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2014年12月22日月曜日

論文紹介 フランス史における動員能力の変遷

戦争の歴史を振り返ると、国家は絶えず多くの軍事要員を動員する能力を拡大させてきたことが分かります。
最古の戦争の記録によれば、古代エジプト王朝が動員可能だった軍隊はおよそ2万名の規模と記録されていますが、第二次世界大戦の記録ではソ連軍は600万名以上の部隊を動員していました。これほどの動員能力の向上はどのように発達してきたのでしょうか。

今回はフランスの事例を取り上げて、その陸軍の規模がどのように変遷してきたのかをまとめた研究論文を紹介したいと思います。

論文情報
Lynn, John A. 1990. ''The Pattern of Army Growth, 1445-1945.'' in Lynn, J. A., ed. Tools of War, Urbana: University of Illinois Press, pp. 100-127.

この論文の趣旨は1445年から1945年までの500年に及ぶフランス陸軍の規模をがどのように発展したのかを解明することです。著者はフランス軍の規模の変化を調査し、そこから国家体制が発展した推移、近代化の過程を検討しています。
1445年から1945年までのフランス陸軍の規模の推移。
y軸が1000名単位の仏軍の兵員(総人口に関しては100万単位)、x軸は年を表す。
実線は平時の規模、点線は戦時の規模、半実線はフランスの総人口を著す。
(Lynn, 1990: 7)
著者は研究対象の500年間を四分割していますが、この時期区分によると、第一期(1450年以降)における平時の陸軍の規模は10,000名から25,000名に過ぎません。
この時期のフランスはオーストリアと争っていた時期に該当します。一連の戦争で国力が衰退した影響から1589年に王朝が交代することになるのですが、その影響がグラフでも確認でき、戦力低下が一時的に見られます。

1678年以降の第二期に入ると、軍隊の規模が150,000名の水準にまで増員されています。
この時期にフランスを統治していたのはルイ十四世であり、彼は数多くの征服を行っていますが、これを財政、行政の側面から支援したのは大蔵大臣のジャン=バティスト・コルベールでした。
彼は税制を改革し、産業を振興し、さらに関税を重視し、フランスの植民地戦略を指導する役割も果たしており、フランスの税収を3倍にも伸ばす画期的な功績を残しています。
貴族を政府の監視下に置くために、かの有名なヴェルサイユ宮殿を建設したのも、ちょうどこの軍拡の時期と対応しています。
貴族の動向を監視し、彼らの状況を細かに掌握することだけでなく、その中で軍事的能力を持つ貴族を積極的に取り立てて、フランス軍の強化を推進しました。

第三期に入るとさらに平時の陸軍の兵員は352,000名から412,000名に急激に増員されます。
この時期はちょうどナポレオン戦争の時代に該当しており、フランスが平時から編成する部隊の数を増大させていることが分かります。
この時期に国家体制の改革として実施された一つが一般徴兵制度の導入であり、このことによって戦時に動員されるフランス軍の規模が400,000万名程度から1,000,000万名の水準へと爆発的に増えていることがグラフから読み取れます。
これはヨーロッパ各国ではまだ見られなかった制度であり、歴史的にも重要な転換点となる兵役制度の改革でした。

そして最後の第四期に入ると最大650,000名の軍事力をフランスが組織したことが示されています。
この時期のフランスは国民国家を基礎づける軍事行政上の仕組みを全て整えていました。
すでにフランス経済は工業化されており、義務教育によって識字率も向上し、近代社会が成立していた時代です。
一般徴兵制度が根付き、予備役の制度も定着したことから、人的損害を速やかに補填することが可能となっていました。
特に第一次世界大戦でフランスが動員した部隊の規模はおよそ4,000,000名であり、増加する速度が極めて早くなっていることが見て取れます。

本論文の結論において指摘されていることは、国家が動員可能な部隊の規模は常にその国家の行政的能力の向上と関係しながら直線的というよりも指数的に増大してきたことです。
人口の推移を考慮しても、フランス軍の動員能力は人口の推移と対応して発展してきたわけではありません。19世紀以降の動員能力の拡大は人口の推移をはるかに超える速度で増加しています。
フランスが大国として台頭した要因はその軍事力ですが、軍事力も純粋な戦闘効率だけで判断するのではなく、その背後にある国家の行政的能力、つまり動員力からも理解することが重要であると分かります。

KT

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