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2015年10月3日土曜日

事例研究 イタリア戦争とフランスの限界


同盟は二カ国以上の国家がその軍事的能力を結合させ、侵略においては相手を包囲し、防衛においては相手を抑止することができます。
したがって、対外政策の手段としての同盟と軍備を切り離して考えることはできません。同盟を締結したとしても、結局のところ国際政治において相手に具体的な強制力を発揮するには軍備が必要です。
今回は、16世紀のヨーロッパ情勢におけるフランスの対スペイン政策を取り上げて、同盟と軍備の関係について説明したいと思います。

16世紀のヨーロッパ情勢を見ると、ハプスブルク家が見せた勢力はヨーロッパ全域に及んでいました。
15世紀後半から16世前半にかけてハプスブルク家は西端のジブラルタルから東端のハンガリーに至る広大な領土を政略結婚や領土相続によって獲得していました。

しかし、このようにハプスブルク家がヨーロッパで台頭することにフランスは強い危機感を抱いていました。
当時のフランス王国を統治していたフランソワ一世は、1519年にカール五世が神聖ローマ皇帝に即位してヨーロッパの広大な地域を支配し始めると、フランスはその勢力を抑制するために、さまざまな外交的、軍事的な措置を講じ始めます。

スペインとフランスが最初に衝突したのはちょうどルネサンスが花開いていたイタリアでした。
当時、フランスとスペインは北イタリアの都市ミラノ、ナポリの正統な支配権をめぐって対立していましたが、フランスはスペインに対して勝算があると判断し、軍隊を派遣して占領します。

しかし、スペインは間もなくイタリアの防衛のための軍隊を派遣し、テルシオとして知られる新たな方陣を導入することで戦術的優位を確保し、フランス軍に対して戦略的反攻に転じます。
スペイン軍の攻勢を受けて最終的にフランス軍は1525年のパヴィアの戦いで大敗し、陣頭指揮をしていたフランソワ一世は捕虜として捕らえられます。
その後、フランスは一時は軍隊を引き揚げますが、およそ3年後には再編成した軍勢をイタリアに派遣し続けたため、戦争は長期化していきました。

それでもフランスはスペインと軍事的に対決しても勝ち目がないと当初の判断を改めるようになります。
16世紀のスペインとフランスがどの程度の軍事力を保有していたかを正確に知ることはできませんが、ある研究によれば1470年代におけるスペイン軍の規模が20,000名程度であったにもかかわらず、1550年代には150,000名にまで増員されていたこと、そして1470年代のフランス軍の規模は40,000名であったものの、1550年代には50,000名と増員が相対的に遅れていたのではないかと推定されます(Parker 1979: 96)。

この数字に基づいて相対勢力比に置きなおすと、1470年代には仏:西=2:1とフランスに優勢だった勢力比が1550年には1:3とスペイン優勢に変化していたことになります。
この分析ではフランスとスペインでは軍事力そのものだけでなく、軍隊を拡張する経済力にも大きな格差があったことが示唆されています。

そこでフランスは単独でスペインに対抗するのではなく、より実行可能性の高い戦略を見出しました。それがスペインの封じ込めを目的としたフランス―オスマン同盟です。

当時、オスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼしてシリア・エジプトを獲得し、バルカン半島を北進してオーストリア・ハンガリー方面を、東地中海を西進して南イタリア・西地中海方面のスペインの支配領域に多大な脅威を与えており、1526年のモハーチの戦いでハンガリー軍はオスマン軍に敗北し、1529年にオスマン軍の部隊はウィーンを攻囲したため、スペインはオーストリアを失う危険に直面していましたが、ウィーンの防衛にはかろうじて成功しました(第一次ウィーン攻囲)。

このような状況から、スペイン軍はフランス軍との戦いのさ中であっても、対オスマンの長大な防衛線を維持するための部隊を分散して東方へ配備する必要が生じていたのです。
この脅威を自国のために利用できると考えたフランスは使節を派遣し、1535年にオスマン帝国と正式に同盟を締結しました。

この事例において最も驚くべき事実は、スペイン軍がその後も戦争においても主導権を完全には失わなかったことです。

オスマン海軍が地中海で攻勢に出た時にもスペイン海軍はプレヴェザの海戦でオスマン海軍に勝利しました。またイタリアをめぐるフランスとの戦争でもスペイン軍の力は健在であり続けました。
イタリア戦争を戦うフランスにとって、オスマンとの同盟の効果は期待外れの結果に終わります。
スペイン軍で導入された戦闘陣「テルシオ」
従来までの騎兵突撃の優位を打破した画期的な歩兵戦術とされる。
テルシオの簡単な解説が以前の本サイトの記事に含まれている
オランダの独立を可能にした軍事革命
確かにオスマン軍はスペイン軍を陸上、海上から圧迫していたのですが、本質的な問題は外交・戦略だけでなく、軍備にもあったことをフランスは見過ごしていました。
コルドバ公ゴンサーロの軍制改革に基づいて厳格な規律の下に訓練を受けたカスティリヤ地方出身の兵士たちはフランス軍が誇る騎兵突撃を受けても陣形を維持する精鋭であり、当時最も精強と信じられていたスイス歩兵部隊であってもその戦闘陣を崩壊させることはできなかったのです。
最終的に1544年、フランスはクレピー講和条約でイタリアがスペインの勢力圏であることを認めざるをえなくなりました。

フランスは決して外交的、戦略的な誤りを犯したわけではありません。
スペインの軍事力に相対的な優位性があると判断したフランスは、フランスだけでスペインと戦うことを回避し、オスマンとの連携を通じてスペインの広大な領土を異なる方向から同時に圧迫すれば、スペイン軍は各個に撃破されると考えたのです。これは政治的、戦略的にはまったく正しい考え方です。

あえてフランスの失敗した理由を挙げるならば、フランスはテルシオというスペイン軍の新たな戦術に対抗できる軍隊を構築することができませんでした。
イタリア戦争を戦うフランスにとって、オスマン帝国との同盟は強力な戦略上の方策ではありましたが、同盟それ自体が国家間の勢力関係を決定するわけではありません。

結局のところ、戦争の最後の段階において敵よりも強力な軍隊を持たなければ、巧みな外交的手腕を発揮できたとしても、その政治的目的を達成することは極めて困難なのです。

KT

参考文献
Oman, Charles. 1937. A History of the Art of  War in the Sixteenth Century, London: Methuen.
Elton, Geoffrey R., ed. 1963. Reformation Europe 1517-1559, London: Harper & Row.
Parker, Geoffrey. 1979. Spain and the Netherlands, 1559-1659: Ten Studies, London: Collins.

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