣勢でしたが、イギリス、オランダに対しては数的に優勢であったということです。

しかし、日本陸軍の規模は7万4000名に過ぎず、ドイツ陸軍の41万名、フランス陸軍の50万名、ロシア陸軍の76万名から大きく引き離されており、同じ島嶼国家であるイギリス陸軍の13万名の水準にさえ達していませんでした。もし大国を相手に戦争が起これば、日本はたちまち不利な立場に置かれる危険があったことを意味します。

軍事力の不備は当時の日本の経済力が発展の途上であったためだという可能性も考えられますが、この可能性について福沢は江戸時代の日本の動員可能な兵力の規模を参照しながら反論しています。
「20年前の封建の時代において、日本では40万名の士族が養われていた。これは40万名の軍人を養っていたことを意味する。(中略)また当時はこの40万名の軍人を養い、彼らに武器を蓄えさせていただけではなかった。当時の軍人は現代の徴兵のようなものではなかったためである。それぞれが家庭を持ち、妻子と家族を保護するという方法であった。一世帯を五人と想定し、合計で200万人の衣食をまかなうための費用、つまり軍事費を求めてみると、これは大きな金額になる。それでも、日本人は毎年この巨額の軍事費を拠出し、耐えてきたのである。
 現在、この軍人40万名の兵役を解除し、それに代わる7万4000名の陸軍と、29隻の軍艦からなる海軍を整備しており、その費用は陸海軍を合計してわずか1100万円余りに過ぎない。以前には万人を養う経済力を持っていた日本が、今ではこれを失ってしまい、再び新たな一歩を踏み出すことができないということだろうか。そのような事実は立証できない」(同上)
当時の日本の経済力であれば、少なくとも40万名規模の軍備を整えることは可能であるため、問題の本質は国防にどの程度の資源を配分するかを政府が政策として決定することにあると福沢は考えました。しかし、なぜ福沢は軍備の拡張をそれほど急ぐ必要があったのでしょうか。

東洋に大国が出現するリスクに備える
福沢が特に重視していたのは中国の脅威でした。当時、中国大陸を支配する清国の陸海軍は旧式の装備や編制によっていましたが、すでに清国は軍備の近代化に取り組み始めていました。福沢はこのまま事態が推移することを恐れていたのです。
「国力の発展は草木の成長と同じようなものである。今では弱小とされる国家でも、その国民が変わり、政治の方針を改めた時には、旧体制を脱却して強大な勢力になる。これは、あたかも時が来れば草木が栄養を得て、わずかな地域に長く生い茂るようなものである。(中略)今の世界において列強は西洋諸国ばかりだが、今後の数十年先には東洋から大国が出現するという可能性もある。私の考えでは、中国がこれに当たる」(同上)
福沢の調査によれば、当時の清国の兵力は八旗兵31万、緑旗兵61万、勇兵5万、蒙古兵10万を含めて合計108万程度でした。さらに、清国は天津、上海、杭州、広州、福州、江寧に近代的な軍需工場を建設して、装備の開発と製造に取り組んでおり、例えば上海の工場ではイギリス人の技術指導を受けて40ポンドのアームストロング砲を製造している実態について福沢は紹介しています。

当時、日清関係においては朝鮮の所属をめぐる問題がありましたが、必ずしも戦争が不可避になるほど悪化していたわけではありませんでした。しかし、だからといって清国の脅威を見過ごし、日本として軍備の拡張に真剣に取り組まなければ、平和を維持し、外交で事を決着することさえも難しくなると懸念していたのです。
「すでに述べたように、外国との外交は双方の敵意を隠し、表面的な友情によって行われるに過ぎない。交渉の背後には武力が必要であるということは、有識者にとって明らかなことであり、武力は単に戦争のためだけの手段ではない。武力は平和な時にも必要である。このことは、封建の時代に武士が友人と談笑する時も、親戚との懇親会の時も、座っている時も、寝ている時も、進む時も、下がる時も、片時として刀を身から離さないようなものである」
つまり、福沢が軍備の拡張を急いだのは、戦争の準備だけが理由ではありませんでした。平時における外交交渉においても軍備を持つことは重要な意味を持っていると考えられていたのです。

むすびにかえて
明治は日本にとって二つの意味で試練の時代でした。対外的には日本は厳しさを増す国際情勢において、速やかに国力を増進し、特に軍備の増強を推進しなければなりませんでした。
対内的には、軍備の増強のための予算を調達し、人的、物的資源を動員することが必要でしたが、依然として国内の政府組織は未整備の部分も多く、また納税者の立場である国民は世界の情勢に無関心で、軍備増強の必要性を理解していませんでした。

福沢が1882年に『兵論』のような著作を発表した理由はさまざまありますが、その一つにこうした国民の国防に対する関心を高め、軍事予算の拡充について国民から理解を得ようとしたことが挙げられます。
福沢は近代の国防は政府だけで遂行できるものではなく、究極的には国民が一致団結することが必要だと考えていました。国民の理解が得られなければ、税金を徴収することにも支障を来し、結果として周辺諸国との勢力関係はますます不利になっていくことを恐れたのです。

福沢は19世紀の思想家ですが、国際政治において軍事力が果たしている役割や、適切な軍備の水準や中国の脅威に関する各種データを用いた考察等は、21世紀の現代の視点から見ても学ぶべき点が少なくありません。もし福沢のような思想家が今の日本を取り巻く状況を見れば、何を思ったでしょうか。

KT

参考文献
福沢諭吉編『福澤全集』時事新報社、1898年
福沢諭吉『兵論』時事新報社、1882年(現代語訳『兵論:明治日本の国防論』Kindle版、国家政策研究会、2017年1月配信予定)

2016年12月19日月曜日

学説研究 国際政治におけるランドパワーの重要性

アナーキー(無政府状態)である国際社会において国家が軍事力を持つ意義については今さら長々と議論するまでもありません。軍備が必要な理由は、国民の生命と財産を各種脅威から保全する能力が確保できていなければ、その国家は長期的に存立していくことができないためです。

私たちがより詳細に検討しなければならないのは、軍備を持つべきかどうかではなく、限られた予算を使って、どのような軍備を持つべきなのかという問題であり、この最適解はその国家の持つ国力や置かれている状況によって異なってきます。例えば、日本の領土は四面環海なので、陸上自衛隊(陸上戦力)よりも海上自衛隊(海上戦力)、航空自衛隊(航空戦力)を重点的に整備すべきといった議論も、この問題に対する一つの案です。

今回は、この問題に関して最も政治的に重要な軍事力の形態とはランドパワー(land power)であり、シーパワーやエアパワーの役割は二次的なもの止まる場合が多いと主張した米国の政治学者ミアシャイマー(John J. Mearsheimer)の説を取り上げ、その内容について検討してみたいと思います。

そもそもランドパワーとは何か
そもそもランドパワーの定義についてですが、実は政治学、軍事学のいずれにもいてもランドパワーという概念はやや曖昧な意味で使われることが少なくありません。ミアシャイマーも自身の議論で明確な定義を与えているわけではなく、前後の文脈から陸上部隊を中心とする国家の戦争遂行能力として推察することができるだけです。

ただし、ミアシャイマーはランドパワーの概念から海上部隊や航空部隊を一律に除外するわけではなく、陸上部隊の作戦を支援することが可能であるという意味で、ランドパワーの一部となり得るということについては述べています。
「ランドパワーは陸軍を中心とするが、これを支援する航空戦力、海上戦力をも含んでいる。 例えば、海上部隊は広大な海洋を超えて陸軍を輸送し、場合によっては敵国の海岸に陸上部隊を投入しようとすることもある。航空部隊も陸軍を輸送するが、より重要なのは空中から火力支援を行うことができることである。しかし、これらの航空部隊、海上部隊の任務は、陸軍を直接的に支援するものであって、陸軍から独立して実施されるわけではない。それゆえ、これらの任務はランドパワーの範疇に含まれるものである」(Mearsheimer 2001: 85-6)
確かに、海軍の作戦でも水陸両用作戦や海上輸送、空軍の作戦でも近接航空支援、航空阻止、空挺作戦のように、陸軍の作戦と緊密に協同して実施するものがあります。実際に第一次世界大戦における航空偵察は地上で活動する砲兵の射撃を上空から観測し、第二次世界大戦では上陸用舟艇の集中運用によって短期間の内に師団規模以上の陸上部隊を着上陸させました。

これらは陸上戦力による地上の継続的な支配を容易にすることを狙った作戦です。そのため、ミアシャイマーが指摘した通り、ランドパワーは海軍や空軍の機能を包括して理解できる場合があることは認めなければなりません。

しかし、ミアシャイマーのランドパワーの概念の曖昧すぎる部分があることは否めません。これは彼の議論の弱点となっています。
もしミアシャイマーが議論した通り、海上部隊や航空部隊もその作戦行動の形態によってはランドパワーに含まれるのならば、海軍や空軍のどのような種類の装備がランドパワーを構成する要素であるのかが明確にされるべきでしょう。また、装備の種類ではなく、運用や作戦に依拠すると主張するのなら、そもそもランドパワーは客観的基準で評価できる能力なのかどうかを明らかにすべきでしょう。

それができなければ、ランドパワーをシーパワーやエアパワーから厳密に区別し、ランドパワーが重要だと主張したとしても、それは有意義な結論とはなり得ません。議論の大前提であるランドパワーの概念がシーパワーやエアパワーの重要性を小さくするように恣意的に定義されている可能性があるためです。ランドパワーをいかに定義すべきかという論点については、さらに検討していく必要があるでしょうが、ここでは留保しておきたいと思います。

なぜランドパワーは重要なのか
国際政治においてランドパワーが重要な理由として、ミアシャイマーはそれが領土という国家の最も重要な要素の一つを支配することを可能にするためであるとして、「陸軍が戦争において最も重要な理由は、それが領土を征服し、支配するための主要な軍事的手段であり、また領土が領域国家の世界において最上位の政治的目標であるためである。海軍と空軍は領土を征服することには単純に適していない」と述べています(Ibid.: 86)。

また、ミアシャイマーは国家が持つ攻撃的能力が本質的に陸軍に大きく依存しており、だからこそ国際政治でランドパワーが重要であるとも論じています。
「ランドパワーは、別の理由でもそれ以外の軍事力の形態より優越している。なぜなら、陸軍だけが敵を迅速に打ち倒すことが可能であるためである。以下で述べるように、海上封鎖や戦略爆撃は、大国間での戦争において素早く、かつ決定的な勝利を収めることができない。これらが役立つのは長期化した消耗戦を遂行する場合である。しかし、迅速な成功が予測される場合を除けば、国家は戦争を始めることがほとんどない。事実、長期的な紛争が予測される場合には、通常なら戦争は強く抑止される。その結果として、大国の陸軍は侵略を始める主要な手段となる。これを言い換えれば、国家が持つ攻撃的能力とは、その陸軍に大きく依存しているのである」(Ibid.: 87)
ミアシャイマーが指摘している通り、ランドパワーは国家の存続に直接的な影響を及ぼしやすい能力だと言えます。というのも、ランドパワーは国家を構成する領土、人民、主権という三要素の中でも、特に基本的な要素である領土を攻略奪取し、同時にそこに居住している人民を自国の主権の下に管理することも可能だからです。
国土と国民を失えば、それは国家の存続にとって致命的な影響をもたらすため、影響は即時的であり、また政治的にも重大であると考えられます。しかし、エアパワーやシーパワーではこうした影響は望めないのでしょうか。
「ドゥーエとマハンの主張とは異なるが、独立した海上戦力や戦略空軍は大規模戦争で勝利を収める上であまり役に立たない。いずれの強制力をもってしても、それだけで大国間の戦争に勝つことは不可能である。ランドパワーだけが大戦争に勝利する可能性を与えてくれる。その大きな理由とは、以下で述べるように、大国に対する強要は困難であるためである。特に敵国の経済を封鎖や爆撃によって破壊することは難しい。さらに加えて、近代国家における指導者とその国民は甚大な被害を受けた後でさえ降伏することはほとんどない。封鎖している海軍と戦略爆撃機は独力では勝利をもたらすことができないが、敵の武器を供給する経済活動に損害を与えることによって、陸軍が勝利を得ることを可能にする場合はある。ただし、この限定的な能力をもってしても、航空部隊と海上部隊が補助以上の役割を果たすことは通常はない」(Ibid.: 86-7)
ジュリオ・ドゥーエは独立空軍による制空権の獲得と戦略爆撃を、アルフレッド・セイヤー・マハンは艦隊決戦による制海権の獲得を重視していたことで知られています。彼らが主張していた通り、海上交通や航空交通を支配することができれば、それだけ相手国の経済的活動は困難となり、軍事的にも劣勢に立たされるでしょう。

しかし、ミアシャイマーが述べている通り、それは国家の基盤である国土や国民を喪失する事態とまでは言えず、少なくとも経済力が枯渇するまでの間は国家としての機能を維持し、組織的抵抗を続けることができるのです。実際、国際政治の歴史を振り返ってみても、戦略爆撃や海上封鎖だけで大国(中小国ではなく)が屈服した事例がほとんど見当たらないことも指摘されています。

核兵器の時代におけるランドパワー
しかし、シーパワーやエアパワーに対するランドパワーの相対的な重要性を認めたとして、核兵器が存在する現代においてもその議論は妥当なのかという問題があります。
ミアシャイマーはこの問題については核兵器があったとしても、それは核兵器の応酬を防止することができるに過ぎず、通常兵器を用いた侵略までを抑止することができるわけではないと考えました。冷戦期の大国間の政治を見ても、やはりランドパワーの影響は依然として注視されていたことをミアシャイマーは次のように説明しています。
「冷戦以降、相互確証破壊の世界で活動する大国は未だに熾烈な安全保障上の競争に巻き込まれており、通常戦力、特にランドパワーの均衡については重大な関心を払っている。米国とソ連は、第二次世界大戦後に対立が始まってから、約45年後に終結に至るまで、世界中の同盟国と基地を巡って相互に競い合っていた。それは長く、厳しい戦いであった。9名の米大統領と6名のソ連指導者は、相互確証破壊の世界においては米ソ両国とも安全であり、国境の外側で何が起きても中位する必要はないという議論を相手にしなかった。さらに、大量の核施設を双方とも保有していたにもかかわらず、米ソ両国は通常戦力に膨大な資源を投入し、また世界中の他の地域と同じようにヨーロッパにおいて陸上部隊と航空部隊の均衡について真剣に考慮していたのである」(Ibid.: 132)
核兵器は従来の通常兵器を時代遅れのものにする代替物というよりも、戦略上の新要素であり、それによって国際政治における通常戦力の意義が失われるということはありませんでした。ミアシャイマーはこのことは実際に観察された大国の行動が物語っており、国際政治においてランドパワーの優劣が大きな関心となっていることについて本質的な変化は認められないと判断しています。

とはいえ、核兵器は抑止の強化に繋がるという説もありますが、これについてミアシャイマーは核抑止は核兵器による攻撃を抑止するものに過ぎず、通常兵器による攻撃を抑止できるわけではないと論じています。
「確証破壊の能力を有する国家は非常に安全であるため、通常戦争を遂行することに関して心配する必要はほとんどないという主張に疑問を投げかける証拠が他にもある。その中でも最も重要なものは、1973年にイスラエルが核兵器を保有していることをエジプトとシリアが知っていたにもかかわらず、イスラエルに対して陸上部隊による大規模な攻勢を始めた事例があることである。実際、イスラエルへの入口に当たるゴラン高原におけるシリア軍の攻勢は、短時間ではあったが、イスラエルの中核地域に向けてシリアが攻め込むための扉を開いたのである。1969年の春、(中ソ国境地帯の)ウスリー川付近で中国とソ連の戦闘が発生し、全面戦争に拡大することが懸念された。当時、中国とソ連はどちらも核施設を持っていた。1950年の秋、中国は核兵器を保有しておらず、また米国は小規模ではあるが核施設を保有していた。それにもかかわらず、当時の中国は朝鮮における米軍に攻撃を加えてきたのである」(Ibid: 132-3)
これらの事例は核兵器を取得したとしても、通常兵器が完全に不必要になるわけではないことを裏付けるものです。
中ソ国境紛争のように双方とも核保有国であっても、武力衝突が発生する事例は過去に存在しています。そのため、大国としての地位を保つためには、通常戦力についても平素から整備しておかなければならないと考えられます。

いかにランドパワーを分析するのか
ミアシャイマーが議論してきた通り、国際政治においてランドパワーが非常に重要な能力であり、その価値が現代の国際社会でも大きく変わっていないとすれば、政治学者はそれを分析するための方法を知っておく必要があります。そこでミアシャイマーは三段階の分析要領を示しています。
「敵対する陸軍の勢力を測定する簡単な方法というものは存在しない。その大きな理由は、それらの強さは多種多様な要因によって決まるためであり、それら全てが陸軍によってそれぞれ異なってくるためである。すなわち、(1)兵士の数、(2)兵士の質、(3)武器の数、(4)武器の質、(5)戦争において兵士と武器を組織化する方法がその要素に該当する。ランドパワーの優れた指標とは、これらの入力を全て説明に含ませなければならない」(Ibid.: 133-4)
例えば、冷戦期の東西陣営の勢力関係を分析するために使用された機甲師団等価(Armored Division Equivalent, ADE)は、地上部隊の能力を比較するために広く用いられた指標であり、部隊の規模だけでなく、装備の性能をも考慮に入れるものでした。こうした指標等を使って分析の基本となる彼我の勢力を相対化することが第一の段階となります。
「ランドパワーの均衡を評価する第二段階は、陸軍を支援する空軍を分析に組み入れることである。指向可能な量と質に注目し、彼我の航空機の一覧を評価しなければならない。操縦士の効率の優位だけでなく、(1)地上配備型の防空システム、(2)偵察能力、(3)戦闘管理システムの優位についても考慮しなければならない」(Ibid.: 134)
ここで興味深いのは、ミアシャイマーが航空部隊の規模やその装備の種類だけでなく、飛行場等の支援機能を守るための防空システムや、部隊の戦闘効率を左右する偵察能力、戦闘管理システムの優劣を分析の対象として重視していることです。
これらは従来の研究者があまり重視していない要素であり、空軍の専門家の文献でなければ滅多に取り上げられませんが、ミアシャイマーはこうした要因に大きな戦略的意義があると考えており、引いてはランドパワーの均衡にも作用するものとして位置付けられています。
「第三に、広大な水域が陸軍の攻撃能力を制約するかどうかに特別な注意を払いつつ、陸軍が持つ勢力投射能力について考察しなければならない。このような水域が同盟国との間に存在する場合、自国と同盟国との間の部隊の移動や物資の輸送を防護する海軍の能力が評価されなければならない。しかし、もし大国(の部隊)がその水域を通過するためには、対岸の領土を直接襲撃しなければならないとすれば、そのような水陸両用襲撃は滅多にできるものではないため、海上戦力の評価は必要ないかもしれない」(Ibid.: 135) 
この見解によれば、海上戦力を分析する必要がどれほどあるかは、地理的条件と、そこから導き出される敵対勢力による水陸両用作戦の可否による、ということになります。しかし、水陸両用作戦の可否は地理的環境だけでなく、相対的な海上戦力の優劣によっても大きく左右されます。それにもかかわらず、ミアシャイマーは海軍の能力を評価する上で、具体的に注目すべき要素について論じていません。

例えば、艦艇の形態(航空母艦・水上艦艇・潜水艦)や艦艇の能力(どのような艦載機、兵装、レーダー・センサーを使用しているのか)等の評価項目について議論することもできたはずですが、著書では不明確にされています。このことは、ミアシャイマーが示した分析手法の有効性について読者に疑念を抱かせる要因となっています。

むすびにかえて
国際政治においてランドパワーが持つ意義を議論したという意味で、ミアシャイマーの議論には価値があります。戦争で相手国の領土を奪取することにより、決定的な打撃を加えることができるという意味で、ランドパワーの効果にはシーパワーやエアパワーにはない即時性があり、核兵器がある現代でも大国はランドパワーで相手よりも不利にならないように注意を払っています。

ただし、彼のランドパワーの考察には、例えば定義の仕方や分析手法といった点で改善すべき部分も見られます。国際政治の歴史においてランドパワーが果たしてきた役割について理解を深めるためには、陸軍の能力を規定している諸要因についてより詳細な研究も必要でしょう。また、ミアシャイマーの議論では海軍の能力を評価する方法が示されていない点についても今後考慮する必要だと思われます。

KT

関連記事
なぜチェレーンは地政学を生み出したのか
論文紹介 世界史におけるランドパワーとシーパワー

参考文献
Mearsheimer, J. John. 2003. The Tragedy of Great Power Politics. New York: W. W. Norton. (邦訳『大国政治の悲劇』奥山真司訳、五月書房、2007年)

2016年12月16日金曜日

論文紹介 クルスクの戦いは軍事理論で説明できるか

軍事学が取り組む課題の一つに、ある条件の下で発生した戦闘の勝敗や損害を説明したり、事前に予測することがあります。地形や兵力等の諸条件からその戦闘の結果をうまく説明できれば、それは学術的に価値があるだけでなく、軍事教育の現場でも役に立ちますし、ある事態が生起した場合に国家として確保すべき兵力の規模やそれに見合った予算の規模を見積もることも理論的には可能となります。

今回は、軍事理論の中でも火力評点アプローチを応用し、第二次世界大戦のクルスクの戦い(battle of Kursk)の結果を説明できるかどうかを検討した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Ramazan, Gozel. 2000. Fitting Firepower Score Models to the Battle of Kursk Data, Master's Thesis, Monterey: Naval Postgraduate School.

火力評点アプローチとは何か
まず、この研究の狙いについて著者は次のように説明しています。
「戦闘単位のレベルによって戦闘モデルは2種類に分類される。一つ目はそれぞれの戦闘車両または兵士が単位として明確に表現される高分解能な戦闘モデルがある。二つ目は低分解能(集約的)な戦闘モデルであり、これは大隊以上の規模の部隊が単位である。集約の問題は、長年にわたって多くの研究者が取り上げてきた。損害の方法論に関する多数の研究では、ランチェスターの法則のような主題から、歴史的、工学的、経験的なデータソースの対立といった主題、さらに火力評点のような評点体系の組み合わせに関する主題があった。本稿が主とする目標は、低分解能(集約的)な戦闘モデルにおける消耗の問題に対して火力評点のアプローチが持っている妥当性である」(Ramazon 2000: xxiv)
ここで著者が述べている損害の問題とは、その戦闘で発生する人的、物的な損失のことです。損害の規模は戦闘でもたらされる結果の中でも最も重要なものであり、彼我の損害の大きさの比率は戦闘の勝敗にとって決定的な意味を持っています。

火力評点(firepower score)アプローチは軍事理論で部隊の能力を数値化する手法の一種のことをいいます。ある基準に基づいて付与された武器の価値を部隊ごとに集計することによって、その部隊としての戦闘能力を比較できるようにするものです。火力評点は、すでに複数の戦闘シミュレーションに導入されており、米軍のTACWAR(ATLASの地上損害モデル(Ground Attrition Model))、研究機関RANDの状況評点モデル(Situational Scoring Model, SSM)、研究機関HIROの定量的判定モデル(Quantified Judgement Model, QJM)がその例として挙げられます。

しかし、これらのシミュレーションでも火力評点の適用の仕方が微妙に異なっており、予測される損害の規模にも相違点があります。著者の目標は、こうした火力評点の方法を駆使した場合、どの程度までなら史実の結果を整合的に説明できるのかを明らかにすることにありました。

クルスクの戦いはどのような戦闘だったのか
クルスクの戦いでソ連軍を指揮したゲオルギー・ジューコフ(1896-1974)
この研究で著者が取り上げているクルスクの戦いは、第二次世界大戦の東部戦線であった大規模な戦闘です。東部戦線の戦局にとって歴史的に重要だっただけでなく、史上最大規模の機甲戦闘であったことから理論的にも高い関心が向けられている戦闘です。

この戦闘は東部戦線でドイツ軍が劣勢に立たされ始める1943年に起こりました。同年2月スターリングラードの戦いで敗北したドイツ軍は大きな兵力を失い、戦略的後退を強いられていました。そのため、ソ連軍の戦線がクルスク周辺で大きく突起しつつある状況でした。ドイツ軍は政府の強い意向を受けて、何とか戦局を挽回するため、東部戦線の機甲部隊の全てを使ってこの突起部を挟撃する構想を研究し始めました。

この構想では、ドイツ軍のヴァルター・モーデルが北から、エーリヒ・フォン・マンシュタインが南から同時に攻撃を仕掛け、突起部を根本から切り落とすように機動することで、突出しているソ連軍の一部の部隊を殲滅することが意図されていました。この攻勢が成功すれば、ソ連軍に大きな損害を与えることが期待できたはずですが、ソ連軍はこの動きに気が付いていました。ゲオルギー・ジューコフはドイツ軍が作戦を準備している段階で、中立国スイスに潜伏させた情報員を通じて計画を察知しており、また前線で獲得した捕虜に対する尋問によって攻撃開始の日時についてもおおよそ検討をつけていたのです。すでに戦闘が始まる前からドイツ軍の奇襲は封じされていました。
クルスクの戦いの状況図、左側にドイツ軍、右側にソ連軍が展開する。
ドイツ軍が分断を図ったソ連軍の突起部はこの地図の下半分で表記されており、ドイツ軍の攻勢では北と南から別に攻撃を行っている。しかし、攻勢は失敗しており、ドイツ軍の方の突起部が失われていることが分かる。(Ibid.: 15)
同年7月5日、ジューコフは航空機の爆撃によって準備途中だったドイツ軍に先制を加え、戦闘の主導権を握ろうとしました。状況の急変を受けてドイツ軍も攻勢を開始し、モーデルが計画通り北側から攻撃を加えたのですが、防御陣地に配備されたソ連軍の対戦車火器によって多数の戦車が破壊されてしまい、ほとんど前進できないまま1週間程度で攻撃は頓挫しました。

さらに南からの攻撃を担当していたマンシュタインは30キロメートルほど進撃することに成功しましたが、ジューコフは防衛線の穴を防ぐために予備の機甲部隊を投入し、7月12日の決戦で甚大な損害を出しながらも、マンシュタインの部隊の前進を完全に食い止めました。その後、ジューコフは部下に攻勢に移行するように命令を達します。戦闘力を使い果たしたドイツ軍はこれを防ぐことができず、さらなる後退を余儀なくされてしまったのです。

クルスクの戦いに投入された部隊の規模はドイツ軍で90万、ソ連軍で130万にもなりました。そのため、戦闘による損害も驚くほど大きく、ドイツ軍では21万以上、ソ連軍で17万以上の人的損害が出ています。一回の戦闘でこれほどの死傷者が出ていることは、歴史的にも珍しい事例であり、だからこそ、火力評点アプローチに基づくモデルでどこまで説明できるのかが研究上の課題として意味を持ってくるのです。

モデルによる解析結果から得られる知見
著者は、クルスクの戦いを分析するために、ドイツ軍とソ連軍の兵力と損害の推移を1日単位で調査し、データベースを構築し、これを先ほど述べた火力評点アプローチに基づく3種類のモデルでそれぞれ解析しました。ここではその解析の全貌について詳細に述べることはできませんが、結論として最も史実に近い戦闘結果を全般として導き出したのはATLASの地上損害モデルであったと報告されています(Ibid.: 146)。ただし、このモデルは攻撃者が受ける損害を実際よりも過大に見積もる傾向があることも判明しており、修正の余地があることも明らかになりました(Ibid.)。

この問題は戦闘という複雑なプロセスを現在の軍事理論が十分に捉えきれていないことが関係しています。
まず戦闘が発生していたとしても、実際に攻撃を行っている部隊が全体の兵力の何パーセントに当たるのかを特定することは非常に難しいという問題があります。15日間におよぶクルスクの戦いでも実はドイツ軍の兵力が常に最大限に使用されていたというわけではありませんでした。著者は、戦闘の最後の1日に至ってはドイツ軍、ソ連軍のいずれの部隊も積極的に戦闘に参加していなかったことを指摘しています(Ibid.: 146)。つまり、15日間の戦闘でも集中的に損害が発生ているのは一時的な事象であり、もし事前に損害の程度を見積もるためには、戦闘における彼我の戦闘力の比率だけでなく、その戦闘の激しさ、活発さの推移という別の要因を予測しておく必要があることが示唆されています(Ibid.)。

また戦闘で攻撃者が受ける損害をモデルが過大に評価した要因については、著者はドイツ軍の戦闘効率がソ連軍よりも質的に優れていた可能性について指摘しています。火力評点のアプローチでも例えばQJMでは指揮の効率や訓練の充実といった質的要因を考慮されているのですが、ATLASのモデルでは無視されています。東部戦線におけるドイツ軍の戦闘効率は少なく見積もってもソ連軍の2倍、大きく見積もると3倍はあったという分析もあるため、この要因を重視しないATLASのモデルが攻撃者、つまりドイツ軍の損害を過小に評価してしまったと思われます(Ibid.: 147)。(ちなみ、著者はドイツ軍の航空部隊がソ連軍よりも多くの出撃回数を維持しており、こうした航空支援が戦闘結果に与えた影響の大きさについても指摘しています)

全般として史実に最も近い結果を出したATLASの地上損害モデルですが、特定の分野に限定すればランドが開発したSSMやHIROのQJMにも評価すべき点があると著者は述べています。物的損害、特に戦闘で撃破された戦車の台数を予測することについてはSFMは地上損害モデルよりも正確に予測しており、人的損害に限って言えば、QJMが最も優れた予測結果を出しています(Ibid.: 148)。ここで興味深いのは、戦闘で生じる損害でも人員の殺傷と装備の損失では異なるプロセスがあることが示唆されている点であり、一つのモデルでその両方を同時に正確に予測することは難しいと考えられます。火力評点アプローチを使用するとしても、分析者は戦闘の結果で特に何の損害を予測したいのかを判断し、いくつかのモデルを使い分ける必要があるのです。

むすびにかえて
ランチェスター方程式のような戦闘モデルは、戦闘の本質的要素を単純化したものであるため、理解しやすく、また理論的な拡張も容易なのですが、実際の戦闘の結果を予測するには不十分です。火力評点アプローチに基づく軍事理論がさまざまな形で発達してきたのは、こうした問題を解決するためであり、ある程度の予測は可能になりつつあると言えます。
ただし、予測の精度を上げるためには、さらに改善すべき点が残っています。著者が指摘した戦闘の途中で起きる烈度の変化、部隊の戦闘効率の相違がもたらす影響や、人的損害と物的損害の発生プロセスの違いはさらに検討する必要があるでしょう。

KT

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2016年12月14日水曜日

なぜキッシンジャーは毛沢東の戦略思想を評価したのか

ヘンリー・キッシンジャー(左)と毛沢東(右)
ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger 1923-)は、世界的に有名な政治学者であり、外交や戦略に関する研究を数多く発表しています。キッシンジャーの業績で特に重要なものは、核戦略に関するものですが、特に著作『核兵器と対外政策』(1957)では全面戦争ばかりを想定した米国の大量報復(massive retaliation)のような戦略を批判し、限定戦争(limited war)の遂行を視野に入れた戦略理論が重要であると主張しました。

しかし、キッシンジャーがこうした立場から、毛沢東(1893-1976)の戦略思想を高く評価していたことはあまり知られていません。今回は、キッシンジャーの分析から毛沢東の戦略思想を取り上げている部分を紹介してみたいと思います。

中国の戦略思想はソ連より先行している
フリードリヒ・エンゲルス、共産主義の思想家
軍事問題に関する著述を数多く残している
共産主義者の軍事思想には長い歴史があります。カール・マルクスと共に『共産党宣言』の著者として名前を連ねたフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels 1820-1895)は、18世紀末から19世紀初めにかけてヨーロッパで戦われたフランス革命戦争・ナポレオン戦争を唯物史観の観点から議論しており、特に当時のフランスの経済的、社会的要因が軍隊の構造や運用に与えた影響を考察しました。その後も、ロシア革命で共産党を指導したウラジミール・レーニン(Vladimir Lenin 1870-1924)、ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin 1878-1953)もそれぞれに軍事思想に関する考察を書き残しており、特にスターリンの軍事思想はソ連で公式の戦略教義にもなっています。

共産主義の影響を受けた軍事思想の中でも、キッシンジャーは毛沢東の戦略思想に格別な意義があったと考えました。その重要性についてキッシンジャーは著作で次のように論じています。
「ここで注意すべきことは、共産主義の軍事思想の最も優れた理論的論説は、ソ連よりも中共の著作に見られることである。これは偶然ではない。ソ連の膨張は主として政治戦争の巧みな活用と、中欧におけるドイツ勢力の崩壊によって生じた大きな機会のおかげである。しかし、中共がその完全な成功、いな実際にはその生存を全うしえたのも、軍事作戦から政治的利点を引き出し得る能力があったからであった。最初の十五年間、ソ連共産主義の主要な関心は本国基地の「防衛」にあった。しかし、中共の主要関心は、本国基地の「征服」にあった。」(邦訳、キッシンジャー『核兵器と外交政策』428頁)
ここでキッシンジャーが取り上げている著作は毛沢東が1930年代に書いた「中国革命戦争の戦略問題」等の論文であり、基本的に対日戦争のことが念頭にある内容です。しかし、キッシンジャーは毛沢東の戦略思想は日本との戦争だけでなく、その後の国共内戦、そして朝鮮戦争でも一貫して適用されているとして重要性を主張しています(同上、429頁)。

時間をかけて勢力均衡を変える重要性
1949年、中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東
毛沢東は他の共産主義者と同じように、戦争を階級闘争の最も暴力的な状態と考えていました。
したがって、毛沢東の戦争観は本質的にマルクス、レーニン、スターリン等と大きく異なっているわけではありません。このことについては次のようにキッシンジャーは述べています。
「戦争は闘争の最高形式である、という周知のレーニン主義理論からはじめて、毛沢東は高度の分析能力と、稀にみる心理的見通しや、完全な無慈悲さとを組み合わせる戦争理論を作り上げている。毛沢東は、共産主義の優秀さの鍵を、マルクス理論に見出して、重要なものを無関係のものから区別することができるようにする望遠鏡に、このマルクス理論をたとえている。したがって、彼はマルクス・レーニン・スターリン主義の理論の研究が、効果的な行動のための先決条件だと考えている」(同上、429頁)
キッシンジャーがマルクス・レーニン主義の理論のどの部分を指してこのように述べているのかは、やや曖昧さが残るのですが、毛沢東としてはこうした政治思想を基礎とすることによって、実効性のある戦略思想を組み立てることができたと述べています。
具体的にその戦略思想がどのようなものだったのかについてですが、この点についてキッシンジャーは毛沢東の三つの命題を示しています。
「正しい軍事路線を、毛沢東は三つの命題に要約しているが、これを、毛沢東は、勝利の先決条件と考えた。すなわち「(1)勝利が確実なときは、あらゆる会戦、あらゆる戦闘で断固として決戦を行うこと、(2)勝利が不確実なときは、あらゆる会戦または戦闘で決戦を避けること、(3)民族の運命をかけるような戦略的決戦は絶対に避けること」(同上、430頁)
この著作が出された1950年代まで米国では核兵器による「大量報復(massive retaliation)」を準備し、相手に核戦争の恐怖を与えることで、全面戦争を抑止できるという戦略思想が議論されていたのですが、キッシンジャーはこのような「戦略的決戦」を回避すべきだと毛沢東が考えていたことに賛同する立場でした。つまり、我が方の優勢を頼みにして全国民の運命を一度の決戦にかけるということは望ましくないという考え方を持っていたのです。
これを避けるためには、より長期的な視野で限定された軍事活動を指導できる戦略が重要となります。
「中共の基本的軍事戦略は「長期限定戦争」と規定されていた。力関係が全面戦争、すなわち絶対的な力が至高の位置を占めるような戦争をやるのに不利である場合には、共産主義者の目標は一連の変革(transformations)でなければならない。その変革の一つひとつは、それだけでは決定的ではないが、その累積的効果が勢力均衡を変更するに至るべきものなのである」(同上)
キッシンジャーの見解によれば、中国は毛沢東の指導の下で決して短期決戦を挑んで一挙に勢力関係を変えるようなことを避ける傾向があり、少しずつ時間をかけて勢力関係を変化させていくことを望ましいと考えていました。こうすれば、物的勢力で優位に立っている相手を疲弊させ、相対的に自身の地位を相対的に高め、最後に戦略的反攻を仕掛けるまで我が方の戦力を温存することが可能になるのです。

阻止を重視した限定戦争の戦略思想
1949年、北京に入る人民解放軍の部隊
キッシンジャーは核兵器の時代において必要となる戦略思想は、まさに毛沢東が述べたような戦略思想であると考えていました。それは、全面戦争の意義を否定する戦略であり、大量の武器や人員を第一線に集中し、敵に対して戦闘力で物的に優位に立つことを戒めるものでした。
「敵を心理的に疲らさせることによって、戦争に勝つと考えているので、スターリンと同じように、毛沢東は戦略的反攻に特に注意を払ったのである。戦争の混乱の一部の原因が、敵の意図についての情報の不十分にあるとすれば、この不確実さを減ずる方法は、敵をこちらが予定した方向に進ませることにある。敵が自分の味方の領域内に前進するにつれて、自信過剰によって錯誤を行うこともあろうし、補足し難い味方の兵力との決定的な衝突を避けなければならないため、士気を低下させることにもなろう。そのうえ、次には敵が合目的に行動するために必要な情報を、こちらから与えないようにすることも容易となろう」(同上、432頁)
毛沢東の戦略思想は、あえて敵を我の予定した戦域にまで招き入れるという意味で防勢的な特徴を持っています。しかし、これは専守防衛ではありません。前線に向かって移動中の敵の部隊に対して阻止(interdiction)を行い、本来の戦闘力を発揮させる前に撃破するという攻防一体となった戦略でした。敵の部隊を基地機能から遠ざけるように我の領域に引き込み、これに損害を与え続ければ、優勢な敵であっても打ち倒すことができると考えていたのです。
「時には、敵が前進を続けている間には、毛沢東によれば、共産主義の心理的優位が敵の物的優位に勝るようになる点に到達するのが普通である。移動中の縦隊を攻撃することが可能であれば、このことは、なおさらうまく行く。それは、その時には敵の絶対的な優位を、戦場における相対的な劣勢に追い込むことができるからである」(同上、432頁)
全体で比較した国力、軍備が相対的に劣勢であっても、戦場で実際に展開されている部隊の規模が限定的なものに抑制できていれば、優位に立つことができます。毛沢東のこうした考え方は限定戦争の理論を模索していたキッシンジャーの戦略思想にも影響を及ぼすものだったのです。

むすびにかえて
毛沢東の軍事思想は一般には革命戦争に関する議論として単純化されることも多いのですが、キッシンジャーは毛沢東の軍事思想は限定戦争に関する議論であり、それは核の時代において高い妥当性を持つものと認められました。そのことからキッシンジャーは毛沢東の軍事思想に高い評価を与えていたのです。

長期限定戦争には、少なくとも我が方の勢力が劣勢な間は、本格的な武力衝突を徹底して回避するという特徴があります。この戦略が採用されれば、小規模かつ限定的な活動を長期間にわたって実施することになりますが、これを抑止しようとしても、その裏付けとなる軍事力が核兵器のような兵器体系に依存しすぎると、実際に戦略としての実効力が得られないという問題が出てきます。

以上の議論を踏まえると、中国に対して日本が抑止力を確保しようとする場合、相手の活動の烈度と同じ烈度で我が方としても長期的な対抗措置を講じていく必要があると考えられます。つまり、しっぺ返し戦略のように相手が限定的な活動に止まるなら、我が方も相手と同レベルの烈度で対抗していかなければならないのです。それは危ういエスカレーションを引き起こす可能性もありますが、だからといって引き下がってばかりでは、東アジアの安定性は損なわれる一方だということも、理解しておかなければなりません。

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参考文献
Kissinger, Henry A. 1957. Nuclear Weapons and Foreign Policy, New York: Harper & Brothers.(邦訳、キッシンジャー『核兵器と外交政策』田中武克、桃井真訳、日本外政学会、1958年)

2016年12月11日日曜日

優れた戦術には射撃計画が必要

戦術の要諦は、戦闘で部隊の戦闘力を最大限に発揮することにあります。戦闘力を構成する要素には人員、武器、装備等がありますが、その中でも特に中心的な位置を占めているのが火力(firepower)という要素です。したがって、戦術の問題とは、さまざまな任務、地形、敵情において、我の火力を敵に対して最も効率的な態勢で発揮する方法を探し出すことであるとも言えます。

今回は、火力の発揮を図る上で重要な射撃計画(fire planning)の概念や事例について米軍の教範の記述をもとに説明してみたいと思います。

射撃計画とは何か
米軍の教範によれば、射撃計画とは、「作戦構想の一段階を支援するために事前に準備された射撃で狙う目標を選択する一連の過程」と定義されます(FM 3-21.8: C-1)。

これは机に向かって緻密に行うような計画作業ばかりを指しているわけではありません。戦闘が始まれば現地の状況に応じて修正を加えていく性質の計画です。
より具体的な説明としては「小隊長・分隊長は任務を受領すると直ちに射撃計画の作成を始める。 戦闘が始まれば、射撃計画は作戦が完了するまで継続的に行われる。射撃計画の第一の目標は、小隊長・分隊長の作戦構想を最適な形で支援するために、火力を集中し、配分し、統制する方法を明らかにすることである」と記述されています(Ibid.)。

射撃計画では、その達成すべき目的を踏まえ、射撃目標、観測員、射手(砲手)の位置関係をどのように調整するかを考えなければなりません。誤解してはならないのは、射撃計画は必ずしも砲兵だけの問題というわけではなく、戦場で火力を運用する部隊にとって共通の問題であるということです。実際、射撃計画は射撃をどのように実施すべきかという問題に終始するものではなく、どのように戦闘を遂行しようとしているのかが問われることになります。どのような射撃計画を実施すべきかは指揮官の戦術によって変わってくるのです。

例えば、敵の陣地に対して突撃を行おうとする状況の場合、敵の陣地を最も効率的に破壊できる目標を中心に選ばなければなりません。しかし、敵が仕掛ける攻撃を防ごうとするのであれば、我の主抵抗線に沿って敵の移動を妨げるように射撃する必要があります。それ以外にも、敵の歩兵や戦車だけでなく、後方にいる敵の迫撃砲や榴弾砲の射撃陣地に砲弾を落下させることや、妨害を目的として敵の部隊に対して長期にわたり断続的に砲弾を落下させるような射撃をすることも考えられます。

射程に応じて武器を使いこなす
よい射撃計画を立案するためには、武器の射程について一定程度の知識が必要です。その威力が最大限に発揮できる射距離で目標を観測できるようにし、射撃陣地を準備しなければなりません。
もし防御の際に有効射程が大きい武器を多く使用できるなら、それだけ遠くに敵を捕捉して交戦できるように射撃陣地を準備すべきですし、反対に射程が短い武器しかないのであれば、敵をかなり引き付けた後に射撃を開始しなければなりません。
射程が異なる武器を計画的に使用することで、攻撃、前進する敵の部隊に対して効率的に損害を与えることが可能となる。図表は左の我の部隊に向かって右から前進する敵に対する防御を考える場合に、どのような武器をどのような射距離で使用するのかを示した一例。我の陣地から見て前方30mまでは小銃や機関銃等の小火器で対処するが、30mから300mまでの区域では攻撃機AC-130の105mm榴弾砲、81mm迫撃砲、105mm榴弾砲で対処し、さらに300mから600mの区域では120mm迫撃砲と155mm榴弾砲で対処することが記されている。
(Ibid.: C-4)
ここで理解を助けるための具体的な想定として、高地を占領する敵部隊に対して1個小隊で攻撃する状況を考えてみましょう。
小隊の攻撃を支援するために81mm迫撃砲、60mm迫撃砲を使用できるとします。81mm迫撃砲は230m先の目標に対して射撃可能ですが、60mm迫撃砲は175m先の目標に対してしか射撃できません。このような場合、小隊は当初は81mm迫撃砲の支援だけで敵前を前進しなければなりません。十分な火力がない状態で突撃すれば、小隊の損害は大きなものになる恐れがあります。

そこで小隊としては直ちに敵の陣地に対して突撃を仕掛けるのではなく、地形をよく偵察した上で、迫撃砲手が展開できる射撃陣地を見つけ出し、まず小隊の一部でこれを占領しなければなりません。その地点を確保できれば、60mm迫撃砲も小隊の突撃を支援することが可能になり、事後の突撃でも有利に立つことができます。
この想定はあくまでも一例ですが、武器の射程を知れば、その武器が戦場のどこに配置されるべきかを判断することが可能となり、また狙うべき目標も選びやすくなります。射撃計画は指揮官が考える戦術を具体化する上で重要な要素であり、火力の配分だけでなく、特に攻撃の場面では部隊の機動にも大きな影響を及ぼしてくるのです。

米軍の戦史で考える射撃計画の重要性
最後に沖縄戦でのある大隊が経験した交戦について紹介したいと思います。この交戦では射撃計画の適否が戦闘の結果に重大な影響を与えることが示唆されています。
「1945年5月14日、沖縄本島での戦役において3日間の激戦を行ったために、第77歩兵師団第305歩兵連隊の第1大隊の各中隊は小隊規模にまで人員が減少し、伍長や軍曹によって指揮されていた。これほどの損害にもかかわらず、大隊は前進を続けることを決めた。奇襲効果を狙って支援射撃をしないまま各中隊による払暁攻撃が実施された。小銃中隊は0800時に攻撃開始線(LD)を通過し、200ヤード(1ヤード=0.9144m、ここでは約182m相当)前進したところで敵からの射撃を受けた。奇襲それ自体は成功していたが、敵は直ちに態勢を立て直し、機関銃と迫撃砲によって攻撃部隊の前進を阻止し、火力優勢を獲得した。尾根にあった敵の2つの陣地は迫撃砲の射撃で破壊されたものの、中隊は依然として敵の射撃により無事に移動することは不可能だった。到達した地点から後退しないという決心に基づき、大隊長は81mm迫撃砲小隊に対して先行する中隊の正面に制圧射撃を実施するように命令した。中隊の前方わずか50ヤードに対する射撃が実施され、大隊長は部隊が前進するのに応じてるのを弾幕を前方に推進し続けた」(Ibid.: C-1)
射撃計画には本来であれば安全の確保という問題もあります。敵に対して武器を使用する場合でも、各種要因によって射撃目標から外れた地点に砲弾が落下するという事態が考えられますし、目標に砲弾が落下しても、我が方の人員や装備があまりに近接していると、損害が生じる危険もあります。
そのため、射撃計画では彼我の態勢から安全距離を確保できるように射撃目標を選ぶことにも着意しなければなりません。しかし、当時の大隊長は前進した中隊の状況が切迫しており、また何としても攻撃を成功させる必要があるとの判断から、十分な安全距離が確保できないことを承知の上で81mm迫撃砲による制圧射撃を決めたのです。
「大隊の迫撃砲小隊は先行している部隊に向かって前進した。小隊長は素早く目視による偵察を行い、2門の迫撃砲を使用することを決めた。この時、小隊長は中隊の前方およそ50ヤードに1門の迫撃砲を、中隊の前方およそ100ヤードに1門の迫撃砲をそれぞれ照準するように調整した。これは迫撃砲1門は射距離700、もう1門は射距離750で射ったということである。(中略)先行する中隊はやがて前進を再開し、迫撃砲の弾幕の後方を移動した。敵はその弾幕から逃れるために洞窟陣地へと後退し、そこで火炎放射器や梱包爆薬で一掃された。前進はゆっくりではあったが、着実に進められ、このようにして7カ所の洞窟陣地を奪取した。それぞれの迫撃砲は毎分約10発の速度で射撃された。若干の砲弾が部隊のおよそ25ヤード付近に落下し、3名の小銃手が負傷した」(Ibid.: C-1-C-2)
当時の迫撃砲手は味方のすぐ近くを射撃したために相当の緊張を強いられたことでしょうし、実際に3名の負傷者を出してしまいましたが、全体として見れば大隊長の射撃計画は評価すべきものでした。各中隊が小隊規模にまで縮小し、第一線で発揮できる火力は著しく制限されていたので、この交戦の際に迫撃砲小隊が果たした役割は極めて大きなものであっただろうと推察されます。

KT

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戦術家のための地形知識

参考文献
U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.8: The Infantry Rifle Platoon and Squad, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2016年12月7日水曜日

論文紹介 オフショア・バランシング(offshore balancing)とは何か

2017年1月の新政権の発足に向かって、現在アメリカでは準備が進められています。これに呼応するようにアメリカの研究者の間でも従来の国家政策を抜本的に見直し、世界各地の情勢に軍事的、外交的に関与することを限定し、より国内の経済や社会の問題に集中できる体制を整えるべきだという意見が現れています。これはオフショア・バランシング(offshore balancing)として以前から議論されていた大戦略(grand strategy)ですが、今回はリアリストの立場からアメリカの大戦略としてのオフショア・バランシングの妥当性を検討した議論を紹介したいと思います。

文献情報
Mearsheimer, John J., and Stephen M. Walt. "The Case for Offshore Balancing: A Superior U.S. Grand Strategy," Foreign Affairs, Vol. 95(July/August 2016), pp. 70-83.

アメリカの大戦略を見直す必要性
著者らは現在のアメリカの戦略がとても成功しているとは思えないということから議論を始めています。アメリカは安定した国際社会を構築することに失敗しているだけでなく、かえって自国の国益を損ねているのではないかと疑念が持たれています。
「過去四半世紀に及ぶ救いようがない歴史を振り返ってみると、現在採用されている大戦略をアメリカ人が嫌悪していることは当然のことである。アジアにおいては、インド、パキスタン、北朝鮮に核兵器が拡散しており、中国は海洋秩序の現状に対して挑戦している。ヨーロッパでは、ロシアがクリミアを併合し、米露関係は冷戦以来の悪さである。米軍はアフガニスタンとイラクでまだ戦っているが、勝利の見通しは立っていない。最初にいた指導者たちの大部分がいなくなったが、アルカイダはこの地域で拡大している。アラブ世界は大混乱に陥っており、イラクとリビアで体制移行を促すように働きかけ、またシリアでも同様の効果が得られるような限定的な働きかけが実施されたことはましな方だったが、イスラミック・ステート(ISIS)が混乱の中から出現した。イスラエルとパレスチナの和平を仲介するアメリカの試みは何度も失敗しており、最終的には二国間で解決する以外に選択肢はなくなった。その一方で民主制は世界規模で後退しており、アメリカの拷問、対象者の殺害といった道徳的に疑わしい行為は、人権と国際法の擁護者としてのイメージを損なっている」(Mearsheimer and Walt 2016: 70-1)
最大の問題は、アメリカが採用している大戦略の方向性に間違いがあるためだと著者らは主張しています。その大戦略とはリベラルな覇権(liberal hegemony)を目標とし、それを達成するためにアメリカが全世界の問題に積極的に関与し、国際機構、代議制、自由市場、人権に基づく国際体制を構築するというものです(Ibid.: 71)。しかし、このような取り組みは各地域の勢力均衡を維持する上であまり有効な方策ではないだけでなく、世界中で民主制と人権を擁護することに資源を費やさなければなりません。

こうした大戦略を立て直すことは可能であると著者らは主張しており、それが「オフショア・バランシング(offshore balancing)」と呼ばれるものです。これは全世界を警戒するのではなく、ヨーロッパ、東アジア、ペルシャ湾の三正面で潜在的な覇権国家が台頭することを阻止し、必要があるまで介入しないという特徴があります(Ibid.)。しかし、これは具体的にどのような意味を持っているのでしょうか。

アメリカの大戦略としてのオフショア・バランシング
アメリカの大戦略としてのオフショア・バランシングは、世界でも限られた地域の情勢に注目する点で異なっているだけでなく、平和の維持、紛争の防止を必ずしも重視していないという意味でも大きく異なっています。もちろん、戦争を防止できるのであれば、それは望ましいことではありますが、アメリカの国益を損なわない範囲であれば、世界のどこかで戦争が起きたとしても、それを無視することを推奨するものです。
「オフショア・バランシングとはリアリストの大戦略であり、その目標は限定されている。平和の維持は望ましいことではあるが、この大戦略の目標には含まれていない。アメリカ政府が世界のどこかで紛争が発生することを歓迎せよとか、戦争を防止するために外交的または経済的手段を用いてはならないという意味ではない。しかし、平和を維持するためだけに、アメリカ軍を投入するべきではない。1994年にルワンダで起きた民族浄化を止めることも、オフショア・バランシングの目標ではない。ただし、この戦略を採用したとしても、その必要性が明白であり、任務が実行可能であり、アメリカ政府の指導者が介入が事態を悪化させることはないと確信しているならば、そのような作戦を妨げることはない」(Ibid.: 73)
オフショア・バランシングはアメリカから見て遠方で起きている戦争に参戦することには非常に慎重な姿勢を取る大戦略です。そのため、人権や民主制といった普遍的価値を擁護するために部隊を派遣するといったことはしません。そのため、国民が引き受ける軍事上の負担を軽減することが期待できます。この負担の軽減はオフショア・バランシングの最も重要な利点の一つであると著者らは論じています。
「オフショア・バランシングには数多くの利点がある。アメリカ軍が防衛に責任を持つ地域を限定し、他国にも防衛の負担を引き受けさせることによって、アメリカ政府として防衛に費やす資源を削減し、国内における投資と消費を可能にし、アメリカ人の生活にとって外を少なくしなければならない。今日、同盟国は常態的にアメリカの保護にただ乗りしており、問題は冷戦終結後に大きくなるばかりである。例えば、NATOの内部でアメリカのGDPは同盟国全体のGDPの46%を占めているが、軍事支出の比率で見るとおよそ75%を負担している。政治学者バリー・ポーゼン(Barry Posen)は、「これは富裕層のための福祉である」と批判した」(Ibid.: 74)
世界規模で軍隊を積極的に運用しようとすれば、それだけ防衛支出が増加します。そのためには政府として増税が必要となりますが、それは国内の経済成長を促す設備投資や消費を縮小させてしまいます。著者らはこのことを懸念し、より国防予算を縮小できるように、海外でのアメリカ軍の活動も縮小できる大戦略を採用することを重視しているのです。

オフショア・バランシングの実行可能性
オフショア・バランシングはある意味で国家政策の重点を国防から経済に移行させるための大戦略です。東アジア、ヨーロッパ、中東といった戦略的価値が大きい地域にのみ焦点を絞った対外政策を展開し、それ以外の地域の問題には極力関与しないことが目指されています。しかし、これは従来のアメリカの大戦略と異なるものであり、このようなことが可能なのかどうか疑問を持つ人もいます。

著者らはオフショア・バランシングの実行可能性に疑問を持つ人々に対しては、そもそもオフショア・バランシングはアメリカが長年にわたって採用してきた大戦略と合致していると論じています。
「オフショア・バランシングは、今では急進的な戦略のように見られるかもしれない。しかし、それは何十年もの間、アメリカの対外政策の基礎となる論理であり、国家を支えてきた。 19世紀にアメリカは北アメリカ大陸を横断しながら拡張し、強力な国家を建設し、西半球で覇権を確立した。19世紀の終わりにこれらの活動を終えた後、アメリカはすぐにヨーロッパと北東アジアで勢力均衡を維持することに関心を示すようになった。アメリカはその地域の対抗が相互に牽制させるが、第一次、第二次世界大戦のように勢力均衡が崩壊した場合に限っては軍事的に介入した。
 冷戦時代にアメリカはヨーロッパや北東アジアへ進出する以外に選択肢はなかった。その地域における同盟国は自らの力でソ連を封じ込めることができなかったためである。アメリカ政府は両方の地域で同盟関係と軍事力を強化し、東北アジアにおけるソビエトの勢力を抑制するために朝鮮戦争を戦った」(Ibid.: 75)
つまり、冷戦以降のアメリカの大戦略は歴史的に見ると例外的な状態であり、アメリカは本来は可能な限り海外で軍事的介入を行うことを避けようとしてきたということになります。また実行可能性という観点から見れば、むしろ現在のリベラルな覇権の方が疑問の余地が大きく、具体的な成果をもたらしていないと指摘しています。
「それだけでなく、近年の歴史はアメリカのリーダーシップが平和を維持するという主張に疑問を投げかけている。過去25年にわたって、アメリカ政府は中東で何度か戦争を引き起こし、また支援している。リベラルな覇権が世界的な安定を強化すると想定するならば、それはほとんど機能していない」(Ibid.: 78)
アメリカが世界で指導的な役割を果たすことが、世界の平和と安定に繋がるはずだとすれば、アメリカはさらに世界各地に関与を強めていくべきだということになります。しかし、アメリカの内外の情勢を踏まえれば、そのような主張の方がむしろ非現実的だと考えることもできるのかもしれません。

むすびにかえて
世界の問題から手を引き、特定の地域にのみ焦点を絞って対外行動を展開し、軍事的介入を最小限に抑制するオフショア・バランシングは、アメリカらしくない大戦略だと思われるかもしれません。しかし、著者らも指摘したように、これはある意味でアメリカが長年にわたって維持してきた孤立主義の伝統に合致した大戦略でもあります。だからこそ、著者らはオフショア・バランシングは戦略的に合理的な選択であるだけでなく、アメリカ国民にとっても受け入れやすいと述べているのです。
「オフショア・バランシングは、アメリカの伝統とその永続的な利点の認識に自信を持って生まれた大戦略である。それは恵まれた地理的位置を利用し、過剰に強力で野心的な隣国との均衡を保つために他国が必要とする強い誘因を認識する。それは、民主主義の力を尊重し、外国の社会にアメリカの価値を押し付けようとせず、他国が模倣したいと思わせる国家になることに焦点を合わせる。過去と同じように、オフショア・バランシングは、アメリカの利益に最も近い戦略であるだけでなく、それはまたアメリカ人が望むものに最も合致するものでもある」(Ibid.: 83)
この議論をどのように評価するかは別として、2016年現在このような議論がアメリカで再び登場していることを理解しておくことは重要なことだと思われます。21世紀の国際政治のパターンは多極化に向かって進むという命題は何度も研究者の間で議論されてきたことですが、アメリカが大戦略を再検討し、国際社会で指導力を発揮することを拒み始めれば、多極化の過程は想定よりも早いテンポで進む恐れもあります。アメリカの今後の動きに注目するばかりではなく、日本として主体的にどのような対応が必要かを検討しておくことが必要でしょう。

KT

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2016年12月4日日曜日

18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール

ジャック・アントワーヌ・ギベール(Jaques Antoine Guibert、1743-1790)は、18世紀のフランスで名が知れた軍人であり、その後のナポレオン・ボナパルトの軍事思想にも大きな影響を与えた軍事学者でもあったと考えられています。しかし、彼の思想は日本でほとんど紹介されておらず、どのような考えの持ち主だったのか十分に理解されていません。

今回は、ギベールがどのような人物だったのか、彼の研究はどのような内容であったのかを簡単に説明したいと思います。

ギベールはどのような人物だったか
ギベールは1743年11月11日にフランス南部に位置する都市モントーバン(Montauban)近郊で軍人の家に生まれました。ギベールは幼少期から初等教育を受け、8歳の時にはパリでより高度な学問に取り組むようになりました。1748年つまり5歳の年齢ですでに中尉の階級を得ていたギベールでしたが、これは当時の貴族社会で軍隊の階級が取引されていたことによるものであり、1753年つまり8歳の年齢で中尉に昇進しています。こうした学歴からも分かるように、ギベールは幼少期からフランス陸軍の士官になるように育てられていたのです。

またギベールが幼少期を過ごしていた時代はフランスにとって試練の時代でもありました。当時のヨーロッパではフリードリヒ二世の指導の下で台頭するプロイセンとオーストリアの関係がシュレジエンの領有権問題をめぐって極めて悪化していました。フランスは長年の宿敵だったオーストリアと同盟を結ぶ決断を下し、プロイセンの脅威に対抗しようとします。こうしたヨーロッパの国際情勢の中で1756年に七年戦争が勃発し、フランスもオーストリア、ロシア、スウェーデン等と共同でプロイセン、イギリスとの戦争状態に入りました。ギベールは13歳で父の軍務を手伝うようになったのは、こうした国際情勢の中でのことでした。しかし、七年戦争でフリードリヒ二世の軍事的能力を知らしめた1757年のロスバッハの戦いでギベールは親子ともにプロイセン軍の捕虜となってしまいます。

父と一緒にプロイセンで捕虜として生活を送ることになったギベールでしたが、好意的な待遇を受けていたので、プロイセン軍の内情について視察することができました。ギベールはプロイセン軍の編成、隊形、戦術、特にその巧妙な機動戦の教義体系について調査し、ロスバッハの戦いで目の当たりにした敗北の要因を研究しました。ちなみに、この時機にギベールは大尉に昇進しています。1759年に釈放されたギベールは父と共に帰国し、旅団長に任ぜられた父の傍で軍務を続けました。1763年に七年戦争が終結すると軍の動員は解除されましたが、ギベールはフランス軍が抱える組織上、運用上の問題点について強い問題意識を認識するようになっていました。

戦後にフランスで七年戦争の教訓を受けて着手された軍制改革の議論にも、ギベールはやはり父の側近という立場を利用しながら関与しました。ここまで一人の軍人としての軍功がなかったギベールでしたが、1768年にジェノヴァがフランスに売却したコルシカ島で抵抗運動が起きた際に、ギベールははじめて自分で部隊を指揮し、鎮圧に貢献することで、軍人としての評判を打ち立て、大佐に昇進することに成功しています。さらに1770年に『戦術概論(Essai général de tactique)』を発表すると、ドイツ語や英語に翻訳され、ヨーロッパ各国で多くの読者を得えました。軍人でありながら文才に長けていたこともあって、作家として商業的に成功したのです。

この著作が注目を集めたことで、ギベールは名声を獲得しました。その後、ギベールはフランス軍の内部にいた有力な改革論者の支援を受け、1777年までフランス軍の中枢で戦術の改革に取り組んでいます。しかし、改革推進論者が内部の権力闘争に敗れて失脚すると、ギベールも地方に追い払われてしまいます。そのためギベールの改革は必ずしもすべてがうまくいったわけではありませんでした。とはいえ、1785年には王立科学協会の会員にも選ばれており、軍事学者として確固とした地位を得ています。その後も中央に復帰することは叶わず、フランス革命が起きる前の1790年に死去しています。

次世代のフランス軍が重視すべきは機動戦
ロスバッハの戦いで捕虜になったことをきっかけとして、ギベールはフリードリヒ二世の戦略・戦術に関する調査研究に本格的に取り組むようになり、歩兵大隊を戦術単位として位置付け直す改革を推進した。
『戦術概論』は七年戦争によって露呈したフランス軍の欠陥を改善するために、どのような方法によるべきかを論じた著作であり、ギベールの機動戦を重視する思想が展開されていました。ここでは軍事学でも戦術学に属する研究成果の要点を紹介します。

ギベールは18世紀の軍事情勢、特にプロイセンの軍事的脅威を認識した上で、今後のフランス軍の改革では単純、柔軟、迅速という相互に作用する3種類の原則が重視されなければならないと考えていました。つまり、フランス軍の従来の戦術の内容を単純化し、戦闘における部隊の戦術機動に柔軟性が確保され、結果として行動の迅速化が実現できると期待されたのです。

ギベールはそれまでフランス陸軍の編制を維持することには同意していましたが、大隊については2個から4個といった偶数個の中隊に区分することに異議を唱えました。その代わりに3個の中隊に区分した上で、これらをそれぞれ大隊の中央、右翼、左翼に配置するようにしたのです。言い換えれば、このギベールの改革案はそれまで1個中隊か2個中隊ずつを前後に縦隊の形で配置していた大隊の隊形を見直すものであり、大隊については横隊に戦闘展開せよと主張するものでした。それだけではなく、大隊の規模についてもおよそ400名から500名程度とギベールは主張していましたが、これは当時の定説からすると小規模化を図るものであったと言えます。これらはギベールが戦列歩兵の運用において白兵戦闘ではなく、火力戦闘を主眼にしていたためです。

そもそも、なぜギベールが大隊にこれほど注目していたのかといえば、それは戦場における連隊を単位とした戦闘展開を廃止するためでした。ギベールの眼から見て、連隊は大雑把な部隊行動の方針を示すことはできますが、組織の規模が大きいだけに指揮統制の体制が複雑化しやすく、戦場での状況の変化に即応しにくいという弊害がありました。そこでギベールは大隊長により大きな権限を付与することによって、地形や状況に応じて迅速な行動ができるようにしようとしたのです。

このような独立性の高い大隊をフランス軍の基礎とすることによって、ギベールは小規模な縦隊を同時に敵の戦列正面に突撃させることもできるようになると主張しています。これまでフランス軍の攻撃では大規模な部隊が一つの縦隊を形成して突撃していたのですが、ギベールは大隊長の命令で各大隊が素早く横隊から縦隊に転換し、左右の距離を保ちつつ、広正面にわたって突撃を実施するという攻撃要領を構想していました。ここでのポイントは、大隊を戦術単位として再定義することによって、縦隊、横隊のいずれの隊形にも素早く展開できるようになるということであり、このような隊形の考え方は「混合隊形(l'ordre mixte)」という名称で知られるようになりました。(ちなみに、ギベールは戦列歩兵の一部を散兵として運用することを熱心に主張したことでも知られており、これによって敵部隊を捜索し、発見すればこれを拘束することも考察しています)

戦術家としてギベールが提案した教義体系は、全体として歩兵大隊を主体とするものでしたが、当然これを支援する上で騎兵と砲兵にも重要な役割があるとも論じました。ギベール式の騎兵大隊の規模としては80名であり、内訳として軽騎兵と重騎兵がそれぞれ40名でした。軽騎兵は驃騎兵(hussars)と竜騎兵(dragoons)で構成され、斥候、襲撃、掃討、追撃等の掩護のために使用し、重騎兵は専ら突撃のために使用されるとされていました。
機動の妨げとなる砲兵についてはギベールは可能な限り規模を抑制する必要があると考えていました。軽量化されたグリボーバル砲を配備する必要を訴えたことは、砲兵の機動力を向上させる必要があると考えたことと関係しています。運用については、砲兵は敵の戦列歩兵に対する射撃を行い、敵を精神的な動揺し、事後の歩兵の突撃を支援することが期待されていました。

このように戦闘教義の全体像を見ると、ギベールが防勢よりも攻勢を重視する戦術家であったと判断できますが、これはフリードリヒ二世が示した戦術に強く影響を受けていたためだと推察されます。ギベールは敵に対して機動力で優位に立つだけでなく、それを局地的優勢の実現のために活用すべきと信じていました。鈍重な連隊単位の戦列がなくなれば、フランス軍はさらに戦場で大胆に展開し、敵の弱点に向けて機動できるだけでなく、その弱点に火力を集中できるというのがギベールの考えでした。これは七年戦争でフリードリヒ二世がプロイセンに勝利をもたらした戦術機動の特徴でもあったのです。

むすびにかえて
ギベールは、フリードリヒ二世の戦争術をモデルとしつつ、旧態依然としたフランス軍の戦闘教義を修正した改革者でした。ギベールの構想では、連隊ではなく大隊が独立的に行動することが前提とされており、この分権化によって戦場機動の迅速化、引いては敵の弱点に対して局地的な優勢を確立することが目指されていたのです。これはフランス革命戦争・ナポレオン戦争でナポレオンが駆使した戦術の原則ともよく合致する考え方です。

ここではギベールの研究でも戦術に関する部分しか紹介できていませんでしたが、ギベールが18世紀のフランス軍の改革に与えた影響は戦術だけではなく、戦略理論、軍事政策にまで及んでいました。そのため、その研究の意義を一言で述べることも難しいのですが、少なくとも機動戦に関するギベールの説には、19世紀初期における戦闘様相を的確に予見したものが含まれていました。そして、新たな戦闘様相に対してフランス軍がどのように対応すべきかを具体的に指示する内容であったと評価できます。一部の研究者からギベールこそがナポレオンの戦争術の真の考案者であると主張されている理由もここにあります。

KT

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ナポレオンが軍団を設置した理由

参考文献
Abel, Jonathan. 2010. "Jacques-Antoine-Hippolyte, Comte de Guibert’s Military Reforms: Enlightened Evolution or Revolutionary Change?" Napoleonic Scholarship, Vol. 1, No. 3.(http://www.napoleonicsociety.com/english/frameSetAccueil_Eng.htm)
Guibert, Jacques-Antoine-Hippolyte, comte de. 1773. Essai générale de tactique. Liege: C.
Plomteaux.
Lauerma, Matti. 1989. Jacques-Antoine-Hippolyte de Guibert (1743-1790) , Helsinki: Suomalainen
Tiedeakatemia, 1989.
Quimby, Robert. 1957. The Background of Napoleonic Warfare: The Theory of Military Tactics in Eighteenth-Century France, New York: Columbia University Press.

2016年12月1日木曜日

論文紹介 ソ連から見た東アジアの新冷戦

冷戦期の世界で最も政治的、戦略的に重視されていた地域はヨーロッパでした。米国とソ連はそれぞれの同盟国を引き連れてそこに大規模な核戦力、通常戦力を配備し、互いの動きを抑止しようとしていました。しかし、冷戦はヨーロッパだけで進行していたわけではなく、アジアの情勢も重要な意味を持っていました。特に1970年代に米中関係が強化され、1980年代に日本も防衛力を強化する姿勢を示すと、ソ連はその軍事力をヨーロッパだけに指向するわけにはいかなくなります。

今回は、1980年代初期の情勢においてソ連がアジアの問題をどのように認識していたのかを戦略的観点から考察したPaul Dibbの論文を紹介したいと思います。

文献情報
Dibb, Paul. "Soviet Capabilities, Interests and Strategies in East Asia in the 1980s," Survival, Vol. 34, No. 4(June/August 1982), 155-162.

東アジアからの米国の巻き返し
1972年、ニクソン大統領が中国を訪問して以降、米中関係はますます強化されるようになり、東アジアでソ連に新たな外交、防衛上の問題を抱えるきっかけとなった。
著者の狙いは、ソ連が当時、東アジアの情勢にどのような戦略的利害を持っていたのかを分析することにあります。
1980年以降、米国はアジアにおいてソ連に対する巻き返しを本格化させており、例えば中東に即応展開部隊を創設することで、アフガニスタンからイランを経由してペルシア湾に進出するソ連軍の進出に備えました(即応展開部隊に関しては過去の記事「論文紹介 即応展開部隊(RDF)とウォルツの中東戦略」を参照)。しかし、これは中東だけに止まる動きではなく、米国は東アジアにおいてもソ連の脅威に対抗しようとしており、それがソ連の戦略に大きな問題を突き付けることになったと著者は論じています。

この論文で特に重大な事象だったと指摘されているのが「事実上の米中同盟」、「日本の再軍備」の二点であり、特に中国が西側に接近したことによってアジアにおける勢力均衡はソ連にとって不利な形に変化したと考えられています(Ibid.: 156)。
「東アジアはソ連にとってヨーロッパ以上に戦略的な不確定性が出現している。東アジアにおける平和の維持はヨーロッパよりも合意と理解を得ることが難しい。東アジアでは、解決が難しく、かつ制御できない領土問題が今なお存在しており、ソ連がヨーロッパにおいて持っている戦略的な重点と同じ観念がここでは存在しない」(Ibid.: 156)
中国と日本がソ連にとって邪魔だった理由は、両国がいずれも米国と関係を持ち、ソ連の政策に非協力的、敵対的であったという単純なものではありませんでした。著者はソ連が東アジア正面で作戦を遂行する可能性が出てきたことによって、より大きな軍事的負担を強いられることになったと指摘しています。
「東アジアにおけるソ連の軍事力は、中央ヨーロッパよりも幅広い活動のために計画されていなければならない。なぜなら、それは中国に対してのみ指向されるべきではなく、場合によっては米国、日本、韓国に対して指向されなければならないためである。それだけでなく、ソ連は東ヨーロッパにおいて保持する緩衝地帯を東アジアで保持していない。ソ連は中国(さらにモンゴルをも含めると)と10,000キロメートルの国境線にわたって直接的に対峙しているのである」(Ibid.)
もし米ソ決戦となればソ連とワルシャワ条約機構(WP)はその兵力の大部分をヨーロッパ正面に集中させなければなりません。しかし、米国が東アジア正面でも戦闘態勢を整え、これに中国、日本、韓国も連携するとなれば、ソ連軍も東アジア正面に相応の兵力を配分せざるを得なくなります。つまり、東アジアで西側陣営の脅威が増大するほど、ソ連はヨーロッパ正面における兵力を集中しにくくなってしまいます。
著者は、こうした情勢において日本もある程度の役割を果たしていると指摘されており、「ソ連は現状で日本を軍事的脅威と見ていないが、伝統的な日本の軍事政策が復活する見通しと、日本の再軍備の潜在的能力について懸念を公然と表明している」と述べています(Ibid.: 157)。

東アジアにおいて合理的な戦略
ソ連の領土は東西に伸長した形態をとっており、また面積の広さもあって、広域的な戦力運用に着意することが国防上必要となる。特に東アジアでは一部はモンゴルが緩衝地帯となっているが、それ以外の大部分で中国と国境が面しているため、国境防衛のために大きな戦力が必要となる。
東アジアにおけるソ連が選択可能な戦略とは、まず防勢が基本になると著者は論じています。つまり、ソ連は米国と戦争が勃発した場合、東アジア正面で米軍の攻撃を阻止しようとすることを第一に考えざるを得ないと考えられます。
「ソ連政府は米ソ戦争と中国との紛争に対応できる戦争遂行能力の整備を目指している。ソ連は恐らくその地域における核戦力と通常戦力によって大規模な攻撃に対して適切な抑止力を確保できると感じているだろうが、ヨーロッパと東アジアで二正面の戦争になるかもしれないことを恐れてもいる。もしヨーロッパで戦争が勃発すれば、ソ連の第一の問題とは、ヨーロッパで紛争を局限しようとすること、そして東アジアにおいて米ソ両軍の敵対行動を可能な限り防止することとなる可能性がある」(Ibid.: 159)
ヨーロッパ正面でソ連軍が攻勢に出るつもりであれば、部隊の集中を果たすために、東アジア正面では防勢に回らなければなりません。そのため、ソ連軍として有事に東アジア正面で速やかに防衛線を構成し、米軍がシベリア方面に攻撃を仕掛けることができない態勢を作り出すことは、戦略として合理的なものだと認められます。なぜなら、シベリアに配備されたソ連軍の部隊が米軍の攻撃で壊滅すれば、中国の脅威に対処できなくなってしまい、それはヨーロッパにおける北大西洋条約機構(NATO)に対する戦闘行動にも支障を来す恐れがあるためです。
「このことにはいくつかの理由がある。第一の理由として、ソ連はヨーロッパにおける戦役を決定的なものと見ているが、東アジアでの戦争はヨーロッパでの迅速な勝利を達成する能力を減退させるであろうとも考えていることにある。第二の理由は、東アジアで大規模な軍事作戦が長引けば、ヨーロッパで同時期に実施する主要な戦役を支援しなければならないソ連の兵站部隊の能力は恐らく不足するであろうということに由来する。第三に、米国が太平洋の基地から加えてくる核戦力と通常戦力での打撃は、ソ連の防空部隊の20%を配備したとしても、極東にある目標に深刻な損害をもたらす可能性があることによるものである。米国の行動による損害の帰結として、シベリアにおけるソ連軍の戦力が弱体化すれば、中国がソ連に対して侵攻する公算が大きくなるかもしれない」(Ibid.: 159)
もしソ連軍が東アジア正面で米軍の攻撃により短期間の内に壊滅してしまえば、中国軍の攻撃を防ぐ手段がなくなってしまいます。こうなれば、いくらヨーロッパ正面でソ連軍が勝利したとしても、その価値は東アジア正面の敗北によって相殺されてしまいます。そのため、ソ連としては敵からの攻撃をいかに防ぐかを考えることが求められる状況であったと言えます。

ソ連軍が重視すべき攻撃目標とは
ソ連海軍のエコー2型原子力潜水艦。ソ連軍の視点から見れば、米国と西側諸国を結ぶシーレーンを遮断することは、陸上での作戦を有利に進めることに寄与するため、太平洋と大西洋の両面に潜水艦を展開することには大きな意味があった。
しかし、ソ連が東アジアで国土を防衛しようとしても、ソ連軍として黙って米軍が攻撃を仕掛けてくるまで静かにするわけではありません。むしろ、ソ連軍の視点で東アジアの情勢を分析した場合、米軍部隊が東アジアに進出することを可能な限り阻止し、また中国に対して限定的な攻撃を加えることが、全般として作戦の目的に合致すると考えられます。ここでソ連軍の攻撃目標の候補となるのが東アジアの在外米軍基地であるだろうと著者は指摘しています。
「NATOとWPとの戦争が発生した場合に、東アジアでの作戦を計画を立案するにあたっては、ソ連の基本的な目標は自国の領土の戦略的防衛となるだろう。さらに、ソ連の攻勢作戦は米国とその同盟国の海上部隊、航空部隊、そして日本を含むそれらを支援する基地への攻撃を含むことになるだろう。太平洋における米国と同盟国の最も重大な脅威は、ソ連の潜水艦部隊の純然たる大きさによるものだろう。いかなる戦争であれ、その初期の段階においては、ソ連太平洋艦隊の潜水艦の大部分が太平洋とインド洋で多数の重要な水面で展開を維持し、そのために同盟国の船舶輸送の相当の部分が恐らく失われることになるだろう」(Ibid.)
もちろん、著者は北太平洋での外洋作戦となれば、米軍とその同盟国の海上戦力によってソ連の水上艦艇に対処することは可能であると認めていますが(Ibid.)、所在が秘匿されるソ連の潜水艦の脅威に関しては確実に対処できるとは判断できず、船舶輸送が滞る可能性があると考えられています。これは米国本土から東アジア正面に増援を派遣させることを難しくします。

また問題の中国軍の脅威ですが、こちらについてはソ連軍としては核兵器で対処しようとする可能性があり、短期決戦が可能であると判断されたならば北京を目指して攻勢に出てくる恐れもあると指摘しています。
「ソ連はおそらく、NATOとWPの戦争中に中国が攻撃を仕掛ける事態に対処する予定である。この場合、ソ連はヨーロッパでの態勢を悪化させないために、アジアでの紛争の早期解決を目指す必要がある。ソ連はその戦略核兵器の全体量を使用してでも、これを遂行するだろう。中国は残余の核戦力をもってソ連の人口密集地に若干の報復攻撃を行うことは可能だろうが、核の応酬でソ連軍に対抗することは不可能だろう。中国との国境に配備されたソ連の通常戦力は、新疆に迅速に攻め込むことが可能であり、それよりもかなり遅れることにはなるだろうが、満州平野から北京に到達するだろう。後者の選択肢は戦争を勝利に導く可能性が大きいが、中国軍は激しく抵抗するだろう。中国政府の出方によっては、少なくともソ連軍の攻勢を食い止め、さらに負担が大きく困難な作戦からソ連に手を引かせる可能性もある」(Ibid.)
東アジア正面でソ連は国土の防衛を基本方針としているにもかかわらず、これだけの規模の攻撃を計画していることについては何か論理が矛盾しているように思われるかもしれません。しかし、ソ連軍の戦略の全体から見れば、国土の防衛を目的とするからといって一切攻撃しなくてもよいということにはなりません。米国と異なり、極めて限定的な報復能力しか持たない中国が相手であれば、ソ連軍も核攻撃を比較的実施しやすいため、戦争の序盤にこの脅威を除去してしまった方が、事後の対米防衛においても優位に立つことが期待されるのです。

これは一つのシナリオ分析に過ぎませんが、戦争の序盤で東アジアに配備された米軍部隊の動きを潜水艦等で封じ、それと同時に中国軍の脅威を核兵器によって短時間で排除できれば、最も重要なヨーロッパ正面に十分な規模の兵力の集中できるという考え方は論理的に成り立ちます。こうした戦略が突拍子もないと思われる方もいるでしょうが、歴史的にも前例があり、例えば第一次世界大戦でドイツ軍は実際にフランス軍とロシア軍を相手にこのような遠大な二正面作戦を行っています。

むすびにかえて

ソ連(そして現在のロシア)は世界で最も広大な領土を有していることから、国防上でも大きな兵力を広域的に運用することが欠かせません。あらゆる方向に対して十分な部隊を前方配備しておこうとすると、兵力の集中はたちまち困難となります。このことから考えれば、ヨーロッパで緊張が高まる1980年代の新冷戦にソ連が中国や日本の動向に不安を感じていたことは不自然なことではなく、ソ連の置かれていた地理的環境から見ても当然のことであったと思われます。この研究はヨーロッパの情勢にばかり注目しがちな西側諸国の政治家、軍人、研究者に、こうしたソ連の視点があり得ることを示したという点で意義があったと思います。

また別の観点からこの論文の意義を考えた場合、当時の在日米軍基地の存在が日本、東アジアだけに止まらず、間接的にはソ連の反対側にあったヨーロッパにまで影響を及ぼし得るものであったことが示唆されていると思われます。論文では中国のことを中心に考察しているため、韓国や日本、台湾といった他の米国の同盟国、友好国との関係については十分に論じられていませんが、シーレーンに対するソ連潜水艦の脅威に関する言及は、当時の日本のシーレーン防衛の努力がどのような意味を持つものであったのかを解釈する上で興味深いです。

KT

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2016年11月25日金曜日

論文紹介 海上優勢とは何か

軍事学、特に海軍の戦略研究で使用される概念に海上優勢(maritime superiority, maritime supremacy, sea control)というものがあります。これはある海域を敵が利用することを妨げつつ、我が方が利用することを可能にする活動を指していますが、どのようにすれば制海が可能となるのでしょうか。

今回は、海軍史、戦略の分野で世界的に有名な研究者ジェフリー・ティル(Geoffrey Till, 1945-)が、この海上優勢という概念について考察した記事を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献紹介
Till, Geoffrey. "Sea Control and Denial," Trevor N. Dupuy, ed. International Military and Defense Encyclopedia, New York: Brassey's, pp. 2374-2378.

制海権・海上優勢とは
現代の海上優勢という概念は、かつて制海権(command of the sea)という用語で呼ばれていました。制海権とは戦争状態において海上交通を支配する能力やそれによって実現する状態をいいました。しかし、非常に小型の艦船の航行を一隻残らず完璧に統制するということは、どれほど大きな海上戦力をもってしても技術的に容易なことではなく、また軍事的な意味もさほどありません。著者も、そのような制海権を考えようとしても、過去の戦史にはそれに該当するような状況が見当たらないことを認めています。
「ほとんどの海軍戦略家は、制海権が絶対的なものではなく、相対的な能力であるということに同意している。どの国の海軍でも、そのような能力を多かれ少なかれ保持している。その海軍が能力を持っているかどうかということは、絶対的なものではない。例えば、制海権は時間の関係で制限される場合がある。いくつかの戦争で、いくつかの国家は持続的に制海権を保持しているが、アメリカの戦略家、アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan 1840-1914)は「英国が最も強大だった時でさえ、かつて海洋が排他的に支配されるということはなかった。海の支配権を巡る戦いは、彼我の優劣の変化によって記録された一連の戦役の様相を呈することがない」と述べている(Mahan 1911: 260-1)」(Till 2374)
また、著者は制海権が時間的な要因だけでなく、地理的な要因によっても制約される場合があることを紹介しています(Ibid.)。制海権はその用語が与える印象とは裏腹に、不完全、曖昧、相対的なものに過ぎません。制海権はその用語が与える印象があまりに強すぎたので、誤解をもたらす恐れもあり、次第に海上優勢が使用されることが一般化してきたと説明しています(Ibid.)。

海上拒否とは

海上優勢という概念との関係で重要なのが、海上拒否という概念です。海上優勢の獲得は、しばしば我が方が敵の妨害を受けずに海上交通路を活用できるほど優勢でなければならないと考えられていますが、必ずしもそうとは限りません。海上優勢ではなく、海上拒否を一つの戦略上の目標と考える場合もあるためです。海上優勢ではなく、海上拒否のために作戦を行う場合、その海域で我が方が自由に活動することは当初から期待されておらず、敵の自由な活動を防止することだけが目指されています。
「海上拒否の目的は海上を利用することではなく、敵がそうするのを防ぐことである。これは1950年代のソ連艦隊にとって限定的な目標であったと言われている。当時はソ連海軍の提督の主たる関心は、ソ連の北部海域をアメリカの対抗勢力に利用させないように防ぐことにあった。つまり、アメリカが同海域を利用し、空母艦載機によりソ連の領土に対して核攻撃を実施することを防止しようとしていたのである」(Ibid.)
海上拒否は我が方の海上交通の利用よりも、敵の海上交通の妨害に主眼があるということになります。例えば重要性の高い海域においては海上優勢を獲得しようとしている某国海軍が、あまり重要ではない海域については海上拒否を狙った作戦を行う、ということも戦略的には十分な合理性があります(Ibid.: 2375)。

ここでポイントとは、制海権よりも海上優勢の方が広い概念ではあるものの、それを獲得することだけが海上作戦の目的だと理解してはならないということです。あえて海上優勢を獲得することはあきらめ、極めて限定的な活動でもって海上拒否を図るということもあり、むしろ海軍の能力が劣後する状況においては、その方が合理的なこともあり得ます。このことを踏まえた上で、海上優勢を獲得する具体的な方法にどのようなものがあるのかについても確認していきたいと思います。

海上戦闘による海上優勢の獲得
海上優勢を獲得する第一の方法として考えられるのが海上戦闘です。しかし、海上戦闘を行うと言っても、その具体的な方法も一通りではありません。著者はこの点については大きく分けて3種類の方法があると論じています。
「現代の戦略家は、戦闘に関する3種類の異なる概念をしばしば区別する。局地的交戦(local engagement)は、例えば海上で物資を輸送し、水陸両用作戦を行うことによって、海上優勢を行使することを重視するものである。もし敵が我が方に対して挑戦しようとする場合に限れば、防御によって局地的交戦を実施する場合もある」(Ibid.: 2375)
「戦闘によって海上優勢を確保するための第二の構想とは、公海で敵対する勢力に対処することを目指す外洋作戦(open ocean operations)である。これは我が方から敵の部隊を見つけ出し、これを撃破する作戦である。世界の海の広さによって、監視と捜索のシステム、特に捜索の効率が高い航空機、人工衛星を重視することになる。時間と忍耐が求められる」(Ibid.)
「戦闘による海上優勢の確保に関する第三の構想は、前方作戦(forward operations)と呼ばれているが、これは新しい考え方ではない(中略)前方作戦に共通する基本的な考え方として、これが主導的立場を維持し、これを活用するための最善の方法であるということである。なぜなら、敵の攻撃に単に対抗する場合よりも、我が方が戦闘の時機、場所、形態を決定することができるためである」(Ibid.)
戦闘によって海上優勢を獲得する場合に考慮すべき方法は以上の3種類ですが、基本的に局地的交戦はより消極的な形態、外洋作戦になるとやや積極的になりますが、最も積極的な形態としては敵の勢力圏に進出する前方作戦と考えることができます。

現存艦隊による海上優勢の獲得

現存艦隊(fleet in being)は戦争状態においても敵に対して我の艦隊を可能な限り温存しようとする戦略上の構想であり、もし出撃させたとしても、海上戦闘となることを極力回避しようとする点に特徴があります。この場合、海上優勢を獲得することは到底期待できないとも思われますが、実際には劣勢な敵を発見次第、速やかに攻撃に転じるという側面もある戦略なので、戦術行動として絶対に戦闘を回避するというわけではありません。

現存艦隊は損害を最小限度にできる範囲で断続的に攻撃を仕掛けるものであり、敵がそのことによって自由に艦船を移動させることが妨げられるのであれば、局地的な海上優勢ならば獲得も不可能とは断定できません。著者は、現代の海上作戦においては、古典的な海上戦闘よりも、むしろ現存艦隊のような形態をとる可能性が高いとも示唆しています。
「いくつかの事例では、我と敵のいずれもが海上戦争において戦闘を避けようとしてきた。これは第二次世界大戦におけるバルト海と黒海でのソ連艦隊とドイツ艦隊の事例に該当する。結果として、相互に相手の破壊を意図する勢力間で、古典的な戦闘が全般的に実施されなかった。将来の戦争では、戦略情勢が認める限り、一カ国または数カ国の交戦国が同じような海上防衛の建設的かつ理性的な活用を選択する可能性もある」(Ibid.: 2376)
現存艦隊の利点は我が方の戦力の消耗が抑制できる点ですが、欠点として決戦が不可能となり、敵に大きな損害を与えることも難しくなる点です。絶対的な海上優勢を確立しようとする際には問題もあるのですが、大規模な海軍を持たない国家にとっては重要な選択肢です。なぜなら、現存艦隊は相対的な戦闘力で劣勢であっても作戦基地の安全が確保されている限り継続して実施することが可能なためです。

海上封鎖による海上優勢の獲得
現存艦隊のような戦略で海上優勢を維持しようとする劣勢な敵に対して優勢な敵が採るべきは封鎖です。海上封鎖は海軍の戦略において重要な要素の一つですが、その利点は敵の艦船の活動を特定の水面に限定し、それ以外の海域での我が方の船舶の活動を最大限自由にできることが挙げられます。その方法については2種類あることを著者は紹介しています。
「現存艦隊として行動する弱小勢力に直面した場合、優勢な勢力は通常であれば、封鎖によって敵を封じ込めるか、無力化しようとする。封鎖の方法としては、近接封鎖(close blockade)と遠隔封鎖(distance blockade)があり、前者は敵の港湾の出入り口の周辺を、後者は我と敵との間に位置する潜在的目標に我が艦隊を配置させるものである。これら2種類の類型の唯一の相違点は、封鎖された当事者にどの程度の広さの海域で活動することが許容されているかという点である。いずれの方法でも、敵の勢力を紛争と無関係にしてしまうことが目標とされているが、封鎖の過程は苦労が多く、また長期化する。そのため、優勢な海洋勢力は封鎖をあまり魅力的な選択肢とは判断せず、より弱い勢力に対して戦闘を強制しようとするものである」(Ibid.: 2376)
海上封鎖が一旦完成すれば、少なくとも戦争状態が終わるまでの間はそれを維持しなければなりません。駆逐艦、巡洋艦、潜水艦、航空機等の手段で敵の動向を監視し続け、敵の艦隊に出撃の兆候があれば、直ちに主力を急行させる等の処置も必要となります。これは大変な労力を要する作業となります。

しかし、敵が持つ艦艇を港湾内部に閉じ込め、行動不能にしておけば、実質的に撃沈していることと同じ状態になり、しかも我が方の損害も抑制できるという利点もあります。別の海域から敵の艦艇が進攻してきてしまうと、我が方の戦力の分断を余儀なくされる欠点もありますが、海上優勢を獲得する方法の一つとして知っておくべきでしょう。

むすびにかえて

これまでにも用語が変化してきた経緯からも分かるように、海上優勢はあまり明確な概念ではなく、使用者によっても意味が変化してきました。また、その定義も必ずしも厳密にできる性質のものでもありません。そうした不都合にもかかわらず、海上優勢が長らく海軍の議論で重視されてきた理由は分かりませんが、我が方の海上交通路の安全を確保するためには、防勢に回るよりも攻勢の立場で積極的に敵の艦隊を撃破すべきだという考え方が根強かったからかもしれません。この考え方は、接触を一度断つと敵の捜索に大変な困難があった20世紀初頭以前の戦史を考えれば、妥当なものとも思われます。

しかし、艦船の位置を広域的に把握する手段が整った現代の観点から見れば、海上優勢についてより多角的な見方を持つことも必要となるでしょう。海上優勢が絶望的な状況であったとしても、海上拒否によって敵にその水面での海上交通を妨害することができれば、それは一つの条件下での作戦として成果を認めることができます。また海上優勢の獲得を目指すとしても、著者が説明したように敵の艦隊を撃破することがすべてだと考える必要も必ずしもなく、現存艦隊や海上封鎖によって、味方の輸送艦や商船を一時的、局地的にでも航行可能にすれば、それは所望の海上優勢を獲得していると判断することもできるでしょう。

KT

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論文紹介 斉射モデル(Salvo Model)による対水上戦闘の分析

参考文献
Mahan, A. T. 1911. Naval Strategy. Boston: Little, Brown.(邦訳、マハン『海軍戦略 陸軍作戦原則との比較対照』尾崎主税訳、原書房、1978年)

2016年11月22日火曜日

ジョミニが考える軍事政策の基本原則

アントワーヌ・アンリ・ジョミニ(1779-1869)、スイス出身
スイス軍、フランス軍を経てロシア皇帝の軍事顧問となった軍事学者、著作に『戦争術概論』
19世紀の軍事学者アントワーヌ・アンリ・ジョミニの研究業績で最も有名なのは、戦略の基本原則に関するものです。例えば、敵の兵站線に脅威を及ぼすように、我が勢力を機動させることは、ジョミニが主張した戦略上の原則としてよく参照されています。しかし、ジョミニの研究は戦略の分野だけでなく、軍事政策の方面にも及んでおり、現代の用語で言うとこれは「防衛行政」または「防衛政策」に該当します。

今回は、ジョミニの軍事政策に関する考察を紹介し、それが戦争の指導においてどのような意義を持つのかを考察したいと思います。

軍事政策の問題とは

そもそも、軍事政策とはどのように定義される政策なのでしょうか。
ジョミニの説によると、軍事政策は対外政策や戦略など軍隊の対外的な使用に直接関係する部分を除外することによって定義することができます。また、その問題には人員の確保、資金の管理、統帥の確立、士気の保持などが挙げられます。これらの事項をよく検討し、それらが作戦に及ぼす影響をよく見極めることが重要となります。
「この分類によれば、国民の情念、軍事制度、現役、予備役、資金、自己の政府と社会制度に対する愛着、執政部の特性、軍隊の司令官の特性、軍事的能力、司令官の作戦行動を決定する首都の内閣会議や戦争指導会議の影響、幕僚が支持する戦争方式、一国の常備軍と軍備、侵攻を企図する国家の軍事地誌、軍事統計、直面することが予想されるあらゆる種類の敵の勢力と障害、そして外交と戦略に含まれない一切がこの軍事政策に含まれている。
 政府はこれらの詳細な知識を入手することに決して怠慢であってはならず、全ての計画の立案においてこれらを考慮に入れることが必須である。これ以外のことで軍事政策について確立された法則というものは存在しない」(Jomini 1862: 38-9)
ここで述べられた通り、軍事政策は軍事的要因だけでなく、政府や社会といった非軍事的要因が相互に影響し合う複雑な問題です。軍隊を一から作り上げるために必要な人的、物的資源を包括的に調達するだけでなく、それらを適切な仕方で管理しなければなりません。軍隊の規模が大きくなるほど、軍事政策で取り組まれるべき問題も拡大することが分かります。

戦争の準備が軍事政策の本質である

ジョミニは完璧な軍隊を維持するためには、少なくとも12個の条件があると考えました。
(1)優れた徴兵組織を持つこと、(2)優れた編制、(3)よく組織された予備役制度、(4)教練と管理業務に関する優れた教令、(5)厳正でありながらも、自尊心を高める規律、(6)よく考慮された褒賞制度、(7)よく指導を受けた工兵および工兵の特技兵科、(8)可能であれば敵に対して防勢または攻勢の両面において優れた武器、(9)理論的、実践的な教育を受けた士官により組織された参謀本部、(10)兵站部、病院、一般行政の優れた制度、(11)戦争の主要な作戦を指揮、指導するための任命制度、(12)人民の軍事精神を高めて、これを保つこと、以上の12点がジョミニの考える軍事政策の検討事項です(Ibid.: 43-44)。

いずれも戦争の遂行に関連する事柄ではありますが、これらの検討事項に共通する特徴は、準備に時間を要するということです。ジョミニは軍隊の要求が戦時、平時を問わず常に完全に満たされていなければならないと主張していたわけではありませんでした。重要なことは、膨大な資源を管理する体制を事前に準備しておくということであり、そのために国家が常時臨戦態勢にあるようなことは現実的ではないと考えていたのです。
「私は国家が常に剣を手にし、常に戦争に備えているべきであるという助言にはまったく同意できない。そのような状況は人類にとって悲惨であり、非現実的な条件を満たさなければどのような国家であっても不可能である。私はただ文明国の政府は短期間で戦争を遂行する準備を常に整えている必要があり、つまり文明国で戦争の準備ができていないということは決してあってはならない、と述べているだけである。政府の先見性と軍事政策の完全性により、その賢明な体制は準備作業の大部分を処理することが可能となるのである」(Ibid.: 46)
軍事政策も国家の政策体系の一部である以上、他の領域の政策課題にも配慮しなければなりません。ジョミニの立場によれば、少なくとも平時における軍事政策の目標は、各種資源や労働力を柔軟に軍事部門に再配置し、国家の動員体制を準備することだと理解されていたのです。

望ましい軍事政策のあり方

ジョミニはさらに優れた軍事政策のモデルとして10個の施策を述べています。それを読めば、ジョミニがどのような軍事政策を目指していたのかを知ることができます。ここではその要点を紹介しておきます。
(1)国家の指導者は政治と軍事の両方について学識が与えられていること
(2)また、彼自身が軍を指揮しない場合、その能力に最も優れた将軍を見出すことができること
(3)常備軍の規模は必要に応じて予備によって倍加できるようにしていること
(4)戦争に必要な装備や物資を武器庫や補給処に十分に確保し、他国の技術開発の成果も積極的に活用すること
(5)軍事学の研究を推奨、表彰し、その分野の研究団体に敬意を払わせることで、優秀な人材を確保すること
(6)平時の幕僚はあらゆる事態に備えて平素から計画を立案し、関係する歴史、統計、地理、理論について研究させておくこと
(7)攻撃または防御を行う相手国の軍事的能力を判断するための研究に、優秀な士官を充てて、成果があればこれを表彰すること
(8)開戦となった際に作戦の全局にわたる計画を準備することは不可能であるが、我が作戦が成功するために不可欠な基地機能や物的準備を事前に整えていること
(9)作戦の構想については彼我の戦争の目的、敵の特性、地域の状況、また作戦で使用し得る戦力、戦争に介入する恐れがある国家の能力などが考慮されること
(10)国家の財政状況を戦争状態に適応させること(Ibid.: 49-51)
興味深いのは、ジョミニが理想とする軍事政策のかなりの部分が軍事学の研究を促進することと関係している点です。軍事学の研究に従事する団体の社会的地位を高めるために政府として褒賞を与えることは、軍事政策の一部でなければならず、こうした取り組みによって優秀な人材を獲得することが目指されています。

また軍事政策を遂行するためには、財政に関する配慮も欠かせないともジョミニは論じています。その議論の一部を紹介すると、次のような記述が見られます。
「歴史は最も豊かな国家が最も強いわけでも、また最も幸せでもないということを実証している。軍事力の規模という点から見れば、鉄は少なくとも金と同じ価値がある。しかし、我々は賢明な軍事制度、愛国心、よく管理された財政、国内の富と公的信用、これらの組み合わせこそが、国家に最も大きな力を与え、また長い戦争を遂行できるようにすることを認めなければならない」(Ibid.: 51)
これらの記述から、ジョミニは軍事政策を厳密な意味での軍事行政に限定していたわけではないことが分かります。学術研究や財政運営といった領域においても戦争指導と関係している要素が見られると考えており、特に平時において敵国の能力を詳細に知るための研究には政策的に大きな関心を寄せていました。

むすびにかえて

軍事政策はある意味において戦略や戦術よりも重要な問題と言えます。国家の軍事政策が適切でなければ、緊急事態の際に軍隊を運用すること自体ができなくなってしまいます。軍事政策の問題として各種資源を速やかに動員し、これを合理的な方法で管理することはやはり重要な問題です。それだけでなく、ジョミニは平素から軍事学の研究を推奨することによって、国内に知的基盤を整えておくことを軍事政策の目標と位置付けていました。これはジョミニの軍事思想に関する研究でもあまり重視されることはない側面ですが、軍事政策の全体像を考える上で人的、物的資源の効率的な動員だけでなく、知識の準備をも考慮に入れるという発想は興味深いと思います。

確かにジョミニの軍事政策に関する議論の一部はすでに時代遅れになっている部分もあるのですが、その基本原則については今でも妥当する部分があり、この方面の研究を発展させるに当たって読まれる価値があると思います。

KT

参考文献
Jomini, A. H. (1862) The Art of War, trans. G. H. Mendell, and W. P. Craighill. West Point: U.S. Military Academy.(邦訳、ジョミニ『戦争概論』佐藤徳太郎訳、中央公論新社、2001年)

2016年11月19日土曜日

アメリカ社会が移民を拒絶する理由―トッドの人類学的考察から

2016年アメリカ大統領選で勝利したドナルド・トランプ(1946-)
選挙戦で国境管理の強化や不法移民の排除を公約に掲げた
2016年のアメリカ大統領選で最も重要な争点の一つとなったのが移民の問題でした。さまざまな議論がありましたが、結局アメリカ社会で移民を排除すべきという見解が大きな支持を得たことは、日本で驚きを持って受け止められました。これは、アメリカは民主的な政治体制を採用しており、自由と平等の観念が広く社会に普及しているのだから、移民に対しても寛容な姿勢で対応するはずである、というイメージによるものだと思います。

今回は、現在のアメリカ政治で大きな問題となっている移民への対応を理解するため、エマヌエル・トッドの著作『移民の運命』(1994年)の分析の一部を紹介し、アメリカの白人社会が人種間の差異をいかに重視しているのかについて考察してみたいと思います。

家族構造の相違がもたらす普遍主義・差異主義
フランスの国立人口研究所の人類学者、政治学者のエマヌエル・トッド(1951-)
人類学者の立場から著者は、家族が人間の意識を形成する上で大きな役割を果たしていると主張しています。つまり、人々が生まれ育った家族の構造によって、社会生活でも大きく異なった行動を選択する傾向があるということです。

家族システムの構造にもさまざまな特徴があるのですが、著者が特に重要だと見ているのは兄弟間の平等性です。もし兄弟間の平等性が高い家族システムの中で育てば、その構成員は普遍主義とも呼ぶべき価値観を当然のものとして受け入れていきます。そのような人々は自分たちと異なる人種の移民と接触しても、次第に彼らの身体的、文化的な差異を受け入れる傾向にあります。

しかし、兄弟間の不平等性が高い家族システムで育った人々は、差異主義と呼ぶべき傾向を持っており、異なる人種の移民と接触することによって、かえって強い憎悪を向ける傾向が見られるのです。善し悪しは別として、著者はこのような人類学的要因によって、その社会の移民に対する態度が大きく異なってくるということを説明しているのです。
「人類の単一性に対する信仰は、ある種の人間集団の特徴をなしているが、意識的イデオロギーの層よりも深い層に根差しているようである。この地中深く埋もれているが安定的な態度の上に、さまざまな意識的な形式化が生まれては死に、次々と現れては消えて行く。この視点からするとフランスのケースは模範的である。何故ならその国土の上には、ローマ的普遍主義、カトリック普遍主義、そして大革命の普遍主義、さらにはある程度、共産主義的普遍主義も―何しろプロレタリア国際主義が二世代にわたってパリ盆地の労働者たちの心をとらえたのだから―、次々に去来したからである。このような普遍主義の強力な噴出は、人類学的な本性を持つ隠れた要因の存在を示唆している。逆にこれとは反対の特徴である差異主義を背負っているように見える人間集団もある。われこそは他の者には模倣できっこない無比の本質を持つと主張し、人間の等価性と諸国民の融合という観念そのものに敵意を示す、そういう人間集団もあるのである」(邦訳、42-3頁)
家族における兄弟間の平等性を判断する上で重要なのが遺産分割制度です。これを調べてみると、二人以上いる兄弟が父親の財産を平等にして相続できる場合と、男系長子制のように長男だけが相続人となることが認められている場合とがあります。前者は古代ローマ、スペイン、ポルトガル、フランス、ロシア、中国、アラブの社会で支配的な家族構造です(同上、51-2頁)。ちなみに、アラブ世界においては相続権が男性に限定されており、女性の子供には親の財産を相続する権利が認められていません(同上、52頁)。これは普遍主義の考え方が適用される範囲がアラブ社会においては男性に限定されているためであり、普遍主義の現れ方にもいくつかの相違があると指摘されています(同上)。

差異主義の意識をもたらすとされる後者の男系長子制についてですが、著者の調査によれば、この分類に該当する社会にはギリシア、イスラエル、ドイツ、日本、バスク地方、シーク教徒のパンジャブ、イングランド、ドラヴィダ・インドが挙げられています(同上、52-6頁)。著者はこのような家族構造が発展した社会では、親の遺産をすべて相続できる長子とそれ以外の地位が明らかに不平等なため、それ以外の子供は他の家族の跡取りと結婚するか、軍人や聖職者などの専門職を目指さなければなりません(同上、52頁)。そのため、このような社会では特定の専門職が過剰に供給されることが一つの指標であるとも述べられています(同上、53頁)。もちろん、子供の間で遺産が分割されたとしても、さまざまな非金銭的特権を長男だけに与えるという場合もあるため、差異主義にもさまざまな形態があることが考慮されなければなりません。

アメリカに根付く差異主義の影響
アメリカ独立戦争の最中、ヴァージニア植民地代表の提案により大陸会議で独立が決議され、ジェファーソンを含めた5名の手によって独立宣言が書かれることになった。
著者の見方によれば、アメリカはイングランド的な家族構造の影響が見られる事例であり、兄弟間の不平等性が大きい点に特徴があります。これは差異主義の観念を人々に根付かせる構造的な要因となり得るものです。

17世紀にアメリカ大陸へ移住したイングランド人は、本国の慣習である長子相続制それ自体は排除していますが、平等な相続を認めたわけではありませんでした。ニュー・イングランドでは、遺産の可分性と長子が二倍の配分を受ける制度が聖書の記述によって正当化されていました(同上、70頁)。ただし、長子は優遇されているものの、末子が家族の不動産を相続する場合もかなり頻繁に見られる点でイングランドの家族システムとの相違も見られ、アメリカの家族システムにおいて「子供は自由だが、平等ではない」と定義されています(同上)。こうしたことから、アメリカの入植者は家族の中で序列があることを当然の制度としていたと考えることができます。

1776年のアメリカ独立宣言は、一見すると人間の普遍的な平等の理念が高らかに掲げられていましたが、著者はその宣言ではインディアンを野蛮人と見なす記述があり、「暗に白人という観念と人間という観念を交換可能なものとみなしている」と指摘しています(同上、79頁)。このように考えれば、アメリカ全体の黒人奴隷の40%を所有していたヴァージニア出身のジェファーソンが平等主義と民主制の意義を主張したことは、論理の矛盾を招くものでは決してありませんでした(同上、79-80頁)。著者は1860年から1890年までに25万人のインディアンが身体的、社会的に抹殺されたことを紹介した上で、次のように述べています。
「人類学的分析を施したところ、導き出された結論というのは、人種的偏執はアメリカ民主主義が完成に達していないために残っている不備なのではなく、アメリカ民主主義が拠って立つ基礎之一つなのだ、ということである。この解釈を以てすれば、アメリカ民主主義のいくつかの独特の特徴、とくにそれが経済的不平等を受容している点を理解することが可能となる」(同上、82頁)
未だに力を失っていない人種的隔離
1950年代後半から1960年代前半にかけて、黒人公民権運動が活発化すると、アメリカ各地で暴力事件が発生する事態に発展し、治安維持上の問題が生じた。写真はミシシッピ大学で連邦保安官の移動を支援している陸軍の車列。
このような差別はその後のアメリカで変化し、弱まっているという見方も一部にはあるでしょう。著者はこうした見方を否定しています。確かに1840年代からイングランド以外のヨーロッパから移民が来ており、さらに第二次世界大戦後のアメリカで黒人、インディアン、アジア系に対するヨーロッパ系の国民の意識は変化しています。このことから人種間の融和が進んでいるかのようにも思われますが、著者は実際の行動を見ると、人種的な隔離がアメリカで根強く残っていることを次のように議論しています。
「黒人が白人の居住地域および学校にやって来ると、世論調査の解答で身体的外見を異にする人間の平等という原則を主張する当の白人が、そこから逃げ出すという事態は相変わらず続いている。大都市の中心にはゲットーが存在し、もしくは再び形成される。今や黒人に門戸を開いた公教育は、白人中流階級の子弟が人種の混交を逃れて私立学校に通うようになったため崩壊する。白人の子供と黒人の子供は、住居においても学校においても接触しようがないのである。実際の生活において親交のない状態が保たれているために、白人と黒人の若者たちは互いに知り合うこともなく、結婚する機会もない。近所付き合い、学校、結婚というものは、本質的に人類学的変数であり、これらのものの組み合わせによって個人の具体的人間関係の場が決定される」(同上、126頁)
人間はその人格の初期形成において、家族システムの影響を強く受けることになります。その影響は世代を超えるほど根強いものがあり、著者としては戦後のアメリカ社会においても一貫して人種の隔離が依然として行われていると判断しています。

近年のアメリカについても、「大学における黒人学生の数はかなり多いが、白人学生と黒人学生の人間関係の水準はかなり低く、アラン・ブルームによれば日常の礼儀の規則の遵守だけに限られ、白人学生と黒人学生の間の友情は例外的現象とみなさなければならない。1990年前後には、アメリカの黒人の80%は中等教育をうけたが、こうした大衆的動向が黒人の結婚および住居に関わる隔離を断ち切ることにはならなかった」ことが紹介されています(同上、130頁)。アメリカ社会における人種間の隔離は強固なものであり続けているのです。

むすびにかえて

著者の研究によれば、アメリカ社会は多文化的な特徴を持つものではありません。アメリカの白人社会では人間が持つ身体的、外見的な差異を極めて重視する傾向にあります。それは異人種を差異に基づいて隔離すべきという信念によって強化されていますが、決して個々人の民主的な意識という個別の要因によるものではなく、建国当初からアメリカの民主政の一部でした。この影響は現在まで続いており、それは社会の基本単位である家族システムの構造が維持されていることからも伺われます。表面的に見ればアメリカは積極的な差別是正の取り組みが進められていますが、白人集団において内心では旧来の人種的観念を捨て去ってはいないということを理解する必要があると示唆されています。

移民を排除しようとする背景として、アメリカ社会を形作る家族システムの特徴があるという議論が妥当であるとすれば、私たちはアメリカの移民の問題が今後も繰り返し政治問題化する可能性が大きいものと予期する必要があります。選挙についてはさまざまな要素が関連するため、人類学的考察だけで全てが説明できるわけではありませんが、アメリカが政治的に団結し、その本来の国力を発揮することを阻害する要因の一つとして考慮することは必要だと思います。

また、家族システムから移民の受け入れ能力を考えることは、日本にとっても参考になる部分があるかもしれません。著者は日本で支配的な家族システムは、普遍主義よりも差異主義にとって有利に作用すると紹介しています。このような場合、異なる人種間の接触が増加していくと、かえって身体的、文化的な差異に対する憎悪が助長される可能性が考えられています。それゆえ、日本社会はもし移民を受け入れるとしても、その数を統制することによって、不要な軋轢を回避することに役立つかもしれません。この論点に関してはさらに検討が必要ですが、いずれにしても移民政策を研究する際には、受入国の社会の特徴を十分に考慮しておくことが重要であると思われます。

関連記事
中間層が減少するほど、政治家は急進化する

参考文献
Emmanuel Todd, 1994. Le destin des immigrés : Assimilation et ségrégation dans les démocraties occidentales, Paris: Seuil.(邦訳、エマニュエル・トッド『移民の運命 同化か隔離か』石崎晴己、東松英雄訳、藤原書店、1999年)

2016年11月18日金曜日

論文紹介 対テロ戦争でアメリカが採るべき戦略とは

2001年9月のアメリカ同時多発テロを受けて始まった対テロ戦争ですが、本格的なアメリカの軍事行動が始まったのは10月に中東のアフガニスタンへ侵攻してからのことです。しかし2016年末にかけて事態は改善に向かっているとは言えません。これほど長期にわたって海外で戦い続けている事例はアメリカの歴史を振り返っても見当たりません。

今回は、こうした状況の中で、アメリカがこれまで採用してきた戦略を基礎から見直し、どのような能力を重視するべきなのかを再検討する必要があることを論じた研究を取り上げたいと思います。

文献情報
West, Allen B. "The Future of Warfare against Islamic Jihadist: Engaging and Defeating Nonstate, Nonuniformed, Unlawful Enemy Combatants," Military Review, Vol. 96, No. 1(January-February 2016)pp. 39-44.

対テロ戦争における領域的支配の重要性

著者の情勢判断によれば、現在のアメリカが直面する脅威で最も深刻なのがISISをはじめとするイスラム聖戦主義者(jihadist)の勢力です。この勢力は非国家主体ではありますが、その地域において政権を奪取することにより、領域的支配を伴う国家主体に発展する場合があります。著者はアフガニスタンでアメリカが犯した間違いとは、この可能性を軽視したことにあったと指摘しています。
「米国の指導者は、国家を建設することを目的としてISISが領土を支配しようとしていることを、理解する必要がある。不幸なことに、タリバンが権力と領土を確保することを見過ごしたとき、我々がアフガニスタンで犯した大きな間違いが繰り返されている。タリバンの局地的な運動は、アルカイダとオサマ・ビンラディンの世界的な計画と連動していたのである。その結果として、野蛮な7世紀型の国家が確立されただけでなく、テロリストの活動を支援する卑劣なイデオロギーの輸出も実施されてしまった」(West 2016: 40)
このように、テロリスト集団が国家主体に変化する可能性から、著者はアメリカが対テロ戦争を効果的に遂行する上でも、領域的支配を確立するための軍事作戦が重視されなければならないという立場をとっています。しかし、現在のアメリカの軍事行動には必ずしも一貫性がなく、戦略と戦術という異なるレベルの活動を協同させるべきだというのが著者の基本的な主張です(Ibid.)。

対テロ戦略のための戦略構想

アメリカ軍が採用すべき戦略について提唱されているのは、以下の4つの戦略です。

・敵の聖域の拒否
・敵の連絡線の阻止
・情報戦争の勝利
・敵の勢力圏の削減

著者がアメリカが最初に取り組むべき戦略としているのが、「敵聖域の拒否」ですが、これは決して特定の地域を部隊に占領させ続けるような戦略ではありません。「我々の最大の利点は戦略的機動力である。国境や境界を尊重しない敵に戦いを挑むには、その機動力を活用しなければならない。我々はイスラム聖戦主義者の拠点に対して攻撃を加えなければならない」と論じられているように、あくまでも攻撃目標となるのは敵の勢力とされています(Ibid.: 41)。国際テロリスト集団を相手にする作戦では戦域に含まれる地域を広く設定しなければなりません。

国際テロリスト集団を対象とする第二の戦略が敵の作戦線の阻止です。著者はこの論点について「我々は人員、物資、資源の流れを、交通網を発見、遮断することによって途絶させる必要がある。同盟国と協力し、ISISの運営の拠点となるシリアの指定地域など、指定された戦闘地域に入ろうとする聖戦主義者の動きを追跡する優れたシステムを開発する必要がある」と述べています。あらゆる種類の部隊活動に兵站支援は欠かすことができないものであり、それはテロリスト集団であっても本質的に変化するものではありません。

第三の戦略として提案されているのは、情報戦略です。著者はISISの情報戦略で最も重要なポイントは、戦場における勝利を記録し、それを宣伝していることだと指摘しています。ISISはこのような宣伝をソーシャル・ネットワークを通じて展開し、人的戦力の獲得に活用しています(Ibid.: 41-2)。また著者は、先進国のメディア関係者が知らず知らずのうちに、ISISの情報戦略に利用されており、例えばアメリカ軍によって拘束されたISISの元戦闘員を捕虜として報道することも、その一例であると指摘しています。
「聖戦主義者の容疑者を「戦争捕虜」と呼ぶことは止めよう。彼らはそうではない。彼らは不法な敵の戦闘員であって、正当な権利、つまりジュネーブ条約の下で与えられた権利を有するものではない。情報戦争の重要な側面は、我々の優しさと慈悲は原則、価値観としていかなければならないが、これは敵にとって魅力的な弱点であることを示している」(Ibid.: 42)
第四の戦略は、敵の勢力圏を縮小させることであり、これは「敵の領土を縮小しなければならない」ということを意味しています(Ibid.)。しかし、これは短期間で解決することが難しい問題です。アメリカは、イスラム過激派のイデオロギーの普及と拡散を効果的に阻止できていません。これは国内においてイスラム教徒が社会的に抑圧されていることと関係しており、過激な思想の蔓延を助長する側面があると著者は率直に認めています(Ibid.)。こうした問題に取り組むことによって、聖戦主義に関心を抱く人々を減らす努力を重ねれば、敵の勢力圏の拡大を阻止する上でも有効な手段となりえると考えられています。

前方展開部隊から戦力投射部隊への再編成

以上の戦略を遂行するためにアメリカ軍は戦力投射能力(power projection)を重視することが重要となります。著者は「敵を知る」ことの重要性を説いた孫子の思想に言及し、敵の弱点を突くことができるような態勢をアメリカと同盟国の連係によって整えなければならないと述べています。
「孫子の「敵を知る」という箴言を遵守するには、どうすればよいのか。我々は、もはや国家建設の事業に没頭することはできない。その代わりに、我々は一つの戦場を超えた打撃作戦を同時に実施するように努力するべきである。これは、我々が冷戦時代のような前方展開部隊(forward-deployed force)の構造をとる代わりに、戦力投射部隊(power projection force)の方へ向かわなければならないことを意味する」(Ibid.: 42)
この考え方をとるならば、アメリカ軍は今後、大規模な部隊を海外拠点に駐留させるべきではないということになります。(Ibid.: 42-43)小規模な部隊を編成しておき、それを世界各地に自在に展開できることがアメリカとして重視されることになります。
「旅団・連隊戦闘任務部隊(brigade/regimental combat task force)の編制を利用し、海兵空陸任務部隊(Marine Air Ground Task Force)は、戦力組成を展開するためのモデルになっている。キャンプ・レジューンの第2海兵遠征軍の士官だった私は、その編成の効力を理解するようになった。アメリカ陸軍は同様の類型の組織に移行する必要がある。既存の編制を見直し、これまでとは違う方法で考える時が来ている」(Ibid.: 43)
ここで言及されている海兵空陸任務部隊は、諸兵科連合に基づく海兵隊の任務部隊です。その編制、装備、訓練、運用は特に機動展開の能力を発揮できるように考慮されているのですが、著者はこの方法をアメリカ軍の全体に広めることで、対テロ戦争に対応することを構想しているのです。

むすびにかえて
著者は対テロ戦争でアメリカ軍が苦境に立たされており、ベトナム戦争の歴史を繰り返すことを懸念しています。そのためには、対テロ戦争を最も効率的な方法で遂行しなければならず、そのためにアメリカ軍の戦略投射能力をますます強化し、敵である聖戦主義者の基地を攻撃し、兵站線を遮断し、情報戦略を見直し、さらに勢力圏を削減していくことが重要であるという議論を展開することはまったく筋が通ったことです。

しかし、この研究が一方で示唆していることは、対テロ戦争に専念するアメリカ軍の態勢では、ヨーロッパや東アジアなどの地域で通常戦争を遂行することが難しくなるということです。前方展開能力から戦力投射能力への移行に関する著者の議論をそのまま実行に移せば、それは各地域でアメリカが保持する勢力圏を後退させ、同盟国の負担を増加させることに繋がります。これはこの研究でほとんど考慮されていない問題です。

この議論がこうした見解に傾く根本の原因は、アメリカの安全保障にとって何が最も重大な脅威なのかについて、著者が国際テロリスト集団であると断定していることにあるでしょう。国際テロリスト集団、特に武力闘争を掲げるイスラム過激派、聖戦主義者の活動がアメリカ国民の生命と財産を脅かしていることは確かです。しかし、この問題にあまりに多くの政策手段を投入してしまうことになれば、ヨーロッパや東アジアにおける勢力関係に変化が生じ、長期的なアメリカの国益が損なわれる恐れがあることにも注意しなければなりません。

KT

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2016年11月16日水曜日

論文紹介 冷戦期にソ連はどのような戦略を持っていたのか

ソ連の戦略を研究することは、冷戦の経過を理解する上で非常に重要な課題として位置付けることができます。
一般的にソ連は得体のしれない超大国として捉えられることも多く、日本においては漠然とした脅威という印象を持たれがちですが、このような見方はソ連の実際の行動や意図を説明する上でほとんど役に立ちません。より重要なことは、冷戦期におけるソ連がその時々の内外の情勢の変化を踏まえて戦略を選択してきたということであり、その変化を捉えることができれば、冷戦期におけるソ連の理解をさらに深めることができるということです。

今回は、冷戦期においてソ連がどのような戦略を持っていたのかを長期的な観点から把握し、その変化について解説を試みた論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
橋野健二「ソ連の軍事ドクトリンと軍事戦略の変遷」佐藤誠三郎編『東西関係の戦略論的分析』第2章、日本国際問題研究所、1990年、36-74頁

スターリンの戦略思想の特徴
ヨシフ・スターリン、ソ連の第2代最高指導者
戦後のソ連の戦略は、まずヨシフ・スターリン(Joseph Stalin, 1878-1953)の戦略思想に沿って基礎付けられていました。スターリンの戦略思想の特徴としては、(1)銃後の安定、(2)軍の士気、(3)師団の量と質、(4)軍の装備、(5)軍司令官の組織能力、以上の5点を戦争の勝敗を決める「恒常的要因」として重視していたことや、電撃戦の奇襲効果を重視しない傾向があったと著者は紹介しています(同上、38頁)。

しかし、その本質的要素を広い視点で捉えれば、それは当初は防勢作戦を基本としながらも、やがては攻勢に移転し、最終的に敵国を徹底的に殲滅するために逆侵攻を仕掛けるという戦略でした。このような考え方の背景に、マルクス・レーニン主義の思想があったとして次のように説明されています。
「これは平時の対戦準備としては防勢の戦略であるが、いったん敵に攻撃され、戦争状態に入れば、初期の防勢を攻勢に転じ、最終的には昔の領土まで攻め入って、敵をその領土でせん滅するというものであった。この戦略の裏付けとしてスターリンは、資本主義が存在している限り、戦争は不可避であり、社会主義と資本主義との戦争においては必ず資本主義側が敗北、滅亡し、社会主義側が勝利するというマルクスレーニン主義の戦争論を継承していた」(同上)
戦争の長期化を大前提とするスターリンの戦略思想において、核兵器は必ずしも勝利に不可欠な要素というわけではなかったようです。スターリンは核兵器について「原爆は深刻な脅威ではない。それは単に心理的、政治的効果を狙う兵器で、戦争の命運を決する程のものではない」と評価していたことは、そうした見解を裏付けています(同上)。

しかし、スターリンは実際には核開発を初めて推進したソ連の指導者でもあり、この事実は米国に核兵器を独占させることがソ連の国防にとって不利なことであると考えていた可能性を裏付けています。スターリンの戦略思想における核兵器の意義については議論の余地が残るのですが、少なくともソ連の核開発が成果を上げるまでの間、西ヨーロッパ方面に大規模な通常戦力を配備することによって、米国からの敵対行為をソ連として防止する態勢が維持されていました(同上、39頁)。

核兵器に基づく新たな抑止態勢の模索
ニキータ・フルシチョフ、ソ連の第4代の最高指導者
スターリンの死後にはソ連の政策にさまざまな変化が見られましたが、特にニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev,1894–1971)の影響は大きなものがありました。フルシチョフは、それまでソ連で神聖視されていたスターリンに批判を加えたことで知られていますが、戦略の分野においては通常戦力から核戦力に重点を移したことが一つの業績となっています。

このことは1960年1月14日の最高会議におけるフルシチョフの報告演説で表明されており、その内容を要約すると、次の通りになります。
・戦争の不可避性がもはや存在しない
・軍事技術の進歩によってロケット兵器の重要性が高まっている
・現在の戦争の形態が国境侵犯から始まるのではなく、国内の政経中枢に対する短時間のミサイル攻撃で始まる
・ソ連としては戦略兵器であるミサイルを分散展開し、攻撃を受ければ徹底的な報復を加える必要がある
・核戦力を増強する代わりに通常戦力を削減する一環として、ソ連軍の人員を120万名削減し、242万3000名とする(同上、40-41頁)
注目すべきは通常戦力の削減によって、核戦力の比率を高めるという決定です。フルシチョフが示した見解には歴史的な意義があり、それは「敵の奇襲核攻撃に対するソ連報復核戦力の生き残る公算が敵の奇襲を思いとどまらせる、との核抑止の考え方が明確に示されたことである」と著者も述べています(同上、41頁)。
ただし、この決定以降も東ヨーロッパ方面に配備されている通常戦力の規模は依然として西側のそれよりも優越している状態は続いたことに一定の留意をしなければなりません。

再評価された通常戦力と戦域核兵器の増強
レオニード・ブレジネフ、ソ連の第5代最高指導者
核兵器による報復を基礎としていたソ連の戦略ですが、1964年にブレジネフ(Leonid Brezhnev 1907-1982)が政権を掌握してから新たな修正が加えられることになりました。著者の見解によれば、ブレジネフによる最大の修正の一つは、局地戦争が全面的な核戦争に拡大する可能性より、限定的な通常戦争の可能性の方が重視されるようになったという点です。
「1960年代前半の軍事ドクトリンでは、欧州での戦争はソ連本土に対する奇襲攻撃から開始されると想定していた。したがって、これを抑止するためには、米国本土への戦略核による先制攻撃が必至であるとされていた。しかし、60年代後半の軍事ドクトリンの修正によって、将来戦が必然的に前面的に世界戦争となり、ソ連中心部(ソ連欧州部)に対する大量の核攻撃をもたらすというフルシチョフ時代の想定は捨てられ、かわって、世界戦争が必然的に対ソ攻撃に導くとは限らない、戦争は限定されうる、という新しい結論に到達した。それは、すなわち、ソ連がこれまでの大量報復型の戦略から、柔軟反応型の戦略へと転換したことを意味している」(同上、45頁)
ここで二つの問題が出てきました。第一に、ソ連本土に対する核攻撃を回避するために、可能な限り核兵器の使用を制限しなければならなくなりました。第二に、ヨーロッパに配備された西側の核兵器の脅威を通常戦力によって対処しなければなりませんでした。

そこでソ連は「圧倒的な通常戦力での優位を利用して西欧に対し電撃戦を敢行し、西欧に配備された核戦力を通常兵器で破壊し、欧州大陸を占領するという戦略」を採用することになります(同上、46頁)。ただし、ヨーロッパにおける核戦争の可能性それ自体が完全に否定されたというわけではなかったので、米国本土には届きはしないものの、ヨーロッパの政経中枢、作戦基地を攻撃可能な中距離核ミサイルは引き続き重視されていました。ソ連が1977年から配備を始めた移動式の中距離ミサイルSS-20は、ヨーロッパ戦域における対兵力攻撃を可能にする戦域核兵器であり、西ヨーロッパを人質とした米国をはじめとする西側諸国の対ソ攻撃を抑止することが期待されていたと考えられます(同上、47頁)。

米国の軍備増強とソ連の戦略的行き詰まり

次にソ連の戦略が変化するのは1980年代前半のことでした。
この時期から西側諸国においてソ連の軍事的脅威がこれまで以上に強調されるようになります。当時、ソ連の首脳部はブレジネフからアンドロポフ(Yurii Andropov 1914-1984)、チェルネンコ(1911-1985)へと短い期間で変化していましたが(同上、48頁)、ソ連を取り巻く国際情勢は一方で刻々と厳しさを増しつつあり、それに伴ってソ連の戦略も防衛的志向を強めていきました。

1981年に米国で発足したレーガン(Ronald Reagan)の政権は、米国の対ソ政策をより強硬な路線に切り替えています。1983年12月には戦域核兵器を西ヨーロッパに配備することによって、ソ連のSS-20に対抗する動きも示してきました(同上、49頁)。さらにこの年の3月には戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative, SDI)が打ち出されます(同上)。

こうした一連の米国の戦略についてソ連側は「(1)ソ連に対する軍事的優位を目指す方針、(2)核第一撃の戦略、(3)限定核戦争遂行の戦略、(4)米ソ直接対決の戦略、への転換であると理解した」と著者は述べています。特に中距離核戦力をヨーロッパに配備したことは、ソ連本土に対する核攻撃を可能にするものであり、ヨーロッパにおける限定核戦争の準備の一環と判断されるものでした。
「すなわちソ連の地理的環境を考えれば、欧州における東西両陣営の勢力圏の接触点からソ連国境までは地続きで約800キロ、首都モスクワまでは約1,800キロしか離れていない。一方米国の首都ワシントンは、欧州の接触点から大西洋を超えて約6,000キロも彼方に位置している。米国の観点からは、限定的な意味を持たせられているパーシングⅡも、ソ連の観点からは、その中枢部を攻撃可能な戦略兵器と見なされているかもしれないのである。
 このことは欧州戦域での米ソの力関係においてソ連が決定的に不利に陥ったと言うことである。つまり、もしソ連が、優位に立つ通常戦力によって西欧に対し電撃戦を遂行しようとすれば、NATO軍の長射程の精密兵器および進入能力が高い戦闘機を用いた縦深攻撃(FOFA)によって、ソ連の後続第二梯隊部隊も多大の損害を被ることは必須であり、そのために通常戦段階が行き詰まり、核戦争に移行すれば、米国のINFによって欧州ソ連の中枢部の壊滅的な破壊を覚悟しなければならないということである」(同上、50頁)
要するに、レーガン政権が取り組んだ米国の軍備増強によって、ソ連軍がそれまで目指していた電撃的勝利の公算を大いに低下しただけでなく、ヨーロッパ戦域に配備された西側の戦域核兵器によってソ連本土に直接脅威を及び得るという状況になってしまったのです。
もはや、従来のように攻撃的な戦略をソ連としても維持することが困難であり、しかもソ連国内の経済問題も深刻さを増すばかりでした。こうした諸条件が重なったからこそ、この時期からソ連は軍事力だけに頼らずに国家を防衛する方法を模索するようになったと考えられています(同上、50-52頁)。

ゴルバチョフの新思考外交に基づく戦略転換
ミハイル・ゴルバチョフ、ソ連の第8代最高指導者
1985年3月に誕生したゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev, 1931-)の政権では、特に経済の立て直しは喫緊の課題となっており、軍備の増強に慎重になる他ありませんでした。ゴルバチョフは平和共存について新しい考え方を示しており、「社会主義と資本主義の間の階級闘争の特殊な形態」という従来の定義を「軍事力ではなく、善隣と協力が支配し、科学技術や文化財の幅広い交換が行われる国際秩序である」に変更しています(同上、55頁)。このことからも、ソ連が米国との関係を長期的視野で安定させようとしていたことが読み取れます。

こうした政策上の決定によって、ソ連の戦略はより防衛的形態に変わっていったとして著者は次のように論じています。
「すでに1986年2月の第27回党大会で採択された新党綱領には、「党の指導的役割の下で、国の防衛と安全保障政策、特別に防衛的性格を持つソ連の軍事ドクトリンが策定され、実行されている」と規定され、さらにモイセーエフ(Mikhail A. Moiseyev)参謀総長は89年に、「1985年―1986年から、防衛的軍事ドクトリンと段階的な軍備縮小に関連した新たな段階が始まった」と述べている。
 これらのことから、1985年から86年にかけて軍事ドクトリンに変更が加えられ、「戦争の防止」を課題とし、戦争の防止は可能であるという、新しい軍事ドクトリンが成立したものと考えることができる」(55-6頁)
つまり、レーガン政権の対ソ政策の転換の影響は表明から4年から5年でソ連の行動に実質的な影響を及ぼしたということになります。ここで述べられている防衛的性格の内容については著者はソ連で発表されたいくつかの政府の文章や論文を根拠として示しています。

例えば、1987年5月に発表された文章では、ソ連をはじめワルシャワ条約諸国の軍事ドクトリンは、戦争の勃発を許さないことを課題としており、どのような紛争であってもその解決のために軍事的手段を使用することは許されない、自らが武力攻撃の対象とならないかぎりは軍事行動を開始せず、最初に核兵器を使用してはならない、と定められていました(同上、59)。また1987年9月17日に『プラウダ』で発表されたゴルバチョフの論文では、ソ連軍の防衛態勢の十分性について、「起こりうる侵略を撃退するのには十分だが、攻撃行動を実施するには不十分となるような国家の軍事力構造」を想定していることを明らかにしています(同上、64頁)。

むすびにかえて
著者の見解をまとめると、次の通りとなります。

・ソ連は第二次世界大戦が終結してから1980年代に入るまで、一貫して軍備の増強に取り組み、フルシチョフ以降には米国との間で戦略核兵器による均衡状態が達成するように努力してきた。
・1980年代初頭までにソ連は通常戦力の意義を再認識するようになり、特に戦域核兵器を配備することで、いざという時には西ヨーロッパ戦域に電撃的な攻撃を加えることが可能な態勢を目指し、結果として戦略的な均衡状態が生じていた。
・しかし、米国は1980年代からソ連に対する警戒感を強めて軍備の増強に取り組むようになり、西ヨーロッパ防衛のために戦域核兵器を配備していったため、ソ連は次第に劣勢に立たされ、攻撃的な戦略についても内容を見直す必要が出てきた。
・ゴルバチョフは戦争の防止を何よりも重視したため、ソ連の戦略は従来よりも防御的形態に変化するようになり、その結果として武力攻撃を受けないかぎりは軍事行動を開始しないという立場を表明するに至った。

ソ連の戦略を形成していた教義にはさまざまな側面があるので、ここで示した内容はあくまでも一つの説でしかありません。しかし、一貫した解釈を可能にする見方であると思います。ソ連の戦略は米国の戦略と相互に作用しあいながら変化していたことや、冷戦のその時々の軍事情勢の特質が反映されていたという著者の指摘は、いずれも基本的なことではあるのですが、冷戦史の研究で見過ごされる場合があることも事実です。

KT

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