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2015年6月28日日曜日

適切な行進こそ戦略の最重要事項


戦略は政治的目的を達成するために軍事的手段を適用する方法を意味します。
戦争で政策上の目標を達成するために軍事力を使用するには、作戦地域の重要な地点に部隊を前進させることが不可欠です。

つまり、私たちは行進が戦略上の手段であることを認識しなければなりません。
ある地点から別の地点へと部隊を移動させる方法がどれほど優れているかによって、戦闘において敵よりも優勢な勢力で交戦することができるかどうかが決まってしまいます。
もし全体として敵国よりも優秀な武器と多数の兵士を保有しているとしても、戦場となる場所に集中させることができなければ意味がありません。

このことはクラウゼヴィッツの議論でも明らかにされていることです。
「行進は、戦略がその有効な原理と見なすところの戦闘を、戦場において適宜に配分するいわば道具である。ところで戦闘は、行進の経過をもって始まるのではなくて、行進の結果をもって始まるのである」(クラウゼヴィッツ、上147頁)
戦略家は部隊を所定の地点まで行進させますが、それは単に目標とする場所への移動ではなく、敵の部隊もまた移動することを考慮しなければなりません。

自国の作戦基地から出発して敵地の首都を目指して前進しなければならない場合、どこで敵の部隊と接触するのか、いつまでに味方の部隊をそこに集結させなければならないのか、そしてどのような経路、どのような編成で行進を実施させるのか決断する必要が出てきます。
これらの決定は作戦の成否にとって重要な意味を持っています。

一例として、クラウゼヴィッツはナポレオンのロシア遠征作戦を挙げて検討を加えています。
1811年6月24日にフランス軍がニエメン川を渡河した際には301,000名の兵士を数えていました。しかし、8月15日にナポレオンはフランス軍の13,500名をスモレンスクへと派遣していますので、モスクワに到達した部隊の規模は287,500名という計算になるはずです。
しかし、実際にモスクワに到着したフランス軍の人員は182,000名に過ぎません。つまり、損害は105,000名と算出されます。
途上での戦闘は二回ありましたが、それらの戦闘の損害の推定値はおよそ10,000名であるため、52日間に70マイル前進するための連続的な行進によって落伍者、疾病者など95,000名の損害が出たと見積ることが可能です(同上、中202-203頁)。

これらの数値と分析が正しければ、ナポレオンが率いるフランス軍は敵国の首都を攻略するまでに行進だけで全軍の兵士の3分の1を失ったということになります。
これは冬将軍と呼ばれる極寒のための損害で片づけることができる問題ではありません。ナポレオンがモスクワに向けて前進している間の季節は夏から秋でした。しかも、行進の途中でナポレオンは二度にわたって行進を中断して宿営を実施し、落伍者を収容する措置を講じてもいます。
それでもなお、これだけの損害が出ていることは、行進の過酷さと難しさを表していると言えるでしょう。

部隊の行進を適切に指導することは重要な問題です。
現在でも大規模な部隊が長距離を移動するためには多くの時間と労力を必要としなければなりません。いつ、どこで、どのように戦うのかを考える上で、クラウゼヴィッツの考察は依然として有用性を失っていません。

KT

参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2015年6月27日土曜日

学説紹介 クラウゼヴィッツの勢力均衡論


クラウゼヴィッツの業績は主として戦略の研究に関係するものが主要であるため、国際関係を規律する原理として勢力均衡を考察していたことはそれほど評価されていません。

しかし、クラウゼヴィッツは戦争においては防御者となる国家が相対的に優位に立つことができるという考察を残していました。
その議論との関係で彼が述べていたのは、国際政治において国家は現状を打破するよりも維持することを一般的に好むという勢力均衡の原理です。
「現代のヨーロッパ諸国の現状を察すると、国家および国民に関する大小さまざまの利害関係が極めて多種多様な仕方で交錯し、しかも時々刻々と変化していることを知るのである(諸国家間に、権力や利害関係の秩序整然とした均衡が保たれていると言うのではない。そのような均衡は実在する者でないし、また実際にもこれまでしばしば否定されたのは尤もな次第である)」(中297頁)
ここでクラウゼヴィッツは多種多様な利害が複雑に絡み合っている国際政治の特徴それ自体が、勢力均衡なのだと述べています。
興味深いのは、勢力均衡を軍事力の均衡として考えているわけではない点です。クラウゼヴィッツは国家間の利害の均衡として勢力均衡を把握していました。
「そして利害関係のこのような交差点の一つひとつが全体を牽制する結び目をなしている。一国のとる方向と他国のとる方向とは、この結び目によって均衡を保っているからである。それだからこれら一切の結び目によって、全体が多かれ少なかれ大きな連関を形成していることはあきらかである。この連関は、かかる結び目の一つに変化の生じる毎に、その場で回復されねばならない。そこで諸国家の全体的関係は、子の全体に変化を生ぜしめるよりは、むしろ全体を現状のままで維持しようと努めるのである。換言すれば、一般に現状維持を旨とする傾向が存在すると言うことである」(同上、297-298頁)
ただし、クラウゼヴィッツはどれだけ国家が現状を維持しようとするかという度合には相違があり、時として現状の打破を目論む国家が出現する場合があることを示唆しています。
「第一の場合には、政治的均衡を飽くまで保持しようとする努力がある。そしてこの努力は、相対的利害関係と傾向を同じくするところから、かかる利害関係を有する国家の多数を味方につけることができる」(同上)
「これに反して第二の場合は、現状維持を旨とする傾向と相容れないのである。そこで若干の国家は各自に有力な活動を展開するのであるが、これはまさに疾病と言わざるを得ない。しかし大小の国家が雑然と集合し、そのあいだの結合が極めて薄弱な全体に置いてかかる疾病の現れるのは怪しむに足りない」(同上)
このような勢力均衡に対する反証として、ポーランドの事例を取り上げる議論があります。
18世紀にポーランドはロシア、オーストリア、プロイセンによって分割され、国家として消滅することになりましたが、これを阻止しようとする国家は当時出現していません。

クラウゼヴィッツは「ポーランド民族を蔑視するつもりもなければ、またポーランドの分割を是認するのでもない。ただありのままの事態を考察しているに過ぎないのである」と前置きしながら、次のように述べています(302頁)。
「百年このかたポーランドは、もはや本来の政治的役割を果たさなくなり、徒らに諸他国家間に不和を醸し出す種となるに過ぎなかった。ポーランドがこのような状態にあり、またこのような政治的事情の中に没入しているとすれば、ヨーロッパ諸国家の間に介在して長くその地位を保つことは不可能であった。しかし、またこのタタール的状態において本質的な変革を成就するには、たとえポーランド民族の指導者たちが進んでこの事に当たったとしても、半世紀はおろか優に一世紀を要したであろう」(同上)
「当時オーランドは、政治的には荒涼たる草原さながらであった。国家の間に介在する無防備の草原を、諸国の介入に対して常住に保護することが不可能であるように、このいわゆるポーランド国家なるものの不可侵性を保証することもまた不可能であった」(同上、303頁)
つまり、国際政治の原理として勢力均衡は有効であるものの、それが説明しうる範囲は、自国の防衛を遂行するだけの国力を備えた国家の場合に限られると考えられるのです。
クラウゼヴィッツは国内政治と国際政治に緊密な関係があることを認めていました。ポーランドが国際関係において独立と安全を保つために必要だった改革は失敗に終わったことにより、国際政治におけるポーランドの地位も失墜したと考えられています。

クラウゼヴィッツの勢力均衡論は全体的にそれほど系統的な議論ではないのですが、これは防御者の優位性という戦略上の議論とも関連付けられる議論であり、より詳細に研究される価値があるものだと思われます。

KT

参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2015年6月25日木曜日

論文紹介 安定した抑止と戦略の相互作用


今回は、抑止のためには相手の戦略との相互作用を考える重要性を述べた論文を紹介したいと思います。

1970年代に米国ではソ連の核戦力が整備され始めた事態を受けて従来までの核戦力の優位性が低下しつつありました。例えば、個別誘導多弾頭、潜水艦発射弾道ミサイルなど米国が技術的に独占していた分野においてソ連が追い付き始めたことが挙げられます。
このような米ソ両国の軍事力が均衡に近づいたことで、1972年に戦略兵器制限交渉の第一次協定が成立します。

今回取り上げる論文の著者のケーハンはこのような状況を問題として米国の採用すべき戦略を再検討すべきと考えたのです。

文献情報
Kahan, Jerome, H. 1971. "Stable Deterrence: A Strategic Policy for the 1970s," Orbis, 15. Summer, pp. 528-543.

著者は当時の米ソ両国の核戦力に関してほとんど同等の水準にあるものと判断していました。
これは米国が大陸間弾道ミサイル(ICBM)を整備していたとしても、ソ連がICBMで第一撃を加えれば大部分が破壊される危険があるということです。
著者は、1970年代の米国の核戦力とそれを運用するためには、ソ連の抑止を破綻させない着意が必要であると考えました。
「1970年代の米国の確実な戦略的な政策は次の二つにある。(1)確実で多種類の抑止力を維持し、報復能力に高い信頼度を与える。(2)ソ連の抑止力を脅かすようなシステムあるいは戦略をとらない。このような政策を『安定した抑止』と呼ぶ」
著者は彼我の戦略的な相互作用を考慮に入れた上で核戦略を選択することが重要であると考えていました。
もし米国がソ連の攻撃を抑止しようとしても、ソ連が米国の攻撃を抑止する能力まで損なうような武器体系や軍事戦略を導入してしまえば、ソ連は米国からの先制攻撃を恐れて予防的に第一撃を加えてくる危険が高まってしまいます。
「抑止は二面性を持つため、米国はその計画がソ連の戦力・政策・認識に対して与えうる効果についてよく知らなければならない。もし米国の計画がソ連の抑止を危険にするとソ連が認識すれば、ソ連は米国からの第一撃を恐れることは間違いない。危機に対して先制攻撃を始める傾向がより強まってしまう。このような条件では核戦争の危険が増大することになる。その報復能力を保全するためにはソ連は戦略戦力を拡充、改革するに違いない」
いわば、相手の攻撃を完全に阻止する特徴を持つ武器や戦略は、相手の攻撃を抑止することができると同時に、相手が自国の攻撃を抑止することを困難にしてしまう二面性があるということです。
相手はもはや自国を抑止することができないと判断すれば、逃げ場を失った兵士が決死の反撃を試みるように、その国家は先んじて攻撃を仕掛ける動機が生まれます。これでは、米国にとって抑止の本来の目的を達成することはできないだけでなく、軍事力の増強に多額の予算を費やさなければならなくなります。
「米国はソ連が明確な優位を獲得する事態を防止することが可能であり、またそうすべきだが、米国はソ連が対等の立場を得て、それを維持することを妨害することはできない。上記した『安定的抑止』の政策は、戦略兵器に対する支出増加を要求せずに米国の安全保障に対するリスクを最小化するであろう。この安定的抑止の追及はソ連に同様の対応を促すであろう。これが重要な目標となる。1970年代の戦略的安定は彼我が戦力を縮小し、明確な第二撃能力を持つ「生き残るための攻撃能力」を増強することで完全に達成できる」
ケーハンの研究の興味深い点は、相手が自国の攻撃を抑止する能力を持つことで、自国として相手を抑止する本来の目的をより達成しやすくなると指摘したところです。
戦略における相互依存の理解しなければ、いくら軍事力を増強しても、それは安定した抑止を可能にはしません。相手の軍事力の構造やその機能を踏まえた戦略を採用することこそが重要であることをこの研究は示しています。

KT

2015年6月23日火曜日

論文紹介 国家はオオカミ、ジャッカル、子羊、ライオンに分類される


最近の国際関係論の研究では、国家の対外政策の選択を説明するために、国内の政治体制が重要であることが注目されるようになっています。

もし国力、特に軍備の強化を実行可能な強固な政治体制が構築されていれば、脅威を及ぼす相手国に直面しても抵抗する姿勢を打ち出す方針を採用するでしょう。しかし、そうでなければ、可能な限り相手の敵対行為を刺激することを回避しようとするはずです。
つまり、その国家の国内事情によって、達成しようとする国益には変化が生じるものと考えられるのです。

今回は、このような国際関係における国家の政策目的の相違について考察したシュウェラーの論文を紹介したいと思います。

文献情報
Schweller, Randall L. 1994. "Bandwagoning for Profit: Bringing the Revisionist State Back In," International Security, 19(1): 72-107.

目次
1.脅威均衡理論とその批判
2.勢力均衡理論における追従
3.報酬のための追従
4.なぜ国家は追従するのか
5.新しい同盟理論:利益均衡
6.結論

シュウェラーは国家が追及する利益を大きく二種類に区分します。つまり、国家は現状を維持する場合に得られる利益と現状を変更する場合に得られる利益があり、後者から前者を差し引いた利益がその国家の利益(つまり現状打破の利益-現状維持の利益=その国家の利益)となるのです。
次に、シュウェラーは現状打破の利益が現状維持の利益を小さく上回る場合と大きく上回る場合を区分しています。
前者の場合だとその国家の現状打破は限定的目的を達成するために実施されるため、自分自身から積極的に軍事行動を起こすよりも、状況の変化に便乗して利益を獲得しようとします。

このような国家をその行動の特性からシュウェラーはジャッカルと呼んでいます。ジャッカルは決して進んで自分から攻撃を仕掛けて危険を引き受けることはしません。ジャッカルは強者に追従することを第一に行動し、隙を見て自分の獲物を確保しようとする特徴があります。

現状維持の利益が現状維持よりもはるかに大きいならば、そのような国家は積極的に危険を冒して攻撃的な行動を選択すると考えられます。
シュウェラーはこのような政策を選択する国家をオオカミと形容しています。
オオカミは自国の国力、軍事力を強化するために多額の資金を投じることも躊躇しません。自国よりも強い国家に対しては慎重になりますが、弱小国に対する姿勢は完全に攻撃的です。

さらに、現状維持の利益が現状打破の利益よりも大きい場合について見てみます。
現状維持の利益が相対的に小さいものであるならば、シュウェラーはそのような国家を子羊と形容しています。つまり、子羊は自国の権益を防衛するためわずかな費用しか支払わず、強者に対して追従することで安全を確保している国家です。このような国家が脅威に直面すると宥和を図る傾向があることも指摘されています。

最後に、現状維持の利益がはるかに現状打破よりも大きい国家は軍事力の増強により大きな費用を支払う体制を持っている特徴があります。シュウェラーはこのような国家をライオンと呼んでいます。
ライオンはすでに所有している権益の安全を確保するために修正主義的な行動を阻止しようとする傾向があります。つまり、オオカミの攻撃を阻止する意思と能力を備えた国家と言えます。

動物になぞらえて国家の利益を分類する点は置いておくとして、シュウェラーの分類方法は国際政治における国家の利益を系統的に分類する方法は非常に興味深いものです。
もし日本の事例で考えれば子羊に、米国はライオンに、中国はオオカミになるのでしょう。そうした各国の利益の相違が行動パターンの相違として現れていると説明すれば、より国際情勢を理解しやすくなると思います。

KT

2015年6月22日月曜日

学説紹介 軍事学は戦争を称揚せず、ただそれを理解する


軍事学について話していると、それを学ぶことで戦争や武力の行使、戦争を是認する思想に染まるのではないかという疑問を投げかけられることがあります。
これは非常に率直な疑問であり、また日本における軍事学に対する見方をよく表していると思いました。

そこで今回は、クラウゼヴィッツの学説を参照しながら、この疑問に次のように答えたいと思います。つまり、たとえ軍事学を学んだとしても、無条件に武力紛争や軍備拡張それ自体を支持するような極端な考えにはならない、ということです。

クラウゼヴィッツの研究成果で最も重要なものは、戦争が政治の手段であって、それ自体が目的ではありえないという従属的性質を論証したことであり、これが現代においてもなお妥当性を失っていないと考えられています。
「戦争は、政治的行為であるばかりでななく、政治の道具であり、彼我両国のあいだの政治的交渉の継続であり、政治におけるとは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。してみると戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争に置いて用いられる手段に独自の性質に関するものだけである」(クラウゼヴィッツ、1968年、上、58頁)
これは軍事学の最も基本的な考え方であり、議論の出発点であるとも言えます。

国際関係はアナーキーですので、それぞれの国家の利害が対立した場合にそれを包括的に解決するために強制力を行使する政治機構は存在していません。
そのため、各国は外交だけに頼るのではなく、自国の政策を自力で遂行する最後の手段として武力を準備し、必要があればそれを行使するものと考えられます。

しかし、だからといって軍事学の理論が常に論理的必然として戦争の開始を是認し、武力の行使を推奨するわけではありません。なぜなら、戦争は政治の手段であり、軍隊は戦争を遂行する手段に過ぎないためです。

もし敵国の進攻を自国の国力で防止することが不可能であると信じるに足る十分な証拠が存在するならば、たとえ領土の防衛を政策目的としていても、軍事学の研究として武力紛争や軍備拡張によって政治的目的を達成することは非現実的である、という結論に至ることは間違った推論とは言えません。
これは戦略的な降伏論であり、抵抗の不可能性という問題は軍事上の検討に値する論点です。

もう一つ興味深いクラウゼヴィッツの議論があります。彼は学問の本旨は行動を指示することではなく、考察を深めて知性を訓練することであると考えていました。
「戦争を構成している一切の対象は、一見したところ錯綜しておよそ弁別しにくいにもかかわらず、もし理論がこれらの対象をいちいち明確に区別し、諸般の手段の特性を残らず挙示し、またこれらの手段から生じる効果を指摘し、目的の特質を明白に規定し、更にまた透徹した批判的考察の光りによって戦争という領域をあまねく照射するならば、理論はその主要な任務を果たしたことになる。そうすれば理論は、戦争がいかなるものであるかを書物によって知ろうとする人によき案内人となり、至る所で彼の行く手に明るい光を投じて彼の歩みを容易にし、また彼の判断力を育成して彼が岐路に迷い込むのを戒めることができるのである」(同上、172-173頁)
ここでクラウゼヴィッツは軍事学の趣旨を巧みに要約しています。
軍事学の目標としていることは、単純に戦争を肯定し、武力を称賛することではありません。
極めて複雑な社会的、政治的現象である戦争を理解するために、有益な概念やモデルを理論的に整理し、発展させることを通じて、専門家だけでなく多くの人々がこの問題について考えることを可能にすることが重要なのです。

したがって、軍事学は何らかの思想や行動を押し付けるものではありませんし、そのようなものではあってはなりません。
それは公共にとって有益な知識として社会から尊重されるべきであり、安全保障に携わる人々、そして国民全体の判断力を高めるために大いに活用されるべきものです

KT

参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2015年6月20日土曜日

作戦線を失った部隊は戦略的に敗北している


作戦線(line of operation)は基本的に作戦地域において基地と部隊を結び付ける名目的な線のことを意味しています。後方連絡線(line of communication)とも呼ばれ、軍事学、特に戦略学における基本概念のひとつとして使用されています。

この概念を最初に使用したのはヘンリー・ロイド(1781)という人物であり、18世紀当時の戦争、特に七年戦争を分析することを目的としていました。
「この線(作戦線)の良い選択または悪い選択により、戦争の大部分がほとんど決する。それを間違えれば、あらゆる成功、英知、意思は最終的には無意味なものとなるだろう」(Llyod 1781: 134)
ロイドの作戦線の概念は、その後ジョミニ(1971)の研究に導入されました。
ジョミニはさらに作戦線を単に基地と部隊を結びつけるものとして考えるのではなく、敵をコントロールする決勝点を確保するための作戦行動をも包含する線だと考えました。
この解釈からジョミニはさまざまな戦略を作戦線の方向によって分類することを考察しています。

コックスウェル(1995)の研究では、このような古典的学説を検討した上で、作戦線が基地と部隊の中間を結びつける線であり、部隊が前方へと機動することにより延伸されるものだと論じました。
作戦地域の分類方法についての概念図。
作戦基地によって前方の部隊が支援され、目標へと機動することが可能となる。
矢印の左から見ると兵站がまず実施される(その内部で警備作戦が実施)。
兵站支援を受けて戦場での戦術的行動が前線の部隊により実施される。
最後に作戦地域における機動へと移行している。
この図における作戦線は最初の兵站が実施される領域の中でも作戦基地から部隊までの中間に位置する。
(Coxwell 1995: 30)より引用。
ある作戦地域の中で複数の作戦線を駆使する場合、作戦線は相対的関係から次のように分類することができます。
作戦線の諸形態を表した図。
左上は連続的な作戦線。異なる時間に同じ空間に対して作戦線を集約させたもの。
右上は段階的な作戦線。異なる時間に一連の空間に対して作戦線を指向したもの。
左下は集中的な作戦線。同一の時間移動いつの場所に対して作戦線を指向したもの。
右下は離散的な作戦線。異なる空間に対して同時に作戦線を指向したもの。
(Coxwell 1995: 35)より引用。
このように作戦線を分類すると、戦略を分析する際の基準として参照することができます。

たとえば、朝鮮戦争における仁川上陸作戦の事例に最も適合する分類は第一の連続的作戦線です。釜山方面の韓国軍、米軍の防衛線に対して攻撃を仕掛ける北朝鮮軍の主力に対し、洋上から米軍が背後に進出した戦略の作戦線の形態はよく適合します(Coxwell 1995: 26, 35)。
このように作戦線を理解することで、さまざまな事例で使用されている戦略を単純化し、分析することが可能となります。

戦略家が作戦を指導するためには自らの作戦線を保全することが何よりも重要です。時として後方連絡線つまり作戦線の保全は兵站の問題として理解されることもありますが、そのような理解はロイドやジョミニの理論と矛盾するものです。
いつ、どこに、どのような作戦線を構成するかは戦略家が決定すべき事項であり、それに対して深刻な脅威が及ぶ事態があったならば、それは戦略に問題があったのだと考えなければなりません。

KT

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二正面作戦は本当に不利なのか

参考文献
Lloyd, Henry. 1781. The History of the Late War in Germany, Between the King of Prussia, and the empress of Germany and Her Allies, London: S. Hooper.
Jomini, H. 1971. The Art of War, Griess, T. E., and Luvass, J., eds. Mendell, G. H., and Craighill, W. P., trans. Westport: Greenwood Press.
Coxwell, Charles W. 1995. On Lines of Operation: A Framework for Campaign Design, Fort Leavenworth: School of Advanced Military Studies, U.S. Army Command and General Staff College.

2015年6月18日木曜日

軍事学における兵站とは何か


軍事学の研究においても、兵站という専門用語を定義することは簡単なことではありません。
それは学説によって意味が異なるためですが、陸軍、海軍、空軍によっても意味合いが異なることも関係しています。
しかし、今回は兵站を理解する出発点として、19世紀の学説を中心に兵站の概念がどのように考えられてきたのかを整理してみたいと思います。

19世紀の軍事学の研究に大きく寄与したアントワーヌ・アンリ・ジョミニの説によれば、兵站は部隊を移動させる戦争術の一種であり、戦略と戦術に並ぶ戦争術の第三の部門に位置付けられています。
その具体的な内容について見てみると、18に区分された上で説明されています。

その説明の一部だけを取り上げると、兵站は軍を移動させて作戦行動を開始するために必要な物資の調達、管理や、現地で必要な情報資料を獲得するための偵察、部隊を行進させるために前衛、後衛、側衛などを適切に組織すること、宿営地を開設して部隊を休息させることや負傷者を病院に収容することなどを含んでおり、以上を実施するために必要な計画立案も意味します(Jomini 1862: 254-256)。

これだけ見ても、兵站=補給と断言することは間違っていることが分かるかと思います。兵站は作戦行動に必要な準備の一切を含むものであり、少なくとも理論の上では補給はあくまでも兵站の一機能を果たすものに過ぎません。

クラウゼヴィッツの『戦争論』においても、兵站に関する分析が展開されていますが、ジョミニとは異なる用語で次のようにその重要性を説明しています。
「軍の給養は、近代の戦争においては往時に比して遥かに重要な事項になった。しかもそれは二件の理由による。第一は、一般に近代の軍は、兵数において中世の軍はもとより古代の軍に比してすら著しく巨大になったということである。(中略)第二の理由は、これよりも遥かに重要でありまた近代に特有のものである、即ち近代の戦争における軍事的行動は、以前に比して遥かに緊密な内的連関を保ち、また戦争の遂行に当たる戦闘力は不断に戦闘の準備を整えているということである」(クラウゼヴィッツ、1968:中216)
クラウゼヴィッツは軍事力を基礎付けている兵站の重要性について特別な注意を払っており、『戦争論』では物資の調達や輸送の問題について興味深い記述が多数見られます。
例えば、遠征における物資の調達に当たっては、現地の自治体を通じた徴発、進駐する部隊による徴発、後方に設置した倉庫からの調達などの方法について検討されており、いずれの方法が優れているかが評価されています(詳細は過去の記事「クラウゼヴィッツの兵站学」を参照)。

このように軍事学における兵站という概念には多くの含意があるのですが、20世紀に入るとその複雑さはさらに増すことになります。
特に第一次世界大戦を経験してからは兵站学という研究課題が複雑化し、専門的な調査研究の必要が強く認識されるようになりました。冷戦期においても国家兵站の概念が出されて軍事兵站以外の問題も検討されるようになるなどの進展が見られます。

兵站の問題は広く簡単に論じ切れるものではありません。現代の国家安全保障を考えるためには、兵站=補給という考え方を捨て、より幅広い観点から兵站を捉える視野の広さが求められていると思います。

KT

参考文献
Jomini, H. 1854. Summary of the Art of War, or A New Analytical Compend of the Principal Combinations of Strategy, of Grand Tactics and of Military Policy, New York: Putnam.
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2015年6月17日水曜日

軍事学の教材としての兵棋の可能性


SF文学の先駆者として知られるハーバート・ジョージ・ウェルズの著作に兵棋演習、ウォーゲームに関するものが含まれていることはご存知でしょうか。19世紀末に発表された『小さな戦争(Little Wars)』という文献です。
その文献に掲載されている図を見ると、ウェルズが屋内でウォーゲームに取り組んでいたことが分かります。

ウェルズが行っていたのは確かに趣味の延長ではありますが、実際に軍事学を学ぶ上で兵棋は非常に有益なアプローチの一つと言えます。
ある事例を図上に表示することで、単に文献の上で事実を個別に確認するだけでなく、全体的な相互関係を理解することも可能であり、条件を変化させることで結果がどのように変化しうるかを考察することの手助けにもなります。

今回は、ある作戦について研究するために、私が学部生の頃に主催していた研究会で個人的に使用していた兵棋演習の実施規則を紹介してみたいと思います。

兵棋を実施する場合、研究したい作戦の全体像を明確化するために、次の情報を整理しておきます。

  1. 交戦する両軍の部隊の構成と初期の配置(武器の威力は運用致死指数(OLI)に換算して定量化しておきます。参考数値として第一次世界大戦の小銃は1.2、機関銃は14.0、迫撃砲は200.0、火砲(平均値)は1,600、戦車は150、航空機は140、各部隊の武器の保有量に威力を掛け合わせます)
  2. 部隊の行動に影響を与える地形。(運用する部隊の規模にもよるのですが、師団の行動であれば2万5000分の1の縮尺の地形図が望ましいです。歩兵と戦車について言うと、樹木が高密度で分布する険しい山地(歩兵×0.4、戦車×0.2)、樹木が乏しく起伏がある平野(歩兵×1.0、戦車×1.0)、市街地(歩兵×0.7、戦車×0.7)など先ほどのOLI換算の勢力に影響を与える地形情報が特に重要です。)
  3. 防御者が利用可能な河川、地雷原などの障害の機能と構成。(地形の情報と併せて必要となります。断崖がない河川だと幅が20メートルの場合攻撃者の部隊は×0.9、100メートルになると0.8、500メートル以上だと0.7を掛けます。地雷原を前進する場合には面積で考慮し、100平方キロメートルの地雷原を前進する場合には攻撃者は×0.9、200平方キロメートルの場合には×0.8、500平方キロメートルの場合は×0.7を掛け合わせます)
  4. 攻撃者の作戦行動に関する情報。(作戦計画において達成するべき目標、部隊が前進に使用する経路と到達予定の時間、各時点での各部隊の位置関係、一連の攻撃における予備の位置関係とその行動について考えます。ただし、攻撃それ自体で勢力が増大されることはありませんので×1.0の補正です。また部隊の前進する速度については20キロメートル/1日を基本に、地形によって補正を加えます。例えば路外での機動であれば×0.6の補正を加え、路上での機動なら×1.0として処理します)
  5. 防御者の作戦行動に関する情報。(作戦計画において達成すべき目標、防御者の陣地の位置関係、各陣地における部隊行動の選択(防御か遅滞行動か)、各陣地の相互関係における部隊行動の選択(遅滞行動か、退却か)防御者の行動によって部隊が実際に発揮できる勢力は大きく変化します。例えば要塞による防御だと×1.6、その他のよく準備された野戦陣地で×1.5、応急的な防御陣地で×1.3の補正があります。退却を選択する場合も×1.2を掛け合わせて計算します)

以上の基本的な情報が得られると、戦闘地域の各地点で発生する交戦の勝敗を判定することができます。

演習の目的や演習員の能力などにもよるのですが、もし対抗形式で実施する場合には4と5について演習員に作戦命令をそれぞれ提出してもらい、その命令を統裁する要員の方で計算して戦闘結果に反映させます。

例えば、防御者の初期の部隊配置に対して攻撃者が二方向から攻撃を実施することを決心したとします。
攻撃者を担当する演習員はどの部隊を指定し、どこに対して、どの時期に攻撃を開始するかを検討した上で統裁担当者にメモの形で提出しておきます。一回の行動で前進する距離や前進する経路をどのように指定するかによって、敵の主抵抗線を突破するのか、それとも側面に進出して包囲するのかを表すことができます。

それに対して防御者は攻撃者の可能行動を判断した上で、利用可能な部隊を前線にどの程度の割合で配備し、どれだけを予備として残しておくのかを決定します。また、どの防御陣地を放棄し、どの防御陣地を保持するのか、予備として拘置した部隊を使ってどのような反撃を実施するのかによって機動防御か、地域防御かを決定します。
こうした両者の意思決定を集約した上で、統裁を担当する要員は戦場の各地点における勢力比を計算し、勝敗や損害を判定します。

この演習規則は一見すると計算規則がすべてのようにも見えるかもしれませんが、実際に対抗演習が始まると判断が難しい状況が数多く出てくるため、統裁担当者としての定性的な判断が要求される場合も出てきます。

例えば、OLI換算で120の部隊(歩兵要員100名×小銃の威力1.2)が平地で陣地防御の態勢(×1.5)にあるOLI換算120の部隊(歩兵要員100名×小銃1.2)を攻撃した場合には攻撃者の勢力/防御者の勢力=120:180となりますので、勢力比は0.6667であるため、この攻撃は失敗すると判定します。
しかし、随伴する歩兵もない戦車(OLI換算150)が1両しかその陣地に配置されていない場合にも同様に攻撃は失敗するという計算になってしまいます。

これは非常に非現実的な結果となりますが、その理由は戦術単位とは無関係に戦車を1両だけ陣地に残すような運用それ自体がありえないためです。こうした場合には演習員に対して当初示された部隊の構成を遵守するように指示し、理解が不徹底であれば改めて説明することが統裁上必要です。

もちろん、このような演習規則は各人の判断で修正を加えることはできますし、取り扱う問題の性質によってはそのような修正が必要な場合も出てきます。兵棋演習を統裁するためには相当の軍事知識が必要とされますが、それだけに軍事学に対する研究心を高める上で大きな効果を発揮する手段であり、優れた教材として大いに利用されるべきだと思います。

KT

2015年6月13日土曜日

いかに陸軍の戦闘陣形は拡大してきたか


戦闘陣形(battle formation)は作戦地域において部隊の配置、展開を規定するものであり、戦術的な分類としては縦陣や横陣、斜行陣などの種類があります。
しかし、今回は戦術上の戦闘陣形ではなく、戦略単位となる部隊、つまり師団以上の規模の部隊が採用する陣形について考えてみたいと思います。

古代から現代にわたる戦闘陣形で最も顕著な変化は、時代が下るにつれて兵士の密度が低下する傾向です。

先行研究によれば、古代の陸軍で100,000名の兵士が戦場に展開する場合、その正面はおよそ6.67キロメートル、縦深は0.15キロメートルほどでした(Dupuy 1985: 28)。
このような戦闘陣形が採用されていた理由としては、古代から中世にかけての部隊行動では白兵戦闘能力が重要視されていたことが挙げられます。

白兵戦闘では交戦距離が1メートル以下となりますので、兵士各人の側面や背後を相互に掩護するためには部隊を密集隊形にまとめておく必要がありました。さらに加えると、部隊の指揮官が部下の状態を掌握する上で、兵士たちをまとめておくことのほうが望ましいという理由も挙げられます。

しかし、火器の導入によってこうした戦闘陣形には問題が出てきます。

兵士たちが部隊として密集していると野戦砲やマスケットで射撃を受けた場合に損害を受けやすく、例えば野戦砲が部隊に対して一発の命中弾を送り込むと縦に並ぶ兵士たちが一度に吹き飛ばされるという脆弱性が認められました。
こうした理由から、ナポレオン戦争の時代には100,000名程度の部隊が展開した正面は2.5キロメートル、縦深は8キロメートルにも拡大していきます(Ibid.)。
これだけの空間に部隊が展開すると、25.75平方キロメートルが占有される計算となります。

さらに第一次世界大戦の時代に移ると100,000名の展開する空間の広さはさらに拡大しました
正面は20,83キロメートル、縦深は12キロメートルに達しました。これらの数値から計算すると、部隊が占有する面積は247.5平方キロメートルにも及びます。
この時期に導入された機関銃、戦車、航空機、化学武器などに対処するためには、部隊を戦場に分散させることが必須の条件となっていました。
現代の私たちがイメージする陸上作戦の原型はこの時期に出現していたと考えられます。

しかし、より厳密に言えば現代的な陸軍の戦闘陣形が形成されたのは第二次世界大戦以降のことでした。
第二次世界大戦で100,000名の部隊が占有した空間を見てみると、およそ正面50キロメートル、縦深60キロメートルであり、3,100平方キロメートルに兵士たちが展開するようになっています(Ibid.)。
これを第一次世界大戦の戦闘陣形と比較すると、部隊が占有する空間の広さは10倍以上にまでになりました。

このような戦闘陣形の変化を理解するために、以前の記事で紹介した理論致死指数の知識を使ってみましょう。
理論致死指数は1時間以内に殺傷可能な武器の能力を表す指数です。この指数は100,000名の部隊が占有する面積が1平方キロメートルであることを想定するものです。そこで次の関係式が成り立ちます。
武器の理論致死指数/100,000名の部隊の展開面積(平方キロメートル単位)=武器の運用致死指数
この計算を行うと、同一の武器を使っても時代によって戦場で発揮可能な威力が変化するということを説明することが可能になります。

ここでAK47を持った兵士が古代ギリシアの時代、ナポレオン戦争の時代、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦でどれだけの敵を殺傷することが可能だったのかを仮想的に考えてみます。

武器の性能諸元の詳細についてはいろいろなデータがありますが、ここでは射撃速度1200発/毎時、威力範囲1名、殺傷性0.8、初速730メートル/毎秒、口径7.62、正確性0.8、信頼性0.8で計算します。

まず古代ギリシアの陸軍に対して使用される場合、100,000名の部隊が展開する面積はおよそ1平方キロメートルですので、理論致死指数866/1=866と求められます。つまり、古代の戦闘において1時間にAK47で殺傷可能な敵の人数は866名ということになります。
これはAK47を装備する歩兵が100名いれば、古代の地上部隊86,600名の兵士を1時間以内に戦闘不能に追い込むことが技術的に可能であることを意味します。

ナポレオン戦争の時代に使用されると、100,000名の部隊が展開する面積は20平方キロメートルであるため、866/20=43となります。戦闘陣形の変化だけで同一の武器でも戦場での威力が低下する関係が分かります。
第一次世界大戦になるとこの関係はさらに顕著に確認されます。100,000名の部隊の展開面積は250平方キロメートルであり、AK47の運用致死指数は866/250=3.4でしかありません。しかも、第二次世界大戦で考えると866/3000=0.2と計算することができます。

以上から、戦場における小銃の実質的な威力が戦闘陣形の発達によって大きく変化することが分かるのではないでしょうか。

時代によって陸軍の戦闘陣形が拡大することにはさまざまな理由があるのですが、火力の増大に対処することは重要な理由の一つであり、兵士たちを広く分散させるほど、敵の武器によって受ける損害を低下させやすくなるのです。

KT

参考文献
Dupuy, Trevor N. 1985. Numbers, Predictions and War, Fairfax: HERO Books.

2015年6月12日金曜日

ガリポリでチャーチルは何を間違えたのか

ガリポリの戦いでオスマン軍の防御陣地に突撃する豪軍の歩兵部隊。
第一次世界大戦の歴史に残る作戦の一つにガリポリの戦いがあります。
これは1915年2月から1916年1月にかけてドイツ、オーストリアと同盟関係にあったトルコとイギリス、オーストラリア、ニュージーランドとの間で発生した戦闘であり、この作戦構想を当時最も強く主張していたのはウィンストン・チャーチル(当時海軍大臣)はこの作戦を遂行することによって当時のヨーロッパ方面で膠着した戦局を転換させることを目指していました。

しかし、トルコ軍の抵抗によってイギリスは思うように部隊を前進させることができず、最終的にはこの正面から部隊を撤退させています。

チャーチルはこの作戦の失敗で強い非難を浴びることとなり、海軍大臣の地位を失うことになってしまいました。確かにガリポリの戦いは損害に対して戦果に乏しい作戦であったことは事実です。しかし、チャーチルが主張した戦略それ自体が間違っていたのかどうかは検討する価値があります。

第一次世界大戦に関する著述を読むと、当時チャーチルが重視していた戦略の原則が次のようにまとめられています。

  1. 勝敗を決する決定的な戦域は、いついかなる時でも、その地域において決定的勝敗が決着する戦域を指している。これに対して主要な戦域は大規模な軍隊や艦隊が展開されている戦域を指している。主要な戦域が常に決定的な戦域であるとは限らない。
  2. 敵の正面部隊や主力を突破することが不可能な場合、敵の側面を迂回して後方に進出しなければならない。もし敵の側面が海岸に接しているならば、敵の側面を迂回して後方に進出する機動作戦は海上勢力に基づいた水陸両用作戦でなければならない。
  3. 敵の最も無防備な戦略要点を攻撃目標として選択する必要がある。敵が最も強固に守備する戦略要点を攻撃目標に選択してはならない。
  4. 複数国と同盟を結成する敵と対抗する場合、その中で最も強力な国家を直接的に打倒することができないことが明確であり、かつその強大な国家が最も弱小な同盟国の支援がなければ戦争を遂行不可能であることが明確な時には、何よりもまず最も弱小な同盟国に攻撃を仕掛けるべきである。
  5. 陸上戦闘で攻勢を実施するために必要な効果的手段が見出されるまで、攻勢は開始するべきではない(Churchill 1923: Vol. 2. p. 21)。

ガリポリの戦いを決断したチャーチルの戦略を支えていた考え方がここに要約されています。
その内容を検討すると、戦略の原則に合致している部分とそうではない部分があることが分かります。

まず、敵国の戦略正面を無理に攻撃するのではなく、側背の方向に向けて自国の軍隊を前進させる考え方自体は、戦略の原則と矛盾しているわけではありません。
チャーチルの第三の原則で述べられていることは、敵を正面から攻撃するよりも側面または背後から攻撃する可能性を追求すべきということです。
敵国が防衛線を準備している戦略正面を迂回することができるのであれば、それは攻撃者にとって常に有利な戦果をもたらすと言えます。

しかし、チャーチルがこの原則をさらに拡大解釈した上で、敵国の側面・背後に部隊を前進させるために、水陸両用作戦さえも実施するべきであると主張している点には議論の余地があります。
「もし敵の側面が海岸に接しているならば、敵の側面を迂回して後方に進出する機動作戦は海上勢力に基づいた水陸両用作戦でなければならない」という部分がそれに該当します。

これには陸上作戦と海上作戦を一体的な作戦として見なす統合作戦の考え方を明確に示しており、評価すべき考え方が見出されます。

しかし、チャーチルは自分の戦略が外線作戦を前提とすることを十分に認識しておらず、事実、外線作戦の危険についての考慮は不十分です。
(複数の方向から同時に敵国に対して攻勢に出る作戦は我の作戦線を外方に置くことを意味します。このような作戦を外線作戦と言います)

一見すると、外線作戦は敵を複数の方向から包囲しているように見えますが、基本的に包囲は狭い戦場に適用される戦術概念です。したがって、広い地域での部隊の運用を考える戦略にそのまま応用してはいけません。なぜなら、ある正面での戦果を上げたとしても、それが他の正面での戦況に影響を及ぼすまでには時差があるためです。

この時差があることで防御者は一方の正面で攻撃を受けたとしても、そちらでは最小限度の部隊を残して守備に当たらせて時間を稼ぎ、主力をもう片方に集中させることができます。主力を集中させて片方の脅威を排除した後に、改めて当初の正面に主力を戻すことができれば、攻撃者はその部隊を無駄に分割して各個に撃破されたことになります。

実際、トルコが攻撃を受けると、ドイツはブルガリアの参戦で開通した経路を利用して増援を派遣する態勢をとりました。このことで、ドイツはイギリスに対して作戦線を内方に保持することが可能となります。このことは、ガリポリからの撤退を決断する重要な要因ともなりました

チャーチルが強調した戦略上の原則は個別に見れば間違っていませんが、全体としてみるとごく一部の戦略の原則しか取り上げていません。
戦力を節約することや、行動の協調を図ることなど、戦略には他にも重要な原則があるのですが、こうした原則はチャーチルの戦略的思考では重視されていなかった、あるいはごく部分的にしか理解されていなかったのではないかと思われます。

参考文献
Chuchill, W. S. 1923. The World Crisis, London.

2015年6月10日水曜日

アウステルリッツ会戦におけるナポレオンの戦争術

アウステルリッツ会戦でのナポレオンを描いたFrançois Gérardの作品。
長い戦争の歴史を見渡しても、ナポレオンほど有名な将軍を見出すことは難しいでしょう。
当初は革命軍の指揮官として登場した彼は、優れた戦略、戦術を駆使して数々の困難な作戦を成功に導き、政略的にもフランスの最高権力者の地位を獲得するに至りました。

ナポレオンの才能は確かに突出していたかもしれませんが、後世の後知恵で見れば、当時のナポレオンの軍事的才能はしばしば過大評価のようにも見て取れます。
恐らく事実ではないでしょうが、英国の将軍ウェリントンは宿敵であるナポレオンについて「戦場に彼が存在すれば、それは40,000名の兵士に匹敵する」と述べたとの逸話があります。
しかし、そのようなことが果たして実際にはあり得るのでしょうか。

今回は、アウステルリッツ会戦の事例を取り上げて、ナポレオンが存在することが果たして40,000名の兵員に匹敵するかどうかを検討した分析を紹介したいと思います。
ここで紹介するモデルは定量判定モデルと呼ばれるもので、双方の部隊の規模だけでなく、武器の威力を定量化し、さらに地形、気象などの作戦に影響を与える要因を定量化することで、戦闘結果との関係を分析するものです。

アウステルリッツ会戦は1805年12月2日にナポレオンが指揮するフランス軍と、ロシア・オーストリア連合軍の戦いであり、フランスの勝利に終わりました。この会戦の基本的なデータは次の通りです。

フランス軍
 歩兵43,000名
 騎兵22,500名
 砲兵9,300名
 大砲225門
 総員75,000名
 損害7,000名
 前進距離7.5キロメートル

連合軍(オーストリア、ロシア)
 歩兵62,500名
 騎兵14,250名
 砲兵12,250名
 大砲225門
 総員89,000名
 損害27,000名

以前に紹介した致死指数の考え方を応用すると、当時の兵士が使用していたマスケットの威力は2.2、騎兵銃は1.5、サーベルは1、砲兵のグリボーバル野砲は47と求めることができます。さらに、戦場の地形は起伏を伴う複合的な地形であり、さらに冬季で気温が低かったことを考慮に入れると次の分析結果が得られます。

フランス軍の勢力140,054=徒歩要員の戦力+大砲の戦力+騎兵の戦力
徒歩要員の戦力=43,200(砲兵含む)×2.2(武器威力)×0.9(地形効果)
大砲の戦力=225×47(武器威力)×0.9(地形効果)
騎兵の戦力=22,500×2.5(サーベルと騎兵銃の威力の合計)×0.8(地形効果)

連合軍の勢力163,460=徒歩要員の戦力+大砲の戦力+騎兵の占領
徒歩要員の戦力=62,500×2.2×0.9
大砲の戦力=265×47×0.9
騎兵の戦力=14,250×2.5×0.8

この数値の比較だけだとフランス軍は火力に劣りますが、さらに彼我の機動力要因を加えて分析するとフランス軍は騎兵が多い関係で1.0997倍の補正が加わるため(計算省略)、フランス軍の実質的な勢力は154,017となります。しかし、これでも連合軍の163,460には及びません。(フランス軍/連合軍の勢力の比率は0.94)

両軍の損害の比率や戦果としてフランス軍が前進した距離、任務の達成度を総合した上でデュピュイはナポレオンの戦果を12.2128、連合軍の戦果を1.2474と評価していますが、一般的傾向としてこれだけ圧勝している場合には双方の勢力の比率は3.69±1だと考えられています。

これはアウステルリッツ会戦に使用された両軍の戦力と、戦闘の結果には一般的規則大きな隔たりがあることを意味しています。両軍の勢力を見るとフランス軍は連合軍に対して実質的には94%の勢力しか持っていません。
しかし、戦闘結果から計算してみるとフランス軍は連合軍に対してより大きな勢力を持っていたはずなのです(3.69-0.94=3.93の相違)。
定量判定モデルは17世紀以降における400件以上の軍事行動の統計的分析に基づいているため、この分析結果を簡単に何かの間違いとして片づけることはできません。

ここでデュピュイはフランス軍の優位を説明するためには、この会戦に参加したフランス軍の部隊の戦闘経験が豊富であること(1.2倍)、会戦の0800時にフランス軍が連合軍の中央を撃破して緊要地形であったプラッツェン高地を奪取したことによる奇襲効果(1.6倍)、そしてナポレオンの的確な戦機の捕捉と指揮官としての能力(1.9倍)を考慮せざるを得ないという判断を下します。

これらの要素を考慮すれば、1.2×1.6×1.9=3.65であるため、フランス軍が連合軍に対してあれだけの戦果を上げることができたことが論理的には説明可能となります。
以上がデュピュイによる分析の概要ということになります。

分析の始めではデュピュイはナポレオンが存在することそれ自体を戦力と見ることはしていませんが、分析の結果として1805年のアウステルリッツ会戦では60,000名の兵士を加算した場合と同じだけの影響があったと見なさざるをえませんでした。それだけアウステルリッツ会戦でのフランス軍の勝利は決定的なものであったことが言えます。

今回の記事では専門的な計算についてはかなり省略したつもりですが、それでも複雑な内容になってしまい申し訳ありません。
今回のポイントは、アウステルリッツ会戦でナポレオンが手にした勝利の大きさは、実際に戦場で使用されたフランス軍の勢力から考えると、ほとんど「異常値」とも呼べるほどの水準だったということです。
計量的な分析にかけると、ナポレオンの戦争術の優秀さは、より一層際立って観察できるのではないでしょうか。

KT

参考文献
Dupuy, Trevor N. 1968. The Battle of Austerlitz, New York: Macmillan.
Dupuy, Trevor N. 1985. Numbers, Predictions and War, Fairfax: HERO Books.

2015年6月9日火曜日

戦術研究 ニーウポールト会戦

ニーウポールト会戦(1600年7月2日)
戦闘の背景について
16世紀のオランダはヨーロッパで最も経済的に繁栄していた地域の一つでしたが、スペインの国王フェリペ二世の統治に対する政治的反発が日に日に増していました。オランダの南部諸州ではカトリックが依然として信じられていましたが、北部諸州でプロテスタントが増加していました。そのため、カトリックを擁護するフェリペ二世は、北部諸州におけるプロテスタントの勢力に対する締め付けを強化し、これに反発する形でオランダが独立戦争を引き起こしたのです。

1600年7月1日、オランダ軍はフランドル地方の一都市を攻囲していたスペイン軍の部隊を撃退し、さらに次のスペイン軍の攻撃目標と見られていたニーウポールトに向けて前進を開始します。
しかし、この時点でスペイン軍はすでに前進を開始していました。オランダ軍は予想と異なるニーウポールト付近の地点でオランダ軍とスペイン軍が対峙するに至りました。
当時、オランダ政府がスペインの支配下にあったフランドル地方を占領するために、オランダ軍を進攻させていたため、戦略的にはオランダ軍が攻勢、スペイン軍が防勢の立場であったと言えます。

オランダ軍の指揮をとるのは軍制改革の推進者として知られるマウリッツ・ファン・ナッサウであり、これに対抗するのはイギリスとの戦争でもその軍功が知られていたスペイン領ネーデルラント総督のアルブレヒト七世でした。
テルシオと呼ばれる方陣を組んだ時に発揮されるスペイン軍の歩兵部隊の粘り強さをマウリッツはよく心得ていました。何か手立てを打たなければ、強固な敵の陣形を崩す前に、味方が疲弊してしまいかねません。
そのため、マウリッツは砲兵の火力を有効に活用する必要がありました。とはいえ、当時の砲兵は射程が短く、精度も悪いため、敵と味方がある程度接近した後でなければ有効な射撃は期待できません。
そのため、マウリッツが注意すべきことは、敵の動きをよく把握し、味方の砲兵の火力を発揮しやすい状況を作り出すことにあったと言えます。

戦場の特性、戦力の規模、戦闘の経過
季節は夏、日差しが照り付けますが、暑さはそれほどではありません。
戦場は海岸付近の地域であり、その日は午前中に潮汐の変化が生じることが予測されました。内陸方面には起伏を伴う砂丘であったので、両軍が部隊を展開させることが可能な平坦な地域はそれほど広くありませんでした。そこでオランダ軍の部隊はおよそ0.9キロメートルの正面を確保し、陣形を整えます。

彼我の勢力を比較すると、オランダ軍の部隊は総員11,500名、そのうち騎兵部隊1,500名であり、8門の火砲を配置させていました。これに対するスペイン軍の勢力もほぼ同数でした。総員11,300名、騎兵は1,400名、火砲については6門を運用していました。ややスペイン軍の戦力が劣勢と言えますが、それほど大きな劣勢とは言えません。

これだけの規模の部隊を戦闘の配置につかせるためには、どのような指揮官であっても数時間を必要とします。しかし、マウリッツは戦闘の序盤から積極的にアルブレヒト七世の動きを妨害して、その態勢を崩すことを図りました。
早朝、両軍が行動を開始すると、マウリッツはオランダ軍の正面に展開しようと戦場に架かる橋から渡河しようとするスペイン軍に対し、2,500名の部隊で攻撃を仕掛けます。
当時の会戦の状況図。右側がオランダ、左側がスペイン。
上の図が前半の状況であり、戦場に進出するため橋を渡るスペイン軍をオランダ軍の一部の部隊が攻撃している。
この攻撃はスペイン軍の前衛である騎兵部隊によって撃破されてしまいますが、マウリッツは潮汐に変化が生じる午前8時まで時間を稼ぐことができました。
午前8時から12時にかけて海面が上昇し始めると同時に、戦場の沖合に展開していたオランダ軍の艦隊は沿岸に艦砲射撃でスペイン軍に対して若干の損害を与えています。この陸軍と海軍が協同一体となった阻止はアルブレヒト七世をいらだたせました。

ようやく渡河を終えて展開したスペイン軍でしたが、海面の上昇によって次第に砂浜から追いやられていきます。オランダ軍も部隊を移動させ、戦闘は平坦な地形から起伏の多い砂丘で行われるようになり、各所で本格的な衝突が始まりました。
しかし、アルブレヒト七世はここからスペイン軍を積極的に動かし、オランダ軍の正面を圧迫していきます。戦機を見て予備の騎兵を投入した際には、オランダ軍の一部の部隊を退却させることに成功しました。マウリッツはスペイン軍が戦果の拡張を図ると判断し、味方の砲兵に前進してきたスペイン軍の部隊の突撃を破砕せよと命じました。

このオランダ軍の砲撃でスペイン軍の部隊の勢いが失われると、すでに数日間の行進で疲労していたスペイン軍の一部が列を乱して敗走を始めてしまいます。すでに予備の兵力である騎兵を使っていたため、スペイン軍はここから戦局を挽回することは極めて困難な状況でした。ここから戦闘は終盤に入りましたが、賢明なことに、この戦闘で勝利はないと判断したアルブレヒト七世は直ちに後退行動に部隊の行動を切り替えました。マウリッツは全軍でもって戦場内での追撃を実施しようとしますが、アルブレヒト七世によって遅滞戦闘に持ち込まれてしまいます。

その日の戦闘が終わってみると、マウリッツの損害はおよそ4,000名と火砲8門でしたが、アルブレヒト七世の損害はおよそ1,000名に止まりました。
砲兵の集中運用によってスペイン軍の猛攻を跳ね返したマウリッツでしたが、敗走が始まってからのアルブレヒト七世の指揮はオランダ軍の追撃を困難にしました。この日の戦闘で勝利したのはマウリッツでしたが、戦略的観点から見れば、アルブレヒトはまた日を改めてオランダ軍と戦うことができるだけの兵力を温存することができたのです。

戦術の考察
この事例で興味深いのは、潮汐の変化すなわち海面上昇を利用して敵の部隊を所望の地点に誘導したマウリッツの戦術です。
砂丘の起伏は部隊の機動力を低下させる効果が期待されます。スペイン軍の部隊が大規模な攻撃を仕掛けてきた際に、もし平坦な地形であれば、攻め手はオランダ軍の戦列に到達してしまいます。これれでは最も正面に展開する砲兵は射撃の機会が限られてしまうため、砲兵火力を最大限に発揮することができません。

また、せっかく勝利したオランダ軍の追撃が不成功に終わった理由について述べると、アルブレヒト七世の戦場離脱が的確であっただけでなく、オランダ軍の兵站支援が限界に達していたという見方もできます。オランダ軍は戦略的に攻勢の立場であったため、スペイン軍よりも遠い場所に兵站基地を置かざるを得ませんでした。敵地の奥深くに追撃するとなれば、オランダ軍の後方連絡線をさらに延伸する必要があります。しかし、マウリッツとしてはそれは戦術的な戦果を犠牲にしてしまう恐れもあったため、スペイン軍を追跡することは難しかったと考えられます。

KT

参考文献
Bodart, Gaston. 1908. Militär-historisches Kriegs-Lexikon, 1618-1905, Wien und Leipzig: C. W. Stern.

2015年6月6日土曜日

オランダの独立を可能にした軍事革命

1574年、八十年戦争でのライデン攻囲戦を描いた絵画。
このスペインの攻囲に耐え抜いたライデンにライデン大学が設置される。
Otto van Veen(1574 - 1629)作
今回は、国家が存亡の危機に直面した時、研究者ができることが何なのかを私自身考えさせられたオランダの軍事革命の歴史を紹介したいと思います。

この話は1568年にスペインに対してオランダが独立を求めて武装蜂起したことにまでさかのぼります。この反乱は後に八十年戦争と呼ばれることになり、休戦を挟みながらも1648年まで続きました。
開戦当初、オランダ軍はスペイン軍に対して劣勢な状況だったのですが、その最大の理由は当時のオランダ軍にはスペイン軍の優れた戦術に対抗する手段がなかったためでした。

当時、スペイン軍はテルシオと呼ばれる野戦方陣に基づく戦術を完成させていました。
テルシオというのは槍兵を中央に配置し、正面にアルケブス小銃を持つ小銃手、そしてそれ以外の側面をマスケット小銃を装備する小銃手を配置した横陣の戦闘陣形だと考えて下さい。
一つのテルシオはおよそ200名の中隊規模で構成され、特に防御戦闘で有効な縦深が十分確保されているため、オランダ軍が白兵戦闘でテルシオを敗走させることは至難のことでした。

戦局が好転しない中で1588年、オランダの最高指導者の地位についたマウリッツは、スペイン軍の戦術を打破するためには、陸軍を改革する必要があると判断します。そして、その改革の方針を定めるに当たって研究プロジェクトを立ち上げることを決定しました。

マウリッツは研究プロジェクトを立ち上げるに当たって、国内の大学から文理両方の研究者を招集し、スペイン軍の戦術に対抗する方法を解明するように求めました。
この研究プロジェクトの方向性に当初から大きな影響を及ぼした研究者がリプシウス(Justus Lipsius)という政治哲学者でした。

リプシウスは政治学を専門とするライデン大学の教授でしたが、古代ローマの軍事思想に関する知識がありました。
そこでスペイン軍の戦術を研究するに当たっては、古典時代以降の軍事思想を再検討する必要があると判断し、ウェゲティウスなどの文献に関する調査を行っています。
さらに、当時まだ普及から間もない小銃や火砲の研究も並行して進められ、研究者たちはそれぞれの知見に基づいて、オランダの軍制改革を方向付ける概念設計を進めていきました。

こうして提出された報告書には従来の軍事思想を一変させる画期的内容が盛り込まれていました。
すなわち、白兵戦闘に特化したスペイン軍のテルシオに対抗するためには、火力戦闘に特化した戦術を導入すべきと主張されていたのです。
15世紀初頭にヨーロッパでは火器が導入されつつありましたが、当時の戦場ではもっぱら白兵戦闘が中心的でした。
この報告書はこうした従来の軍事思想を捨てて、火力戦闘を戦術の中心に据えることを提唱するものだったのです。

マウリッツはこの報告を受けて1589年から軍制改革を本格化させます。改革の要素はさまざまでしたが、最終的に完成されたオランダ軍の新しい戦闘陣形は次のようなものとなりました。
灰色は槍兵、赤色はマスケット小銃手
左が横陣に展開したもので、右が縦陣に展開したもの
この陣形に展開する部隊規模は500名程度から成る大隊
上記の図から分かるように、オランダ軍は槍を装備する歩兵よりも小銃を装備する歩兵の割合を多くしています。マスケット小銃手の中隊2個、槍兵の中隊1個、合計3個の中隊で1個の大隊を編成します。こうした陣形自体が当時としては異色のものであったと言えます。

興味深いのは、テルシオにはない戦闘陣形の転換が組み込まれている点です。これはローマ軍のレギオンの運用と類似する特徴ですが、オランダ軍ではあくまでも火力戦闘に主眼を置かれており、レギオンとは本質的に運用の思想が異なっています。
例えば、この陣形の弱点である騎兵突撃を受ける場合には、マスケット小銃手を槍兵の背後に素早く退避させることが考えられています。

このような戦術が成功するためには、兵士一人ひとりがが迅速かつ確実に部隊行動をこなすことができるように、基本教練を徹底させる必要がありました。
マウリッツはこの戦闘陣形を活用する上で教練の標準化、教範の作成、給与体系の見直し、士官学校の設置、武器の更新などを推進し、新しいオランダ陸軍を作り上げました。
最終的にオランダが独立を勝ち取るのはさらに先の話となりますが、この軍制改革が戦局の転換を可能にしました。

マウリッツの軍制改革は単なる一時代の出来事にとどまるものではありませんでした。世界各地でマウリッツの戦術は研究されることになり、その後の陸軍の歴史に極めて重大な影響を与えています。歴史家はこの改革をもって「軍事革命」と称しています。

当時のオランダの研究者たちは、その専門知識を遺憾なく発揮し、国家の独立を勝ち取る上で重要な貢献を果たしたと思います。そして、その研究成果がその後の陸軍の軍事思想の主流を占めるにまで至ったのです。

KT

2015年6月5日金曜日

ローマの征服を推進した外交術

ポエニ戦争で敗北し、ローマに滅ぼされたカルタゴの遺跡。
ローマ人が国政術、戦争術、外交術を巧みに運用しながら国家を発展させた歴史は、政治学を学ぶすべての人にとって興味深い教訓を与えてくれます。

今回はモンテスキューの著述の一部を取り上げて、ローマが征服を進める上でどのような外交を展開していたのかを説明したいと思います。
大国としての勢力をいかんなく発揮する外交術の一端を垣間見ることができると思います。

そもそもローマは当初、小さな君主政の国家として建国されましたが、共和政に変革されてから次第にその勢力を拡張し、ポエニ戦争でカルタゴに勝利すると東地中海方面の中小国を次々と支配下に置いて勢力圏を拡大させました。

このようにローマが成長することができた要因は、単に物的国力の進展があっただけではありません。そこには周到に計画された政略があったことをモンテスキューは指摘しています。

例えば、ローマ人の戦争の進め方に着目すると、必ずしも自国の軍隊だけで戦おうとせず、同盟国の軍隊を利用することに注意していたことが分かります。自国の国力を温存し、他国の国力で自国の国益を実現しているのです。
しかも、ローマは同盟を結んだ国がわずかでも反意を抱いていることを察知すると、間もなく別の同盟国の軍隊を用いて滅ぼさせるか、その勢力を縮小させていました。モンテスキューは次のように述べています。
「同盟国は敵と戦うために利用された。しかし、まず破壊者を殲滅することが目指された。フィリッポスはアナトリア人を使って打倒されたが、彼らはその後すぐにアンティオコスと同盟したため、滅ぼされた。アンティオコスはロドス人の援助で打倒された。だが、彼らは、素晴らしい恩賞を与えられた後、ペルセウスとの和平を求めたということを口実にそのままずっと一顧だにされない地位に陥れられた」(モンテスキュー、68頁)
モンテスキューの著作では、戦争でローマから休戦を申し入れる場合も、必ず最も弱小な敵国との休戦を優先するようにしたことも指摘されています(Ibid.: 69)。これは、交渉が妥結する可能性が最も大きく、かつ滅亡させる時期を多少先送りにしても軍事的な脅威となりにくいと考えられるためです。

さらに興味深いのは、戦争で勝利を確実にした後のローマの戦後処理です。
ローマの国家政策として、大国としての地位を確実なものとし、その経済的権益を外部へと拡張させ続ける必要があるため、敵国となった民族は滅ぼすか、少なくとも政治的に無力化しておく必要があります。

そのため、ローマの戦後処理では相手の国家を再起不能にする工夫が施されていました。
「ローマ人は、決して誠実な講和を結ぼうとせず、その条約は、あらゆるところに侵入するという意図において、もともと戦争の一時停止にすぎなかったから、その中には、条約を受け入れた国家の破壊につながる諸条件を常に含ませていた。彼らは、要塞から守備軍を撤退させたり、地上軍の員数を削減したり、馬や象を引き渡させたりした。また、相手が海上で強力な民族である場合は、その船舶を燃やすこと、そして時には、内陸深く住むことを強要した」(Ibid.: 70)
こうした措置は相手国の軍備を解体し、引いては国家体制そのものを滅ぼす処置として分かりやすい事例です。また、国家の軍隊を破壊するだけでなく、重い賠償金を支払わせることで相手の財政破綻を引き起こすという政略もしばしばとられました(Ibid.)。

つまり、ローマは同盟国を利用して戦争を始め、新しい同盟国を獲得し、それらの国家に次の戦争のための資金を提供させていたのです。モンテスキューはこのことに触れて、「友好国あるいは同盟国の諸民族は、ローマの好意を維持したり、より大きくするために差し出す膨大な贈り物のために、すべて衰退していった。実際、この目的のためにローマ人に送られた金額の半分でも使えば、彼らを打ち破るに十分であったであろう」と書き残しています(Ibid. 78)。

古代ローマの外交史を読めば、戦争と同様に平和も政略の延長線上にあることが印象付けられるのではないでしょうか。

KT

参考文献
モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』田中治男、栗田伸子訳、岩波書店、1989年

2015年6月4日木曜日

支持基盤理論はいかに政治を説明するか


政治学は統一された総合理論に欠けているところがあると言われることもあるのですが、今回は政治学でも特に大きな射程を持つ支持基盤理論(selectrate theory)の要点を一部説明してみたいと思います。

支持基盤理論の特徴は政治権力をめぐって絶えず権力闘争が発生していることを議論の大前提に置く点です。つまり、政権を維持する側と政権を打倒する側の競合を中心に政治というものを考えようとします。

もし政治指導者として権力者の地位を獲得することができたとしても、その地位は絶えず政敵によって脅かされており、指導者はその脅威に対処することができるように、自分の味方を固めておく必要が出てきます。

そこで政治権力を掌握するためには指導者が依拠する集団のことを、支持基盤理論では勝利連合(winning coalition)、実質的支持基盤(real selectrate)、名目的支持基盤(nominal selectrate)の三種類の集団に区別します。
これらの分類は権力基盤として、どの程度の価値があるかを反映しており、指導者はこれらの集団を巧みに管理することによって政権を安定させることが可能となります。

この中でも特に勝利連合は政権の運営にとって欠かすことができない有力者集団であり、常に味方として引き付けておく必要があります。
第二の実質的支持基盤は政権に影響力を与えることができる支持者の集団のことであり、勝利連合の内部から政敵が出現したために政権から排除した場合、こちらの集団から人材を補充することができます。

名目的支持基盤は形式的には指導者の選出に対して発言権を持っていますが、実際の政権基盤ではない集団をいいます。彼らは参政権は持っており、納税者でもあるのですが実質的な影響力は持っていないので、権力基盤としての価値は限定されています。

このような分類によってさまざまなことが分かります。例えば、政治体制の特徴を比較したり、また政権の安定性を考えることが可能となります。

一般に政権を維持するためには、勝利連合を小さく管理し、反対に名目的支持基盤を大きい維持する方が有利であると考えられています。
なぜなら、名目的支持基盤が大きいと課税対象者も増加して歳入を増やすことができますが、勝利連合が小さいと、内部から政権に拒否権を行使する行為主体を簡単に排除したり、そうした行動を抑制することがやりやすいためです。このことを次のデータから少し考えてみたいと思います。

ブエノ・デ・メスキータが紹介している分析によると、2006年におけるロシアの勝利連合の相対的な大きさは名目的支持基盤、つまり参政権を持つ国民全体の規模、に対して30%弱と見積もられています。また名目的支持基盤の規模は総人口の全体を包括しています(Bueno de Mesquita 2014: 84)。

ロシアと比較してイランの場合を見てみると、名目的支持基盤の規模は総人口のおよそ80%程度になっていますが、総人口に対する勝利連合の規模は5%以下でありロシア以上に権力が特定の人物に集中しやすい政治体制であることが分かります(Ibid.)。
つまり、名目的支持基盤の大きさではロシアの方が優れていますが、勝利連合を小さく管理する点に関して言えばイランの方がより安定性は高いということが言えます。

イランのように勝利連合の規模が小さいだけでなく、総人口に対する名目的支持基盤の相対的な規模も10%以下である国に中国があります。
この国はイランと同程度かそれ以上の権力の集中が見られますが、イランと決定的に異なっているのは総人口の中で名目的支持基盤を構成する住民が限定されている点です。
総人口に対する名目的支持基盤の割合が小さいことは、政権が依拠する権力基盤の下位組織が小さいことを意味しており、特に歳入を拡充しにくい事情を表しています(Ibid.)。

ここで述べたことは支持基盤理論のごく一部に過ぎませんが、政権の運営という観点から政治を考える上で興味深い理論であることがお分かり頂ければと思います。

KT

関連記事
国家の政策を支配する政治の論理

参考文献
Bueno de Mesquita, Bruce B., Smith, A., Siverson, R. M., Morrow, J. D. 2003. The Logic of Political Survival, Cambridge: MIT Press.
※また、本書で使用されているデータ・ソースはThe Logic of Political Survival Data Sourceで参照できる。
Bueno de Mesquita, Bruce. 2014. Principles of International Politics, 5th edition. London: Sage.

2015年6月2日火曜日

米陸軍でのレンジャーの歴史とその伝統

陸上自衛隊にレンジャー課程という教育を修了した隊員がいることは日本でもよく知られていると思います。その教育課程は過酷さを極め、修了者は戦闘員として非常に高い技能を持っていると見なされます。しかし、そもそもこの「レンジャー」とは、どのような歴史的な経緯で発展してきたのでしょうか。

今回は米陸軍の歴史において、レンジャーがどのように成立したのかを説明したいと思います。

アメリカ陸軍の歴史におけるレンジャー
17世紀から18世紀の米国では、インディアンと入植者の間で激しい武力衝突が繰り返し起きていました。
生活集落ごとに民兵で編成された市民軍が創設されていましたが、それは常備軍のような部隊行動をとるのではありません。彼らの任務は自らの集落外部の地域の警戒に過ぎませんでした。
レンジャー(ranger)の元になった「range」という英語はこの集落外部に設定された警戒線に由来しています。

米国での陸軍史でレンジャーが戦果を上げるようになるのはフレンチ・インディアン戦争(1755-1763)以降のことです。

当時、英陸軍少佐だったロバート・ロジャース(Robert Rogers)の下に英軍直属の独立部隊としてロジャーズ・レンジャーズと呼ばれる遊撃隊を指揮して戦っています。
ロジャースは1759年にレンジャーに対して徹底させた19か条を記していますが、これらはいずれも常備軍の兵士に要求される事項とは異なっています。

例えば「利用する必要がないチャンスは決して利用するな」、「帰路に同じ道を歩いてはならない。伏撃されないために別の経路をとれ」、「敵が接近する際に立ち上がるな」など、遊撃部隊の隊員として着意すべき事項を示しています。

レンジャーは戦後に解散となりましたが、その後においても、レンジャー部隊はたびたび編成されました。
アメリカ独立戦争が起きると将軍ジョージ・ワシントンは射撃術に優れた小銃手を集めてレンジャー部隊を編成し、南北戦争では南軍のジョン・モスビー(John Mosby)が乗馬能力に優れた兵士で北軍に対するゲリラ戦を仕掛けたことから「灰色の亡霊」と呼ばれました。

第二次世界大戦で確立されたレンジャーの位置付け
しかし、レンジャーが米陸軍で正式な部隊として編成されるのは、第二次世界大戦が勃発した後の1942年のことになります。

当時、陸軍大佐だったウィリアム・ダルビー(William Darby)は遊撃に特化した第一レンジャー大隊の初代大隊長として、英陸軍のコマンド部隊の取り組みを参考としつつ、現代の米陸軍のレンジャー部隊を育成し始めました。
ダルビーが育成したレンジャー部隊の必要性は、第二次世界大戦の経験から広く承認されるようになり、朝鮮戦争では初めて米軍の空挺レンジャー部隊が実戦に投入され、ベトナム戦争では長距離偵察を実施する能力を保有するにまで成長しました。

1987年11月1日、米陸軍にレンジャー訓練旅団(Ranger Training Brigade)が設置され、小規模な地上部隊の戦術の研究と教育を専門とするレンジャー学校が開かれます。ここでは刊行物としてレンジャーの教範が発表されているのですが、その教範の表紙にはロジャースの次の言葉が記されています。
「触れることができるほど近くまで敵をおびき寄せよ。そして、おびき寄せた敵を飛び上がらせた後に、お前の斧で止めをさすのだ」
このロジャーズの言葉はレンジャーの戦術の特徴を巧みに要約したものと言えるでしょう。
隠密裏に行動し、奇襲を仕掛け、反撃の暇もなく敵を仕留めるためのレンジャーの戦闘能力は、現代の戦争においてもその威力を失ってはいません。

KT

参考文献
Bracken, Kyle P. 2013. "Rangers," Piehler, G. K., ed. Encyclopedia of Military Science, London: Sage, 3 vol. pp. 1174-1175.
U.S. Army Infantry School, Ranger Training Brigade. 2011. Ranger Handbook, Fort Benning: U.S. Army.