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2015年5月31日日曜日

補足 武器の威力を定量的に評価する意義と限界


この記事は以前に発表した「武器の威力を数値化する方法」の続きです。

理論致死指数に関する記事を発表したところ、予想より多くの閲覧者からその指数の適用範囲に関する問い合わせがありましたので、若干の情報を追記します。

そもそもデュピュイが理論致死指数という指数を考案した目的は、軍事戦略上の戦力比較をするための計算に武器の威力を考慮する必要があったためでした。
あくまでも射撃術のような分析レベルで武器の威力や性能を考えているわけではなく、より大局的な観点から武器を評価しています。

冷戦期にデュピュイがこの指数を考案するまで、あらゆる形態の武器を統一的な基準で比較する方法論はまだ確立されていませんでした。
第二次世界大戦、冷戦を通じて武器体系が複雑化していましたので、戦力比較はますます難しい作業になっており、軍事分析の方法論について再検討が求められていました。

そのような状況で、デュピュイは火力に基づく武器の威力を比較するという方法を採用し、小銃から戦車、航空機、最終的には核弾頭に至るまでさまざまな武器の性能を比較する基準を考えた次第です。
それゆえ、小銃だけに適用範囲が限定された指数ではありません。
理論致死指数の適用範囲はあらゆる武器に及んでおり、非常に粗雑ではありますが、銃剣のような近接格闘の武器に関しても分析することも視野に含まれています。

例えば、銃剣格闘を一般的に考えて交戦距離1メートル以内、1時間に殺傷可能な人数60名、有効な攻撃を加えた場合に戦闘不能にする確率0.4、正確性0.95、信頼性1と想定するならば、理論致死指数は23.521と求めることができます。

もう一つ付け加えておくべきことは、理論致死指数からは運用致死指数という別の指数を導くことができるということです。

これはまた別の記事で詳細に説明すべき事項ですが、理論致死指数の計算では1平方メートルに対して敵の兵士1名が分布するという非現実的な想定に依拠しています。
実際の戦闘では戦闘陣形に基づいて広い地域に分散しているため、この点を考慮に入れて実際に発揮される威力を計算しなければなりません。

第二次世界大戦の場合で考えると、10万名の部隊が展開する地域の平均的な面積はおよそ3000平方キロメートルであるため、理論致死指数/3000で運用致死指数が求められます。

例えば、理論致死指数が791の64式小銃は二次大戦の運用致死指数で考えれば、0.264ですが、89式は0.441と分かります。こうした運用致死指数を知ることによって、さらに複雑な軍事的能力の分析を展開することもできます。

今回の話は少し専門的すぎる内容かと思いますが、私が強調したい点は戦争を科学的に研究するためには、体系的な判断基準を設定し、それに基づいて軍事力を分析する必要があるということです。
しかし、そこにはさまざまな制約があることにも十分に注意を払う必要があります。武器の性能を評価する方法は一通りではありません。

それでもデュピュイの致死指数という考え方は非常に興味深いアプローチであり、さまざまな分析で参照される価値があると思います。

KT

2015年5月30日土曜日

文献紹介 ヒトラーに戦争計画はあったのか

1939年9月、ポーランドに進攻するドイツ軍の部隊を視察するヒトラー。
ヒトラーは第二次世界大戦において重要な決断を下したことはまぎれもない史実です。
しかしながら、ヒトラーが意図的に第二次世界大戦を引き起こしたという議論については慎重に取り扱う必要があります。果たして、この議論にどこまで妥当性が認められるのでしょうか。

今回は、第二次世界大戦の歴史を考える上で重要なヒトラーの戦争計画の信憑性を再検討した歴史学の研究成果を紹介したいと思います。

文献情報
Taylor, A. J. P. 1964. The Origins of the Second World War, 2nd edition. London: Penguin.(邦訳『第二次世界大戦の起源』吉田輝夫訳、講談社、2011年)

第二次世界大戦に至る歴史は非常に複雑なのですが、この著作を発表する以前に「第二次世界大戦の原因は何か」という疑問に対して研究者の間で最も主流だった説明は「ヒトラーが第二次世界大戦を望んだため」というものでした。

この説明の根拠となっていた史料は、1937年11月5日にヒトラーが招集した会議の記録でした。
この史料は作成者のホスバッハ(当時、総統付国防軍副官)の名前から「ホスバッハ覚書」と呼ばれていました。
ホスバッハ覚書は単なる史料ではなく、ニュルンベルク国際軍事裁判でヒトラーの戦争計画を裏付ける証拠として受理されたものでもあり、その内容を大まかに要約すると次の通りです。

1.ドイツの問題はイギリスとフランスを念頭に置いた上で武力による威嚇によって解決しなければならないが、それが戦争を引き起こす危険も考慮する必要がある。
2.武力の行使を決定することが予想されるシナリオとしては、(1)このまま状況が推移すれば1943年以降、(2)フランスが内戦状態に陥った以降、(3)フランスとイタリアの戦争勃発以降のいずれかが考えられる。
3.イギリスは確実に、フランスも恐らくはチェコの問題についてはあきらめて譲歩すると予想される。
4.さらに、ポーランドは背後にロシアの脅威が存在するためにドイツに対して戦争を仕掛けてくることは考えられず、ソ連の行動についても背後が日本によって脅かされるであろう。

内容からも分かるように、この史料はヒトラーが自らの戦争計画を会議で表明したものとして重要視されていました。
先ほどの第二次世界大戦の原因を考える上でヒトラーが戦争計画を持って第二次世界大戦を引き起こした根拠と位置付けられていたものです。

しかし、テイラーは歴史学の方法論に基づいて、ホスバッハ覚書に関する史料批判を行っています。

ここでテイラーが提起している論点は、このような史料が作成された経緯についてです。
このホスバッハ覚書で記録された会議はどのような性格のものだったのかについて歴史家は十分に説明していなかったとテイラーは指摘しています(テイラー、2011、231頁)。

興味深いことに、この会議の出席者でナチ党員だったのはゲーリングだけであり、それ以外の出席者はその後数ヶ月以内にその役職から外されることになる政敵ばかりでした。
この史実から考えると、この会議の趣旨は作戦会議という性格のものではなかったことが分かります。
さらにテイラーはホスバッハ覚書という史料が作成された過程を次のように評価しています。
「近代的業務では公式記録は三つの手続きを擁する。第一に、書記が出席してノートをとり、これを後できちんとした形に書き上げなくてはならない。第二に、この草稿は関係者に提出され訂正と商人を得なくてはならない。第三に、この記録は公式ファイルに綴じ込まれなくてはならない。1937年11月5日の会議については、ホスバッハが出席しただけで、これらの手続きは全くとられなかった。彼はノートをとらなかった。五日後に会議の内容を記憶にたよって普通の書き方で書きとどめた。彼はこの手稿を二度ヒトラーに提示しようとしたが、ヒトラーは忙しすぎて読む暇がないと答えた」(31-32頁)
結局、ホスバッハ覚書はヒトラーの承認を得られませんでした。つまり、ヒトラーがこの会議を重要な性格のものと認識していなかったと判断することができます。

ホスバッハ覚書が歴史上の重要な史料として発見されるのは、戦後に米軍の士官がニュルンベルク国際軍事裁判で戦争犯罪人の容疑を裏付けるための証拠を収集していた時のことでした(32頁)。
作成した本人であるホスバッハはこの時に証拠として提出された自分の覚書の内容が、もとの手稿よりも手短にまとめられていると思ったようです。しかし、すでに一次史料は失われているため、歴史家はその真偽を確認することができません(同上)。

テイラーは以上の理由から、ホスバッハ覚書の信憑性には重大な問題があり、これをもってヒトラーの戦争計画を裏付けることは妥当ではないと考えました。
そして、そもそもヒトラーに戦争計画があったに違いないという見解は見直されるべきではないかと議論を提起しています。

第二次世界大戦が勃発する前にヒトラーが軍事力の増強に着手していることは事実ですが、それはドイツだけに限られた話ではなく、ヨーロッパの国際関係という構造的要因が重要な役割を果たしていた可能性が考えられます。

このようなテイラーの説には多くの批判が寄せられることになったのですが、ホスバッハ覚書が史料として信頼性に問題点がある以上、その史料に依拠した歴史の解釈を見直す必要があることについてはテイラーはその後も説を曲げませんでした。
「私はホスバッハ覚書にだまされたのだ。私はほとんどの研究者がいうほどにそれが重要であるかどうか疑ったけれども、あれほど利用されるからには何らかの意味で重要であるに違いないと考えたのである。だが、私は間違っており、1936年にさかのぼるように指摘した批評家たちは正しかった」(31頁)
この著作の成果は、それまで存在することが前提として考えられていたヒトラーの戦争計画には十分な根拠がないことを指摘しただけではありません。

ヒトラーの存在によって原因が単純化された結果として見過ごされがちだった国際情勢の特性やその背後にあった各国の「政治的計算」という外在的な要因をより多く考慮に入れた解釈を提示することにも取り組んでいます。

KT

2015年5月29日金曜日

武器の威力を数値化する方法


戦争を理解するためには、武器の威力を考察することが不可欠です。
文明は長い時間をかけてその時代、その地域に応じた武器を開発し、軍備の中心に据えてきました。しかし、その威力を定量的に考察する方法が考案されるようになったのはごく最近のことです。

今回は、1970年代にデュピュイ(Trevor N. Dupuy)が考案した理論致死指数(theoretical lethality index)という概念を説明し、いくつかの武器の威力を数値的に比較してみたいと思います。

まず理論致死指数は、小銃から核弾頭に至るまで、さまざまな武器の威力を評価する指数であり、特に火力が判断基準になっている指数だと考えて下さい。理論致死指数の計算式は次の通りです。
理論致死指数=射撃速度×威力範囲×殺傷効果×射程要因×正確性×信頼性
・射撃速度 1時間にその武器で連続して射撃が可能な回数(小銃の性能を扱う場合は400発/1分×2で求めます)

・威力範囲 一度の射撃で危害を加えることが可能な人数(これは榴弾砲のよう場合に特に重要な変数です。小銃の場合は1と置きます。)

・殺傷効果 命中した場合の死亡率(小銃の場合は0.8と置きます)

・射程要因 有効射程(メートル単位)を基本とする場合には=1+(√0.001×有効射程)(有効射程が不明の場合は初速と口径から推計する方法を用いますがまた別の計算式になります)

・正確性 その武器が本来の機能を果たした場合に目標に命中する確率(小銃射撃の場合は0.8を置く場合が多いですが、銃の特性により±0.1と修正してもよいと思います。ここは分析者の定性的判断によります)

・信頼性 その武器が本来の機能を果たす確率(この部分は故障率と関係しています。小銃の場合、おおむね0.8を最高値とします)

この計算式を使って、いくつかの小銃の理論致死指数を比較してみましょう。

まず現在の自衛隊の最新式の小銃である89式小銃の致死指数を計算すると、およそ1321と分かります。(以下の計算結果はいずれも四捨五入済み)
64式小銃で同様の計算をしてみると計算結果は791であり、89式が小銃としてより優れていることが分かります。

別の国の小銃に分析の対象を広げてみると、日本の国産小銃の相対的な威力がよりよく分かります。

1947年に配備されたソ連のAK47を見ると致死指数は866であり、64式小銃のほうが後発であるにもかかわらず、依然として技術的には優れていたことが分かります。
しかし、64式小銃はAK47と同一の口径であり、しかも銃口初速で見れば64式小銃のほうが優れています。なぜこのような分析結果になるのかを調べてみると、射撃速度で両者に差がついていることが分かりました。(AK47は最大で600発/毎分、64式は最大で500発/毎分)

次に1960年に配備された米国のM16についても評価してみると、この小銃の致死指数は1344となります。やはり後発である89式小銃よりも、わずかに上回っていることが分かります。
ちなみに、その後に米軍で導入されたM16A1の指数は1483ですので、やはり89式小銃よりも高い指数となっています。

分析してみるとM16の性能で特に重要な要素は射撃速度のように思われます。口径を小さくすると致死指数も低下してしまうのですが、その点については初速を高めることで有効射程を高い水準で保っています。

こうした計算の興味深いところは、歴史上の武器と現代の武器の性能を比較する際にも利用することができる点です。
例えば、1897年に日本陸軍に配備された三十年式歩兵小銃の致死指数は191ですが、1895年に配備されたリー・エンフィールド小銃は221であり、日本と英国の間の小銃の性能には依然として格差があったことが示唆されています。

また、中世から近世にかけて英国で使用されたロングボウとクロスボウの性能を比較してみたいと思います。
ロングボウは射撃速度55発/1時間、威力範囲1名、殺傷能力0.5、有効射程200メートル、正確性0.9、信頼性0.9と想定すると、その理論致死指数は32です。
クロスボウを見てみると射撃速度50、威力範囲1名、殺傷能力、0.5、有効射程230、正確性0.9、信頼性0.9で計算すると、理論致死指数は29に低下しています。
有効射程が多少延伸しても、射撃速度が低下すると技術革新の結果、かえって火力が低下する一例だと言えるでしょう。

もちろん、これらの数値は武器の一面的な評価に過ぎません。
それぞれの武器にはその用途に応じた比較の方法があるので、あくまでもここで取り上げたのは主要な性能を定量化する一つの試み程度のものだと考えればよいと思います。

武器に関する知識は複雑で膨大ですが、こうした評価を用いれば、武器に触れたことがない人々に分かりやすくその武器の威力を説明することができると思います。

KT

補足記事を発表しました。補足 武器の威力を定量的に評価する意義と限界

参考文献
Historical Evaluation and Research Organization. 1964. Historical Trends Related to Weapon Lethality, U.S. Army AD 458 760-3. Washington, D.C.

2015年5月27日水曜日

ウェーバーの古代国家論と軍事制度

紀元前865年-860年、古代王国アッシリアの軍勢が攻城武器で城砦を攻撃している様子を描写したレリーフ。
今回は、社会学者マックス・ウェーバーの古代国家論と軍事制度の関係に関する議論を紹介したいと思います。

まず、古代の国家がどのように成立したのかという問題を研究するためには、都市の形成過程を考える必要がありました。なぜなら、古代国家の最も重要な形態は都市国家だったためです。

ウェーバーは最も初歩的な都市の形態として防壁を備えた家族共同体または村落を考えました(ウェーバー、57-58頁)。
このような国家の形態の下では軍人と市民の区分は必ずしも明確ではなく、ほとんど軍事制度は発達していません。

しかし、国家形態がさらに発達すると、軍人と市民の区分は身分としてより明確なものとなると考えられています。
ウェーバーの説によれば、防壁を備えた集落がさらに都市化すると、王権に支配された城砦国家に変化するとされています。

この城砦国家では、共同体の生存を確保するための城砦が国王によって所有されてます。
国家の内部には二つの武装する身分と武装していない身分が形成され、国王の地位は軍人の統帥者として地位と緊密な関係にあります(同上、58-59頁)。

この国王は共同体の中で特に大きな土地、奴隷、資産を個人的に所有しているものと考えられていますが、その理由は国王の部下に配分する必要があるためです。
軍事支出を引き受ける個人が国王としての地位を引き受けるため、統治を受ける住民は臨時の賦役や貢納を要求されるものの、城砦国家の中で生活を営むことが可能となります(同上、59-60頁)。
「つまり最大の財産を擁する墺が自分以外の城塞支配者たちを自分自身の家臣としてしまう。これこそほとんどすべての古代の国家の開始にほかならない」(同上、60頁)
このような原始的な王権がさらに発達すると、国王は巨大な軍隊を管理するために必要な官僚機構を整備します。その結果として、城砦都市はこの官僚の居住地へと性格が変貌していきます。
この段階にまで至ると、最初の素朴な国家形態の特徴はほとんど消失し、都市国家としての体制が完備されるようになります(同上、61-62)。

国家は住民に賦役によって労働力を提供させるか、もしくは貢納によって生産物を提供させる権限を行使して資源を動員します。
この資源を官僚機構を通じて体系的に配分することにより、その国家は一集落の規模では決して整備することができない巨大な軍備を運用することが可能となるのです(同上)。

ここで紹介したのはごく一部の古代国家の類型に過ぎませんが、ウェーバーが国家形態と軍事制度には一定の相互関係があったと考えていることが分かるのではないでしょうか。

つまり、国家は一定の領域に対する支配を確立するために軍備を必要としますが、優れた軍備を継続的に整備するには、軍事行政に必要な支出をより体系的に管理する官僚機構が不可欠となり、国家の制度もその軍事行政上の要求に適したものに変化していくのです。

このようなウェーバーの議論は単に古代国家だけの問題ではないと私は考えています。
現代においても軍隊と国家の関係は不可分に結びついていて存在しています。現代の国家体制の問題を考えるためにも、その国家がどのような軍事制度を導入しているのかを分析することは重要なことです。

参考文献
マックス・ウェーバー『古代社会経済史』弓削達、渡辺金一訳、東洋経済新報社、1959年

2015年5月22日金曜日

学説紹介 戦闘で兵士の内面で何が起きるのか

戦場から戻ってきた兵士はその経験を生涯にわたって忘れることはありません。

その経験は兵士でない人々にとって理解しがたいことが多く、退役軍人は社会復帰しても深い孤独感にさいなまれることがしばしばあります。

軍事心理学の研究者たちは、戦闘という経験が兵士の心身の健康状態にどのような影響を与えるのかを長年考察してきました。

今回は、マーシャルとシャイの研究成果を紹介し、それらに基づいて戦闘経験が精神状態に与える影響を考察したいと思います。

戦闘ストレスから逃れようとする兵士
第二次世界大戦、太平洋戦域で従軍する米軍の兵士たち。マーシャルの研究によって実際に戦闘行動に参加して射撃している兵士が極めて少数であることを解明し、その後の戦闘訓練の考え方に大きな影響を及ぼした。: - National Park Service (National Archives). Marines mopping up Tinian Island drop into firing positions when enemy is sighted.
マーシャルは第二次世界大戦に従軍したアメリカ軍の兵士を調査し、軍事心理学の研究を発展させることに大きく貢献した研究者です。

彼は兵士に戦闘を回避しようとする一般的な傾向があるという大胆な仮説を打ち出したことでよく知られています。

彼の研究成果によれば、戦闘において実際に自分の武器を使用しているのは全体の15%から20%だと見積もられており、その原因として戦闘が兵士に与える身体的、心理的なストレスが大きいためであると説明されています。

ここで述べているストレスとは、必ずしも戦闘で自分の命を危険に晒すことだけではありません。

マーシャルによれば、兵士は敵を殺傷する行為そのものに対する嫌悪感を持っており、その遂行にストレスを感じてしまうのです。

したがって、戦闘ストレスは殺される恐怖だけでなく、殺すことへの恐怖が複合して生じていることになります。

この画期的な研究は軍事訓練のあり方を見直す必要性を強く示唆していました。従来の方法であれば、兵士をうまく戦闘に従事させることができないことは明らかでした。

後にマーシャルは朝鮮戦争にも派遣され、兵士の低い発砲率を改善するための訓練方法の研究に取り組み、55%程度にまで改善することができました。

そして、ベトナム戦争においては95%の発砲率を達成しています。

復讐のために戦闘にのめり込む危険性
訓練方法の改善によってベトナム戦争で従軍した兵士の発砲率は著しく改善されたが、戦闘を経験した兵士の中には味方を殺害された復讐を目的とする過剰な暴力行為や虐待行為をとる者が見られることも調査で明らかになってきた。Official Marine Corps Photo # 371490). U.S. Marines with Company G, 2d Battalion, 7th Marines, direct a concentration of fire at the enemy during Operation Allen Brook, 8 May 1968.
マーシャルの研究で、強いストレスから逃れようとするあまり、多くの兵士が発砲しない行動をとることが明らかになりました。

その対策としての訓練方法も発達したのですが、次第に戦闘の経験が兵士をより攻撃的にする効果もあることが明らかになってきました。

ベトナム戦争における米軍の兵士の行動を研究したシェイ(1995)は、戦闘を経験した兵士に攻撃的行動が見られることを考察しています。

その研究によると、常に一緒に行動するバディが戦闘で負傷する場面に一度でも出くわした兵士は、それ以後の戦闘で効果的に武器を使用し、敵を殺傷する行動に積極的に参加するようになるとされています。

そうした兵士は戦闘で敵を殺傷することに個人的な関心を持つようになるということです。

この研究が興味深い点は、敵と接触がない状態での負傷、つまり地雷や罠などで味方に死傷者が出た場合に兵士は強いストレスを感じることが指摘されたことです。

というのも、そうした状況では兵士たちが味方を助けるためにできることが何もないため、強い無力感にさいなまれるためです。

その結果として、兵士はいわば次の敵の部隊と交戦する際に、その機会を「復讐」として活用するため、戦闘に積極的に参加するのです。

こうした傾向は一見すると戦闘にうまく兵士が適用した結果であるように見えます。

しかし、シェイはこうした兵士はもはや軍隊の根幹である規律を十分に遵守できないと指摘しています。

しかも、こうした状態は長期化する危険も指摘されており、退役してから何年か経過した後になって心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症する確率も高くなるとされています。

むすびにかえて
これらの研究は戦闘という経験が兵士に与える影響には二面性があることが示唆しています。

戦闘は重度のストレスを兵士に与えるため、兵士はまず第一に戦闘を回避しようと行動する傾向にあるのですが、自分の仲間が目の前で殺される場面を目撃した兵士は一転して好戦的な行動をとろうともするのです。

そして、その行動は時として軍事的な合理性をはるかに超えた暴力行為、残虐行為に繋がる危険があります。

戦闘ストレスへの反応についてグロスマン(1995)は「戦闘で友や親族が死傷すると、敵を殺すのは容易になり、戦争犯罪も起こしやすくなる」と警告したことがあります。

戦場で心理的な問題を抱えた兵士を使い続けることは、軍事的な危険があるだけでなく、法的、道徳的な問題を引き起こす要因にもなり得ることは知っておくべきことではないでしょうか。

KT

関連記事
論文紹介 時代や地域で異なる士気の学説

参考文献
Grossman, Dave. 1995. On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society, Back Bay Books.(デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』安原和見訳、筑摩書房、2004年)
Marshall, S. L. A. 1947. Men against Fire: The Problem of Battle Command, Norman: University of Oklahoma Press.
Shay, J. 1995. Achilles in Vietnam: Combat Trauma and the Undoing of Character, New York: Simon & Schuster.



2015年5月21日木曜日

文献紹介 平和とは何か


一般に平和は戦争の反対に位置付けられる概念と考えられています。それは社会の調和のとれた対立の発生していない状態であり、国内政策、対外政策の最終的な目的とも見なされています。

しかし、平和はより複雑なものであり、単に戦争が発生していない状態としてのみ理解することはできません。
クラウゼヴィッツが戦争を政治の延長として把握したように、平和もまた国家が政策を遂行するひとつの手段として把握される必要があります。

今回は、平和を理解するために限定的平和という概念を導入し、それを政策の延長として理解することができることを主張した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Herrera, James H. 2009. On Peace: Peace as a Means of Statecraft, Charlisle: U.S. Army War College.

著者が指摘しているのは、戦争のレベルと同様に、平和にもいくつかの分析レベルが設定されうるということです。
このことはすでに平和学の研究でも明らかにされていることではありますが、著者はその研究成果を踏まえて個人的レベル、国家・集団的レベル、そして国際関係レベルの三種類に区別しています(Herrera 2009: 8)。

著者は三つの分析レベルそれぞれの平和を区別した上で、あらゆるレベルで平和が達成されている絶対的平和(absolute peace)、そうではない状態を限定的平和(limited peace)と呼び分けて区別し、平和にもいくつかのパターンに分類可能であることを指摘しています(Ibid.: 9)。
クラウゼヴィッツが戦争の形態には絶対的戦争と限定的戦争があると議論したことと同じ論法がとられています。

平和の形態を分類すると、政策立案者は自らの目的を達成する上でどのような平和を実現するべきかを選択することができることが分かります。
この研究が興味深いのは、戦争に犠牲者が存在するように、平和でも「犠牲者」が出ることが指摘されている部分です。

つまり、個人、国家、国際関係の平和状態が政策として実現しえない場合、どれかを犠牲にした限定的平和が選択されなければならず、その結果として特定の人々の平和状態のために他の集団が犠牲になるというのです。

著者はこの事例を説明するために、ヨーロッパ連合を取り上げて次のように述べています。
「現在、ヨーロッパはその歴史において最も平和で繁栄した時代を経験しつつある。地域の秩序は特定の国家と国際的な安定の両方と結びついている。その例外となっているのは、社会的緊張(人種主義)とグローバリゼーション(移民、世俗主義)に起因する個々人の内面的な調和の欠如である、と述べることができる」(Ibid.: 9)
限定的平和もまた平和の一形態に他ならず、その下で誰かが「平和の犠牲者」とならざるをえないという見方をとれば、戦争指導の場合と同じように平和指導の問題を考えることが可能ではないかというのが著者の基本的な見解です。

私がこの研究を読んで個人的に興味深いと思った点は、限定的平和と戦争に至らない作戦行動の関係です。

第三国による武力紛争に対する非公式の介入や、相手国に対する反乱、政治工作の支援などのような特殊作戦は、いわば平和を隠れ蓑としたまま指導される必要があります。
こうした作戦行動を指導するために戦争の原則をそのまま適用することはできません。平時の作戦行動ではより民事作戦上の考慮が必要であり、発揮する武力の水準についても慎重に選択される必要が出てきます。

戦争に至らない危機的状況下での作戦行動の問題を理解するためには、平和の問題を軍事的観点から多角的に分析する姿勢が必要ではないでしょうか。

KT

2015年5月20日水曜日

文献紹介 戦時経済の問題とは何か


兵站はしばしば軍事兵站のことだけを指して用いられますが、近代以降の戦争においてこの理解は間違っています。

なぜなら、近代戦争は自然とその国家の経済力を総合発揮することが必要とされるため、国民経済の総体を広い意味で兵站の一部として管理する場面が多く出てくるためです。
このような経済システムは研究者からしばしば戦時経済または戦争経済と呼ばれています。

今回は、戦時経済の問題について考えるための参考として、第二次世界大戦時に執筆されたドイツの戦時経済に関する著作を紹介したいと思います。

文献情報
Oesterheld, Alfred. 1940. Die deutsche Kriegswirtschaft, Leipzig: Felix Meiner Verlag.(邦訳、エスターヘルト『独逸の戦争経済』独逸文化研究会訳、日光書院、1940年)

この著作は戦時経済の研究書というよりも概説書と位置付けるべきもので、解説されている事柄は生活物品から鉱業資源、金融商品にまで多岐に渡ります。
個々の記述は要約的なものですが、戦時経済の全体像がよく整理されています。

まず戦時経済への転換ついて見てみると、第二次世界大戦が勃発した当時、ドイツ政府は直ちに労働力の再編成のため数十万名にも上る男女の職場移動を実施しました(前掲、2-3頁)。

このような大規模かつ急激な転職を可能にしたのは、平時からドイツで実施されていた非熟練労働者に対する職業訓練計画でした。
非熟練労働者に新開発された産業技術を事前に指導しておく訓練を実施しておくことで、戦時経済に転換した後に製造や運輸などの作業場で迅速に適用できるように準備することができました(前掲3頁)。

ベルリン市の状況を見ても、独ソ戦が始まる1940年までに、およそ50万名の男女が企業の内部または外部における研修を受けており、ドイツが戦時経済での労働力の運用に柔軟性を準備していたことが分かります(前掲、4頁)。

また企業の側に注目すると、戦時経済への転換した際に激増する受注に対処する必要がありました。

この問題についてもドイツでは平時からの措置が講じられていました。
防衛産業だけでなく多数の一般企業に軍需生産に関連する仕事を発注しておくことで、潜在的な防衛生産体制を構築する努力をしていたのです。
1937年の統計によれば、ドイツの製造業における受注のおよそ半数が政府調達に関連しており、特に土木建築業では政府調達が占める割合が70%を超えていたことは、その一例として挙げられます(前掲11頁)。

戦時経済の問題は工業だけでなく農業とも関係してきます。次に農業生産に関する記述を見てみましょう。

ドイツの戦時経済体制で完全に食糧の輸入が封鎖される事態を予想し、さまざまな種類の食糧の生産を国内で確保するための対策がとられました。しかし、農村で若年労働者が兵役のため出征すると女性労働者への依存が高まり、現場で生産力の低下が観察されたことが指摘されています(前掲14頁)。

農業生産に関して特に著者は畜産の生産に十分な注意が必要であると論じている箇所があります。
1939年に実施された家畜調査によれば、当時のドイツにおける牛の頭数は2,390万頭、乳牛はうち1,990万トンとされています(前掲32頁)。
しかし、この頭数を保持するために必要な飼料穀類は莫大な分量であり、農家として穀類の生産を強化するとしても、かなりの部分をソ連からの調達に依存せざるを得ませんでした(前掲33頁)。
バター、マーガリンに関する生産でも同様の注意を払う必要が指摘されています(前掲70頁)。

ごく一部しか紹介できていませんが、ここまでの記述だけでも戦時経済の問題がいかに広範であるかが分かるかと思います。
国家兵站の観点から考えれば、工業、農業はいずれもそれぞれに固有の問題点があります。これらが兵站を通じて軍事行動に与える影響はさらに研究される必要があると私は思います。

KT

2015年5月16日土曜日

文献紹介 重たい部隊は強く、軽い部隊は弱い


戦争が勃発して直ちに地上部隊を遠隔地に展開する能力を持っていれば、それは間違いなく戦略的な優位を国家にもたらします。
在外基地を建設し、そこに部隊を駐留させる経費は大いに節約されることでしょう。
しかし、そのような試みが本当に実行可能かどうかは、兵站の実態と照らし合わせて慎重に考える必要があります。

今回は、特に長距離の部隊移動に関する陸上戦力の輸送手段を考察した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Eugene C. Gritton, Paul K. Davis, Randall Steeb, and John Matsumura. 2000. Ground Forces for a Rapidly Employable Joint Task Force: First-Week Capabilities for Short-Warning Conflicts, Santa Monica: RAND.

この研究が発表された背景として、2000年初頭における陸上戦力の戦略機動に関する議論が関係していました。
当時、航空輸送能力の発達によって陸軍の移動はこれまで以上に迅速になったため、それほど前線付近に部隊を配置しなくてもよいではないかという議論がありました。
しかし、この研究は航空輸送の限界を指摘し、そのような主張に根拠がないことを明らかにしたのです。

この研究の焦点は、作戦を開始する日から7日以内に陸上戦力を即応展開するための輸送手段の評価にあります。
そもそも、兵站の観点から考えれば、輸送する部隊の規模が大きくなるほど輸送力は不足しがちとなるので、即応展開の部隊の装備や物資は小規模なものでなければなりません。

そのことを表しているのが次の図です。
米軍の部隊が戦地に展開するまでに何週間を要するかを概観したグラフ。
左から海兵遠征部隊は0.5週未満、第82空挺旅団は1週未満と見積もられている。
また海兵遠征旅団、陸軍機械化旅団の所要時間は1.5週であり、重武装の陸軍師団は4週間となる。
なお、棒グラフの黒色部分は変動する可能性が大きい幅を示している。
(Gritten, et al. 2000. p. 13)より引用。
この図表を読んでみても、正規の装備を備えた戦闘部隊が戦地に展開するためには、一定の時間を必要とすることが分かります。
即応展開した海兵遠征隊(MEU)が戦闘地域に投入されている時期、海兵遠征旅団(Marine Expeditionary Brigade)は動員の準備をようやく半分か3分の1を終えた時期であり、陸軍の主力が到着するにはさらに8倍の時間を必要とするためです。

著者はさらに既存の各種輸送手段の実態を検討した上で次のような結論を引き出しました。

第一に、即応展開が可能な軽武装な地上部隊は、実戦での戦闘力が不足することが予測されるため、必ず機械化部隊と組み合わせて使用する必要があります。さもなければ、先遣隊としての任務を遂行することもできないでしょう。

第二に、機械化部隊は重量物の装備を伴うため、そのような部隊の輸送手段として航空輸送は役に立ちません。航空輸送はあくまでも旅団規模の軽歩兵部隊を輸送するために使用するべきであるというのが著者たちの主張です。

第三に、一見すると海上輸送の巡航速度が大幅に向上し、即応展開の実効性を保証する上で重要な輸送手段であるように見えます。しかし、荷役、給油、管理などに必要な時間を考慮すれば、やはり即応展開には問題があると考えられます。

以上から、輸送手段の発達によって兵站支援はますます容易になり、即応展開能力の飛躍的な向上につながる、と安易に考えてはならないことが分かります。
航空輸送のような手段で輸送可能な部隊は、少なくとも兵站家の観点から見れば大した部隊ではないのです。
つまり、どこの基地に、どれだけの部隊を配備しておくべきなのかという古くからの問題は、今なお重要性を失っていないと言えます。

KT

2015年5月7日木曜日

戦争のレベルとは


戦争のレベル(levels of war)とは、戦略の目標と戦術の行動との関係を明確化するための枠組みです。
戦略、作戦、戦術という三つの領域にはっきりとした境界線があるわけではないのですが、これらを理論的に区別することは軍事上の問題を研究する上で極めて重要です。

今回は、戦争のレベルに基づいて軍事分析を展開するに当たり、戦略、作戦、戦術がどのように定義されているかを紹介したいと思います。

第一に戦略は国家が決定した国策を遂行する上で国力を活用する方法であり、政略的な考慮に基づいて策定された政策を軍事上の作戦行動へと移し替えるためのものです。

米軍の教範によれば、「軍事作戦の文脈において、戦略は同調的または統合的な方法によって、地域的、国家的、国際的な目標を達成するために国力の手段を運用するためのアイディアを発達させるもの」として規定されており、国家指導者の責任によって決定されることが論じられています(JP 3-0: I-13)。

第二に作戦は戦略上の目標を達成するために部隊の戦術的な運用を決定する方法です。作戦は、いつ、どこで、どのように戦力を使用するかを考える上での標準的な単位の一つですが、戦略よりも小規模な軍事行動を考えるものであり、かつ戦術よりも大規模な軍事行動を考えるものであるという特徴があります。

教範によれば、戦争のレベルとしての作戦は作戦術(operational art)の概念と結び付けて理解されており、作戦術は「戦略、戦役、大作戦、会戦を設計、組織、統合、指導することを通じて戦略の目標を達成するための軍隊の運用」として述べられています(JP 3-0: I-14)。

第三に戦術は戦闘における部隊の運用です。戦術は作戦よりもはるかに微視的な戦争のレベルであり、戦術の主眼は戦闘力を最大限に発揮するために、敵との相互作用を考慮しながら、兵員、武器、装備を組み合わせて一連の交戦を組織化する意義があります。

教範を参照すると、戦争のレベルにおける戦術で取り扱う「交戦は非戦闘の任務または行動から、通常ならば短期の行動で敵対する部隊の間の戦闘までの幅広い種類を包括しうる」とされています(JP 3-0: I-14)。

戦争のレベルを適切に選択することができれば、自分の関心に応じた軍事分析を展開することができるようになります。例えば、戦略レベルの軍事行動に関心があるのであれば、局地的な戦術は問題とはなりません。

参考文献
U.S. Department of Defense. 2011. Joint Publication 3-0: Doctrine for Joint Operations, Washington, D.C.: U.S. Government Printing Office.

2015年5月5日火曜日

文献紹介 太平洋軍の思惑と日本の戦略

フィリピン中部ビサヤ諸島のレイテ島の北西にあるオルマック湾。
フィリピンの基地は西太平洋、東アジア各地に米軍が部隊を展開する上で戦略的に重要である。
世界各地に駐留する米軍ですが、その中でも特に太平洋軍(U.S. Pacific Command)は日本の安全保障と最も緊密な関係を持つ統合軍です。
今回は、太平洋軍の戦略についての研究成果を紹介したいと思います。

文献情報
David J. Berteau, and Michael J. Green. 2012. U.S. Force Posture Strategy in the Asia Pacific Region: An Independent Assessment, Washington, D.C.: Center for Strategic in International Studies.

近年、米国の貿易の60%はアジア諸国を相手としていますが、この地域では軍事力の増強がきわめて活発であり、特に中国、ヴェトナム、中国、韓国、インドなどが軍事支出を増加させています(Berteau and Green 2012: 13)。

特に中国の軍事力を見てみると、中国の周辺地域に米軍が進攻することを阻止する対抗接近/地域拒否の能力を構築しつつあることが指摘されており、具体的には東シナ海、フィリピン海、南シナ海に次の地図のような防衛線が準備されています。これが完成すれば、米国はアジアにおける影響力を大幅に低下させる可能性が研究者によって示唆されています(Ibid.)。

東アジア地域の戦略情勢の概観。
東シナ海と南シナ海からフィリピン海に向かって中国が防衛圏を構成する脅威が示されている。
東アジア地域で紛争が生じている地域は朝鮮半島、台湾海峡、南シナ海、中印国境、印パ国境と分布。
中国の軍事的台頭によってこれら紛争地域の状況が大きく変化する危険が考えられる。
(Berteau and Green 2012: 14)より引用。
中国が強固で安定した防衛圏を構成するには、東シナ海と南シナ海での海上優勢を確保するだけでなく、フィリピンと日本の領土・領海を通過するチョークポイントを確保しなければなりません。

つまり米国の太平洋軍の戦略上の目標は、これらチョークポイントを中国に支配されないように、確保し続けることであるということになります。
この研究では、太平洋軍の任務として以下の事項が列挙されています。

・米国の同盟国がその権益を保全することを助け、危険が拡大することを抑制すること。
・同盟国との一体性を強調することによって、北朝鮮の侵略や中国の強制を防止すること。
・過激派が勢力を拡大し、また近隣諸国から攻撃対象となることがないように、脆弱な国家の自助能力を向上させること。
・中国に対して安全保障協力や信頼醸成を通じて安全を保証すること(Ibid.: 17)。

太平洋軍はこれら任務を達成するために十分な能力を持つと考えられていますが、それは同盟国の接受国支援に依存していることも指摘されています。
例えば日本に駐留する米軍、特に沖縄に駐留している部隊は、中国が計画する防衛圏を打破する上で高い価値を持っていることが指摘されています(Ibid.: 18)。

その他にもシンガポール、ヴェトナム、フィリピンと締結している防衛協力や軍事通行に関する協定、さらにインドとの防衛協力を強化する必要が考えられており、中国の太平洋方面における軍事戦略の実行可能性を大きく低下させる効果が期待されています(Ibid.)。

太平洋軍の脅威について考えると、中国の弾道ミサイルによって在日、在韓米軍基地が脆弱になる危険が考えられます(Ibid.: 20)。
さらに、中国は軍事的手段のみならず、外交的、経済的手段を駆使することで、オーストラリアや日本のように太平洋軍の機能にとって不可欠な同盟国の協力を妨害する危険があるとも指摘されています(Ibid.)。

それに加えて、世界規模で見た場合の米軍の態勢が二つの大規模な作戦を同時に遂行する能力を維持することができなくなっている事情も考慮しなければなりません。
つまり、中東と太平洋の二つの正面で同時期に軍事的脅威が顕在化してしまうと、太平洋軍は計画した戦略を実施することができなくなる危険があります(Ibid.)。

この課題に対処するには太平洋軍がグアム、ハワイ、米本土西岸から軍需品を効率的に輸送する能力を持たなければなりません。
同盟国の間の結束を向上させ、一体的な連合作戦を実施すべきとされています。この研究論文によれば、日本と韓国、米国が一体化した連合作戦を実施すべきことが主張されています(Ibid.: 21)。

さらに、太平洋軍は人民解放軍の意図を把握し、かつ米国の方針を伝達するための外交的役割を果たすことも要求されており、軍事部門の対話、危機管理、透明性の攻城、海上、サイバー、外宇宙における事故防止が具体的な協力分野として挙げられています(Ibid.: 22)。

最後に、この研究はあくまでも東アジアにおける米国の戦略を考察したものである点に注意しなければなりません。この研究では日本の立場はほとんど考慮されていません。
東アジア地域でNATOのような多国間協調の枠組みを構築することが太平洋軍にとって必要だとしても、だからといって日本がそれに同調すべきとは限らないのです。

米国の戦略を深く研究することで、日本が米国とどの分野で協力し、どの分野で独自に行動すべきか決定することが重要ではないでしょうか。

KT

2015年5月2日土曜日

斉射モデルによる海上戦力の分析法


今回は、海上戦闘の結果を予測する方法について紹介したいと思います。

ある二つの艦隊が交戦した場合に、どちらにどの程度の損害が発生するのかを予測または説明するためには、少なくとも二種類のデータが必要となります。

一つは攻撃力に関するデータであり、具体的には艦対艦ミサイルをどれだけ搭載しているかによって判断することができます。もう一つが防御力に関するデータであり、これは艦隊防空能力にかかわるCIWSや艦対空ミサイルなどから判断することができます。

ここではあくまでも仮想の状況として、インド海軍の空母1隻(航空隊なし)を沈めるためにインド海軍の駆逐艦がどれだけ必要かを考えてみましょう(データはすべてMilitary Balance 2014を参照)。

インド海軍の空母Viraatの防御力を支えているのは8連装のBarak-1というイスラエル製の艦対空ミサイル2基です。16発の艦対空ミサイルがすべて有効であり、かつViraatを沈めるには1発の命中が必要であると想定すると、この空母に損害を与えるためには最低でも17発以上のミサイルを投射しなければならないと考えられます。

インド海軍の駆逐艦Delhiに着目してその攻撃能力を見ると、4連装の3M24という艦対艦ミサイルが4基搭載されており、1隻のDelhiで16発を発射することができるため、1隻だけではViraatに損害を与えることができないものと推定されます。したがって、Viraatと交戦するに当たり、Delhiを最低でも2隻で攻撃するべきであるという結論になります。

この議論を単純化すると、駆逐戦隊の攻撃力>空母の防御力=2(16)>1(16)ということになります。

ただし、このような推論はあくまでも理論上の話に過ぎないことに注意して下さい。これは大雑把な分析法にすぎず、研究ではより多くの変数が使われているのが普通です。

例えば、空母は通常であれば航空優勢と情報優勢を発揮することが可能ですので、先制して攻撃を仕掛ける可能性も考慮しなければなりません。
また空母に搭載されているCIWSの防御能力を考慮すれば、駆逐艦はより多くのミサイルを使用しなければなりませんので、本来であれば先ほどの見積は駆逐艦にとってかなり有利なものとなっています。

さらに言えば、そもそも、すべてのミサイルが命中して本来の威力を発揮するという保証はどこにもありません。これは部隊の練度によって大きく左右されうる要因であり、実質的な戦闘力の推定に当たってはこのような側面も考慮しなければなりません。

いずれにせよ、この分析法によって海上戦力を比較をする際に注意すべき点について理解を深めることができることは確かです。
この分析法は戦術学、特に海上戦闘の理論においてHughesの斉射モデル(Salvo Model)として研究されているものです(Hughes 1986)。
最近では情報優勢や機動能力、耐久性、指揮統制、航空優勢などの要因を加えた派生のモデルも研究されており、また別の機会にその成果は紹介していきたいと思います。

中国の海洋進出の脅威を考える上で、こうした分析法を理解しておけば、より建設的に情勢見積を実施することができると思います。

KT

参考文献
Hughes, W. P., Jr. 1986. Fleet Tactics: Theory and Practices, Naval Institute Press.

2015年5月1日金曜日

講義録 政治とは価値の権威的配分である

政治とは何か、という問題に対する政治学者の解答は千差万別ですが、最大公約数的に答えるとすれば、政治とは国家を統治する技術であり、政治学はその技術を研究する学問ということになるでしょう。
しかし、この定義は必ずしも学問的に厳密な定義ではないため、政治学者はより厳密に「価値の権威的配分」として政治を定義することがあります。これは最も政治学者によく知られた政治の定義といえます。

今回は、この定義が何を意味しているのかをルイ十四世(Louis XIV)の事例を交えて説明したいと思います。

政治学者による政治の定義
デイヴィッド・イーストン(1917-2014)
米国の政治学者。シカゴ大学の名誉教授。
システム分析を政治学に導入し、政治学の理論的分析を拡張する事に貢献。
米国の政治学者デイヴィッド・イーストン(David Easton)は政治学を「権力の分布と行使によって影響を受けるところの、価値の権威的配分の研究に他ならない」と規定したことがあります。
これは現在でも政治学の基礎として広く紹介されている定義なのですが、特徴的なのは権力の分布だけではなく、それによって影響を受ける「価値の権威的配分」の関係を政治の範囲として考えていることです。この点についてイーストンは1953年の著作で次のように説明しています。
「権力の理論だけでは政治研究の準拠枠としては広すぎるのである。政治研究は、権力関係の政治的側面にのみ関心を持つのであって、権力関係の全てを取り下用とするものではないのである。(中略)「何らかの権威的な配分に由来する価値パターンと権力の分布及び行使との間には緊密な関係がある」我々が言いうるのは、せいぜいのところ、この程度のことに限られる。政治学は、権力の分布と行使によって影響を受けるところの、価値の権威的配分の研究に他ならない」(邦訳、『政治体系』153頁)
権力の問題は確かに政治にとって重要ですが、それだけではなく、権力がどのようにして価値の権威的配分を左右しているのかを見ていることが分かります。
政治が一つの技術であり、それに巧拙があるとすれば、地位や所得などの価値を配分する仕方に表れるといえるでしょう。自らの政権を運営するために、特定の人々に権益を分け与え、または取り上げることが必要となってくるのです。

帯剣貴族との権力闘争におけるルイ十四世の政略
ルイ十四世(1638-1715)
中央政府の権力を大幅に強化して国力の増強に努め、
重商主義に基づく通商と積極的な対外戦争を推進したことで知られる。
政治史の分野でルイ十四世に対する関心は非常に高い理由の一つは、彼が長期に渡って権力を掌握することに成功したことが挙げられます。
1661年に枢機卿マゼランが死去するとルイ十四世は本格的に政権を掌握しますが、当初はその国庫に残高がほとんど残されていませんでした。三十年戦争、フロンドの反乱と相次ぐ軍事作戦の支出によってフランスは財政的危機に陥っていたためです。
権力の座に就いた時、ルイ十四世は味方に分配可能な資金は国庫に残されていなかったため、それだけ政権運営は困難を極めました。

しかも、国家機関の中枢には旧来からの既得権益を主張する帯剣貴族が発言力を持っていました。いくら国王であるからといっても、このような抵抗勢力の影響力を低下させなければ、ルイ十四世としても必要な国家政策を策定することはできません。
特に重要な政敵として、マゼランの大蔵卿であったニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet)がおり、彼は職権を利用して莫大な資産を築いていただけでなく、自らの資金で離島に城塞を建設し、資金を配分することで政府内部で自らの党派を形成していました。この政敵を排除するために、ルイ十四世は新たな政略を展開しなければなりませんでした。

まずルイ十四世が行ったのはフーケの検察長官の地位を返還させることでした。これはフーケの身柄を拘束する際に彼が指揮権を発動する事態を防ぐ意味合いがありました。この布石を置いてから、自らが直接指揮する銃士隊を動かし、フーケを逮捕することに成功します。数多くの抗議を受けながらも、ルイ十四世は裁判によってフーケを終身刑としました。
フーケの後任として1664年に任命したのが法服貴族のコルベールであり、財政を彼に一手に引き受けさせることで財政上の権限をフーケ派から奪回します。これによって、「価値の権威的配分」が可能な体制を作り出すことができました。

国家財政をコントロールできるようになったルイ十四世はさらに軍制改革を推進し、1666年に法服貴族だったル・テリエを陸軍大臣に任命して本格的な陸軍再編に着手しました。
ここで特に重要な改革だったのは、名誉職の連隊長を除く士官の任命権を国王の特権とし、また従来まで帯剣貴族が実施していた徴兵業務を国王の管轄に移管させ、国王の権利として独自に軍隊を編成することができるようにしたことでした。
これは旧来の帯剣貴族の影響力を大幅に低下させることになり、その後のルイ十四世の対外戦争において強力なリーダーシップを発揮することを可能にしたのです。

むすびにかえて
政治の巧拙が価値の権威的配分に関する技術であると考えるのであれば、ルイ十四世は王座に就いた時にはほとんど動かすことができる資金がなく、政治的に不安定な状態であったことが分かります。
しかし、彼は政治的に敵対する帯剣貴族の影響力を低下させるために自分に何が必要であるのかをよく心得ていました。
銃士隊を使って政敵フーケから財政権を奪回し、その資金を用いて次に自分の意向の通りに動かすことができる軍備を整備したことは、ルイ十四世の政権基盤を盤石なものにしました。

最後に要点を繰り返すと、政治とは権力を得るために価値を分配する技術であり、政治学はそれを研究する学問と言えます。
それを学ぶことによって、私たちは時代や地域を超えた政治の原理を理解することができるだけでなく、その原理が具体的な状況でどのように適用されているかを分析することができるようになるのです。

KT

参考文献
David Easton. 1953. The Political System: An Inquiry into the State of Political Science, Knopf.(邦訳、『政治体系 政治学の状態への探求』山川雄巳訳、ぺりかん社、1976年)