最近人気の記事

2015年2月5日木曜日

文献紹介 戦術的革新を生み出した組織的学習


第一次世界大戦でドイツ軍の部隊が精強であった理由は、しばしばその質実剛健な国民性というイメージから説明されることもあります。
しかし、このような説明では当時のドイツ軍の各部隊で行われていた研究努力が見過ごされてしまいます。

今回は、当時のドイツ軍における戦闘教義の革新を可能にした研究体制を調査した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Lupfer, Timothy T. 1981. The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine during the First World War, Leavenworth Papers, Fort Leavenworth: Combat Studies Institute.

目次
1.弾力的な縦深防御
2.1918年における攻勢の戦術
3.一般的考察の試案

この研究の主な特徴は、第一次世界大戦における戦術そのものの変遷ではなく、戦術の更新を推進していた研究努力について注目していることです。

1914年に第一次世界大戦が勃発した当初、ドイツ軍のほとんどの士官は、砲兵火力の優位性と集密な攻撃こそが勝利の条件である、という当時の戦術上の通説を疑っていませんでした。
しかし、開戦から間もなくして、この戦争がこれまでの戦争とは異次元の戦争であり、これまでの攻撃を重視した戦術が通用するとは限らないという認識が陸軍の間で普及していきます(Ibid.: 1-2)。

1915年に西部戦線では広大な野戦築城に依拠した防衛線が構成されるようになり、ドイツ軍として犠牲が拡大しないように陣地攻撃を実施しない防勢作戦の方針を決定します。
この時期にイギリス軍とフランス軍が行った大規模な攻撃に対して、ドイツ軍は地域防御を実施するための戦術を研究する必要に迫られました。

1915年6月に刊行されたドイツ軍の教範では、防御陣地を構成する上で第二線を設定して敵の突破に備えるように指示され、本格的な戦術の見直しが進められました。
さらに現場での経験から、逆襲が防御戦闘において有効であること、敵の監視と間接射撃から部隊を守るために野戦陣地に逆勾配を設けることの価値などが、この時期に明らかにされています(Ibid.: 3)

一方のフランス軍、イギリス軍では、ドイツ軍の防御陣地に対する歩兵部隊の攻撃が有効であるためには、砲兵による集中的な突撃支援射撃が有用であるという理解が普及するようになり、火力の優勢に依拠した戦術が発達することになります(Ibid.: 4)。

ドイツ軍はイギリス軍、フランス軍の戦術に適用し、突撃支援射撃によって敵の攻撃目標を判断して予備をそこに派遣するという対抗措置を講ずるようになりました(Ibid.)。
そうした対応にもかかわらず、1916年のソンムの戦闘で、ドイツ軍はイギリス軍の砲兵によって甚大な損害を出すことになり、直後から戦術の変更を進めることになりました(Ibid.: 7)。
エーリヒ・ルーデンドルフ(1865年-1937年)
1916年以降、第一兵站総監として参謀本部を実質的に指導。
この時期に新しい戦術の研究を主導した人物がルーデンドルフでした。
当時、ドイツ軍の参謀本部を指導したルーデンドルフは西部戦線のいくつかの部隊では、防御陣地のために従来よりも大きな縦深を設定していることに注目し、西部戦線以外でも導入させました(Ibid.: 8)。

さらに、ルーデンドルフは戦術の評価研究のために野戦司令部にまで足を運び、「都合の良い報告」ではなく、正確な情報を要求する視察を始めています(Ibid.: 9)。
このような視察は、各地の部隊でも行われており、ルプレヒト軍集団の参謀長だったクール(Hermann von Kuhl)中将は、参謀たちを第一線に派遣して戦術の有用性に関するデータの収集が可能な体制を構築しました(Ibid.)。

このような取り組みの結果、数多くの研究資料が集積される取り組みが西部戦線全体に広がり、1916年末の時点で参謀本部作戦課を中心とする研究体制が構築されていきます。
ただし、ルーデンドルフは必ずしも高級士官だけをその研究体制で用いたわけではありませんでした。

例えば西部戦線で第一線部隊の指揮官だったヘルマン・ガイヤー(Hermann Geyer)の階級は大尉でしたが、全ドイツ軍の部隊に配布する教範の作成で重要な貢献を果たしました。
またルーデンドルフの下で参謀本部作戦課長を務めたゲオルグ・ヴェッツェル(Georg Wetzell)少佐は研究体制の統括することに手腕を発揮しており、マックス・バウアー(Max Bauer)大佐も、1916年末の防御戦闘に関する教範の作成に参加しました(Ibid.: 10)。

ただし、参謀本部作戦課は新しい戦術を現場に強要することはなく、あくまでも第一線の部隊から寄せられる研究成果の報告や情報の収集、新しい教義の開発、教範の作成配布に徹していました。
この研究に参加したガイヤーは後に「参謀の最も重要かつ困難な仕事は、その戦闘部隊の優秀性を維持することを助けるために、特定の戦場での経験を検討することであった」と述べています(Ibid.)。
また、参謀本部作戦課は、敵の教義の研究においても重要な成果を上げており、戦場で入手した教範の研究から優れたアイディアだと判断されたものは、ドイツ軍の戦術にも積極的に取り入れられていきました(Ibid.: 11)。

こうした研究努力を通じて、1916年のソンムの戦闘の教訓はドイツ軍にまったく新しい防御戦術をもたらすことになります。特に重要な教範は『陣地戦における防御戦闘の指揮に関する諸原則(以下、原則)』(1916年12月1日刊行)であり、先に名前を挙げたバウアーとガイヤーがこの教範の執筆者でした(Ibid.: 12)。

『原則』が定めた新しい防御の方式の特徴は、敵の砲兵によって狙われやすい第一線の防御陣地を維持する従来の方式を批判したことでした。
つまり、最前線の陣地で敵の攻撃を阻止するのではなく、そこから縦深を広く取った場所に主抵抗線を設定し、予備を効果的に活用した逆襲によって敵を撃退するという地域防御の戦術です(Ibid.: 13)。
つまり、『原則』では主な防御戦闘が行われるのは、敵の部隊が防御陣地を突破して深く前進してきた後だと定められており、陣地それ自体の戦術的価値を抜本的に見直す意義がありました。

歩兵師団が弾力的縦深防御を実施する場合の陣地構成。
概要としては、前方500-1000メートルの外哨地域、2キロの戦闘地帯、後方地帯に区分。
□は特に強化された戦闘陣地が配置される。
外哨地域を抜けてから敵が主抵抗線に到達するように考慮されている。
その後ろの塹壕線は砲兵陣地のためのもの。
(Lupfer 1981: 14)より引用。
この図に従って説明すると、師団はその戦力を正面に配置する大隊、それを支援する大隊、予備として拘置する大隊に区分しておきます。最も敵と近接する大隊は、いわば警戒に当たる部隊であり、実際の防御戦闘で敵の攻撃を阻止する部隊が第二の大隊です。そして、敵の砲兵の射程外に拘置されていた最も後方の予備の大隊が、逆襲を行う役割を担います(Ibid.: 18)。

このような『原則』の構想が現場に示された時、やはり固定的な陣地防御の方式に固執する考え方も根強くありました。しかし、不注意によって教範が無視された場合を除けば、現場の経験に依拠した新戦術に対する批判は、ドイツ軍においては許容されていました(Ibid.: 22)。

例えば、von Lossbergは、ソンムの戦闘の経験に基づいて、「防御陣地の各所で多数の小部隊が配置されると、戦闘中の連絡が阻害され、混乱の危険が増大される」と批判しており、作戦課は実際にこの批判をソンムの戦闘から得られた教訓として慎重に検討し、士官候補生の教材にも反映させました(Ibid.)。

この批判で指摘されたように、『原則』の構想を実現させるためには、士官だけでなく、下士官、兵卒が流動的な状況の変化にも対応できる戦術的能力の向上が必要であることが認識されるようになります。
そのため、『原則』が出版されてから2か月後に教範として『戦争のための歩兵訓練の教範』が改めて策定されることになりました(Ibid.: 23)。
そうした一連の研究努力によって、1916年から1917年の冬季は、ドイツ軍にとって大規模な改革が推進され、その成果は1917年におけるイギリス・フランス軍の攻勢を阻止する上で重要な役割を果たしました。

ここでは、これ以上第一次世界大戦の詳細な経過を述べるよりも、当時のドイツ軍が取り組んだ新しい戦術の研究体制が即時的かつ組織的であり、また批判的精神に基づいたものであったことについて確認しておいきたいと思います。
著者は、この戦争におけるドイツ軍が見せた戦術に関する研究の効率性について次のように要約しています。
「個人の才能や資質は重要なものであった。しかし、その教義は考案されたり、アイディアが考案されたり、独断的に無理強いされたりするのではなく、それが発見され、共有される雰囲気において発達したのであった」(Lupfer 1981: 57)
「ドイツ陸軍は味方の才能に対して敬意を払い、またそれを活用するのみならず、敵の才能に対しても同様の態度をとった。才能がある者が必ずしも高い階級に昇進したわけではなかった。すべての大規模な軍には、ヘルマン・ガイヤーのような才能ある人物がおり、いくつかの軍ではそのような才能を極めて有効に活用した」(Ibid.)
この研究の興味深いところは、第一次世界大戦でドイツ陸軍の戦術的革新が必ずしも一部の天才によって推進されたのではなく、現場で指揮をとる士官たちの組織的学習として成し遂げられていたことを明らかにしていることです。
彼らは単に部隊を指揮する士官であっただけでなく、科学的方法を身に着けた戦術家として思考し、現地の実態をよく観察し、図上研究の成果の妥当性を常に現地調査で確認する重要性を理解していました。

教範が指し示す定型的な戦術を研究することに終始するのではなく、研究心を大事にし、時として戦術の原理に立ち返り、批判的精神をもって我の現状を再検討する当時の軍人たちの姿勢は、現代においても戦術家のあるべき姿を体現していると思います。

KT

0 件のコメント:

コメントを投稿